2005/03/07

ベロニカは死ぬことにした

200503075cedadfd.jpg
「ベロニカは全てを手にしていた。若さと美しさ、素敵なボーイフレンドたち、堅実な仕事、愛情溢れる家族。でも、彼女は幸せではなかった。何かが欠けていた。1997年の11月11日の朝、ベロニカは死ぬことに決め、睡眠薬を大量に飲んだ。だが、しばらくすると目が覚めてしまった。そこは精神病院の中で、彼女はまだ生きていた。そして医者は彼女に、心臓が弱っているので、あと数日の命だろう、と告げた。」

(「ベロニカは死ぬことにした」(パウロ・コエーリョ、訳・江口研一)から引用)

僕はこの本を自宅近くのブックオフで購入した。1冊105円の棚に置いてあったこの本を見つけたとき自由経済の恩恵に預かったと感じたものだった。この言い回しは少し皮肉が入っている。古本屋での本の価値は質ではない。それは人気度と流通量の兼ね合いから決まる。本が良質かどうかの価値観は読む側によって変わるので曖昧すぎる。だから質(本の評価)で価格を決める古本屋など何処にも存在しない。

僕にとってパウロ・コエーリョの作品はこれで3冊目だ。「星への巡礼」「アルケミスト 夢を旅した少年」。ブラジルのこの作家の作品を小説ではないと言う方もいると聞いた。彼らはパウロ・コエーリョを神秘主義者だといい、作品をその教本と言うのだ。それほど不思議な雰囲気を彼の作品は持っている。でも僕にとっては小説以外のなにものではない。

「ベロニカは死ぬことにした」には色々な逸話が登場する。それぞれの登場人物によって語られる逸話は、この小説を通じて作者が何を言いたいのかを現している。でもこの小説全体も一つの逸話に過ぎないかもしれない。逸話の中に複数の逸話があり、さらにその逸話の中に逸話がある。

この小説の構造は、僕が以前に読んだ他の2冊と同様のような気がする。作者のスタイルという物かもしれないが、この構造はまるで僕らが「神話」と呼ぶものに近似しているかのようだ。オデッセイが帰郷を目的に様々な旅をするように、彼の作品に登場する人達も自分を求めて旅を続ける事になる。

小説の舞台は精神病院となっている。この舞台設定と、小説の最初に挿入している「王様の逸話」は、端的に彼の主題を表現している。王様の逸話で語られる内容は、単純に言えば、1人を除く全員がおかしくなれば、結局最後に残った1人が回りから見ればおかしくなる、ということだ。作者はこの逸話をもって「普通」という意味を示している。

「普通の生活」「普通の女」「普通の男」「普通の人生」等々、「普通の」がついて語られる言葉。勿論、なにをもって普通と見なすかの規範は個人によって違う。でもそれならば何故、かくも多くの「普通」という言葉が社会には蔓延するのだろう。

「普通」を考えれば「普通ではない」に繋がっていく。僕の中では「普通」についての範囲をどこかで決めている様だ。その範囲の始めと終わりは、一体いつ頃誰によって形成されたのだろう。それを作ったのは自分かもしれない、この国の歴史かもしれない、もしくは現在の社会かもしれない。

でも僕の中の「普通」の規範は、多くの人との関係において、簡単に揺らぐ。そして何処にも普通の人など存在しない事に気が付く。「普通の生活」は「普通でない生活」に繋がるし、「普通の女」は「普通じゃない女」に繋がっていく。

「普通」の規範を共有する事がないのなら、「普通」を語ること自体無意味だと思う。
でも人によっては自己の中にある「普通への規範」に自分を縛り、行動を規制し、それ故にその人を苦しめる。そうパウロ・コエーリョは「ベロニカは死ぬことにした」の中で語っているかのようだ。

小説ではベロニカを通して、これらの苦しみからの解放の糸口を語っている。勿論、この糸口は小説ならではの設定となっているので、現実には適用不能な気がする。また、糸口は解決方法ではないので、読む側がそれを自ら問うて考えることなのかもしれない。

その他にもこの小説の設定から、読む側によっては様々なことを想起することだろう。例えば精神病院という「場」の設定から、集中管理する権力の構造の考えを想起する方もいるかもしれない。もしくは「死」について意識しながら「生」を送ることを考える方もいるかもしれない。それは人それぞれだろう。

僕は「普通」と言うことを考えた。それは「普通」という通念が、規範もなしに流通しているのを感じる中で、知り合う殆どの人が自分の事を「普通じゃない」意識を持っているからだった。僕自身は昔から「普通」について意識することが少なかったので、それは不思議でもあった。

「普通」という意識は、そんなに昔からあるとは思えない。多分近代になってからの産物ではないだろうか。社会システムを機能する為の仕組みがそこにあるようにも思う。

でも意識したことがない、と言いながら確かに自分の中に「普通の範囲」なるものを持っているのは間違いない。それをこの本を通して少しだけ考える事ができた。

0 件のコメント: