2004/12/30

ゆとり教育は失敗!?

日本数学会、日本化学会など理数系学会が連名で27日、中央教育審議会(鳥居泰彦会長)にあてて、総合的学習などに代えられた理数科目の授業時間復活を求める提言を提出した。日本数学会の浪川幸彦名古屋大教授は記者会見で「生きる力を育てる趣旨は結構だが、系統だったカリキュラムを破壊した今のゆとり教育は、逆に子どもたちの考える力を落とした明らかな政策の失敗だ」と話した。(朝日新聞から抜粋

理数系学者の発言に触発されての意見です。「ゆとり教育」是非の意見ではありませんので・・・

目的と手段の区分けは何事にも必要なことだと思う。目的と手段は日常的にもよく使われている「何をどうする」と同じ意味だ。

「ゆとり教育」が1つの手段であれば、目的は一体何だったのだろう。実は忘れてしまったけど、浪川教授の言葉を借りれば「生きる力を育てる」事のようだ。浪川教授の発言は整理するとこうなる。

1.目的「生きる力を育てる」は良いことだ。
2.しかし手段「ゆとり教育」がいけなかった。
3.考える力を育てる事が「生きる力を育てる」のに繋がる。

一見もっともなことを言っているようだ。これが理数系の学者が言っていなければ、僕も通り過ぎるだけだったと思う。「ゆとり教育」の是非についての意見は実は僕は持っていない・・・

問題の発端となったのは、国別の試験点数順位だと思う。つまりここに、以下の相関関係が成立しなければならない。

・「点数が低い」と「考える力が落ちた」に関係があり
・「生きる力を育てる」と「考える力を育てる」に関係があり
ゆえに・・・
・「点数が低い」は「生きる力が育っていない」に繋がる?

僕にはどうして上記の関係が成立するのかが不明。科学者であれば、客観的なデータを用いて説明を行って欲しいと思う。

また「ゆとり教育」が目的となる場合、「手段」として「カリキュラムの変更」「授業時間の削減」があるとして、「手段」が「目的」にむかって機能しなかった理由が論じられていないように思える。

(そもそも目的を果たしていない証明は、どうやって行われたのだろう・・・)

「手段」そのものが間違いだったのか、「手段」を運営する「質」の問題だったのかが解明ができていないと、別の手段を用いても同じ結果になるのではないだろうか。

それに、教育の問題はなにも教育現場だけに責任を押し付けるわけにもいかないと思う。家庭も大事だと思うし、家庭を構成する1人1人の状態も重要だと思う。それらは、経済状況、社会状況によって左右されるかもしれない。

浪川教授の意見は、何か安易に結論を急ぎすぎているように思えて致し方ない。
それに「ゆとり教育」を始める際に、浪川教授の考えと同じ意見はあったはずと思う。その議論を乗り越えて「ゆとり教育」は始められたのではないのだろうか。

「目的」は常に振り返らないと見失ってしまう。「点数」だけで判断すると道を誤る事になりかねないと思うのだが・・・

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