2005/03/11

田口ランディ「転生」の拙い感想

tennsei▼田口ランディさんの「転生」を読みました。この本はランディさんの初めての絵本で、絵は篁カノンさんが担当しています。絵本の場合、原作ありきで絵を後から付ける仕方もありますが、「転生」の場合は文と絵は同じ目的に向かい、多少の時間差があるにせよ、二人が共同して同時間で作成した印象を受けます。

▼あくまで印象なので、正確にはわかりません。ただ、ランディさんの文体が、「ドリームタイム」もしくはネットでのエッセイと違うことから、そのように感じます。作家であれば、文体は作品によって、ある程度切り替えることは可能でしょう。でも、「転生」の企画段階で篁カノンさんの絵が挿入することは、一般的に考えればわかることから、ランディさんがカノンさんの絵を意識して、文体を決めたと僕が思ったとしても不思議ではないと思うのです。

▼「転生」を少しでも読めば、ランディさんがこの文体を選択した正しさがすぐにわかります。書籍「転生」は装丁デザイン、カノンさんの挿絵、そしてランディさんの文体と物語の内容が、これ以外はないと言う形で綺麗に組み合わさっています。
だから、この本の感想を述べるとき、それら全てを織り込んで行うべきだと思うのですが、残念なことに、僕は絵のことは皆目わからないので、ランディさんが与えてくれる物語について語るしかありません。

▼「祝福もなく呪いもなく、ただ、ある瞬間から私は存在を始めたのでした。存在、存在とは何でしょう。私が私として在る、ということの不可思議。強い意志のような力のようでもあり、法則のようでもあり、でたらめのようでもありました。」
(田口ランディ「転生」より引用)

「私」が存在を始めたときから物語も始まります。「私」は「私」が存在することはわかっていますが、自分が何者なのか、どこからきたのかは知りません。「私」になる前は、微細な流れで世界に満ちていたはずが、在る瞬間に強い意志を感じ「私」になるのです。「私」は形を作り始め生命となっていきます。

▼そのように「私」は何回も転生します。最初は人間で中絶により「生」を終えます。次は奇形の鳥、昆虫、雄犬、人間・・・と様々な形で「生」を経験することになります。
「私」は何回か転生していることを記憶しています。しかし、「生」を受けているときは「私」の記憶はありません。「私」とは一体何でしょう。「転生」の物語にはその答えは最後までわかりません。

▼一つの見方をすれば、「私」はランディさんであり、形作られる様々な「生」は、ランディさんを通して見る世界そのものの様に思えます。自分の中に意識する「私」は、その人の現象によって形成される世界が時間と共に変化するのと較べ、常に普遍で在り続けると思うのです。鏡で見る現象としての僕は、年月と共に変化が生じます。でも僕の中の「私」は年齢による変化をすることなく、「私」は「私」で在り続けるように。

▼「転生」は、上記の見方をすれば、自己の意識と現象により形作られる外部世界の関係を表しているように、僕は思うのです。

「それからまた幾度となく生まれ変わりましたが、なぜか長くは生きられないのです。いつも死の影が色濃く生に寄り添っていて、死を受け入れる準備もできないうちに、死が突然やってきて私を次の生へと運び去ってしまうのでした。」
(田口ランディ「転生」から引用)

▼普遍の「私」がいたとしても、形作られる「生」での私は「私」にとって他者でしかありません。他者の私は、自分の生を全うしたいと本能的に思います。でも常に死は突然に襲いかかるのです。普遍の「私」は、他者の私に同化しなからも、それを他者の目で眺めています。突然の死は、他者の私に対する、普遍の「私」からの思いでもあるでしょう。

僕は僕の知覚を通して世界を見ます。上記の「他者の私」とは、わかりづらい表現をしてしまいましたが、私を通して形作られる世界であり、鏡を通して見る私でもあります。

▼「いつまで変転するのでしょうか。私は捉えられてしまった。この輪廻から脱することができない」
(田口ランディ「転生」から引用)

世界が自己を通して形成するのであれば、そこに僕の思考が大きく反映するのは間違いないと思います。悪く見れば悪くなり、良く見れば良くなると言った具合に。
つまり、客観的な見方は、僕にはできないと言うことでもあります。僕は自分の意識により捉えられ、世界は主観により偏っています。
輪廻は何も仏教的な転生の苦しみだけでなく、自己の意識により形成した世界によって苦しめられることもあるように思います。その循環から、僕はどのようにして抜け出ればよいのでしょう。

▼「転生」では最後に「私」は女性になります。しかし、黒い雨が降り、回りの者達は次々に倒れ、とうとう地球上で最後の1人になるのです。人が死に絶えた静かな世界の中で、彼女は今まで隠れていた家から外に出て、庭の楡の木に抱きついて叫びます。
「どうか私をあなたがたの世界に帰してください」
それから、彼女は全身から血を吹き出して死にます。身体は微生物によって分解され、そのなかで「私」は人間のはかなさと、その他の命の多さに驚きます。

▼「この力は何なのだろう。私を捉えて離さないもの。私を感応させるもの。形ある命を生みだすもの。昔むかし、私がまだ人であった頃に、この力を知っていたような気がします。そうです、この力をかつて人間は、こう呼んでいました。「愛」と。」
(田口ランディ「転生」から引用)

ここに一つの物語の結論を迎えます。意識としての「私」と「愛」は外部に独立して存在するものではないと思います。勿論、「愛」を向ける対象は表にいます。でも普遍的な「愛」は多分「私」とおなじ場所にいると思うのです。それは意識としての「私」を感応させ、その事により「私」をとおして形成する世界に愛が満ちると、「転生」では言っていると僕は思いました。そしてその力は、前記の輪廻の苦しみから、抜け出す力でもあるのかもしれません。

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