2005/03/22

「庭子の部屋」の庭子さんのこと

庭子さんのブログを知ったのは偶然の出来事だった。以前の僕のブログ記事に三好達治の「雪」を掲載したことがある。その時、僕は普段やらないことをやった。それは三好達治の「雪」にまつわるブログ記事を探したことだ。なぜその時のそんなことをしたのかわからない。多分、たまたまその時に知ったブログ検索サイトの能力確認の意図があったのかもしれない。

で、その検索に庭子さんのブログ「庭子の部屋」があった。検索結果の中で庭子さんのブログ記事に気になったのは、丁度僕と同じ時期に同じ詩について語っていたからだ。当たり前だけど、「雪」をテーマにしても書いていることは全然違う。そして、それも僕にとってはとても面白かった。

これが僕が庭子さんのブログを知ったきっかけだった。そしてそれと同時に庭子さんが主催する「たぬき村」についても知ることになる。「たぬき村」はサイトを見ればわかるが、1950年代を遊びながら子供達に生活体験してもらう村だ。その中で子供達は、短いが自炊し寝食を共にする。多分経験することで子供達にはかけがえのない思い出となるとおもう。

僕も大学の頃、友人達と子供達を集め同様のことをやったことがある。それは庭子さんほどの覚悟もなく、集まった子供達と一緒に遊ぶ程度の出来事だったけど、僕にとっても忘れられない思い出となった。その時に僕が苦労しながら作った、子供達が食べるみそ汁の事が今でも忘れられない。

タヌキ村を主催しているのは、NPOとこは生涯学習支援センターで、庭子さんはそれを2001年に立ち上げた。僕は庭子さんとは実際にお会いしたことがない。ブログだけのおつきあいだ。でもサイトに経歴が少し載っていたので、それを読ませてもらった。人は経歴だけでは勿論分からない。でも僕が庭子さんの経歴を読んで思ったことは、自らの力で自らが歩く道を切り開く姿だった。誰でもそうだと言えばその通りだと思う。でも今だに進む道を模索している僕にとっては、とても素晴らしく、そしてとても凄いことなのは間違いない。

最近読んでいる書籍に内田樹さんの「レヴィナスと愛の現象学」がある、その書籍の冒頭に内田さんは次のように書いてある。少し長いが引用する。

『こんなところで私が改めて説教するまでもないが、「知」というのは量的に計測できるものではない。それは情報や知識の「量」のことではない。そうではなくて、「私が知らないことを知っている人」との対話に入る能力のことである。
いま私たちの社会では「学級閉鎖」とか「知的崩壊」ということが深刻な問題になっている。しかし、しばしばここで見落とされるのは、教室でなされる授業にキャッチアップできない子どもたちに欠如しているのは知識や情報ではない、ということである。数学的思考力や英語的読解力とかいうものが彼らに欠如しているのではない。そんなものが欠如していても教育は少しも破綻しない。なぜなら、私たちが学校で学ぶものはそういうものではないからである。子どもたちが学校で学ぶのはある種の「双方向的なコミュニケーション」の進め方である。』

『多くの人が誤解していることだが、「・・・・ができる」と言うことよりも「・・・・ができない」と言うことの方がずっとむずかしい。』
(上記『』内はいずれも内田樹「レヴィナスと愛の現象学」から引用)

内田さんが言うには、「・・・・ができない」と明確に述べられる人は、自分の立ち位置を俯瞰的にしり、さらに行く先(目的)を知っているからこそ言えるのだという。「・・・・ができる」という場合、その目的に関連なく列挙できる。

僕がここで何を言いたいかというと、道を切り開ける人は、今自分が何が足りないかを意識している人だということだ。そして「知」はその時に初めて有効となる道具になる。
また、これは僕の思うところだけど、「・・・・ができない」は人に対して言うべき言葉ではないとも思う。人に対してはやはり「・・・・ができる」だろう。
「・・・・ができない」とはあくまでも自分に向けて言うべきだと思うのだ。

庭子さんの経歴を読んで、僕はこの内田さんの言葉を思い出した。NPOを主催している以上、日々において色々なことがおきるだろう。問題も山積みかもしれない。でも庭子さんであれば、内田さんの言うとおりに、何が足りなくて、それをするためにどうすれば良いのか、誰に聞けばよいのかを知っているように思えたのだった。

先日「庭子の部屋」の記事で、「静岡県共同募金会」から17年度施設整備費の申請が却下されたとのこと。一年近く待たされたうえでの却下に、とても残念な思いを味わったことだろう。

会社であれば、似たようなことは頻繁にある。稟議書を書きそれが否決される。その際社員である僕は、会社の方針としてそれを受け取る。
会社の方針とは、会社の資産配分の戦略的な考えに、当該稟議書の内容がそぐわないと言うことだ。
稟議起案者が否決を妥当と思わない場合、彼は決裁者である経営者を説得しなければならない。でもその時僕は、担当者の立ち位置だけで稟議内容を説得してもそれは無駄だろう。僕は2つの視点で物事を見なければならないと思う。それは、経営者の視線と担当者の視線なのは間違いない。
経営者の視線になって初めて、自分の稟議内容の会社における位置を知ることが出来る。それは担当者の視線では分からないことだ。
つまり僕は2つの視線で初めて、自分の位置を知ることが出来る。

でもこの話は庭子さんが味わった申請却下に対する言葉にはなり得ないし、僕が庭子さんに対しできる智慧も経験も知識もない。
役所への対応は会社とは全く違うように思う。多分、却下の理由も明らかにされていないのではないだろうか。それはまるでルールを知らないゲームにいきなり放り込まれた感覚に近いことだろう。それでも、なんとかされるのではないだろうかと思ってしまう。

人生の先輩に対して、生意気なことばかり言ってしまっている。でも僕が庭子さんの姿に感じたことは先ほど内田さんの文章を用いて書いたとおりなので、このブログ記事もささやかだけど、庭子さんに対する応援のつもりで書いている。平にご海容いただきたい。

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