少し憂鬱である。その原因とかをなにやら話すこと自体愚痴モードになりそうで怖い。それに自分の仕事に対する出来事を本ブログに書くのも少しためらいもある。まぁ、でも書いてしまおう。その方が自分にとっては精神衛生上良いかもしれない。
人が憂鬱になるときはどういうときだろう。僕の場合、概ね面倒が眼前に在るときである。そしてその面倒を避けて通れぬ状況にあるときでもある。
あれこれと手順が想像できるが、その手順の1つ1つが面倒で適わない。えてして、こう言うときに憂鬱になる場合が多いのではないだろうか。少なくとも僕の場合は概ねそうだ。
その手順を行えば成功するのは分かっている。頭が良ければ、もう少し簡単で最小の手数を考えることが出来るかもしれないが、如何せん僕の知識と経験ではたかがしれている。
今回の憂鬱の内容は「ナレッジマネージメント」だ。会社員であれば一度は聞いたことがある単語だと思う。そんなに新しい考えではないし、どちらかと言えば言葉として使われすぎ、既に鮮度はかなり落ちている。
僕の上司の上司(つまりかなり偉い人)が、ナレッジが好きな人で、4月からコンサルタントを呼ぶらしい。目的は「作業の効率化」と面白みのない内容だが、具体的にいえば「ナレッジマネージメント」なのは事前に情報を得ているのでわかる。
「ナレッジ」が話題になるとすれば、コンサルタントがどんな言葉を使ってどんな内容で話をするのか想像が十分に出来る。それは情報系企画部署メンバーが概ね見ているサイトである、「@IT」と「CIOオンライン」をみれば一目瞭然だ。
曰く、技術でなく人とプロセスが大事です。プロセスとは「知」が生成され新たな「知」となる過程をいう。又、「知」を作るには「場」が大事なので、それに対しても言及してくるだろう。
元々「ナレッジマネージメント」は野中郁次郎さんが「暗黙知から形式知への相互変換」を提唱してから一般的に知られるようになった話なので、どうしても「暗黙知」の話題が出てくる。
「暗黙知」はハンガリーの物理学者・哲学者のマイケル・ポラニー氏がその著書「暗黙知の次元―言語から非言語へ」で述べている概念で、言葉にすることが出来ない何かである。
例えば「クロール」の泳ぎ方を言葉で伝授しきれない。言葉で説明する場合、どうしても説明しきれない何かが出てくる。それが「暗黙知」と呼ばれる物となる。ポラニー氏はその著書の中ではっきりと「暗黙知」を「記述不能な知識」と言っている。
その「記述不能な知識」を野中郁次郎氏が形式知への変換を行う事のモデルが「SECIモデル」となってくる。
でも思うのだけど、「記述不能な知識」はやはり記述不能なのではないだろうか。
勿論それでも5年か10年かけて文化革命的なことを企業内で行えば、SECIモデルも適用可能かもしれない。でもかなりの先行投資を必要とするだろう。そしてそれだけの投資効果が得られるかと言えば、それは正直疑心ばかりが先行する。なぜなら、「知」のプロセス自体、人の営為に委ねられ、そのマネージメント自体が非常に脆いと思うからだ。
それに例えば、来期に今期の倍の開発が必要にもかかわらず、人数が増えない状況下の中で、ナレッジマネージメントは即効力は無いに等しいと思う。それをやるくらいなら、中核社員一人一人に秘書を付けて雑用をやって貰った方がよほど良い。
こう考えてくると、僕のやることは決まってくる。それは「ナレッジマネージメント」なんていうものに流れていく方向を、少しでも変えていくと言うことだ。そして、これが僕を憂鬱にさせている。それは前述の通りの憂鬱さに、「ナレッジ」の有効さも実はある意味認めてもいる部分もあるのも事実だからだろう。少々矛盾するけど、形式知についてはプロセスと共有化は立ち上げた方が良いと思っている。「暗黙知」に行くことだけが、状況を袋小路に陥らせると思っている。勿論現状においては、形式知の話が出たとしても整備するマンパワーが不足している事実はあるのだけど・・・
この記事を読む人は、企業ってそんなことやっているの?と笑うかもしれないけど、実際はこんな事だらけと言っても良い。
以前にある企業で、これからはITだ、一人一台PCだと叫び、めでたく社員全員にPCを配布したことがあって、配布完了日に全員でPCを立ち上げたら電力が足りなくなり、ビルの電気が落ちたという笑い話のような本当の話を聞いたことがある。
だんだんと愚痴モードになりつつあるので、ここいらで終わろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿