2004/12/10

雑文 男にとって「堕ちる」とは

田口ランディのアメーバ的日常 」のなかで以前ランディさんはこんな事を言っていた。
(2004年11月11日「どこかで別人として生きたい」から)
「昔 から私の夢は、蒸発して、名前を変えて、年齢を変えて、そうだな……33歳くらいに偽って、どこか東北の方の港町の場末のスナックあたりに住み込みで働 く……というものだ。それで毎晩、男の酒の相手をして、ちょっと気が弱くてセックスのうまい男を愛人にして、自堕落な生活をしてみたい。

で、男に飽きたらまたふらふらと旅をして、気に入った町の場末の(絶対に場末でなければならない)スナックに、名前を変えて住み込む。そして、新しい自分になってまた男と恋愛して、セックスして自堕落な生活を続ける……。」
これっていいいなぁ、と言うのが率直な意見。何となく男性社会での定型的な堕ちる女性の姿そのものって感じがするけど、時として定型は人を安心させるのかもしれない。
これに対する男性の「堕ちる」って?そう、これが今回の僕のテーマです。

最 近の僕は何でもありで、それと共に「堕ちる」というイメージがなくなってしまっている事に気が付いている。これでも昔はちゃんと「堕ちる」イメージを持っ ていた様な気がする。でもそれを現時点ですっかり忘れてしまった。それは僕の基準となっていた「モラル」の変質を意味しているのかもしれない。

例 えていうと、ランディさんの「自堕落な生活」に出てくる相手方の愛人男性のイメージでもないのだ。愛人男性になるのは男にとっては実は大変なことのように 思える。まずは自分を磨かなければならない。その上で遊んでセックスがうまくなっていなければならない。そうでなければランディさんの夢の愛人にはなり得 ないと思う。これも定型イメージに僕が囚われている結果なのかもしれないけど、何となくそう思う。

やくざの愛人男性イメージはビジネス的 要素が強く、これは「堕ちる」以前に脱社会的で世界が違ってくる。「堕ちる」為には「堕ちる」為の世界が必要になっていく。それはあくまで「社会」がそこ になくてはいけないように思えるのだ。「反社会」とか「脱社会」では「堕ちた」とは言えないと思う。それは全く違う話だと思うのだ。社会の中にしがみつき ながら、それでもずるずると堕ちていく感じ。そんな感じがする。

そう考えていけば、ランディさんに飽きられた男の姿に近いような気がす る。この男はランディさんから捨てられた後に、どんな生活をするのだろう。気の弱い男なので、捨てられた翌日は自分がどんな状況にあるのか理解は出来ない んだろうなぁ。等と想像したりするけど、男のその後はどうにもイメージできない。なんともはや妄想力のなさだろう。
逆に言うと定型を僕自身が放棄した時点で、何でもありが、何にも無しに変わっていったのかもしれない。そんなことをつらづら考えてみたりする。

僕 の友人に「性を売る」女性がいる。純粋に友人の一人だ。たまにお茶をしながら話をする。彼女はその都度、「こういう仕事は女性にとって最低の仕事だ」と言 う。僕はただ聴くだけだ。彼女がそう言う状況になったにはなったなりの理由があるし、僕はそれを信じている。でも最終的な選択をして決断したのは彼女なの で、僕にはその事に対して何にも言うことがない。時折、彼女が自分を責めることが、ある意味自分を浄化させているのではと思うこともある。
彼女は美人で頭もかなり良い。夢を持ち、モラル面もしっかりしている。自分で招いたことを自己責任で刈ろうとしている姿に、彼女のいう「堕ちた」イメージを僕は微塵も見ることが出来ない。

してみると「堕ちる」というのは外見を指すことではないのかもしれない。少なくともそれが現時点での僕の率直な感想だ。

以 前に見た映画で、主人公である若い弁護士が、企業の弁護士達に向かい「あなた達はいつから堕ちてしまったのですか?」と聴くシーンがあった。企業の弁護士 達は社会的にステータスを持っている人達だった。企業の悪事を隠すために、あの手この手で策略を巡らす弁護士達の姿をみて、主人公の吐くこの言葉に素直に 同感してしまった。勿論それを言われた方はたまったものではない。当然にむっとしている。映画の中では企業の弁護士達は自分が堕ちている感覚が全くないの だ。

少なくともこのイメージは、先ほどの「社会の中にしがみつきながら、それでもずるずると堕ちていく感じ」にほど遠い。前に感じた事 は、自分に対する内的な「堕ちる」イメージを外部に表現した感じに近いようだ。でも実際は外部に表現するまでもなく、それ以前に「堕ちる」時は堕ちていく のかもしれない。勿論それは自己のモラルに照らし合わせての話だから、人によって変わるとは思うけど。

冒頭に戻って、ランディさんの文章をあらためて読んでみる。そこで彼女が「自堕落な生活」と言っているが、それが自分が「堕ちる」事とは一切言っていないのに気が付く。
どうやら僕は「自堕落な生活」=「堕ちた」と独り合点してしまったようだ。彼女の自堕落な生活には、えもしれぬ安らぎがあるように感じ、それが男性だった時、具体的にどういう事なのかを考える事で始めた記事だけど、一種のループに入ってしまった感じがする。

別 の見方をすると、愛人男とランディさんの生活は「情念」の世界のような気がするし、「情念」から無理矢理離されてしまった男に、その後は何も無いような気 がするのだ。まるでオスがメスの生殖の為だけに存在するかのような虫の世界に似ている。でも人間の世界も似たり寄ったりなのかもしれない。一般に夫婦では 女性の方が長生きするし、仮に女性の方が先に逝った場合の夫である男性の寿命は短いとの統計もでている。夫が先に逝った場合、妻の方は活き活きと生活をし て行くのと対照的だ。

もしかすると、ランディさんの夢の生き方は女性でしか出来ないのかもしれない。男の場合、どうにも色気がない話だ が、「堕ちる」とは映画の様な悪徳企業弁護士の姿でしか表せないのかもしれない。そして男は「堕ちる」と同時に、すぐに社会から飛び出し「脱社会」に向 かってしまうのかもしれない。そんな気がしてきた。

ただそんな風に考える僕にも、1つだけ例外がある。それは石田吉蔵だ。吉蔵はあの阿部定の相手だけど、4月27日から5月18日迄の吉蔵の生活は、ランディさんの夢に匹敵する「自堕落な生活」のイメージに近いかもしれない。それに吉蔵が死ぬことで終わることも、僕にとっては男性の「堕ちる」を象徴しているような気もしてくる。
追記:「堕ちる」とか「自堕落」の言葉にロマンチシズムを感じるとすれば、そこに抗うことの出来ない運命の不条理さを見いだしているからだと思う。
そしてロマン主義以外の見方も当然にそこにはあり、それは自己責任における選択の結果という見方だ。どちらを選ぶかで、人生観も変わると思う。
「堕ちる」には基準が必要だと思う。それはその人のモラルによるものだろう。だから、実際には人の評価でなく、自分がそう思うことで、それは始まるのだと思う。
モラルの崩壊と言われて久しいが、僕にとってはモラルは崩壊するものではない。それは変わっていくものだと思う。モラルの崩壊というのがあるとすれば、それは過去において「共有」したモラルの事を指すのではないだろうか。

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