2004/12/04

「猫ばっか」という本

猫の関連の本で一番好きな本が「猫ばっか」

作者はあの「100万回生きたねこ」の佐野洋子さん。それに本の表紙が「吾輩は猫である」の苦沙弥先生を模した猫って感じで好きだ。

この本はもともと単行本で出版したのを、文庫本化の際、絵と話を新たに追加しているので、文庫本の方が「完全版」といえるかもしれない。この本を手に入れたのは一昨年の事だが、書店でなかなか見つからず、探すのに苦労したのを覚えている。

この本が好きなのは、作者が猫とのかかわりの中で、自分の世界に猫を引き込むのでなく、等距離において猫を眺めている点だ。

「人は孤独には耐えられないものであり、何かを愛したいのだ。それに生きる物の方がぬいぐるみよりも張り合いがある。猫が何を考えているのか知った人間は一人もいないのだから。」

「猫ばっか」では様々な猫が登場する。襟巻きとしての猫、北海道で生きている暖房器具としての猫等々。作者の猫「クロ」は最期の時に点滴の針をつけたまま病院を脱走して戻ってこなかった。そのクロに対し作者は「見上げた根性だ」と自慢し「逃げたのなら仕方がない」という。

「あんたも生きているし、私も生きている」

この姿勢が僕にとって好きでもあり、羨ましくもあるのだろう。

人と猫との関わりは農耕を始めてからなので、犬と較べると付き合いは新しいと言えるかもしれない。人はみずからの生活の役にたてるため、多くの生き 物を品種改良して飼育・繁殖させ家畜としてきた。猫の場合も古代エジプトでネズミの駆除のために家畜として飼われたのが最初らしい。

いつ頃から猫は家畜から愛玩動物に変わっていったのだろうか?
家畜と愛玩動物の線引きは曖昧だと思う。家畜が人の実生活で役に立つ事を目的に飼われるとすれば、愛玩動物は人の心の面で癒しとして飼われると思う。
でも家畜が、いわば生きている道具もしくは食料としてあったとしても、愛情をもち仲間として接しなければ飼育は難しいだろうと思うので、飼育の過程で愛玩動物と同様の癒しを人に与えていた様にも思える。勿論、一部の特権階級では愛玩動物としてだけで、飼われ続けていたが、それらは数から云えば無視できると思う。

そうだとしても、人が愛玩動物に対する気持ちは、現代と家畜が主として飼われていた時代とは大きく違うような気がする。今では誰も自分の飼っている動物を家畜とは思わないし、愛玩動物(ペット)として呼ぶことにも抵抗感があるのでないかと思う。

僕の場合、猫と生活を共にしているが、その2匹は性格も容姿は全く違うのが、生活を共にすることでわかる。そして2匹に対して、家族の一員として見 ている。そういう感情は、僕の手前勝手な思いこみの部分があることは理解しているが、僕がそう思うことは僕にとって自然なことであり、違う見方が出来るは ずもない。勿論2匹が猫であり、人とは違うことはわかってはいるが・・・。

そして以前の人が、僕と同様な見方で愛玩動物を見ていたのだろうかと考えるとき、多分違うような気がする。「猫ばっか」ではフロリダの若い女性の話を例に挙げて、「私が、その本に見たのは、大都会の底なしの孤独であった。」と書いてある。

孤独と言えば人は近代以降「孤独」であり続けたと思う。今に始まった話でもない。人が組織の中で歯車の一部分になり、置き換え可能な存在であることが意識された時に、自分が唯一無二の個として認められなくなってから人は孤独を意識するようになったように思える。そう考えると、生活は豊かになったけど何かが 違う、そんな気持ちを持ち始め、それを補うために様々な動物が家畜から愛玩動物に変わっていったのではないかと思うのだ。

一時「ペットロス症候群」が話題になったことがある。多分この症候群はこれから先、増えることはあっても無くなることはないだろう。今後理由とか背景とかを検討するのでなく、きちんとしたケアを受けられるような体制作りを望む。

話を猫に戻すが、猫が人とかかわりをもってから、エジプトでは神の使いとなり、西洋では悪魔(特に魔女)の使いとなってきた。犬に較べ人とのかかわ りの歴史が短いとはいえ、既に「イエネコ」として人の手で品種改良されてきてもいるので、逆に言えば、人との係わりの中でしか種として存続は難しい生き物であるのは間違いないと思う。それであれば、身近な存在として「あんたも生きているし、私も生きている」との気持ちで接することが出来ればと、自分のことを思う。

画像は「猫ばっか」の表紙。
amazonでの場所はここ。レビューを読めばこの本の魅力をさらに知ることが出来ると思う。

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