2004/12/13

「気品」についての雑文

3高伝説が崩れてから久しい。かつて安定を求めて銀行に就職した人も、今のような状況に陥るとは想像 もしなかったのではないだろうか。お金も、社会的な地位も、学歴も、美しさも、若さも、形のある物はいずれ朽ち果てていく。だからこそ、少し前に「心の時代」とも言われたのだろう。でも「心」ってなに?ってことになる。ここでは脳科学からの「心」の分析も、心理学・社会学からの「心」の事を語ろうとは思わ ない。僕が思うに大事なことは「心」の解明ではなく、「心」を育てることだと思うのだ。そして「心」を育てる1つの方向として「品」とか「気品」とかがあ るように思う。

年をとっても「気品」を持っている方がいる。誰でも1人は思いつく方がいるのではないだろうか。勿論、そう言う場合「気品」は外見からの判断でしか ないのだけど、内からにじみ出る何かがあり、それが見る側に「気品」を感じさせる様にも思える。そう言う方と出会い言葉を交わすたびに、「気品」は朽ち果 てることがないんだなぁと思ってしまう。

「品」「気品」がどうやって育つのか、正直僕には即答は出来ない。それらは多分だけど、今の学校教育で育つとも思えない。また「気品」はモラルとか道徳心は大事だと思うが、声高に「モラル」を叫ぶ人の姿に「気品」を感じることも少ないのも事実だ。

実際に「気品」のある人は、「気品」を意識する事は少ない様に思う。こうやって「気品」の話をすること自体、論外なのだと思う。それは僕が「気品」 を持っていないことの現れだと思う。だとすれば、自分の持っていない事、もしくは僕の「心」が望む美しさを言うことが「気品」に通じることなのかもしれな い。

映画で「気品」をキーにして思い浮かぶのは「ローマの休日」「マイフェアレディ」の2作。「ローマの休日」は登場人物の殆どが「気品」を持っている人達だった。「マイフェアレディ」は「気品」の育て方として見れば別の解釈が出来るのかもしれない。

日本文化として「茶道」「華道」「柔道」「剣道」等々、「道」をつけている物が多い。「道」である限り出発点と到達点があると思う。「到達点」につ いては僕は未熟なのでよくわからないけど、「出発点」は概ね「形から入る」と思う。「形から入る」事は日本の知恵の1つだと思う。まず「気品」のある人を 思い返してみて、その人の立ち振る舞いを真似することから始めるのが「気品」への道かもしれない。そうすることで、これは想像だけど、道の過程の中で「気品」を持つことが出来、「到達点」は思いもしない素晴らし何かを得られるような気もする。それは例えば茶道で、最初に作法という形を学び、それを続けるこ とで身に付き、1つ1つの動作に知らずに品がでるような感じに似ている。でもそれは茶道の到達点ではない。そう言う意味では「気品」は目的にはならない。 目的はもっと別な物だと思う。逆にそれに近づくことで「気品」も自ずから身に付くのかもしれない。勿論、それは茶道とかに頼らなくても、何気ない日常でも 可能な話だと思う。

「気品」には幾つかの種類があるようにも思えるけど、一番は「自然な気品」の様な気がする。「自然な気品」は人によっては、幼い頃からでる時もあるかもしれない、でも多くはある程度の年齢は必要な気がする。そして「自然な気品」を持っている方は概ね美しい。

「気品」を考えるとき、そこには色々な条件があるように思える。例えば僕が思う条件とは、こんな感じだ。

TPOにあわせた清潔感を持った服装、物とかにこだわらない、人前で興奮して声高に話をしない、人の話をちゃんと聞く、話はちゃんと正面で相手の目を見 る、挨拶はきちんとする、微笑みを忘れない、姿勢は常に美しく、人の悪口は言わない、人に攻撃されたとき過敏に反応しない、相手を尊重した会話をする、非 常時に冷静でいる、他人の領域にむやみに立ち入らない、自分を守るために相手を攻撃しない、自分の言葉と行動に責任を持つ、自分の足りない部分を物とかで 補わない、無意味なおしゃべりは慎む、影で人の悪口は言わない、思い通りにならない時相手にそれをぶつけない、会話はウィットに富んで知性がある、人を差 別しない、卑屈にならない、潤いのある生活・・・・等々

多分これらは人によって違うかもしれない。ただ思うことは、これらの条件をいくら持っていても、その総和は「気品」に繋がらない事もあると言うこと だ。ただ、この条件を1つ1つ意識して行動することは大事なことだと思う。それはまさしく「形から入る」事でもあるのだから。これらのあげた条件でさらに 思うことは、自分を持つと言うことが大事なのだろうと言うこと。自分を持つことは、場所とか人によって変わるような相対的なことではないと思う。自分に付 いている物とか形とかをそぎ落としていった時に、最期に残るものが自分の姿なのかもしれない。そしてその姿に自信を持つことが大事なことだと思う。

自分とは他人とか物とかが与えてくれる評価ではないと思うけど、ただ、人とのコミュニケーションを通じて、逆に自分がわかる事が出来るし、さらにそこに「気品」があるかないかがわかる様な気がする。

さらに言うと「気品」もまた1つの条件になるかもしれない。なんの条件かはうまく言えないけど、それは気高さとか誇りとかそう言うものかもしれない。

「気品」「品」は物にたいしても使われる。それは「気品」の条件が、そのものに対しても備わっているように見えると言うことだろう。例えば「出しゃばらなくても、自分を十分に表現している姿」をそこに見るとか。そして、多くの人がある物に対し「品」があると判断すると言うことは、逆に「気品」の条件 がいまだ共有化している事の証なのかもしれない。そんな感じがする。

何か偉そうなことを沢山書いてしまった。でも冒頭にあるように、僕が自分自身に足りないと思っていることを、ただ書いたに過ぎない。出来れば「気品」テーマに書く無粋な奴と思ってご容赦頂きたい。

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