2005/03/02

S.W.ホーキングの「私の信念」

S.W.ホーキングの「私の信念」という文を読んだ。ホーキングが1992年にイギリスで講演した内容となっているこの文章では、彼が自分の信じる科学論を率直に語っていて面白い。日本ではNTTデータが企画してNTT出版が発行した「S.W.ホーキング 宇宙における生命」(佐藤勝彦:解説監訳)の中の一編として掲載している。以下「」内の文章は全てこの書籍から引用した。
「私は物理理論とは観測結果を記述するための数学的なモデルに過ぎないという立場をとります。ある理論がよい理論であるのは、すっきりとしたモデルであり、広い範囲の観測を記述し、新しい観測結果を予言できる場合です。それを越えて、その理論が真実に対応しているかと尋ねる事は意味がありません。なぜなら私たちは真実とは何かを知らないからです。」
ホーキングは哲学者がお嫌いらしい。講演の冒頭では科学哲学者に対し苦言を呈している。曰く、哲学者達は基礎的な数学の知識を持ち合わせていない、また新しい理論を作ることができないから哲学者になったとも言っている。よほど過去に科学哲学者達に嫌な思いをさせられたのだろうか。

長い間科学は「真理」を探求するものだと信じられてきた。でもホーキングはそうは考えてはいないようだ。それは上記の意見を読んでもわかる。彼はあくまでもすっきりとした理論を求めている。

まず数学的モデルがあり、それが観測データを説明することができて、かつ新たな観測結果を予測することができる。でも「真実」とは何かを知らないから、当然に較べることができない。よって、如何に優れた理論であっても、それはその時点で優れた理論でしかない。逆に言えば、真実は気にしなくても物理理論は十分にやっていける、と言うことになるのだろう。これは僕もそう思う。
「探求され、理解されるのを待っている宇宙が存在すると考えているという意味で、私は実在論者であるといえるかもしれません。」
実在論には色々な考えがあるが、ここでは単にホーキングは宇宙は自分たちとは別個に存在すると認識している、と自分の思考を言っているに過ぎないと思う。何故なら、ホーキングにとっては、宇宙とは数学的モデルによる理論によって理解されるもので、それは日常に使われる言葉によってではなく、かつ「真実」と同様に誰も「宇宙」の実体を知らないのだから、優れた理論が作られたとしても、それで宇宙を理解したとは誰も言えない、と言うことになる。

仮にホーキングが熱烈な実在論者(しかもプラトン実在論者)だったとしたとき、彼の考え方では実在に到達すること自体が難しいように思え、結果的に矛盾をきたすのではないだろうか。

でもホーキングにとってそんな事はどうでもよい事なのだろう。多分そういう議論は彼にとっては時間の無駄と思っているのではないだろうか。前段にあるように、そう言うことを考えなくても十分に物理という学問はやっていけるのだ。

でも、この「やっていける」と言うのが、僕としては少し怖い。これは物理だけに止まる事ではないとも思う。多分、人は前に突き進んでいくのだろう。これはどうしようもない様な気がしている。人は今後も遺伝子組み換え技術はどんどん発展させていくだろうし、クローン人間だって作ってしまうかも知れない、核融合より強力で不安定なエネルギーを開発するかも知れないし、ロボットは人間と同じ知能を持つかも知れない。それら様々な新技術を「嫌だ」「良いんじゃない」等と議論している間に、それらはコストが見合えば実用化して行くと思う。

僕が少し怖いと思うのは、環境問題もそうだけど、新技術の多くは僕らの子ども達、そしてそれに繋がる多くの子ども達に影響を与えるだろうと思うからだ。たとえば、遺伝子組み換え作物の事を嫌がる人が多いが、実際にそれが人体に影響を与えていると言う証拠はない。でも多くの人が嫌がるのは、自分に繋がる多くの子孫達に与える影響を考えているからではないだろうか。「わからないけど、なにか長い目で見たら危なさそう」、「自分には影響がないけど、子ども達とその子ども達に影響が出るかも知れない」等と思っているからの様な気がしている。

影響が出るかも知れない、出ないかも知れない。それは誰にもわからない。遺伝子組み換え作物であることを食べる人が選択できる事が、まずは必用な気がする。選択もなしに与えられる状況が一番怖い。「やっていける」事に「やるな」の合意を得る事が難しいのだから、まずは選択できる事、そして選択した結果によって差別が生まれない社会が必用だと思う。

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