2004/12/17

見よぼくら一銭五厘の旗

花森安治さんのエッセイ集を古本屋で見つけた。非常に丁寧な装丁で昭和46年の発行にもかかわらず、 新刊同様の美しさだった。昭和46年発刊当時で1200円という値段の本は、現在ではいくらくらいで売られることになるのだろう。多分想像できないほど高 いに違いない。それを古本屋では1000円で売っていた。花森さんのエッセイを読みたかった僕にとっては、「どうぞ差し上げますから持って行って下さい」 と言わんばかりの値段だった。
花森さんのエッセイの中で特に知られているのが「見よぼくら一銭五厘の旗」だ。それは前回のブログ「花森安治のエッセイを読んで感じたこと」で紹介した言葉が載っているエッセイでもある。

「ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ 」

一銭五厘とは赤紙の葉書代の事で、軍隊中に花森さんが言われ続けた言葉でもあったらしい。

「貴 様らの代りは一銭五厘で来る 軍馬はそうはいかんぞ 聞いたとたんあっ気にとられた しばらくしてむらむらと腹が立った そのころ葉書は一銭五厘だった 兵隊は一銭五厘の葉書でいくら でも召集できるという意味だった (中略)そうか ぼくらは一銭五厘か そうだったのか〈草莽(そうもう)の臣〉〈陛下の赤子(せきし)〉〈醜(しこ)の 御楯(みたて)〉 つまりは〈一銭五厘〉ということだったのか」
 花森さんはさらに「一銭五厘」とは「庶民」である君ら(つまり僕ら)であ ると言う。そしてこの国の歴史を振り返ると言い方は変わるけど、結局は「一銭五厘」の扱いを受け続けているという。それが敗戦になり、民主主義と国民主権 となってもそう変わるものではない。何がいけないのか、誰がいけないのか?
「どうしてこんなことになったのだろう 政治がわるいのか 社 会がわるいのか マスコミがわるいのか 文部省がわるいのか 駅の改札掛がわるいのか テレビのCMがわるいのか となりのおっさんがわるいのか もしも それだったらどんなに気がらくだろう 政治や社会やマスコミや文部省や 駅の改札掛やテレビのCMや となりのおっさんたちに トンガリ帽子をかぶせ ト ラックにのせて 町中ひっぱりまわせば それで気がすむというものだ それが じっさいは どうやら そうでないから 困るのだ」
 花森さんはそれを自分の中に住む「チョンマゲの野郎」が悪いという。「チョンマゲの野郎」は小利口で争いを好まず自己保身的な心の事を言うのだろう。その心がその都度に姿を現し、暮らしが悪い方に流れるのを止めていないからだと述べている。

こ のエッセイを掲載した発端は公害問題であった。水俣病、光化学スモッグで庶民が苦しむ様をみて、とっくに暮らしを維持する限界を超えているとして、限界に 戻す為に、はっきりと言おうと宣言した。その為に、かつて一銭五厘で今は7円の葉書を使って「困っている」と行動と意志を示そうと提案している。

この「見よぼくら一銭五厘の旗」は花森安治にとっては「暮らし主義宣言」だと思う。
何故今頃僕はこの「宣言」を気にして、ブログにMEMOとして掲載するのであろうか。それは、花森さんがこの「宣言」を書いた時と現状は何も変わっていない事の「発見」がそこにあったのは間違いない。

誰 もが感じる事。主権とは権力を有する者達をいう。封建時代であれば、主権は王様にあり、王様は望むことを領民達に対し権力を行使することが出来た。国民主 権であれば、僕らが昔の王様の様な権力を有していて良いと思うが、そんな感覚は一切ない。勿論、多くの人が王様となり権力を行使すればとんでもない事にな るのは当たり前の話だけど、この主権と僕らが実際に感じる事の隔たりはいったい何だろう。

国家権力という。昔から権力を行使するのは国家 であったのかもしれない。国家権力を制限するために「憲法」があると僕は思っている。ただ、憲法は色々な解釈が出来てしまうので、国家を実際に運営する側 は、その時のご都合主義で色々と変えていってしまい、後になればそれが例となり、それが本筋に変質してしまっている。またそれらが法律という形になって、 逆に僕らを制限する。

これが企業であれば、企業理念は創始者かそれに準ずる人が作るので、そうそう混乱は起きない。解釈について混乱が起きたとしても、彼らの生き方と考え方より推測できるので、そこから原点に立ち戻ることが出来る。
僕はこの場で「憲法改正」の話をしているつもりはないが、日本の憲法はその部分が決定的に欠けているような気がしてならないのだ。

花森さんの時代に較べると、現在はより問題が顕在化しているように思える。勿論現在の問題は花森さんの時代にもあった話だと思う。それは見えなかっただけの 話かもしれない。様々な問題も、突き詰めて言えば技術とか特定の個人の問題ではなく、社会の問題だったりする。ただ、その問題の本質まで突き止める前に表 層だけ捉え、「理解できない者」への対処に奔走している。奔走に駆り立てるのは、僕の中に住む「チョンマゲの野郎」であるのは間違いない。僕の中の「チョ ンマゲの野郎」を動かすのは簡単だ。必要以上に不安感を持たせればいい、ただそれだけだ。

花森さんの「チョンマゲの野郎」は必要な行動を 止めようとする。でも今は、もう1人の「チョンマゲの野郎」がいて、こいつは逆に奔走する。それはネットというツールを与えられた結果、僕の中で抑えられ ていたもう1人の「チョンマゲの野郎」が活動を始めたのだと思う。僕はこの2人の「チョンマゲの野郎」と対応して行かなくてはならない。それがやっかい だ。多分、この2人を表に出さないようにするには、よく「考える」事と、「勉強」する事しかないのかもしれない。

「見よぼくら一銭五厘の旗」はここに全文掲載されています。また関連サイトとして「暮らしの手帖」のサイトはここです。

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