2005/03/21
Spell with Flickr
上は「Spell with Flickr」でつくった「Amehare」。
英文字1つにも、人により表現の違いが違ってくる。
「Spell with Flickr」は、英文字のランダムな画像を並べ、任意のワードを表すFlickrツールだ。出来たワードは、何か元の意味から別の意味へと姿を変えたような錯覚をもたらせる。
確かに世界は記号に満ちている。記号一つ毎に解釈をすることが可能で、しかもその解釈が、その人の国、社会、性別、好み等々に制約を受けるにせよ、その人生来のStyleにより違うとすれば、やはり解釈の組み合わせは無限に近い。
出かけるときにデジタルカメラを持つことが多くなった。初めは、何気なく気になる風景をただ写していたけど、最近は写真って何だろうと考えてしまう。気になる風景に出会ったとき、僕は何も考えずに写真を撮る。それを後で見ると、なぜ自分はこの風景を気にしたんだろう、と素朴な疑問がわいてくるからだ。
写真を撮るという行為。その風景の切り取り方。そこには何かがあるのは間違いない。そう思う。でも僕の少ない知識と経験で、答えを急ぐつもりもない。今考えても行き着く先は決まっている。
写真で「人」を撮れない。僕のFlickrを見れば分かると思うけど、僕は人を撮れない。
それは「撮らせてください」と人に頼めない気弱さ以上に、人を自分の切り取る風景の一部(記号化)にしたくない気持ちが強いからだ。うまく言えないけど、それを行うことは、僕にとっては凄く傲慢な気がする。ただ例外はある。自分に近しい者を撮るときは、相手を記号として見ることが出来ない。多分カメラを向ける相手に近しい感情を持つことが出来れば、僕でも撮ることが出来るのだろう。でもそれを今の僕に望むことは難しい。だから僕は写真家になれそうもない。
勿論、それは僕自身の行為に対しての思いなので、他の人が何を撮ろうと、その様な気持ちを持つとはない。多分、僕自身が「写真を撮る」という行為がよく分かっていないから、そういう風に思うのかもしれない。
解釈の総数は多分無限にあるかもしれないが、僕自身が出来る解釈はたかがしれている。やっていいことと悪いこと、出来ることと出来ないこと、なりたいこととなりたくないこと、好きなことと嫌いなこと、それらが良きにしろ悪きにしろ僕を規定するからだ。
つまりは何事も自分に戻ってくるのかもしれない。でもやはりその考えも、自分だけで考えるのはやめよう。
「独学者」は危険だと色々な書物が教えている。
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