この本は3章からなっている。1章は本のサブタイトル「ハリウッド映画で学べる現代思想」通りに、映画を通じて現代思想を紹介する内容となっている。まぁこれはこれでよい。僕がこの本で一番面白かったのは3章「アメリカン・ミソジニー」である。この文章だけでもこの本を図書館から借りた価値があるというものだ。だからこの記事では、この3章を限定して紹介したい。尚、記事で 『』 内で紹介した文は全て「映画の構造分析 3章アメリカ・ミソジニー」からの引用である。
『アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。珍しいことに、この点については、多くのフェミニストが私と同意見である。』実はこの見方を初めて知った。それ以前にフェミニズムについて、あまり考えたこともないのだから、今まで知らなくて当然かも知れない。知らないと言うことについて、恥ずかしいことなのかも実は解らない。でも会社勤めの男性としてはかなり一般的な姿なのではないだろうか。なにしろ同僚の男性同士で「フェミニズム」について議論することはないし、しなくても同僚がその事を意識しているとは到底思えない。だから、この本の書き出しから僕は全く未知の領域に足を踏み入れたと言うことだ。(あ、勿論知らないといってもゼロというわけではないですから・・・)
内田さんは証左としてジュディス・フェッタリー著「抵抗する読者」の一文を紹介する。
『アメリカの文学は男の文学なのである。わたしたちの文学は女をほうっておきもしないし、かといって参加させるわけでもない。(略) アメリカは女であり、アメリカ人であることは男であることを意味する。そしてもっとも重要なアメリカ的体験は、女に裏切られることである。』この原因をフェッタリーは「西洋文化全体」が女性嫌悪的であるからと述べているが、そうであれば「なぜ、アメリカでは・・・」という問いが立てられているのかと内田さんは疑問視している。そして、この発想は「世界全体」を「アメリカ」に置き換え、成立させる、現代アメリカ人固有の思考上の「奇習」であると、内田さんは述べている。
つまり、まずフェッタリーは「西洋文化全体」と先送りしないで、「なぜアメリカ人は女性を嫌悪しているのか」の問いを答えるべきであるに、それはやらず女性嫌悪の証拠のみをあげているらしい。
続けて内田さんはハリウッド映画で「女性嫌悪」の映画を幾つかあげている。特にマイケルダグラス主演の映画はその傾向が強いとのことだ。例えば、「危険な情事」、「氷の微笑」、ローズ家の戦争」、「ディスクロージャー」 、「ダイヤルM」などである。
勿論これらの作品はフェミニスト達の批判を強く受け、内容を詳細に分析されている。
『ここまで「手の内」が暴かれており、女性観客の圧倒的な排撃を受けながら、同じタイプの映画がどんどん作られ、ブロックバスター的な興行的成功を収めているということは、アメリカの男性が心の底から、確信犯的に、アメリカ女性を憎んでいるということを「事実」として受け入れない限り説明がつかないだろう』そして反復される話型を内田さんは次のように示している。(以下も本文から引用)
(1)「男のテリトリー」に女性が侵入してくる。
(2)この女性は何らかの権威ゆえに、参入を許されている。
(3)男(たち)はこのテリトリー審判を不快に感じるが、受け容れざるを得ない。
(4)この女性は男たちの世界の秩序を揺るがせる。
(5)男たちは団結して、女性を排除し、世界はふたたびもとの秩序を回復する。
この状況をアメリカ特有として見たときに、その理由として内田さんはアメリカ開拓の歴史がそこにあると述べる。
『アメリカ開拓の最前線には、当然の事ながら、女性の数が少なかった。場所によっては数百の男に対し女性が一人というような比率の集団も存在した。それがアメリカにおける「レディ・ファースト」という女性尊重のマナーの起源であるということを私はこれまでに何度か聞かされたことがある。女性尊重のマナーは男女比率の圧倒的な差から説明される。それと同じく、女性嫌悪もこの統計的事実から証明されるのではないかと私は考えるのである。』当然にその中では、男女の情緒面は副次的なものとなる。女性は男の群れの中で生きるため、男性は生活財として、男女関係はまず存在することになる。(個人の特性はそこには殆ど重きが置かれていない)
それ以上に、殆どの男性開拓者は、生涯に一度もパートナーを得ることなく死んでいったということでもある。そしてその期間は西部開拓時代の初めから終わりまでの、約200年間続くのである。
男だけの世界に女性が一人やってくるとする。女性は「生活財」として一人の男性の占有物となる。そうなると、他の全ての男性があぶれることになる。それまで男だけの世界での「価値のものさし」は、腕力、胆力、直感力、狩猟の才能、動物の知識、ものを作る技術、酒量、等々と極めて男性的であった。しかし、女性が男性をみる価値観は、男性の価値観とは全く異なる。よって、男たちは理解しがたい「ものさし」によって差別化されることになる。
「女に選ばれなかった」ことは、その男性を深く傷つけ、男性的価値観のなかで築いてきたものが崩れることを意味する。それはその男性にとって、まさしく人間的価値に疑問符がつけられたということを意味する。しかもそれを受ける男性の数は膨大である。彼らはトラウマを癒す必要に迫られ、一つの物語を創り出す。その物語は内田さんによれば、次のようなものとなる。
『女は必ず男の選択を誤って「間違えた男」を選ぶ。それゆえ女は必ず不幸になる。女のために仲間を裏切るべきではない。男は男同士でいるのがいちばん幸福だ。』
『「選ばれた男」は「選ばれなかった男」の価値観に照らせば、必ず「間違った男」でなければならない。というのも、ある男が選ばれ、残りの男が選ばれなかったのは、選ばれなかった男たちの方が、選ばれた男よりも、人間的に高い価値を持っていたからである。節度があり、欲望の実現めざして利己的になり切れなかったために獲得レースで出遅れてしまったのだ』利己的な男だから、女を得ても、その女はかならず捨てられ不幸になる、というわけである。「誤った男」の成功話は、そのような男を選んだ女の失敗話とセットでなければならない。そうしなければ、選ばれなかった男たちの深い傷は癒されない。
さらに、罰を受けるのは、誤った選択(男性的価値観でない選択)をした女性だけである。
「誤った男」の不幸にはならないのは、選ばれなかった男たちの気持ちが、選ばれたいからである。つまり、今回選ばれなかったとしても、次は「誤った男」を演じ選ばれたい気持ちがそこにあるからだ。
『フロンティアの死者たちはアメリカにとって建国の礎を築いた人々であり、そのエートスを「フロンティア・スプリット」として聖別することに、アメリカは共同体神話のかなりの賭金を置いてきた。であれば、彼らはいかなる代価を払っても、安らかに眠ってもらわなければならない。その祈りの一つがアメリカ文化に横溢する「女性嫌悪の物語」なのだと私は考えている。
「女なんてろくなもんじゃない。」
これは、生涯ついに女に選ばれることなく死んだ無数の開拓者に向かって、アメリカ人たちがその身を切り裂くようにして死者の墓に向けて語り続けている「弔辞」なのである。』実はこの文章は、内田さんがハリウッド映画から見るアメリカ文化の「女性嫌悪」を語ることで、あわせてフェミニストたちの姿勢をも問うている。それは文頭からもうかがい知ることが出来るが、文末の最後の数行でより鮮明となる。
『アメリカの女性嫌悪は「二十世紀アメリカの病」である。その事実から目をそらして、アメリカ史全体に、西欧の歴史全体に、あるいは人類の歴史全体に根深くはびこった女性嫌悪に「責任を転嫁する」ことによって、むしろアメリカの現代文化に猖獗(しょうけつ)する女性嫌悪が分析を免れているということではないだろうか』この文章を読んで、最初に感じた正直な気持ちは、男性にとって見れば、これほど明確に生物学的な意味で「勝ち組」と「負け組」に差別化される姿はないかもしれない、ということだった。
これがアメリカにとって特有な事情なのかは、僕にとって不明だが、ある意味美名で語られる「フロンティア・スプリット」が、なぜ美しく語られる必要があったのかが、何となくわかる文章だった。
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