▼今日はブックオフで「デレック・ウォルコット詩集」を買った。この詩集も105円。紀伊国屋書店のWebで調べてみると、このカリブ海小島セントルシア出身で、ノーベル受賞詩人の日本語訳詩集はこの本だけ、しかも既に絶版しているらしい。これは思わぬ買い物をしたと思う。
▼詩集を購入すると、買った後で少しだけ後悔する。言葉の密度が高すぎるのだ。
「蝋引き屍衣にくるまれた記憶が諸々の河の香りを解き放つ
琥珀色の幼年期に防腐保存されたエジプトの香りを。
温かな マラリア性の森林浴につかっていたとき
濡れた葉が僕の肉に蛭のように吸いついた。幼児モーゼとして
僕は死ぬことを夢みた。僕が見た楽園は
百合の円柱や麦の髪をした天使たち。」
(「デレック・ウォルコット詩集」 「起源」 から引用 訳・徳永暢三)
▼詩題「起源」からの一節だ。たまたまこの詩集の冒頭付近にあり、印象的な言葉が目に付いたので引用してみた。この詩は長大で、このような感じで延々に続く。これをどう読めばいいのだろう。感受性の乏しい僕にとって、詩を読む場合、まず朗読し言葉が体内に染み込むのを待たなくてはならない。それでも実を言うとよくわからない。
▼そのまましばらく時が過ぎ、ふとした出来事で、急に自分の思考に朗読した詩文の一節が蘇る。その時に、そのわずかな言葉の断片を、僕は僕の思考の中で理解する。
▼ある哲学者が言うように、言葉は何かを指し示す「矢印」としての記号に過ぎない。だから言葉が実体そのものを現すことはないと思う。でも僕から見ると、詩人達にとっては言葉をつかって言語体系自体を再構築し、そこから新たな言葉を産み出すかのようだ。新たな言葉は従前の言葉より強く詩人の心象を指し示す。
▼さらに思うと、上記の僕の考え方も違うのかもしれない。もともと心象を表す言葉自体が存在しないかもしれないからだ。だから人は心象を語るとき、普段つかっている言葉を使うしかない。例えば、「起源」の詩文にある「琥珀色」「蛭」「百合」などの言葉も、その言葉自体が持つ「矢印」の意味をぬぐい去れないと思う。だから、詩人は言葉を繋げることで、その指し示す方向を、詩人の心象へと導くように組み立てているのかもしれない。うーん、まだまだ僕にはわからないことが多すぎる。
▼いずれにせよ、僕にとって詩集を読むのに時間がかかるのは間違いない。それは小説の比ではない。だから、多分僕はこの詩集をしばらく持ち歩くことになるのだろう。もしくは自分の気分が乗るまで、本棚に積むことになるかもしれないが・・・
▼さらなる命題。詩が詩人の心象を書き表すのであれば、何故人は詩を読むのだろう。ただ僕が詩を読むとき、詩人の心象を追い求めていないのは確かだ。では一体何を求めているのであろうか。とりあえずの気持ちとしてあるのは、自分の心象がそこにあると言うことだ。つまり自分の心を語る言葉を探しているのだと思う。
▼この記事に書いたことは、とりあえずの思いつきだ。次ぎに同じ事を書いたとき、多分内容は違う様な気もする。でもまぁ、「心根は猿喉の如し」と言うではないか。気にするのはやめよう。
画像はデレック・ウォルコット(DEREK WALCOTT)氏です。
追記:実際にお会いされた方のサイトを読んでみた。その方はセントルシアにホームステイしていた際、浜辺でバーベキューをやっていたところ、デレック・ウォルコット氏が「お腹がすいた」と言っていきなり割り込んできたそうだ。
それがカリビアン風だとか。とても気さくな方で、20世紀を代表する詩人にはとても思えないくらい、すぐにうち解けこんで一緒に楽しんだそうだ。
その話だけでも、彼の人柄が想像できる。
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