2004/12/30

ゆとり教育は失敗!?

日本数学会、日本化学会など理数系学会が連名で27日、中央教育審議会(鳥居泰彦会長)にあてて、総合的学習などに代えられた理数科目の授業時間復活を求める提言を提出した。日本数学会の浪川幸彦名古屋大教授は記者会見で「生きる力を育てる趣旨は結構だが、系統だったカリキュラムを破壊した今のゆとり教育は、逆に子どもたちの考える力を落とした明らかな政策の失敗だ」と話した。(朝日新聞から抜粋

理数系学者の発言に触発されての意見です。「ゆとり教育」是非の意見ではありませんので・・・

目的と手段の区分けは何事にも必要なことだと思う。目的と手段は日常的にもよく使われている「何をどうする」と同じ意味だ。

「ゆとり教育」が1つの手段であれば、目的は一体何だったのだろう。実は忘れてしまったけど、浪川教授の言葉を借りれば「生きる力を育てる」事のようだ。浪川教授の発言は整理するとこうなる。

1.目的「生きる力を育てる」は良いことだ。
2.しかし手段「ゆとり教育」がいけなかった。
3.考える力を育てる事が「生きる力を育てる」のに繋がる。

一見もっともなことを言っているようだ。これが理数系の学者が言っていなければ、僕も通り過ぎるだけだったと思う。「ゆとり教育」の是非についての意見は実は僕は持っていない・・・

問題の発端となったのは、国別の試験点数順位だと思う。つまりここに、以下の相関関係が成立しなければならない。

・「点数が低い」と「考える力が落ちた」に関係があり
・「生きる力を育てる」と「考える力を育てる」に関係があり
ゆえに・・・
・「点数が低い」は「生きる力が育っていない」に繋がる?

僕にはどうして上記の関係が成立するのかが不明。科学者であれば、客観的なデータを用いて説明を行って欲しいと思う。

また「ゆとり教育」が目的となる場合、「手段」として「カリキュラムの変更」「授業時間の削減」があるとして、「手段」が「目的」にむかって機能しなかった理由が論じられていないように思える。

(そもそも目的を果たしていない証明は、どうやって行われたのだろう・・・)

「手段」そのものが間違いだったのか、「手段」を運営する「質」の問題だったのかが解明ができていないと、別の手段を用いても同じ結果になるのではないだろうか。

それに、教育の問題はなにも教育現場だけに責任を押し付けるわけにもいかないと思う。家庭も大事だと思うし、家庭を構成する1人1人の状態も重要だと思う。それらは、経済状況、社会状況によって左右されるかもしれない。

浪川教授の意見は、何か安易に結論を急ぎすぎているように思えて致し方ない。
それに「ゆとり教育」を始める際に、浪川教授の考えと同じ意見はあったはずと思う。その議論を乗り越えて「ゆとり教育」は始められたのではないのだろうか。

「目的」は常に振り返らないと見失ってしまう。「点数」だけで判断すると道を誤る事になりかねないと思うのだが・・・

奇妙なメール、もしかして新しい顧客獲得方法?

先週僕のメールボックスに奇妙なメールが届いた。
間違いなく偽名だとは思うが、一応マスキングをして掲載します。それに文面をみても相手の特定は出来ないと思う。でも今もって謎なのは一体何をするつもりだったのかって事。

「どうもはじめまして、***です。
地域のメル友募集掲示板を見てメールしました。
市内でOLしてるんですけど。
来年で2年になります。
今年は実家に帰らないので時間あるんです。
仕事終わった後とか暇かなと思ってとりあえず
メールしてみました。

急いでるわけじゃないですけど…
メールだけして会えないのも寂しいし
時間的にムリなら今回は諦めます?ゴメンナサイ。
明日の夜まで待ってみますので
よかったらお返事もらえますか?
楽しみに待ってます。」

勝手に寸評します。
まず僕のメールアドレスは、誰かが勝手になりすませるような文字体系ではありません。これは明らかに僕宛に届いています。

1)地域メル友掲示板って何?そんなところに掲載した経験も、記憶もないのですけど・・・・

2)市内ってどこ?僕は都内なんですけど・・・

3)いきなり相手を知らないで、逢おうとするなんて、なんて世間知らずなんでしょう。もしかすると、逆に世間を知りすぎているのかも・・・

4)自分の事を語っているようで、実は少しも自分の正体を見せていない。また僕が掲示板に載せたのであれば、僕の事を少しは知っていると思うけど、それも見せない。明らかに、僕を知らず、自分を見せない書き方です。

5)男性を釣る言葉がそれとなく書かれています。この文章は多分定型文章だと思います。仮に、相手を考えて文章にしていたら、こんなに短くまとめることが出来ません。

僕がメール返信をしたら、一体何がおきたのでしょうか?興味はあるけど、どうせつまらないことだと思うので、無視しました。でも普通のメールにみせたスパムメールが最近多いけど、これはスパムでもフィッシングでもない様にみえます。多分、スパムもフィッシングも最近手の内が見えてきているので、新手の仕方ではないのかなと思ってしまいました。

誰かが、僕のメールアドレスをいたずらで使ったのかなとも思いましたけど、それをする意味がないのです。何なんでしょう?

しかし、スパムメールが多いですが、あの量のスパムメールを行う事による獲得割合は何%くらいなんでしょう?スパムメールの送信と言っても、当然にコストはかかっているわけです。当然に見返りの期待値もあることでしょう。

逆にスパムが多いことで、自分で自分の首を絞めている結果になっているようにも思えます。男であれば、一旦スパムメールに記載しているサイトに来れば、しばらくエッチ画像を見て加入するチャンスがあるのかもしれないでしょうが、まずは殆どの人はメール自体を見ないのでは?

最近は昔のようにポルノ系は流行らないそうです。つまりはあの業界も不況なのだとか。しかし、ポルノは廃らないという神話があるので、多くの方が参入し、今では過当競争状態でさらに儲からない状況となっていると思います。あのスパムメールの量は、そんなポルノ業界の悲鳴のように聞こえてしまいます。迷惑な悲鳴であるのは間違いないですけど。

ポルノ業界は最新メディアを積極的に利用します。ですから、今はスパムメールより、ブログ利用が販売促進方法になっている感じもします。1つ恐ろしい予感は、人気ブログに向けてのコメントとTBがスパム化されないかってことです。これが自動化でもされたら、ブログ自体の存続に影響を与えるかもしれません。まぁ、このブログに向けて何かをすることは間違いなくないと思いますが(笑

2004/12/29

野生のパンダから真のカスタマイズを思う

27日深夜にNHK総合で放映した『大自然スペシャル 「動物カメラマン 野生へのまなざし」~ジャイアントパンダの素顔に迫る~』を見た。見たと云っても、何気なく暇つぶしにテレビをつけたらやっていたので見始めたのだが、見ている間に引き込まれてしまった。

野生のパンダの逞しさ、生存と生殖の厳しさ、そしてパンダが持っている可愛らしさに魅了されてしまった。パンダは匂いでお互いがコミュニケーションしている。特に発情期の雌パンダは、テリトリー内の木々に分泌液をこすりつけ、それが風に乗って数キロ範囲にいる雄に知らせるのだという。その匂いに誘われて数匹の雄が現れる。しかし交尾が出来る雄は一匹だけなのだ。そこで雄同士の烈しい戦いが行われる。時には相手を殺すほどの戦いになると言う。戦いの後は木々はなぎ倒され、血は飛び散り、烈しい戦いが行われたことがわかる。それとパンダの可愛い表情とが重ならないが、野生の世界の厳しさが垣間見れてとても面白かった。

テレビはこうやって予期せぬ面白さを僕に与えてくれる。もし僕が番組表をしっかり見て番組を選択していたら、間違いなく見なかった番組だと思う。このことは、何を僕に意味しているのだろうか。

新聞をよく読む、ネットを頻繁に利用している僕でも紙に印刷した新聞は欠かせないメディアの1つだ。一時期度々聞いた意見に、「ネットが広まれば新聞紙は必要なくなり、新聞社はネットを使ったビジネスモデルを考える必要がある。」と云うのがあった。
いわば、昔に云われた「ペーパーレス時代到来」「電子メールが電話を駆逐する」「書籍は総てデジタル化され書店経営が難しくなる」などと同じ類の話だ。

でも実際は(勿論一部の人を除いて)、新聞紙はなくならないし、オフィスでは常に紙の処理に困り、電話で話をして、大型書店は常に混雑している。確かにビジネスの面で云えば、IT企業が盛況しているのは事実だが、僕らの暮らしが大きく変わったかと云えば、上記の点ではそれほど変わっていないのかもしれない。ただ、選択肢が増えただけの様な気がする。選択肢が増えたと言うことは、状況に合わせて何を選ぶかと言うことで、選択肢の1つが他の物に成り代わる事にはならない。そう僕は考えている。

新聞紙で新聞を何故読むのか。それは時折暇つぶしにテレビをつけて、面白い番組に当たる楽しみに似ている。もしかすると、書店で本を探す楽しみに似ているのかもしれない。
例えば、グーグルで検索をする時、僕は端的に検索ワードをタイプする。勿論そこからの結果は、検索ワードに準ずる物ばかりとなる。またネットで新たな情報を調べるとき。巡回するサイトもほぼ決まっている。逆に言えば僕のネットでの使い方は「狭く深く」と云うことになる。

でも新聞紙で新聞を読む時、僕は自分が気が付かなかった、自分の興味を知ることが出来る。特に何気ない読者からの投稿欄とか、社説とか、小さな数行記事とかに面白さを覚えてしまう。それはネットで何かを検索するのとは次元が違う楽しさだ。

もしかすると僕は、自分で自分の興味の範囲を限定しているのかもしれない。アメリカのテレビ番組の1つ、「ディスカバリーチャンネル」のキャッチフレーズにある言葉、「これまで、あなたが興味を持ったことすら知らなかったものを、お見せしましょう」。
確かに、「新聞紙で思わぬ発見」「書店で本を見つける事」「電話での人との会話」にはそれがある様に思える。

昔のある時期、ネット書店のアマゾンに凝ったことがあった。凝るというのは、アマゾンで書籍を購入するだけでなく、そこで遊ぶと云うことだ。アマゾンでの遊びは、ブログでの遊びと似たものがある。人の感想を読み、自分でも感想を書き、それによってランク付けがされてくる。これには、はまってしまった。勿論ブログ以前の話で、今だったらアマゾンで書かずに、自分のブログに書くのだと思う。
その時は、アマゾンのシステムが素晴らしいと感動した。一度登録すれば、次回訪れると「****さん、ようこそ」で迎えてくれる。自分が以前に見た書籍に関連した分野の情報も教えてくれる。丁度「ワン・トゥー・ワンマーケティング」を知ったばかりだったので、大いに感動し人にも勧めてばかりいた。そう、あの時は新しいネットビジネスの現時点での模範解答(勿論完璧ではない)が、そこにあると信じていた。

書籍「マス・カスタマイゼーション革命」での考えが将来のビジネス像と信じていた事もあった。つまり、1人1人に合わせてカスタマイズがされるので、マーケティングで顧客をセグメンテーションする必要がなくなるという考えだ。僕にとっては、具体的にアマゾンがそれを体現していた、と感じたのも不思議ではないと思う。

では今ではどう思っているのかと云えば、僕自身カスタマイズに対する考え方が変わっているので、不満ばかりが目に付く。そのうちにアマゾンで書籍を購入することさえ止めてしまった。書店で本を探す楽しみにはアマゾンでは勝てないとさえ思う。
カスタマイズはその人の事を深く知らなければならない。今では安易に「その時」の検索ワードで、その人の興味全体を把握しているかのように思える。カスタマイズが、「自分でも知る事がなかった自分の興味」を喚起してくれるのであれば、それは自分を知ることにも繋がり、面白くなるのだと思う。真のカスタマイズはそうあるべきだと今では思っている。

PCとネットでは常に目的を求められる。そして時には疲れを僕に与える。それらは「もっともっと」と僕に何かを求められている様に思える時もある。ネットに流れる情報に対し、自分も何かをはき出さなくてはと思ってしまうのだ。僕が考える真のカスタマイズは逆に、自分の可能性を広げてくれるものだ。それは何かを僕に与えてくれる。それを考えると、ネットビジネスの方法論・技術論はまだまだ原始的な段階だと思ってしまうが、逆に考える余地が沢山残っているとも言えるのかもしれない。

僕にとっての真のカスタマイズを、ネットビジネスで展開するには膨大な資金が必要になると思う。費用対効果算出が難しいかもしれない。それは検索ワードの「単語」をキーにするのでなく「文脈」で判断する必要がある。しかもその「文脈」をデータベース化し、「データマイニング」もしくは「テキストマイニング」でなく、「文脈」の分析とマイニングとなるのだろう。しかも蓄積した「文脈」同士から、その人の新たな興味を分析する技術も求められる。

ただそこまで行う効果が現時点では全く不明なことと、IT技術は所詮長期的な差別化には繋がらない事から、現実ではそれを実現する企業は少ないように思える。それを補うために、各企業はカスタマセンターを設け、人による対応を行っているのかもしれない。しかし、概ねカスタマセンターは苦情受け付け処理中心となっている。勿論これも大事だが、今後の新たな顧客獲得とネットを通じての口コミ効果を求めるためにも、さらに訪れた顧客が思いもしない買い物をネットで行うために、カスタマイズの深化は重要だと思う。それが一時的な効果にせよ、この場合については先に行った方が強いのは確かだと考えている。

2004/12/28

人体実験は最高で最悪のアイデア

映画「スーパーサイズ・ミー」が12月25日から公開している。この映画は前評判が高かく、内容を含めて事前に知ってはいたが、既に始まっているとは思いもしなかった。
内容はモーガン・スパーロック監督自身が1ヶ月の間ビックマックとコーラだけで過ごし、その結果様々な体調変化をおこした事を記録した映画だ。撮影開始してからスパーロック監督は苦痛で早く撮影が終わればいいと願い続けたそうだ。まさしく彼の云うところの「人体実験は最高で最悪のアイデア」だったというわけなのだろう。

しかし日本のテレビでは、大きく紹介されていないらしい。以下は「アエラ」(’05.1.3?10)からの引用。

「スパーロック監督が10月に来日した際も新聞、雑誌の取材が殺到した中、テレビ局はCSテレビ局が2社訪れただけだった。しかもそのうち1社はNHK系列。映画にやり玉にあがるマクドナルドや、コーラのメーカーはいずれもテレビCMを数多く打っているスポンサー。そのため民放テレビでは、この映画を取り上げづらいらしいのだ。あるワイドショーの芸能担当ディレクターによると、試写をみて気に入り、最初は5?6分かけて紹介する企画を考えた。だが同じ局の他の番組でストップがかかったと聞いて断念。1分弱の簡単な紹介コーナーで取り上げようとしたが、今度はプロデューサーからストップがかかったという。」

「スーパーサイズ・ミー」は欧米ではかなりのヒットをしているらしい。勿論この映画は、「スローライフ」推進でもマクドナルドが象徴している「アメリカングローバリズム」批判を行っている訳ではない。

米国で話題になった通称「チーズバーガー法」へのメッセージと受け取って良いのかもしれない。二人のティーンエイジャーが自分たちの肥満はマクドナルドの責任だと訴訟を起こし、結果的に敗訴になったが、その後ホワイトハウスと食料品業界が協力して、「肥満は自己責任なのでファーストフード業界を訴えてはいけない」という法律が出来た。その法律を通称「チーズバーガー法」と云うらしい。ただ、訴訟の話でなく、マクドナルド等のファーストフードは日本でも日常の食品となっているので、映画の内容は僕らにとっても身近な話だとは思う。

しかし、あれほど「華氏911」の時は大きくテレビ局でも取り上げたというのに、グローバル企業にはメディアも弱いのだとあらためて思った。
テレビ局も企業だからスポンサーは大事だとは思うし、この映画を取り上げる事が(スポンサーを無くしてもよいほどの)公益性を持ってはいないと、判断した結果とは思うが、どこかの局で1つくらいは大きく取り上げて欲しかった。

最後にスパーロック監督の言葉を、同じく「アエラ」から引用する。

「この作品のプロモーションのために世界各国を回ったけど、どの国でも僕とこの作品を取り上げないメディアがある。表現の自由というのは、スポンサーが許す範囲内での自由なんだろうね」

名言だと思ったのは僕だけではないだろう。個人的には「華氏911」よりはよっぽど「ドキュメント」だと思ってはいる。

その他関連サイトとして「スーパーサイズ ブログ」が面白い。なんと日本のファーストフードとである寿司を1日3食で1ヶ月過ごすという企画のブログ。既に企画は終了済み。寿司だったら挑戦しても良いと思ったのは僕だけでは無いはず。

2004/12/27

青森市と浪岡町の合併問題に見る不思議

「民意は「合併反対」 浪岡町長のリコール成立、出直し町長選へ
青森市との合併を進めた加藤新吉町長に対するリコール(解職請求)の賛否を問う浪岡町の住民投票が26日あった。即日開票の結果、解職賛成が反対を上回りリコールが成立。加藤町長の失職が決まった。50日以内に出直し町長選が実施される。(中略)投票率は66・24%、当日有権者数は1万7105人だった。」(毎日新聞)

浪岡町は青森市に隣接する人口約2万人の町だ。当然に青森市と比較すれば小さな町と言える。その町が青森市の合併問題で大きく揺れている。青森市と浪岡町の両議会では既に合併は可決済みで、県議会でも可決されているので、今回青森市と合併推進役でもあった町長がリコールされたとしても、合併を止める手順は少ないらしい。

毎日新聞での記事では民意が(青森市との)合併反対、議会が合併賛成の「ねじれ現象」となっているとあるが、本当にそうなのだろうか。
浪岡町が合併に動くきっかけとなったアンケート「市町村合併に関する住民意向調査結果 」を基に僕なりに分析してみた。

以下にアンケートを見たときの疑問点を記す
1)回収率が97.4%が異常なほど高い。データー収集方法は何を使ったのだろうか。
2)今回のアンケート作成者は誰だろう。客観的な立場の第三者に委託してのアンケートだろうか。
3)問4の合併賛成を問わずに合併先を聞く事の意味はどこにあるのだろう。
4)合併の選択肢に「弘前市」がない。また「津軽14市町村」と曖昧。

1)2)について、この回収率が示す高さはアンケート担当者が一軒毎に訪問し、インタビュー形式で行ったのではと推測する。もしくは地域ぐるみで強力に回収を行ったとも考えられるが、いずれにせよインタビューする側、強力に回収を行う者の意見がそこに反映されている可能性があるのでないだろうか(いわゆるインタビュー効果)

3)について、合併反対者は合併先に関係なく反対なのであって、合併先の選択肢に真面目に答えているとは到底思えない。アンケート分析者が「反対していても、青森であれば致し方ないと思うのではないか」等と考えているとしたら、それは大きな間違いであるし、データがその様にバイアス(偏向)され使われる傾向になってしまう恐れがある。
また、合併賛成者にとっての選択肢は強い意味を持つ。例えば合併賛成だが「青森市」との合併は反対の考えがある場合。当然に選択肢として「青森市」は選ばない。
仮にデータから「青森市との合併に賛成か」に具体的に最初から示せば、結果は賛成:5852名、反対:10671名になり反対の結果となる。

4)について、「弘前市」は浪岡町にとり、青森市に次ぐ関係の深さを持っている。その弘前市を選択肢の中に含めなかったのは何故だろう。意図的に「弘前市」を排除したように見える。

以上の結果から見えてくるのは、本アンケートは当初から「青森市」との合併前提で行われたと考えてしまう。そこに本アンケート作成者のバイアスの存在は否定できない様に思える。

浪岡町長リコールに結びつくのは当然の結果だと思う。またバイアスされての結果であれば、このアンケート結果を信用することが出来なくなる。
また、リコール結果から逆に判断することは危険な事だが、僕の個人的感想を言えば、浪岡町民の民意は「合併は賛成だが、青森市との合併反対」にあると思えて仕方がない。

簡単に青森市と浪岡町の合併について、アンケートを中心に見てきた。個人的なことで申し訳ないが、僕の父親が浪岡町出身なので気になってしまった。勿論父の実家は今でも浪岡町で生活している。

追記:市町の合併問題を実は、企業の合併に即して、シナジー効果の出し方について書くつもりでいたのだが、アンケート内容を見つけたのでアンケートのバイアス調査の内容になってしまった。これも個人的な意見ではあるが、行政側が行うアンケートは、殆どそこにバイアスがあると考えた方がよいと思う。問題は何故そのバイアスを行う必要があるのかを知ることだと思う。

2004/12/26

鉄腕アトムとクローン猫

天馬博士は愛息トビオを事故で失ったときに、クローン技術を使って息子を再生しようとは考えなかった。その代わりに彼はトビオに瓜二つのロボット(鉄腕アトム)を製造した。
医学博士でもある手塚治虫が鉄腕アトム執筆当時にクローンの可能性につい知識がなかった訳ではないと思う。それなら何故天馬博士はクローン技術を使わなかったのだろうか。

天馬博士はクローン技術を使って息子を再生したとしても、自分がかつて愛し事故で失ったトビオと全く同じトビオが出来ないことを知っていたと僕は思う。人が育つには遺伝子情報だけでなく環境も等しく重要なのは言うまでもない。クローン再生した場合、天馬博士は以前にも増してトビオを可愛がり側に置くことになるだろう。その結果、天馬博士が見知っているトビオとは全く違った性格が形成されていくことになる。

また天馬博士は時間が惜しかった。即座に事故死したトビオと出会いたかった事が、ロボットとしてトビオを再生した最大の理由かもしれない。
ただ総じて言えば、天馬博士にとってクローンかロボットかの選択における葛藤があり、メリットとデメリットを判断した結果、ロボットでの再生となっていったのではないかと思う。しかし彼には、判断した時点で見えていない最大の問題があった。ロボットであるトビオは肉体的に成長しないと言うことだった。

つまりは、天馬博士にとってトビオの再生は、クローンとロボット技術を使っても、願いは叶わなかったと言うことになる。
CNNのニュース記事「「愛猫そっくり」 米企業、クローン猫を5万ドルで販売 」を読んで僕はそんなことを考えてしまった。

家には2匹の猫がいる。名前を「ジュニア」「レオ」といい、雑種の雄猫だ。猫の寿命は人間に較べて遙かに短い。でも猫には猫の時間があり、その中では人間の一生と同等の命の重みがあると思う。寿命の短さを人間である僕が嘆いたとしても、それは猫達にとっては余計なお世話なのかもしれない。

最近初老に至ろうとしている「ジュニア」は、季節が冬と言うこともあり、さらに寝てばかりいる。時折この2匹がいなくなった世界を考えると、勿論悲しいことではあるが、僕の暮らしは普段と変わりなく続いていくのだろうと思う。その時は、彼らが自分の「生」を全うした事を、思い出と数々の写真によって、懐かしむことだろう。僕は生前に彼らに癒され、死後に懐かしむことで再び癒される事になる。それは唯一無二の存在としての「ジュニア」と「レオ」がいたからこそだ。唯一無二とは、遺伝子情報だけの話でないことは、人間以外の命と暮らしたことがある方なら実感できると思う。

仮にクローン技術によって遺伝子情報が継続した場合、僕は果たして「ジュニア」と「レオ」の命の重みを、共に生きる日々の暮らしの中で、オリジナルとクローンを同質に感じる事が出来るのだろうか。結果は僕にとっては明らかだ、遺伝子情報の継続だけでは彼らが生き返ったとは思えない。

勿論、クローン猫として再生を願ったテキサス州の女性の気持ちはよくわかる。クローンにおける倫理問題は別にして、僕は彼女に願うことは、天馬博士の二の舞だけはなって欲しくはないと言うことだけだ。

話は若干変わるが、人工知能研究をされている方々にとって、人の脳を人工的に作る事は可能と考えていることだと思う。その結果、ロボットが数多くの映画にあるように、人間と同等の感情を持ち、何かを創造する能力も持つことになるのかもしれない。
そうなると「天馬博士の悩み」は既に人ごとではないようにも思えてくる。クローンとロボットの双方の問題は早々に一定の基準を設ける必要があるのを感じる。それと同時に、何らかの法制化が為された際に、裏での取引が行われる状況も出てくるに違いない。それの対策も同時に検討する必要があるとも思う。

関連サイト:
・クローン猫、外見も性格もオリジナルとは「別の猫」(WIRED NEWS)
・研究報告「クローンには、ほぼ確実に異常が発生する」(WIRED NEWS)

ITMediaの記事を読んで思った新たな携帯サービス予測

ITmedia記事「2004~2005年 いよいよ始まる「番号ポータビリティ」戦争 」を読んだ。とてもまとまっている記事だと思う。各携帯事業者が「番号ポータビリティ」(以下 MNP:Mobile Number Portability)制度を破壊的イノベーションとして捉えている実態がよく見えた。そして各社の対応は以下の記事に良く現れている。

「ドコモのおサイフケータイとauの着うたフルのどちらも、その背景にあるのはMNP対策だ。前者は電子マネーやポイント、電子鍵など実用系サービス、後者はリッチなエンタテイメントコンテンツとアプローチの仕方は異なるが、MNPで移動できないバリューを携帯電話に取り込むことで、ユーザーがキャリア変更しにくくなるようにするのが狙いだ。このような傾向は今後、さらに強くなっていくだろう。」(ITmedia記事より抜粋)

まずMNPは携帯事業者にとって脅威なのだろうか?
少なくともドコモは守りなので脅威に感じているだろう。ボーダーフォンは次なる手が具体的に見えない中で脅威に感じている部分が多いように思える。ただ一社auのみが追撃態勢の中で「脅威」を「ビジネスチャンス」と捉えている様に感じられる。

ただ、ドコモもそうだが、auについても「MNPで移動できないバリューを携帯電話に取り込む」事の具体的なサービスが「おサイフケータイ」と「着うたフル」であるのが個人的には寂しい限りだと思う。

本記事ではすでにARPU向上を目指す戦略は崩れ、今後は成熟した市場の中でシェア取りになると言っているが、果たしてそうなのであろうか。僕は携帯サービスは二極化していくと考えている。それはサービスとして機能のオプション化が進み、そのサービスの中にはARPU向上に役立つものが出てくる。しかし、オプションを利用しない顧客も存在し、それらの顧客は今までどおりに通話・メール・携帯サイト閲覧くらいの利用に落ち着くと思う。それは現行の携帯利用者がほぼ一律に同じサービスを受けている状況とは違う。顧客は自分の生活に合わせてオプションを追加し、そのことでますます携帯はよりパーソナルに向かっていくという考えだ。パーソナルになればなるほど、その携帯を手放しづらくなるのではないかと思う。

auの新携帯端末「W21CA」はブラウザーにOperaを内蔵し、ネットのPCサイトを閲覧できる(PCサイトビューアー)。閲覧するには、EZWINコースに加入する必要があるが、データ通信料は「ダブル定額」の対象外となる。auは新たなARPU向上を目指すためのサービスと考えているのだと思う。ただこのサービスは機能追加の形で各社が追従する事により「MNPで移動できないバリュー」とはなりえない。

「MNPで移動できないバリューを携帯電話に取り込む」事と、そのバリューができれば新たなARPU向上に役立つサービスが、携帯各社が目指すサービスだと思う。僕はそのサービスは、MNPと同時に展開するユビキタス社会での携帯端末の位置づけにより、展開可能だと思っている。具体的にどのようなサービスになるのかは、現時点では僕には不明なので、これはあくまで直感としか言いようがないのだが・・・。ただ、「Home(自宅)情報管理」「個人情報管理」等がネットとの融合により新たなサービス展開が可能ではないかと思っているのだ。

ひところPDAと携帯電話は将来融合するのかといった議論がなされたことがあった。僕の意見は、日本では携帯電話にPDAの諸機能は取り込まれていくと思っている。上記のユビキタスでの携帯の位置づけは、それが最低限の条件となる。

それに僕にとっては本当の携帯事業の戦争はMNPではない。MNPは通過点にしか過ぎないと思っている。MNP直後に新たに参入するソフトバンクの方が、携帯各社にしてみれば、より大きい「脅威」なのではないかと思える。何故なら、以前記事 ので書いたとおりに、ソフトバンクは少なくともドコモとauより先のビジョンを持っている事と、通信事業者の常識にとらわれないビジネスモデルを構築することができるからだ。

少なくとも、「おサイフケータイ」と「着うたフル」だけで迎え討とうとすれば、返り討ちになるだけのような気がしている。勿論、これらの記事が僕の予測にしか過ぎない事は十分承知はしている。

書店の倒産、増加続く

『「ハリー・ポッター」「世界の中心で、愛をさけぶ」などのヒットに今年恵まれた出版界だが、町の小さな書店にはすきま風が吹く。民間信用調査会社・東京商工リサーチのまとめでは、書店の年間倒産件数は00年以降、30件台後半から40件台の高水準が続く。今年は11月までで29件だが、負債総額は87億円とすでに03年を上回る。大型店やインターネット上のオンライン書店の増加などが背景にあるとみられる。 』
朝日新聞から抜粋

街の書店の経営が厳しいことは、身近の書店が閉店した事により感じていた。

その書店は僕が子供の頃から既に営業していて、本当にお世話になった。当時は店員も小さい店の割には多く10名近くいたのではないだろうか。
恥ずかしい話をすれば、その店で僕は白土三平の「カムイ外伝」全巻総てを立ち読みで読んだ。その当時は立ち読みを行っている人は殆どいなくて、するのは殆ど子供だった。漫画類は店のカウンター近くに陳列していたので、その店で立ち読みをするにはちょっとした勇気が必要だった。ただ僕は店の方と顔見知りと言うこともあってか、立ち読みをしても何も言われることがなかった。
側に大学があり、大学の教科書も当時はその書店で売っていたようにも思える。店は常に学生達で混み合い、とても活気に満ちていた。

それが一時閉店し、しばらくたってから新店舗として再開したが、書店としての勢いが感じられず、常に閑散としていた。再開してからの店はその店が閉じたのは去年のことだ。

話は変わるが、今回の調査でよくわからないことが何点かあった。MEMOとして下記に示す。

倒産件数の増加理由は、ネット書店、コンビニによる雑誌売上げ減少、漫画喫茶とブックオフなどの新古書店の台頭をあげている。また今年は出版界はヒット商品に恵まれたとも書いてある。

雑誌と書籍の総販売冊数の傾向はどうなのだろうか。ネット販売の売上げ傾向とコンビニ冊子売上げ傾向と書店の売上げ減少との相関関係は本当に証明されているのであろうか。
漫画喫茶の登場から書店での漫画売上げは傾向は現象方向なのであろうか。
また新古書店の売上げ傾向と通常書店の関係はどうであろうか。
今回の調査は単に倒産件数を上げているだけで、他は担当者の感想に過ぎないように思える。因果関係が本調査で明らかになっているとはとても思えない。

僕にとっては街の書店が消えていく事の調査は、他の小売店への提言、人が購買に向かう意識について、等の検討データになり得ると思える。

2004/12/25

企業で新サービスを検討するためには

ある企業で新サービスを検討するための会議を行った。僕はその会議に出席した人から直接の会議の内容を聞き、可笑しいと同時に頭を抱え込んでしまった。その会議を招集したのは事業部長クラスだったらしく、その企業では事業部毎の採算管理を行っている事から、新たなヒット商品を模索する為に行われたらしい。会議は、各部から数名選び総員十数名の規模で行われ、軽食と若干の飲み物が手配されてもいたと聞いた。着席すると事業部長の挨拶から始まり、それ以降はブレーンストーミングが行われたらしい。活発な意見交換がでたのかとその出席者に確認したが、あまり出なかったと聞いた。

新サービス模索のために会議を行うのは勿論良い。またその会議の演出に軽食と飲み物を手配するのも良いと思う。人は何かを食べながら話をするとリラックス出来ると思うからだ。最初の大きな過ちは事業部長がその会議を仕切った事だと僕は思う。当然に出席者の発言はその事業部における評価システムを意識し始める。つまりは事業部長のご機嫌をうかがって、迂闊なことが言えなくなって来ると思う。これでは折角のブレーンストーミングも出発点から機能しなくなる。事業部長の登場は会議が始まる最初の儀式の部分だけで十分だろう。儀式としての登場は、自ずから出席者に事業部長に了解されている会議であると認識される。事業部長クラスの会議運営の役目はそれで十分だと僕は考える。

次ぎに「新サービスとは何か」について、全体のコンセンサスがその会議では得られていないのも問題だと思う。新サービスには大きく分けて2種類ある。1つは現在企業が提供しているサービスから派生する改善的新サービス、もう一つは新市場を開拓する全く新しいサービス。その2つの新サービスは検討する仕方と内容は明らかに違う。おそらくその会議で目指した新サービスとは新市場の開拓であると推察する。
事業部である限りは、配下に部署が幾つか存在し、その部署毎に会社から委託された機能を持っている。そしてその機能を満足するために部員達は働いていることになる。彼らにとって大事なことは自分の業務を成功することであり、それに向かって意識と能力は動いているはずである。新市場の開拓の為にといきなり言われて、ブレーンストーミングを行っても出てくるとは到底思えない。

会議には「場」を作る事が大切だと思っている。「場」とは共通の目的と、その目的を阻む問題を解決する共通の意識が必要となってくる。最初に会議で「場」を作る為には、会議を主催する人(議長)の役割が重要になってくる。「場」ができあがると議長は会議の目的が見失われない事に気をつけるだけで良くなるが、最初は議長が会議の目的を出席者に共有化出来るか否かが重要となってくる。その為には、事前に会議のコアとなる要員を選択し打ち合わせを行っておくことも、時には必要となるかもしれない。「場」は壊れやすく、かつ「場」の参加者以外にはその雰囲気は伝えにくい物だとも思う。壊れない様にコア要員に協力を要請するのである。会議が数回続く時、参加者が変わる度に、議事内容が戻って繰り返しになることが多いのは「場」の雰囲気が伝わりづらい為だと思う。よって、このような会議で必要な事は、「会議場所の選択」「出席者の固定化」「長時間の会議」となってくる。
でも前記に述べたように、各人きわめて忙しいのである。中途半端な会議であれば、やらない方がよっぽど会社の為と思う。

聞いたところによれば、人の思考には2種類あるらしい。簡単に言うと1つ目はイベント毎に対応する思考で、早さが求められる。臨機応変な思考でもあり、その為には経験とスキルが必要になる。一般に仕事が出来ると言われる人達の多くはこの思考能力に長けていると思う。もう一つはじっくりと深く考える思考といえる。この場合考えるためには、静かで邪魔されない場所が必要となる。ビジネスモデル、ビジョン、ポリシー等の本質を考える場合はこの思考となる。この2つを同時に使うことは人には出来ないとされている。
仕事が出来る人は冷静に見れば、概ね日々に出現する問題の「モグラたたき」を行っている事が多いようにも思える。「もぐら」が何故発生するのかの本質を捉え、それに向けての改善を行えば「たたく」回数も自ずから減るかもしれない。

業務の観点から見ると、業務には「定例業務」と「非定例業務」の2種類ある。その会社で新サービスを検討する前に、やるべき事は「定例業務」を減らす事だと思う。その為には「定例業務分析」を行う必要も出てくるが、その時間もないのであれば一時的に人を増やす必要も出てくるのかもしれない。人を増やすと言っても、教育に時間が取られるのであれば元もない。まず派遣社員でも数名雇い、簡単な雑用から初めるのはどうだろうか。事業部長の権限であればそのくらいの費用は決済可能だと思うのだが。
問題は「定例業務」を減らすことにより得られる時間の活用方法である。それは「非定例業務」の品質と生産性を上げることでもあり、さらには上記の「じっくり考える」時間も増やすことでもある。

評価システムの変更も必要かもしれない。有名な話だが、米国のある企業では1日の業務時間中に一定の割合で業務以外の事を考える時間を設けている。勿論、その考えた成果も別途提示しなければならないが、その時間は各人どの様に使うかは全くの自由らしい。極端なことを言えば、好きなゲームをしていても良い。日本の社会を考えれば難しいとは思うが、評価が自分の業務の成功に限定している以上、今回の様な新サービス検討に意識が向かうとは思えない。

さらに新サービス開発に向けてのプロジェクトを結成するのも良いと思う。プロジェクトは100%専任として、一定期間(例えば半年)後に企画書を提出を求める。その期間中はプロジェクトは予算内であれば何をしても良い。大学に行くのもよし、海外研修にむかうのもよし。行動は出来るだけ自由にする。プロジェクト要員は出来るだけ少人数にする。
通常企業には企画部門があるが、業務内容は「調整」「段取り」もしくは「プロモーション活動」「販促企画」であり、本当の意味での新企画を検討する部署は少ないのではないだろうか。仮に新企画を検討する部署であっても、内容は新市場の検討に向けての開発よりは、継続的技術改善からくる新企画が多いようにも思える。ましてや、事業部の企画部門は特にその傾向が強くなるのではないだろうか。
このプロジェクトは完全に成果主義でもあるので、その為には評価システムの特例をそこに設ける必要もあるかもしれないが、面白い実験ではないかとも思う。

その企業の新サービス検討会議を発端に好き勝手なことを書いてしまってはいるが、整理すると言いたいことは、人を集めてさぁ考えなさいといきなり初めても、それは無理であり、まず事業部長の立場で考えなければならないことが色々とあると言いたかったのである。
この記事に掲載している事項以外で、さらに考えなければならないことは色々とあると思う。でも安易に流行の「ナレッジマネージメント」を提唱するつもりもない。事前にナレッジ内容とプロセスを把握しておかない限り、効果は得られないと思っているからだ。この様な会議で「価値のある知識」を得ようと考える組織であれば、特にそう思ってしまう。

「アイムホーム」からみたビジネスのタイミング

NHKドラマで「アイムホーム」放映中に、原作である石坂啓さんの漫画を再読したいと思い、色々な書店を回った事があった。勿論帰宅途中での書店回りだったのだが、ことごとく書店には既に在庫がなかった。ある書店では、気を利かせてくれて出版元に問い合わせをしてくれたが、出版元にも在庫は無いとの事だった。NHKのドラマサイトを見ると、原作本は書店に問い合わせてとの事だったので、絶版とは考えづらい。単に再版していないだけの事なのだと思うが、この状態を見て、出版元は1つのビジネスチャンスを逃してしまったのではと思ってしまった。

勿論、この考えは読みたいと思う気持ちが叶えられずに、気が晴れない僕の気持ちから来ている事は間違いない。つまりは大いに独りよがりの意見である可能性も高い。

ビデオリサーチの視聴率調査では「アイムホーム」最終回はドラマ部門でTOP10には入っていない。多分視聴率は10%付近位だと思う。Googleでの検索件数は約7千件くらい。ただネットで感想を調べると概ね好意的なようだし、DVDの販売を希望する声もあがっている。全国に点在する漫画喫茶への販売も期待できるので、再版を行えば少なくとも1万セットは売れたのではないだろうか。

元々「アイムホーム」は上下2巻での構成だった。再版を行う場合、サイズは多少大きめにして、各1冊千円上で売るとすれば、1万セットで約2千万円上の売上げとなる。勿論書籍の帯にはドラマの出演者の写真と原作である旨の表示をする事になるし、さらにプロモーションを考えれば、版を重ねることにも繋がるかもしれない。

損益分岐点がどのくらいなのかは不明だが、構造的不況にある出版業界の状況を見れば、十分にビジネスとして成立するのではないかと考えるがどうであろうか。

ただし、上記イメージの前提は出版タイミングが正しければの話であって、ドラマが終了している今となっては、再版時期を逸していることは間違いない。
再版を行うためには、印刷を行う数ヶ月前には企画が社内で了承されている必要があると思う。企画書には、再版のメリットが説得力を持って書かれていなければならない。その為には「アイムホーム」がドラマ化する情報だけでなく、配役とスタッフの内容も正確に押さえておく必要がある。特に重要なのは、脚本家の実績だとおもう。脚本家によって、そのドラマの好感度はある程度予測可能になるだろう。「アイムホーム」はこの点についても十分に再版検討の余地があったはずだと思う。勿論、出版元に検討するパワーがあればの話が前提なのだが。

出版元からみると、年間を通じて多くの新番組が登場している中で、いちいち調査・検討を行う余地はないのかもしれない。またテレビ原作本だけでなく、新たに出版を企画している書籍が星の数ほどある状態も、過去のコンテンツは気にされない要因になっているのかもしれない。

ただ出版業界の現状は、概ね新たなヒット商品の追求に力を注いでいるように思えて仕方がない。多分、出版元企業の社員評価もそれに準じていると予測できるので、新たなヒット商品追求に向かうのはは体制上致し方ないのかもしれない。

確かにヒット商品による新市場開拓の魅力も十分にわかる。でも簡単にはヒット商品が得られない現状において、過去のコンテンツでも版権を所有している内は、売れるタイミングで売るのもビジネスの1つの姿だと思う。勿論1件単位で見れば、少額で地道なビジネスではあるとは思うが、束ねれば出版元にとっても十分にメリットが出ると思う。

問題はそれほど単純ではないかもしれないが、過去のコンテンツをタイミング良く掘り起こせない(と思われる)出版元の問題は、情報収集と分析能力にあるのでなく、その評価システムに1因があるように感じる。


追記:
原作本である漫画とドラマ版では、物語の終わりが違っていたと思う。原作の場合は、たしか最後まで主人公の妻は仮面を付けたままであった。
仮面の妻は火災にあった家を見て、家が無くなったと言うが、その時に主人公は妻に、君たちが僕にとっての帰るべきホーム、だと言う。その言葉を聞いて仮面の妻は涙を流す。こんな終わり方だったと思った。漫画の方がよりリアリティを感じられたが、この際漫画版とドラマ版とは違う物語と考えれば良いのかもしれない。違いは発表したメディアの違い、もしくは社会状況の違い等々、色々と考えられる。それらも含め知りたくなり原作本を探した。

帰宅途中の漫画喫茶にも置いてあるかを確認したが、石坂啓さんの作品でおいてあるのは代表作の「キスより簡単」くらいのものだった。

2004/12/23

ビジネスからみた匿名性について

2ちゃんねる掲示板に書き込まれた匿名の中傷投稿に対し、名古屋地裁がプロバイダーに匿名者の住所氏名などの開示命令判決を行った。
少し前には、鳥取大学生が2ちゃんねる掲示板で、ウサマ・ ビンラーディン氏の名をかたり、東京タワー等の爆破予告を行った為、警察に逮捕された事件もあった。
「匿名」であれば自分の正体がわからないと本気で思っている人がいまだにいる事が不思議だ。既にネットでの「匿名」神話は崩れて久しいと思っているからだ。
「匿名」と「匿名の臆病者」の内容については「ウィキペディア(Wikipedia)」に載っている。

例えば、本ブログでは僕は「amehare」と名乗っている。この「amehare」は僕にとっては「著者名」みたいなものだ(「FORF」には実名も書いている)。
それにLOVELOGでは「amehare」と僕の個人情報(DION)がリンクしている。

仮に、僕がサイトであらぬ「誹謗中傷」を行い、被害を受けた方が「amehare」に対し名誉毀損による損害賠償を求めた時、裁判所は僕の発言が「名誉毀損」に当たるかの検討を行う。公益性と真実性の立証が出来れば名誉毀損には当たらない事になるが、その立証責任があるのは、この場合「amehare」である僕と言うことになる。ただ、幼稚な「誹謗中傷」の場合、立証するまでもない事が多い。

訴えた人は、損害賠償を求める裁判を起こすために「amehare」の個人情報(氏名・住所)が必要なので、裁判所はDIONに対し「amehare」の開示命令を出す事になる。
プロバイダーは裁判所の令状があれば、個人情報の開示は行わなくてはならない。
そしてめでたく(笑)、「amehare」である僕は被害者に謝罪と損害賠償を払うことになる。

ネットに接続する場合、IPアドレスが必要となる、このIPアドレスはユニークなので、IPアドレスをたどれば、いずれはプロバイダーに繋がる事になる。
たどるには、IPアドレスのログ情報がサーバ上に記録している事で可能となる。つまり完全な匿名を保証する事とは、そのログ情報を保持していない、と言うことになる。
LOVELOGの様な登録が前提のサービスでは完全な匿名はあり得ない。それは「goo」「Yahoo」「msn」等の無料でメール等のサービスを提供している企業、オンラインゲームなどを運営している企業も同様で、登録したidからIPアドレスをたどる事は容易である。

さらに、ビジネスの観点から見ると、ログ情報を持たずにサービスを提供する企業はあり得ないと僕は思っている。
名誉毀損で言えば、上記の例のように、真実性と公益性の立証責任は誰にあるかと言えば、当然に「amehare」である僕がその責任を負っている事になる。
仮に完全な匿名性を保証しているサービスがあったとする(昔の2ちゃんねるの様な)、その場合、その掲示板を運営している側に公益性と真実性の立証責任が担うことになり、運営している企業にとってはリスクが高い事になる。そしてそのようなリスクを担う企業があるとは僕には思えないからだ。

それに匿名の話ではないが、プロバイダー同士の連携も利用者の想像以上にあるのは間違いない。プロバイダーは1つのネットを構成している。そしてそのネットの相互連携がインターネットとなる。スパムメールなどの対応などの場合は、国を超えての連携も時には行われている事だと思う。つい数年前にAOLがDIONからのアクセス(メールを含めて)を止めたのは記憶に新しい。

またプロクシーを幾重にも使う事で「本人」にたどり着けないと考えている方もいるかもしれないが、絶対にたどり着けると考えた方が間違いない。行うか行わないかの判断は、行うためのコストと結果得られる公益性のバランスで判断している、と考えた方がよい。ハッカー対策の歴史から、蓄積した「たどる」技術は現在では相当に高い。

ネット上には様々な企業がサービスを提供しているが、企業であれば、そこに何らかの利益を求めているのは間違いない。またその為には出来るだけリスクは避ける為の準備を行っているはずである。それらは「約款」「定款」「規約」等で利用者にサービスを受ける前にあらかじめ提示している。ゆめゆめ自分が「匿名」だとは思わぬ方がよい。勿論、「匿名」以前に、やって良い事と悪い事の区別を持つのが当たり前だのだが・・・

2004/12/22

音楽携帯プレイヤーの視点で見たドコモFOMA F901iC

ドコモのFOMA901iシリーズの中の1つF901iCが12月24日の発売が決まった。F901iCを気にしている理由は、初めて「iTune」と連携が出来る携帯端末だからだ。

FOMA 901iシリーズは全機種でAACコーディックの曲データを聞くことが出来る。よって下記の内容はF901iCだけでなくシリーズ全般にいえる内容かもしれない。あくまでF901iCにこだわったのはAACコーディックであれば「iTune」連携が妥当だと考えたからである。

F901iCで音楽を聞く手順は、基本的にはPC経由でMiniSDメモリーカードに曲データを書き込む事で聞くことが出来る。その為には同梱の「データリンクソフト」ソフトをPCにインストールする必要がある。

コーディックは「AAC」のみ、レートは128kbps迄であれば大丈夫のようだ。「iTune」経由でMiniSDメモリーカードに曲データを書き込むには、携帯をPCに接続後、を起動し、「iTune」から曲データを「データリンクソフト」にドラッグ&ドロップを行う。ただし、「iTune」は未添付なので自分でAppleサイトからダウンロードする必要がある。

ちなみにMiniSDメモリーカードは現在最大容量が128Mなので、128kbpsの場合、収納できる曲データは約113分程度となる。

F901iで音楽を聞く場合、操作性は簡単だ。なおかつ、連続再生モードにすれば、携帯を閉じたままでも聞くことが出来、外部ボタンで音量の調整と曲の選択が可能となる。
また閉じたときは背面ディスプレイで曲名の表示もされる。

音楽プレーヤーとして見たときの不明点と問題点を下記に示す。
1.MP3での曲データは聞くことが出来ない。その為F901iCで聞く場合、MP3をAACに変換する必要がある。
2.将来「iTune」経由で曲データを購入できる様になった時、その曲をiPodとF901iの双方に転送可能かは不明。個人的には著作権保護の仕組みを「データリンクソフト」側に持っていないため、即時の対応は難しいと思う。
3.ステレオヘッドフォンは添付していないため別途購入が必要となる。
4.曲のタイトル編集と再生順番の変更は携帯側では出来ない。それはPC側の「データリンクソフト」で行う事になる。
5.「データリンクソフト」はWindowsXPとWindows2000のみの対応となる。WindowsMeは一部ソフトが対応していない。またMacには全て対応していない。
6.音楽を聞きながら、メール作成受信、電話着信が可能か不明。
7.「iTune」からの曲の転送寺に「データリンクソフト」を起動する手間がある(できればもっと親密な連携をして欲しかった)。

F901iCが「iTune」対応になった理由は、AACコーディックへの変換ソフトとしての利用が中心だと思う。さらにiPodが現在携帯音楽プレイヤーの標準になる勢いである点から、iTuneソフトに多くの人が慣れている事も理由としてあるのかもしれない。
仮に将来日本で「iTuneミュージックストアー」での曲データ購入が出来る様になった時、iPodとF901iCの双方に曲の転送が可能になれば、その価値は大幅に上がる可能性もある。(Appleとの交渉、著作権保護機能の搭載など、その場合でも越えるべきハードルはいくつもあるため、即時は難しいと思うが・・・)

ただし、これは901iシリーズ全般に言えることだが、現段階でF901iCを携帯プレイヤーとして見れば、iPod等の携帯音楽プレイヤーをメインとした時のサブとしての位置づけだと思う。そのため、多くの方はiPodを含め携帯プレイヤーを持っているので、F901iCで音楽を聴く状況が正直わからない。よって今のところ、音楽も聴けます程度の内容と思えてしまう。個人的には、優れた音楽再生操作面、PCとの連携、AAC限定だがレートの選択が可能、など魅力的な部分があるので少し残念でもある。

つまりは、F901iCが音楽面で成功するかしないかは、全て他社であるAppleが握っていると言うことかもしれない。

追記:901iシリーズから新機能として、「セキュリティスキャン」というウィルスチェックがついたが、これは携帯OCとしてシンビアンOSを使っている事が理由の1つだと思っている。
ただし、今後は携帯に汎用OSを使う傾向となるので、ウィルスチェック機能は他社携帯も含め必須となっていくと思う。

2004/12/21

周波数割り当て問題からみる携帯ビジネスの今度

今現在携帯電話の周波数割り当て問題でNTTドコモ、au、ボーダフォン、ソフトバンク、イーアクセスで熱い戦いが繰り広げられている。新聞紙上でも時折取り上げているので興味を持ってみている方もいるかもしれないが、大方の人達には興味のない話だと思う。それは、この議論によって携帯サービスの何が変わるのかが浮かび上がってこないからだと思う。周波数は国民の資産であるはずだが・・・
携帯事業者の熱き戦いは、総務省が情報通信審議会からの答申を受けて、無線周波数割り当てを抜本的に見直す方針を打ち立てたのがそもそもの発端だった。

忘れていけないのは、情報通信審議会の答申の中身だと思う。ユビキタス社会実現や、セキュリティの確保、無線LAN産業育成といった提言が盛り込まれている答申に対し、総務省は周波数の再編成でそれに応えようとしている。それは論理的に正しいと思う。何故なら、ユビキタス技術は無線を使う技術でもあるからだ。

それが蓋を開けたら、ユビキタス社会への実現どころではなく、企業のそれぞれの思惑から議論が泥沼化している。もっとも、それぞれの企業の立場から言うことはもっともな話も多いのは事実だ。だが門外漢の僕からこの問題を見れば、明らかに言えることは既存携帯事業者達(以下、既存各社)が、ソフトバンク孫正義氏の携帯事業参入をやめさせる、もしくは遅らせる心理が働いているのは事実のように思えて致し方ない。実はこの視点で、本記事は書いている。

なぜ既存各社は孫正義氏を恐れるのであろうか。それはADSL事業で彼に負けたことと無縁ではないと思う。逆に言えば、既存各社はADSLで負けた理由を押さえていないことに繋がるのかもしれない。もしくは押さえていたにしても、それに対し同等の資源配分が出来ない環境にあるのかもしれない。僕はどちらかというと後者の様に思っている。

孫正義氏が考える携帯事業の展開は、携帯のIP化であり、それによるYahooBBとの親密な連携であり、さらに携帯に無線LAN機能とユビキタス技術を加えることによる、ユビキタス社会で携帯を中心的な端末にすることでもある。これは僕の想像だが、孫正義氏にとって携帯事業での利益確保は、現行の携帯ビジネスモデルによってではないと思う。
ユビキタス社会での新たな携帯端末におけるビジネスチャンスに備えての参入であると思っている。

携帯のIP化は当然に通話料を含む利用料の破壊に繋がるであろう。また近いうちに始まる番号ポータビリティに対する対応も考えなければならない。既存各社は、孫正義氏が参入することで、価格破壊を含めそれらの変化が早まるのを恐れているのだと思う。つまりは、変化に対応する戦略を持って無く、持っていないことで当然に資源配分も出来ないに繋がってくる。

孫正義氏の参入を遅らせる時期として、既存各社が要望する時期は、周波数再構成が落ち着く2012年であり、番号ポータビリティ施行後でもある。これも推測ではあるが、既存各社達は、番号ポータビリティによる大きな変化は施行後の1回のみであると考えているのではないだろうか。そう思うのは、固定電話の変化と言われたマイラインの経験則がそこにあるのは事実である。確かに現行の携帯ビジネスをみれば、そう思ったとしても不思議ではない。幾ばくかの人は施行後も携帯各社を乗り換える事を行うとは思うが、それは既存各社の存続に影響を与える話ではないのだろう。

ただ、問題は同じ時期に来るであろう、新たなユビキタス関連のサービスとそれに伴う携帯端末の位置づけの変化が無いことが前提であると言う事だ。携帯端末は、その発生当時から見ると大きく位置づけが変わってきている。当初は屋外で通話が出来る(固定)電話の位置づけだったのが、今ではメールを含むネット端末への位置づけ、さらにはゲーム、音楽、ラジオ、テレビ等の退屈を紛らわすための道具に変わりつつある。これらの位置づけは、携帯端末の継続的な機能追加の一環であるので、既存各社の戦略は大きく変える必要はない。

でもユビキタス関連のサービスによっては、携帯の位置づけが変わり、その事から既存のビジネスモデルではビジネスが成り立たなくなる可能性も十分にあると思う。
そしてそうなった場合、現行の既存各社ではそれを乗り越える事は難しいのではないかと思ってもいる。

僕はあえて既存各社に提案したい。それは、今までの仕方を180度変えるやり方でもある。つまり、孫正義氏を受け入れる方向で検討するのだ。例えば、新規参入する場合、米国などで既存各社への設備保証金を支払うことが通例であれば、それを条件とするのも良い。もしくは既得権より既存顧客へのサービスを保証する事から割り当て量の残りを提示するのも良い。つまりは、孫正義氏が参入する為の条件を逆に提示する方向の議論を行う様にするのである。そうなると孫正義氏にとっては、それを受け入れるか入れないかの判断になり、問題はあくまで孫正義氏側となる。

それと同時に、既存各社は携帯事業に対して積極的に変化を模索し、新たなサービス構築とビジネスモデルの開発に力を注ぐのである。価格破壊を孫正義氏以前に既存各社が行うのもよいのかもしれない。
そして検討し創出した新たなサービスイメージを多くの人に伝えるのである。

これらは難しいことは十分にわかる。でもそれを行わない限り既存各社の明日はないのでなかろうか。

2004/12/20

和辻哲郎の「古寺巡礼」

20041220a0b3d935.jpg中学校の卒業旅行は東北だった、高校の時は九州だった。寺院仏閣の拝観が好きだった僕は、どういう訳か京都奈良に縁がなかった。特に奈良の仏像を拝観したかった。そこで、高校の時に1人で奈良に行くことにした。その際に、老齢の教師にガイドブックとして何がよいかを尋ねた。教えてもらった本は和辻哲郎の「古寺巡礼」、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」、堀辰雄の「大和路」の3冊だった。
その中で一番気に入ったのが、和辻哲郎の「古寺巡礼」だった。いまでも多くの方が読み続けている名著だと思う。

岩波文庫版の解説(谷川徹三)によれば、この本は初め大正8年(1919年)30才の時に出版している。和辻が29才の時に奈良付近の古寺を見物したときの印象を書き、雑誌「思潮」に5回にわたり連載したものをまとめて書籍化したとのことだった。
当時としては新進気鋭の哲学者・文学者であった和辻が奈良旅行に行ったいきさつは、和辻自身以下のように書いている。

「今度の旅行も、古美術の力を享受することによって、自分の心を洗い、そうして富まそう、というに過ぎない」
和辻は十分に目的を果たしていると思う。

その後和辻は京都に住み、近いこともあり何回か奈良を訪れている。そして以前に書いた本書「古寺巡礼」の内容が「若書き」で恥ずかしく思い、何回か書き直しをしようと思っていたらしい。

しかし、その機会に恵まれることがないまま本書は絶版となり、日本は戦争に突入していった。その中で、近く出征する身で生還が難しいから一期の思い出に奈良を訪れるから是非にあの本を手に入れたい、との申し出がかなりあったらしい。実際に兵士が懐中にいれていた書籍で一番多かったのが本書であった。

それらの申し出により、和辻自身は「古寺巡礼」を稚拙で恥ずかしいのであるが、逆に「若い情熱」がそこにあり、「幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである」と気が付いてもいる。

「古寺巡礼」には人を頷かせる古美術への蘊蓄は少ない。その点だけで言えばガイドブックにはなり得ないだろう。ただこの本を読めば、和辻の「若い情熱」に触れることになる。「若い情熱」には勢いがある。時として高揚し時には落胆する。その高低差が大きな波を作り、読む人を押し流す。

それにしても和辻の感受性とそれを語る率直な態度には、読むたびに圧倒させられる。特に好きな箇所は「中宮寺」木像半跏思惟像(弥勒菩薩像)の箇所。少し長いが下記に引用する。

「わたくしの乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特のものではないかと思われる。これより力強いもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を現すもの、情熱を現すもの、それは世界にまれではあるまい。しかし、この純粋な愛と悲しみのとの象徴は、その曇りのない純一性のゆえに、その徹底した柔らかさのゆえに、おそらく唯一のものといってよいのではなかろうか。その甘美な、牧歌的な、哀愁の沁みとおった心持ちが、もし当時の日本人の心情を反映するならば、この像はまた日本的特質の表現である。古くは「古事記」の歌から新しくは情死のの浄瑠璃に至るまで、物の哀れとしめやかな愛情とを核心とする日本人の芸術は、すでにここにその最もすぐれた最も明らかな代表者を持っているといえよう。浮世絵の人を陶酔させる柔らかさ、日本音曲の心をとかす悲哀、そこに一味のデカダンの気分があるにしても、その根強い中心の動向は、あの観音に現された願望にほかならぬであろう。法然・親鸞の宗教も、淫靡と言われる平安朝の小説も、あの願望と、それから流れ出るやさしい心情とを基調としないものはない。しかし、ここにわれわれが反省すべきことは、この特質がどれほど大きくのびて行ったかという点である。時々ひらめいて出た偉大なものがあったとしても、それが1つの大きな潮流となることはなかったのでないか。」

凄い誉めようだと思う。しかし和辻が感動したのはなにもこの「中宮寺」の仏像だけではない。薬師寺の聖観音を拝観したときはさらに強い気持ちをもって語っている。法隆寺五重塔を移動しながら観賞する事で、そこにあらたな「美」を発見したときの語り方は、まるで子供が新しい遊びを発見した時と同様の感じが出ている。

また僕が本書を読むときに感じることの1つに、日本人特性を見いだすことにより、そこに1つの「型」を形成し、はめ込もうとする和辻の気持ちである。それは後年「風土」を執筆し、日本人特性を「モンスーン型」とした事に繋がっていくのかもしれない。現代であれば、そのように「型」にはめ込められる事に抵抗を感じる方も多いと思う。僕もその1人である。
ただ、仏像鑑賞により自分を含めたものの再発見を行う方法を創造したのは、和辻の「古寺巡礼」が最初だったし、その後の和辻の研究も同様に彼の独自性をもって、新たに切り開いたものが多いと聞く。

和辻の考えに対する批判があれば、それは純粋に学問の立場で論じるべきだと思う。しかし、戦後に行われた和辻批判は、彼の尊皇に対する戦争協力への批判のそれであった。
しかも、和辻が切り開いた道を継承するものは少なかったのではないだろうか。勿論この「古寺巡礼」を除いての話だが。

ちなみに多くの方が書いている奈良旅行記で、「古寺巡礼」の文字をタイトルに挿入している書籍は、概ね和辻の本書に影響を受けていると考えても良い。

僕も実は和辻の書籍で読んでいる本は「古寺巡礼」の一冊のみだから、あまり偉そうなことは言えない。以前に「風土」を読もうと試みたが、半分もいかない内に頓挫してしまった。いわば僕にとって和辻は、一度登ろうとして力不足で引き返した数多ある偉大な山脈の1つである。ただ、本書だけは何回読んだかわからないのではあるが。

亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」は、「仏像は語るべきものではなく、拝むものだ」との発心から出発している。和辻が「古寺巡礼」での姿は、あくまで古美術としての観賞でもある。僕が仏像を拝観するとき、亀井の考え方に近いと思う。ただ、どちらの書籍を奈良仏像鑑賞の友にするかと聞かれれば、僕は躊躇することなく和辻の書を選択する。

現在「古寺巡礼」は岩波文庫で読むことが出来るが、内容は初稿のままではなく、昭和21年の改訂版によっている。当初和辻は大幅に改訂する予定ではあったが、本記事にもあるように「若い情熱」を大事にする考えに代わり、大幅な改訂は行っていない。

追記:
高校時代、中宮寺の木像半跏思惟像は「古寺巡礼」を読む前から書籍の図版で知っていて、とても美しい仏像だと思っていた。それがこの本を読んで益々好きになった。奈良に出かけた時は是非とも拝観しようと思っていた。

実際に中宮寺でこの仏像の尊顔を拝した時の感動は今でも覚えている。息が止まるほどに美しかった。ただ、その時の気持ちの中に、本書から受けたイメージが僕の中に残っていたことは間違いないと思う。

拝観者はその時僕1人だけだった。その中で初めに受けた興奮が納まると同時に、僕の中で静かな気持ちと、色々な思いが浮かび上がってきた。
それは和辻が受けた印象とは違っていた。人は優れた仏像と対峙するとき、その仏像のことを語るようでいて、実際は自分のことを語っているとおもう。
僕も自分のことを考えていたようにも思える。

偽り無く言えば、高校時代の僕は自分のことを自由人として意識していた。物事に執着し囚われることで不自由を感じる事であれば、囚われないことが自由なのではないのだろうか、等と考えていた。
それがこの仏像の思惟する美しい姿の中で、そう言うことを考えること自体が、なにか愚かなことのように思えてきたのだった。

弥勒菩薩は56億7千万年後に現れる仏様でもある。途方もない未来の話から、時として反体制の理由にもなってしまっている(下生信仰)。
ただ僕は、この思惟する姿にこそ、この仏様が僕達に示すものがそこにあるような気がしてならない。

思惟とはただ単に「考える」事ではないように思える。惟るとは、思い見るとの意味でもある。さらに思が付くことで、「深く根本を思い見る」という事になるのであろう。「考える」より「思う」事、その意味の違いを知る必要があるのかもしれない。
そう言うことを含めて、この仏様は現世の僕たちに教えようとしている気がしている。

2004/12/19

バイクが戻ってくる

警察から電話があり、証拠として警察署に保存されていたバイクが戻ってくることになった。と言っても、戻す時期とか手筈についてはこれからの話となる。

実は期待していたことがある。一度警察に電話したときに、盗賊団から押収したバイクの部品が全てそろっているかを確認するために、警察でバイクを組み立てるという話があり、それを事前に聞いていたからだった。でもどうも検察側がそれを了承しなかったようで、バイクは解体された状態のまま、戻ることになる。

つまりは、バイク屋と僕自身が段取りを決め、バイク屋に輸送し組み立てを行う必要が出てくる。正直言ってこれはかなり痛い。多分全てに数十万円かかる事が予想される。まだ警察には引き取りの連絡をおこなっていない。寒いこともあり、年末年始も間にはいることから、来年1月中旬くらいを目処に考えている。

しかし、ここにきての出費は痛い。盗賊団が捕まったのはうれしいけど、被害者にとっては二重三重の痛手になる。たかがバイクでこうなのだから、さらに重大事件の被害者のことを考えると、大変な思いをされているのだろう。

バイクで事故を起こした時と、今回の盗難は少し違う。目の前にいきなり車が現れ、急ブレーキ、そして転倒。この時は、事故当事者である車の運転手の方の顔をみて、話をする事が出来た。その事で相手の人柄と状況も理解でき、その中で、相手へのわだかまりとか怒りの気持ちも自然と時と共に霧散していった。

でも今回の盗難は加害者と僕は一切会っていない。当然に僕の気持ちは、この件では宙に浮いたままでもある。一度気を晴らすためにも、警察に頼み盗賊団の1人にあって、この気持ちをぶつけてみたい気持ちにもなってくる。

2004/12/18

ドラマ「アイムホーム」をみて感じたこと

NHK総合テレビで、月曜日から木曜日の夜11時から15分間連続放送していたドラマ「アイ’ムホー ム」が今週に終了した。原作は石坂啓さんの漫画で、以前に読んだ事があった。人気のあった番組だった様で、既にDVDでの販売を期待している声がサイトの 掲示板に現れている。僕も毎回欠かさず見ていた。とても面白く、久しぶりに、毎回見終わった後で、次回が楽しみになるドラマだった。あらすじはサイトの「ここ」を見て下さい。

番組が終了し、大したことではないけど、思うことが幾つかあった。総じて言えば、ドラマは本当に面白かったし、見ていて感動するシーンもあった。でも正直言えば、感動する部分で時折目を背けてしまう自分を見つけたのも事実だった。

このドラマのキーワードは、良く言われている事だが、「砂」だと僕も思う。エンディングテーマと共に流れる映像は「砂男」と「砂の家」だったし、主 人公の家では、いくつもの「砂時計」が効果的に使われていた。さらにこのドラマで多分、脚本家が一番に言いたかった事のイメージとして「砂曼荼羅」が登場 しているし、火事で燃えてしまった家の中で、主人公が砂(多分、砂時計の砂)の中から家族との思い出の写真を手に入れている。また、主人公の最後の心の旅 の時に、砂浜で家族の姿を描き、深夜に波でその絵が崩されるシーンもあった。

火事跡の家で写真を手に入れる場面では、写真の上に貯まっている砂は、まるで砂曼荼羅の様に様々な色をしていた。その前に、主人公が記憶を取り戻し たく、その方法を医者に尋ねた時、医者は「砂曼荼羅」をみせ、こつこつと丁寧に砂を敷き詰めて完成させる「砂曼荼羅」と家族を作り上げていく姿は同じでは ないかと、主人公に言っていた。その砂曼荼羅の様な砂の下から家族の写真が出てきて、それと同時に主人公の記憶が蘇る。

「砂」で造られた多くの物は、もろくて崩れやすいイメージを持ち、印象は悪いと思う。それを逆に、だからこそお互いの気持ちと意志が必要と言ってい る事に共感を覚えた。また「砂曼荼羅」で世の無常を語るのは、一般的だと思う。ただ、砂の一粒を我々に見立て、無常であるが故に今を一所懸命に生きよう、 と主人公が思う事に多少の無理を感じた。しかし、それもドラマを見終わると、そう感じたことも主人公にとっては、その場面の1つの「覚悟」に過ぎなかった のではと思う。

ドラマの小道具は色々とあった。「仮面」「電話」などが代表的かもしれない。
「仮面」は原作の漫画と同じデザインだった。「仮面」は、主人公が家族を他人と見てしまう心象であるが、逆に「仮面」は家族とその親に対してのみ現れるのを見ると、そこから主人公が家族を家族として見たくない気持ちが表れているようにも思えた。

この場合、離婚して別れた家族への罪悪感が、今の家族に対して「仮面」をつけさせたのではないのだろうか。いわば「仮面」は主人公が自分に与えた「罰」だったのかもしれない。
主人公が離婚した妻に心から謝り、前妻もそれに応えてから仮面は現れなくなる。
主人公は、現在の妻と子供に愛情を抱き、幸せの気持ちを持つほど、自分を傷つけていたのではないかと思うのだ。

「電話」は主人公と家族を繋げる糸口と、逆に孤独感をあらわす物として使われている。特に駅の改札口の雑踏の中で、周囲の人達が電話で帰宅を告げて いるときに、主人公は帰る家がないことを痛切に感じ、孤独の中にいる事を実感する。この場合、周囲との対比によって主人公は孤独を感じている。孤独を感じ ると言うことはそう言う物なのかもしれない。
でも何故僕はこのドラマを見て、面白いと思ったのだろうか、また、感動するシーンで目を背けてしまう理由は一体何だったんだろう。

「面白い」と思ったのは、このドラマの主人公の気持ちに共感する部分が多かった、と言うことだと思う。
例えば、帰るべき家がなく、自分を見失い、街を当てもなく彷徨う気持ちは、それが実際面で同等ではないのだが、僕にも共感が持てた。

主人公を見て、周囲の人達は「過去には何もない」「これからが大事なんだ」と言う。でも主人公は失った過去にこだわり続ける。それは「過去」が「現在」に繋がっているからであり、「現在」の幸せを得るために「過去」が必要だからだと思う。

最後に前妻は主人公に向かって「今側にいる人を大事にしてあげて」と伝える。その一言で主人公は今の家族と生きていく覚悟を決める。でも今の妻から言われる言葉は、「それでも貴方は私を愛していない」だった。必要なのは「覚悟」ではなく「愛情」だった。

「愛情」はお互いの「優しさ」と「思いやり」で築き上げていく物なのかもしれない。「築き上げてきた」過去の記憶がなければ、今共に住む女性を愛する事は出来ない。
「今を大事に生きる」とは「過去も大事」にすると言う事のように思える。勿論、これらの解釈は僕の個人的な感想だけど、その考え方に共感したのかもしれない。

また主人公が記憶を失ったことも、比喩的に思えてくる。脚本家の浅野妙子さんは、以下のように言っている。

「アイ’ムホームは記憶喪失で家族との過去を忘れてしまった男の物語ではありません。あたりまえな日常の中で、毎日、家族の顔を見失い続けている私たち自身の物語なのです。」


大事な物は失って初めてわかる、と言うことなのかもしれない。でも出来れば失う前に、わかりたいと思う。

僕が目を背けてしまった理由は、実はよくわからない。気が付いたら自然に目を背けていた。照れくさかった、と言うのもあると思う。昔から、「感動す る」「感動させる」物に対して、素直になれない部分が自分にはあるのも認める。感動させる場面での演技が、白々しかったと感じたのかもしれない。色々な事 がそこにはあるのだと思う。

ドラマは後半になるに従い、主人公が泣くシーンが多かった。「男が泣く」と言うことに、現在では好感を持つ人が本当に多くなったと思う。実は僕もそ の1人だ。でもそれが「自分が」ともなると話は別なのかもしれない。どうも、僕はドラマの中で主人公が泣くシーンの時に目を背けていたようだった。多分、 ドラマに共感しても、主人公が泣く事に共感して泣きたくない気持ちがあったのではないか、と今では思っていたりする。

記事の内容であるドラマ「アイムホーム」の感想は、あくまで僕の個人的意見です。
本記事ではあらすじは書いていませんので、ドラマの事が知りたい方はサイトをご覧下さい。ちなみに、僕もこの番組のDVD化を望む1人です。

ドラマ中に登場する「仮面」は亀有工房製造とのことでした。
最後に記録として、本ドラマの概要を記載します。
原作・・・・・石坂啓
脚本・・・・・浅野妙子
制作統括・・・一井久司
演出・・・・・真鍋 斎
音楽・・・・・吉保 良
出演者
家路久・・・・時任三郎
清原カオル・・紺野美沙子
家路ヨシコ・・戸田菜穂
清原スバル・・星井七瀬
岡田杏子・・・佐藤仁美
清原健児・・・石田靖
高木亮一・・・内場勝則
竹田社長・・・ぼんちおさむ
祥子・・・・・千堂あきほ
山野辺俊・・・陣内孝則
2004年11月15日開始
2004年12月16日終了
全20話

高松宮さまのご逝去に謹んで心から哀悼の意を表します

「高松宮妃喜久子(きくこ)さまは18日午前4時24分、敗血症のため東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。92歳だった。」(朝日新聞から)

「喜久子さまは入院中、つらさを見せず病院の職員らに気配りされていたという。山口医師は「がん治療を専門にし、多くの人を見てきたが、皇族としてでなく一人の患者として印象に残りました」と振り返った。」(産経新聞から)

明治・大正・昭和・平成を気丈に率直に生きてこられた高松宮さまのご逝去に、謹んで心から哀悼の意を表します。

2004/12/17

見よぼくら一銭五厘の旗

花森安治さんのエッセイ集を古本屋で見つけた。非常に丁寧な装丁で昭和46年の発行にもかかわらず、 新刊同様の美しさだった。昭和46年発刊当時で1200円という値段の本は、現在ではいくらくらいで売られることになるのだろう。多分想像できないほど高 いに違いない。それを古本屋では1000円で売っていた。花森さんのエッセイを読みたかった僕にとっては、「どうぞ差し上げますから持って行って下さい」 と言わんばかりの値段だった。
花森さんのエッセイの中で特に知られているのが「見よぼくら一銭五厘の旗」だ。それは前回のブログ「花森安治のエッセイを読んで感じたこと」で紹介した言葉が載っているエッセイでもある。

「ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ 」

一銭五厘とは赤紙の葉書代の事で、軍隊中に花森さんが言われ続けた言葉でもあったらしい。

「貴 様らの代りは一銭五厘で来る 軍馬はそうはいかんぞ 聞いたとたんあっ気にとられた しばらくしてむらむらと腹が立った そのころ葉書は一銭五厘だった 兵隊は一銭五厘の葉書でいくら でも召集できるという意味だった (中略)そうか ぼくらは一銭五厘か そうだったのか〈草莽(そうもう)の臣〉〈陛下の赤子(せきし)〉〈醜(しこ)の 御楯(みたて)〉 つまりは〈一銭五厘〉ということだったのか」
 花森さんはさらに「一銭五厘」とは「庶民」である君ら(つまり僕ら)であ ると言う。そしてこの国の歴史を振り返ると言い方は変わるけど、結局は「一銭五厘」の扱いを受け続けているという。それが敗戦になり、民主主義と国民主権 となってもそう変わるものではない。何がいけないのか、誰がいけないのか?
「どうしてこんなことになったのだろう 政治がわるいのか 社 会がわるいのか マスコミがわるいのか 文部省がわるいのか 駅の改札掛がわるいのか テレビのCMがわるいのか となりのおっさんがわるいのか もしも それだったらどんなに気がらくだろう 政治や社会やマスコミや文部省や 駅の改札掛やテレビのCMや となりのおっさんたちに トンガリ帽子をかぶせ ト ラックにのせて 町中ひっぱりまわせば それで気がすむというものだ それが じっさいは どうやら そうでないから 困るのだ」
 花森さんはそれを自分の中に住む「チョンマゲの野郎」が悪いという。「チョンマゲの野郎」は小利口で争いを好まず自己保身的な心の事を言うのだろう。その心がその都度に姿を現し、暮らしが悪い方に流れるのを止めていないからだと述べている。

こ のエッセイを掲載した発端は公害問題であった。水俣病、光化学スモッグで庶民が苦しむ様をみて、とっくに暮らしを維持する限界を超えているとして、限界に 戻す為に、はっきりと言おうと宣言した。その為に、かつて一銭五厘で今は7円の葉書を使って「困っている」と行動と意志を示そうと提案している。

この「見よぼくら一銭五厘の旗」は花森安治にとっては「暮らし主義宣言」だと思う。
何故今頃僕はこの「宣言」を気にして、ブログにMEMOとして掲載するのであろうか。それは、花森さんがこの「宣言」を書いた時と現状は何も変わっていない事の「発見」がそこにあったのは間違いない。

誰 もが感じる事。主権とは権力を有する者達をいう。封建時代であれば、主権は王様にあり、王様は望むことを領民達に対し権力を行使することが出来た。国民主 権であれば、僕らが昔の王様の様な権力を有していて良いと思うが、そんな感覚は一切ない。勿論、多くの人が王様となり権力を行使すればとんでもない事にな るのは当たり前の話だけど、この主権と僕らが実際に感じる事の隔たりはいったい何だろう。

国家権力という。昔から権力を行使するのは国家 であったのかもしれない。国家権力を制限するために「憲法」があると僕は思っている。ただ、憲法は色々な解釈が出来てしまうので、国家を実際に運営する側 は、その時のご都合主義で色々と変えていってしまい、後になればそれが例となり、それが本筋に変質してしまっている。またそれらが法律という形になって、 逆に僕らを制限する。

これが企業であれば、企業理念は創始者かそれに準ずる人が作るので、そうそう混乱は起きない。解釈について混乱が起きたとしても、彼らの生き方と考え方より推測できるので、そこから原点に立ち戻ることが出来る。
僕はこの場で「憲法改正」の話をしているつもりはないが、日本の憲法はその部分が決定的に欠けているような気がしてならないのだ。

花森さんの時代に較べると、現在はより問題が顕在化しているように思える。勿論現在の問題は花森さんの時代にもあった話だと思う。それは見えなかっただけの 話かもしれない。様々な問題も、突き詰めて言えば技術とか特定の個人の問題ではなく、社会の問題だったりする。ただ、その問題の本質まで突き止める前に表 層だけ捉え、「理解できない者」への対処に奔走している。奔走に駆り立てるのは、僕の中に住む「チョンマゲの野郎」であるのは間違いない。僕の中の「チョ ンマゲの野郎」を動かすのは簡単だ。必要以上に不安感を持たせればいい、ただそれだけだ。

花森さんの「チョンマゲの野郎」は必要な行動を 止めようとする。でも今は、もう1人の「チョンマゲの野郎」がいて、こいつは逆に奔走する。それはネットというツールを与えられた結果、僕の中で抑えられ ていたもう1人の「チョンマゲの野郎」が活動を始めたのだと思う。僕はこの2人の「チョンマゲの野郎」と対応して行かなくてはならない。それがやっかい だ。多分、この2人を表に出さないようにするには、よく「考える」事と、「勉強」する事しかないのかもしれない。

「見よぼくら一銭五厘の旗」はここに全文掲載されています。また関連サイトとして「暮らしの手帖」のサイトはここです。

2004/12/15

花森安治のエッセイで感じたこと

たまたま入った喫茶店に置いてあった1冊の雑誌。まるまる一冊が花森安治さんの特集だった。様々な方 が花森さんの思い出を語りながら、彼の人となりを評していた。また以前に書かれた花森さんの文章も何編か載っていたので、少しだけのつもりで読み始めた が、気が付くと少し長く読んでしまっていた。花森さんが亡くなられたのは1978年1月なので、既に26年の歳月が流れた事になる。掲載しているエッセイ はそれなりに古い、しかし何故か内容は古さを感じなかった。その中で僕は情報という物を考えてしまった。

子供の時の僕はどちらかというと内向的で、友達もそんなに多くはいなかった。ただ、友達となれば、とことん深く付き合う方でもあったので、自然と親 友と呼べる友人が各時代毎にいた。その中でも一番古くそして長く付き合っている友人のお母さんが、雑誌「暮らしの手帖」の熱心な愛読者だった。彼の家に遊 びに行くと、居間に無造作に積まれた「暮らしの手帖」の姿を思い出す。それも発刊月毎に整理されている訳でもなく、しかも積まれた姿は向きも表裏も関係な かった。それは一種のオブジェのようでもあった。友人のお母さんが「暮らしの手帖」を居間に無造作に積んでいたのは、彼女が無精だからではない。高く積ま れた「暮らしの手帖」に載っている記事の1つ1つが、彼女にって「暮らし」の中で必要な情報でもあった証だったと思っている。それほど「暮らしの手帖」か ら得られる情報は、その当時鮮度が高く、かつ数年で失われる様な内容でもなかった。

それに較べて今の僕たちの情報はどうだろう。人はより新しい情報を求めてネットを彷徨う。勿論その中の1人に僕はいる。毎月何らかの雑誌が創刊さ れ、商業的に利益が得られない場合は即座に廃刊となる。また、雑誌は読むとすぐに価値は失われゴミ箱に捨てられる。それはまるでネットで得られた情報が即 時に鮮度を失い、パソコン上のゴミ箱に捨てられていくのと同じ状態の様に思える。今ではバーチャルもリアルもその点では殆ど区別は付かないかもしれない。

では僕等の暮らしは変わったのであろうか?異様に早い情報の生死サイクルにあわせて僕等の暮らしも同様のサイクルになっているのであろうか?
暮らしは花森さん曰く、休みなくフル稼働を続ける機械のような物だそうだ。フル稼働をし続けているので、一旦停止して改善とかチューニングは簡単にできな い。その事を花森さんは「まずいみそ汁」を作り続ける主婦を例えて話をしていた。「まずいみそ汁」を美味しくするコツは知っているし、改良も可能だ、味噌 も具もダシも色々な種類があり、それらをどう組み合わせればよいかは、人に聞くか料理レシピの本を読めばいい。でもそれを知ったからと言って、明日からの みそ汁が美味くなることは殆どない、と彼は述べて先ほどのフル稼働の機械を使って説明し、それが日々の「暮らし」という物だと言っている。

今では花森さんが述べた事が妥当でないことを僕は知っている。みそ汁のダシは即席で色々なタイプの物が出回っているので、不味ければ明日から違うタ イプの即席ダシを使えばよい。良かれ悪しかれ現代社会はコンビニエンス社会でもあるのだ。それだけであれば、フル稼働中であっても味を変えることが出来 る。ただ、彼が述べた「暮らし」の本質の部分については変わらないように僕は思える。

僕等は毎朝満員の通勤電車に乗り、昨日と同様の仕事場に行き、時には熱く時には醒めて日々に見舞われる様々な仕事の事象に対応し、そして残業の後で 仲間達と酒を飲み、もしくは恋人と語らい、少し疲れた足取りで家に帰る。仕事の悩みを持っている方もいるだろう。もしくは家の問題を抱えた方もいるかもし れない。多かれ少なかれ人が生きていくと言う事は、それなりの問題を抱え込むと言うことだ。そういう「暮らし」から現代の情報の生死のサイクルを見たとき に、なにか得体の知れない不安を感じてしまう。

それは例えて言えば、行き先不明の高速列車の中で日々の生活をしているような感じに近い。列車の中では変わらぬ毎日がある。でも行き先は誰も知らな い。時折、行き先を知りたく列車の窓から表を眺める。高速で移動しているので、遠くの景色ははっきり見えるが、近くの景色は崩れて何がなんだかわからな い。時刻表も地図もない。ある人は一日中列車の窓に顔をつけて外の景色を眺めている。そして時折発見した事を僕に伝える。そしてそれを元にみんなで議論を する。そんな感じに近い。

そのイメージをさらに考えてみると、その列車に乗車したのは僕の意志だろうか、それとも否応も無しに乗せられているのであろうか、と言う疑問がわく。その問いについて、僕は「多分」を前置きにしてだが、自分の選択の結果であると即答できる。

列車の窓から見える景色は、情報としては薄くすぐに価値がなくなる。ただ情報は常に眼前に現れるので、サイクルが短くても問題ではない。勿論、情報 はそこに意味がなければただのデータにしか過ぎない。でも様々な人がデータに触れることにより、誰かしらそこに意味を見いだす。
でも「暮らしの手帖」の情報が、友人のお母さんにとって長く色あせない物であったのは、彼女が暮らしていた時代が今より変化が少ない社会であっただけでなく、元から情報の質がそもそも違っていたからなのではないだろうか。
質が変われば、同一のデータが元であっても、そこから複数の情報が発生する。逆に言うと、現代は過去に較べ、確かに情報の量は膨大になったが、膨大になっ た理由の1つはデータが情報に変換される際に、そこに当然あるだろう意味づけと分析・解析などの処理が薄く、不必要に1つのデータから複数の情報に別れて しまったことも要因としてあるのでないだろうか。
花森さんの一連のエッセイを読んで、漠然と僕はそんなことを考えていた。

「ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ 」

上記は花森さんの言葉である。暮らしを基準にして物事を考える思想家でもある花森さんは、自らを常にジャーナリストとして位置づけていた。自由な物 言いを行うために「暮らしの手帖」では一切のスポンサー広告を載せていない。それは今に至るまでポリシーとして脈々と流れている。だから、かつて多くの読 者は「暮らしの手帖」が掲載する各種家電の評価テストを信じた。隔月刊のサイクルは情報の質を煮詰めるには短い期間だったことだと思う。

現在の僕は政治家の答弁と同様にメディアの言動にも信頼を置いてはいない。多分多くの方がそうだと思う。TV・新聞などで流れる情報は、一般視聴者 とスポンサー企業にへつらう物ばかりの様に見える。つまりは社会の気分にあわせて造られ、それがさらに視聴者の気分を増長させているかのようにも思える。 それは、ジャーナリストとしての評価より、社内の評価を大切にする方向に流れる現体制では、致し方ない事なのかもしれない。ただ、僕は現代だからこそ「暮 らしの手帖」の商品テストのようなジャーナリズムを望んでしまう。サラリーマン化したジャーナリスト達は自分の暮らしを守るために表現を抑えてきたこと が、結果的に大局で自分の暮らしを脅かす結果になりはしないかと考えていることだろう。嫌々、人のことは言うまい。僕も彼らと同様の輩であることは間違い ないのだから。

そう言う意味では、体制側にいて書けなかった記事、言えなかった言葉をブログというツールを使って表現できるので、今後は本当の意味で情報の取捨選択が出来る時を迎えたのかもしれない。
自分のことを言えば、出来れば自分のブログにおいて、記事をネタと思わずに書いていければと思う。

2004/12/14

YahooBBがADSLで勝った理由の考察

僕が以前の記事「来年のビジネス書ベストセラーとADSLで得た教訓」で書いたADSLの事につい て、幾つか誤りがあった。それはADSL技術の事を革新技術と位置付けた事だ。実は書きながら自分としては釈然としない思いに囚われていた。それは ADSLは革新技術と言えないのでないかという思いであった。少なくとも「イノベーションのジレンマ」で定義する「破壊的イノベーション」の定義とは違っ ているのは理解していた。ただ、それしかYahooBBに多くの通信事業者が負けたという事の理由が思いつかなかった事もあり、安易にそれに飛びついてし まったのも、否めない本音の部分であったのも間違いない。そこで、あらためて考えてみた。実を言うとまだ筋として煮詰めきっていない部分もあるが、覚書と してブログに掲載する事とした。

まず「破壊的イノベーション」の定義からか見ていこうと思う。破壊的イノベーションはローエンドに品質は多少落ちるが安価な製品として登場する。そ の製品業界の大手にとって、ローエンド向け商品は利益率が低いので、新たに登場した安価な商品に対抗する以前に撤退を行い、より利益率の高い商品に資本分 配を行う方向に向かう。技術の進歩により、破壊的イノベーションの商品の品質は上がり、ローエンドから少し上のランクの顧客に対して販売を行うと、ローエ ンドと同様に撤退を行い、最終的には大手大手企業は負けることになる。

その図式にADSLは適合はしない。まずローエンドに向けての技術ではない。ADSL技術が日本に登場した時、常時接続はフレッツISDNのみで あった。多くの利用者は固定電話回線でのダイアルアップによる帯域での利用だった。そしてダイアルアップによる接続は固定電話の通話料が発生する従量制課 金であった。ネットの利用はその有効性が認識されていた事とブームもあり急速に利用者数は増加をたどったが、それでも全体から見ると一部の利用者の範疇 だったと思う。これについては適切なデータを持って説明すれば良いのであるが、それはご勘弁いただきたいが、概ね認識は合っていると思う。

ネットの利用率が高い顧客はフレッツISDNを利用していた。その顧客の不満は上り下り双方の転送速度が遅い事だった。そこにADSL技術が登場した為、まずはネット利用率が高い顧客が移行したと思われる。ただ料金は高かった。

ここで言いたい事は、ADSLはローエンドに向けての安価なサービスではなかったという事である。その時点で、ADSLは少なくともローエンド方破壊的イノベーションではなかったということができる。

その当時の事をさらに振り返ってみたいと思う。モデルとして企業群を3つに振り分ける。
まずA群としてプロバイダー、B群としてADSL回線事業者、CとしてYahooBBに振り分ける。A群にはNTTを含む通信事業者がそこには含まれる。B群はイーアクセス、ACCA、フレッツ網等のADSL回線事業者である。

まずA群はADSL登場時、ダイアルアップとISDNのゲートウェイを全国に展開し、さらに展開を推し進めていた。また時期主力とみなされていた光ファイ バーへの検討も順次行っており投資は増えてきていた。ダイアルアップのゲートウェイを増加するには事前の数ヶ月前にNTTに工事許可を行う必要があり、年 間を通じて計画は既にあり、それに向けて進めていた。つまり投資配分は既に決まっている状況であった。これは通信事業者の常識であり、後述するB群にもそ れは通用していた。

そこにADSLが登場する。当然にA群は自前設備か他社網を利用するか選択を迫られることになる。自前設備は莫大になるため、ダイアルアップ等の設備計画が確定している中での選択は、ダイアルアップがある程度売り切れたらとの消極的な作戦に出る事になる。
その時はフレッツ系しか他社回線網の選択はなく、自前も一部のプロバイダで計画はあったが受け入れられる顧客数は少なかった。

またA群にとって、ADSLは光ファイバー迄の暫定的技術の認識が根強くあり、ADSLにシフトするモチベーションも少なかった。一部のネットを頻 繁に使う利用者がADSLを暫定的に使うとの認識も営業側にはあり、売り方としてはダイアルアップユーザで月使用料金がADSLを超えている顧客の移動促 進がメインと考えているところもあったように思われる。

そこにB群企業が登場する、B群企業はA群企業にとって、当初渡りに船だった。またB群企業は自前でプロバイダ事業を計画するところはなく、あくま で回線提供者だった事もA群企業との相性を良くした。B群企業は新たに誕生した会社群であったが、経営社層、及び資本関係は殆ど通信事業者からの転進また は資本を受けての設立だった事もあり、設備計画に関する認識はA群と同様であった。逆に同様であったので、回線提供事業者としての存在理由をそこに見出 し、起業となった感も否めない事実だと思う。

これによって、A群は大いに販売をする機会が得る事ができたが、それでもなおB群に対し年間設備計画の提示が求められ、急な増強には十分に答える事 はできなかった。ただ、同じ通信事業者の感覚もありはじめの頃は概ね関係は良好だったと思う。これにより、A群はランニングコストはかかるにせよ、その分 は顧客から徴収すれば良く、その他への投資配分を崩す事は免れたかのように思えた。

YahooBBが登場する。YahooBBは回線とプロバイダの双方とも持ち現れた。戦略は単純だった。つまり、NTTへのADSLの口を一気に押 さえたこと、それにより一気にサービスを全国で提供した事、常時接続と安価な事を中心に街の至る所で宣伝活動を始めた事、などからわかるように、いまだ ネットを利用した事がない顧客を対象にした事だった。またYahooBBには光ファイバーに移行する事は当初全くなく、幾つかの無料提供と安価なイメージ 戦略で、ネット利用にコスト面から抵抗のあった未利用顧客の取り込みに資本配分を全て注いだと考えられる。

A群にとって、ADSL顧客は新市場にはなく、既存利用者からの移行であった。この点が大きく違っていた。A群にとってあくまで新市場は光ファイ バーを使っての、コンテンツ事業であったのだ。YahooBBが新規顧客を取り込みが行われている時、A群起業は手をこまねいて見ていたわけではないが、 設備計画にその発想がなかったため、計画変更する手間がかかり、なおかつ通信事業者の常識がそこには流れさらに方向変更に時間がかかった。なおかつ既に NTT設備面はYahooBBが押さえている現状もあり、しばらくは営業的にも力を注ぐ事ができなかった。

これらの点を見ていくと、僕にとって次の事が浮かび上がってくる。
まず、ADSLはローエンド型破壊イノベーションではなく、技術としてはダイアルアップ接続の持続的イノベーションと位置付けられる。
しかし、売り方の点から見ると、YahooBBは未利用顧客の積極的展開からみて、新市場型破壊イノベーションと言えるように思える。しかし、これはあくまでADSL技術でなくYahooのビジネスモデルがということになる。

前回ではビジネスモデルについてもある意味批判的と受け取れる意見も書いたのは事実である。この場を借りてお詫びをしたい。

ただ、この記事に書いてあることも、一つの推測に過ぎないことは間違いない。推測における誤りがわかれば順次訂正をしていきたいと思う。

2004/12/13

「気品」についての雑文

3高伝説が崩れてから久しい。かつて安定を求めて銀行に就職した人も、今のような状況に陥るとは想像 もしなかったのではないだろうか。お金も、社会的な地位も、学歴も、美しさも、若さも、形のある物はいずれ朽ち果てていく。だからこそ、少し前に「心の時代」とも言われたのだろう。でも「心」ってなに?ってことになる。ここでは脳科学からの「心」の分析も、心理学・社会学からの「心」の事を語ろうとは思わ ない。僕が思うに大事なことは「心」の解明ではなく、「心」を育てることだと思うのだ。そして「心」を育てる1つの方向として「品」とか「気品」とかがあ るように思う。

年をとっても「気品」を持っている方がいる。誰でも1人は思いつく方がいるのではないだろうか。勿論、そう言う場合「気品」は外見からの判断でしか ないのだけど、内からにじみ出る何かがあり、それが見る側に「気品」を感じさせる様にも思える。そう言う方と出会い言葉を交わすたびに、「気品」は朽ち果 てることがないんだなぁと思ってしまう。

「品」「気品」がどうやって育つのか、正直僕には即答は出来ない。それらは多分だけど、今の学校教育で育つとも思えない。また「気品」はモラルとか道徳心は大事だと思うが、声高に「モラル」を叫ぶ人の姿に「気品」を感じることも少ないのも事実だ。

実際に「気品」のある人は、「気品」を意識する事は少ない様に思う。こうやって「気品」の話をすること自体、論外なのだと思う。それは僕が「気品」 を持っていないことの現れだと思う。だとすれば、自分の持っていない事、もしくは僕の「心」が望む美しさを言うことが「気品」に通じることなのかもしれな い。

映画で「気品」をキーにして思い浮かぶのは「ローマの休日」「マイフェアレディ」の2作。「ローマの休日」は登場人物の殆どが「気品」を持っている人達だった。「マイフェアレディ」は「気品」の育て方として見れば別の解釈が出来るのかもしれない。

日本文化として「茶道」「華道」「柔道」「剣道」等々、「道」をつけている物が多い。「道」である限り出発点と到達点があると思う。「到達点」につ いては僕は未熟なのでよくわからないけど、「出発点」は概ね「形から入る」と思う。「形から入る」事は日本の知恵の1つだと思う。まず「気品」のある人を 思い返してみて、その人の立ち振る舞いを真似することから始めるのが「気品」への道かもしれない。そうすることで、これは想像だけど、道の過程の中で「気品」を持つことが出来、「到達点」は思いもしない素晴らし何かを得られるような気もする。それは例えば茶道で、最初に作法という形を学び、それを続けるこ とで身に付き、1つ1つの動作に知らずに品がでるような感じに似ている。でもそれは茶道の到達点ではない。そう言う意味では「気品」は目的にはならない。 目的はもっと別な物だと思う。逆にそれに近づくことで「気品」も自ずから身に付くのかもしれない。勿論、それは茶道とかに頼らなくても、何気ない日常でも 可能な話だと思う。

「気品」には幾つかの種類があるようにも思えるけど、一番は「自然な気品」の様な気がする。「自然な気品」は人によっては、幼い頃からでる時もあるかもしれない、でも多くはある程度の年齢は必要な気がする。そして「自然な気品」を持っている方は概ね美しい。

「気品」を考えるとき、そこには色々な条件があるように思える。例えば僕が思う条件とは、こんな感じだ。

TPOにあわせた清潔感を持った服装、物とかにこだわらない、人前で興奮して声高に話をしない、人の話をちゃんと聞く、話はちゃんと正面で相手の目を見 る、挨拶はきちんとする、微笑みを忘れない、姿勢は常に美しく、人の悪口は言わない、人に攻撃されたとき過敏に反応しない、相手を尊重した会話をする、非 常時に冷静でいる、他人の領域にむやみに立ち入らない、自分を守るために相手を攻撃しない、自分の言葉と行動に責任を持つ、自分の足りない部分を物とかで 補わない、無意味なおしゃべりは慎む、影で人の悪口は言わない、思い通りにならない時相手にそれをぶつけない、会話はウィットに富んで知性がある、人を差 別しない、卑屈にならない、潤いのある生活・・・・等々

多分これらは人によって違うかもしれない。ただ思うことは、これらの条件をいくら持っていても、その総和は「気品」に繋がらない事もあると言うこと だ。ただ、この条件を1つ1つ意識して行動することは大事なことだと思う。それはまさしく「形から入る」事でもあるのだから。これらのあげた条件でさらに 思うことは、自分を持つと言うことが大事なのだろうと言うこと。自分を持つことは、場所とか人によって変わるような相対的なことではないと思う。自分に付 いている物とか形とかをそぎ落としていった時に、最期に残るものが自分の姿なのかもしれない。そしてその姿に自信を持つことが大事なことだと思う。

自分とは他人とか物とかが与えてくれる評価ではないと思うけど、ただ、人とのコミュニケーションを通じて、逆に自分がわかる事が出来るし、さらにそこに「気品」があるかないかがわかる様な気がする。

さらに言うと「気品」もまた1つの条件になるかもしれない。なんの条件かはうまく言えないけど、それは気高さとか誇りとかそう言うものかもしれない。

「気品」「品」は物にたいしても使われる。それは「気品」の条件が、そのものに対しても備わっているように見えると言うことだろう。例えば「出しゃばらなくても、自分を十分に表現している姿」をそこに見るとか。そして、多くの人がある物に対し「品」があると判断すると言うことは、逆に「気品」の条件 がいまだ共有化している事の証なのかもしれない。そんな感じがする。

何か偉そうなことを沢山書いてしまった。でも冒頭にあるように、僕が自分自身に足りないと思っていることを、ただ書いたに過ぎない。出来れば「気品」テーマに書く無粋な奴と思ってご容赦頂きたい。

2004/12/12

ニールヤングからのとりとめない話

ニールヤングが 大好きだ。自分がどのくらい彼のCDを持っているのか試しに調べてみた。そしたら17枚のCDが出てきた。自分でもビックリした。そのCD一枚一枚を見て みるまでもなく、実はヤングと同じ時間の中で聞いた曲は一曲もない。全部後から購入した物ばかり。ヤングを聞き始めたきっかけはパールジャムから。パール ジャムと競演した「ミラーボール」が何とも素晴らしかった。その時にパールジャムが何となく萎縮して演じている感じがして、逆にヤングが目立ってしょうが なかった。「何だこれー、ニールヤング凄い!」これが始まり。だからかなり遅れてきたファンと言ってもいい。まぁいつもの事ですけど。
それから彼の足跡を逆にCDで辿る事になるのだけど、やはり一番ヤングと馬が合うのは、文字通りクレージーホースだと思う。そのクレージーホースと の競演で一番好きなCDが「sleeps with angels」。そしてこれが僕にとってヤングのベストと言うことになる。勿論、曲単位で言うと他に も色々とある。例えば「今宵その夜」、なんか深酒かドラッグでかなりイッテしまった感じで歌っているのが、逆にとても良く、聞く度ににんまりしてしまう。 勿論「ハーヴェスト」も「孤独の旅路」も良い曲だけど、凄みの点では「今宵その夜」には敵わない。歌詞を十分に見てないので、何が「今宵その夜」なんだか わからないんだけど(笑。これらの曲は彼の唯一(多分今でも?)のベスト「輝ける10年」の二枚組CDに全て載っている。

彼の評伝も何冊か読んだ。でも愚かにも何年か前に古本屋に売った本の中に混ざっていたようで、今では一冊も手元にない・・・・

でも最近ヤングの曲は聞かなくなってしまった。何故だろう?勿論彼の何枚かのアルバムはiPodに入っているけど、なぜだか聞かない。

最近聴く曲はCoccoとかフィリップグラスの曲で、時折昔の曲で聞きたくなるのがMary Blackさんの「WONDER CHILD」。
彼女はアイルランドの国民的な歌手だけど、歌の中に風景があるような感じがして好きだ。特にこの曲は、僕にとっては名曲。聞き飽きないし、聞くととにかく気持ちが安らぐ。
でも聞く度に、ペギーリーの「ジャニーギター」を思い出してしまう。これも僕には謎の1つ。「ジャニーギター」はB級西部劇「大砂塵」のテーマ音楽で、アランラッドが主演。
この映画で唯一素晴らしいのは、映画の冒頭にカメラが砂漠をゆっくりと写しだし、そのバックに流れるこの曲。勿論、僕はこの映画をTVで見たのだけど、あの冒頭のシーンだけは何回でも見ていたくなる。その部分だけのDVDがでないだろうか?(でないだろうなぁ)

そう言えば昔は映画音楽凄く流行っていたような気がする。今でも勿論同じかもしれないのだけど、以前に比べ映画の絶対数が多くなっているから、特別にこれだけ流行るという映画音楽も少なくなったのかもしれない。
そういえば、今度映画で「オペラ座の怪人」 をやるらしい。勿論音楽はアンドリュー・ロイド・ウェイバー。「オペラ座の怪人」はガストン・ルルーの代表作で今まで何回も映画化されているけど、ミュー ジカルとしての映像は初めてではないだろうか?またロイド・ウェーバー以外のミュージカルもあり、たしか今年日本で開演があったと思ったが、やはりロイ ド・ウェーバーのイメージが強いので、客足は少なかった様な感じを受ける。

親戚が米国に行ったとき、ブロードウェイの「オペラ座の怪人」を見たそうだ。彼は英語が全くだめで、それでも話の種にとの軽い気持ちでの観劇だったらしいけど、最期は訳もわからずただ滂沱の涙(親戚の彼の表現です)だったらしい。
そ れを聞いて、じゃ僕もその滂沱の涙を体験しようと、四季の「オペラ座の怪人」を見に行った。滂沱にはならなかったけど、もの凄く感激した。素晴らしいの一 言。その感動がどこから来るのか未だにわからないのだけど、まぁこういう事に突っ込んで考える事はしない。もう一度見に行きたいと思う。多分、今度は映画 版かな。

蛇足1:でも個人的にはロイド・ウェーバーの中では「キャッツ」のメモリーが一番好きです。

蛇足2:吉祥寺バウスシアターで「大晦日・年越しニール・ヤング爆音ナイト開催!」
「グリーンデイル」「デッドマン」「イヤー・オブ・ザ・ホース」のニールヤング三作を一挙上映するようだ。爆音ナイトというのが笑える。ちなみに「グリーンデイル」はニールヤング初監督作品。

来年のビジネス書ベストセラーとADSLで得た教訓

米国のビジネス書は、既に来年のベストセラーが 決まっているのだそうだ。発売前からベストセラーになることがわかっている本とは「ビジョナリーカンパニー2」の続編である。「ビジョナリーカンパニー 2」は日本でもベストセラーになった「ビジョナリーカンパニー」の続編として2001年の12月に訳本がでた。ただし、この続編は日本での売れ行きは芳し くなかった。それは最初が日本で知られている大手優良企業が対象だったが、続編はあまり馴染みのない企業が多く取り上げられていたからだという。しかしア メリカでは現在に至るまで売れ続けていて、この本の信奉者も多いらしい。

この本では、経営者はカリスマ性でビジョンおよび経営戦略を練るのでなく、まず適切な人を選び、不適切な人は省く事から始めるべきとしている。それ から、業界における企業の厳しい環境の認識を持ち、単純で明快な戦略を立てる。また、人の意見に十分に耳を傾ける社風を育て、後継者を育て、かつ経営者の 代が変わろうとも企業が成長していく土台を作ることが大事と言っている。そしてこれらを行う経営者を「第5水準のリーダシップ」として「種を蒔く者」に位 置づけ、その後に脚光を浴びる経営者を「刈り取る者」とした。そして「種を蒔く者」の方がより偉大な経営者として見ている。

話を聞けばもっともな話だと思う。人材を選ぶ事でその企業の今後が決まると言っても、確かに過言ではないと思う。特に不透明な時代においては良い人 材は何よりの財産である事に間違いはない。問題は、その人材をどうやって選択するかだと思う。本書を読んで、考え方としてでるのが、揶揄もすると金太郎飴 としてバカにされる事への応酬かもしれないと言う事だ。企業文化が強いというのはある一面、同じ雰囲気の社員が多くなる事でもある。それは間違いではなく 企業が成功する為に必要な事である、とこの本は言っているようにも聞こえる。確かに、そのような組織は共有のモラルを持ち、行動に無駄が無く、目的に向 かってパワーを発揮すると思う。

ただ僕は思うのだが、全ての企業は社風と優秀な人材を持ち、ビジョンと戦略を持って、効率よく資産を運営しているのではないのだろうか?少なくとも 現代では、ビジョンおよび経営戦略を持つことは企業として当たり前の事だと思う。また過当なリストラが企業にとって愚かな結果に繋がることも十分にわか り、人材育成に力を注いでいるところが大半だと思う。その上で、なぜ企業に成功と失敗が繰り返されるのであろうか?

皮肉で言えば、現在はビジョン・経営戦略・ビジネスモデルの大流行でもある。職場にいてもこの言葉が聞こえない日はないと言ってもいいくらいだ。ビジョン・戦略・戦術を混乱して使う人も中にはいるが・・・
この状況下で、仮に立ち上げた事業が失敗した時に概ねの人が思うことは、戦略の甘さであり、ビジョンのなさ、と言うことになる。でも果たしてそれだけなのだろうか?

1つ例に挙げると、ADSL事業がある。当初ADSL事業はNTTは乗り気ではなかった。NTTにはISDNという、開発と設備投資に莫大な投資を 行った技術があったからだ。アメリカでADSL技術が流行ったのは、電話線の多くは地中に埋められていたため、光ファイバーなどの設備変更が伴う新技術に 移行しづらさがあった事による。その為に従来の銅線をつかったADSL技術が受け入れられた背景があった。

日本の場合、アメリカでADSLの商業的状況が見えてはいたが、銅線から光ファイバーに移行中でもあり、ADSL技術は1つの過渡的な技術との認識 が強かった。その結果、各大手通信会社のADSLへの歩みは遅くなっていった。それにISDNとの干渉も問題になり、ISDNをやめて一時的な技術である ADSLに変える人も少ない、との認識もあった。そこにADSL設備だけをもつ企業が登場した。イーアクセス、ACCAなどが代表的な企業であるが、彼ら はADSLへの投資に二の足を踏んでいた各通信会社の代わりに設備をもつので、十分に企業として存在価値を持っていた。同時期にNTTはADSL系のフ レッツ網が完成している。

これらの企業群には1つの特色があった。それは全て元々の通信事業者達であったと言うことである。だから、彼らの倫理・考え方に縛られていての行動 をとった。ADSLはNTT局内に設備を設けなければならないが、その工事許可は事前にNTTに対して申請しなければならない。通信事業は設備投資産業 で、莫大な投資を必要とするため、綿密な予測と損益の算出が重要になる。逆に言えば、必要な分しか投資は行わない事になる。

次ぎにADSL事業会社として出てきたのが、YahooBBである。YahooBBは母体をソフトバンクにあるので、通信事業者の持っている論理・ 考え方とは全く異質であった。彼らがまず行ったのは、NTT局内のADSL設備工事の多大な申請であった。そして至る所で行われたキャンペーン販売であっ た。彼らの動きを最初は冷ややかに見ていた各通信会社も、その内あわてることになる。あわててNTTに工事申請を行っても、既にYahooに押さえられて いるので、十分に売ることが出来ない状況に陥ってしまっていた。値引き合戦もYahooが最初に打ち出した。そして気が付けば、後発であったYahooが ADSL業者としてシェアがトップとなっていた。

何故、YahooBBがADSL事業においてトップになり得たのであろうか。各通信事業会社は、各社の優秀な人材を投与してきたと思う。投資もそれ なりに行ってきたことだろう。事業としてのビジョンも戦略も、それに伴う戦術もあったと思う。良くいわれる話が、YahooBBの場合、ビジネスモデルが あったと言うことだ。逆に言えば、他の企業はなかったという事になるが、それも個人的には考えづらい。

「イノベーションのジレンマ」がその答えを示してくれるように思える。「イノベーションのジレンマ」では、技術革新において企業が失敗する理由とし てあげているのが、その企業の成功要因であることを示している。つまり、お客様の声を大事にし、過去における成功から学んだ仕方を踏襲する事が、革新技術 を逃し失敗する原因となると述べている。
また初期の革新技術は、企業にとって旨みの少ない事業として現れるので、収入の多くをえている既存技術に固執せざるを得ず、それも失敗に繋がるとも述べている。

当初、ADSLはISDNから光ファイバーへの過渡的技術と考えていたが、結果から見ると革新技術だった。各通信事業者はADSLを当初旨みのある ビジネスとは考えていなかった。かつ、通信事業者の従来の品質固持の考えと設備投資の進め方に囚われ、十分な対応を行ってこなかった。ビジネスは今後来る 光ファイバーで行われると考えていた事もあるが、ISDNが売れていたこともあった。その結果、彼らなりに従前の予測とビジョンに照らし合わせて進んで いった結果、Yahooに負けてしまったという事だと思う。

上記のケースの時に、はたして「ビジョナリーカンパニー2」の考え方が出来るのであろうか?僕にとっては適用が難しいように思える。
人材の選択もこれらの革新技術の前では意味をなさないように感じる。優秀であり、その企業の理念に忠実な人材は、革新技術の前でも従前の企業の成長を考え、正しい判断を行おうとするだろう。その結果、ADSL事業のように競争に負けてしまう様に思えるのだ。

完全なるシステムは完全なるが故に弱いのだそうだ。その為最新のシステム理論では不完全を良しとするらしい。不完全なシステムは完全を目指す目的の ために動き、その為の存在理由もでてくる。これを人材に例えるのは無理強いかもしれないが、人材においても選択の過程の中で、一部は全く違う人材の選択も 必要なのかもしれない。

しかしそれだけでも足りないと思う。企業は既存技術による成長と革新技術による淘汰とが交互に繰り返されるとした時、革新技術のアイデアを企業の次 の収入源として、育てていく社風が必要になると思う。その為に必要なことはやはり「知識創成」の仕組みを企業内に作ることだと思う。ただ、問題なのは革新 的な素晴らしいアイデアがあったとして、それが企業の経営者層に近づく毎に、受け入れられようとする事から、従前の既存技術と同様の歩み方に変質してしま う恐れがあることだ。

その為には、全く新しい、つまりは革新技術の評価方法手順が必要になると思うが、その評価手順を企業経営者層に認識させなくてはならないだろう。まるで堂々巡りである。

それらの対応は残念ながら「ビジョナリーカンパニー2」にも「イノベーションのジレンマ」にも記載されてはいなかった。

来年出版予定の「ビジョナリーカンパニー3」は一体僕に何を教えてくれるのだろうか。
いまから期待と不安の半分半分の気持ちで待っている。

2004/12/11

五輪開会式「わいせつ」?

間違い探しのクイズがあるけど、これはまるで「わいせつ」さがしのクイズのような内容だ。FCCさん、やってくれますね(笑

「米連邦通信委員会(FCC)が、8月に行われたアテネ五輪の開会式の放送に「わいせつ」な内容が含まれていたとする指摘を受け、開会式を独占放送した米NBCテレビからビデオを提出させていたことが10日分かった。」(河北新報社より

もしこれで「わいせつ」がFCCで明らかになった時って、一体どうなるんでしょうね?
アテネオリンピックのドキュメントビデオが18禁の棚に並ぶ様を想像する事が出来ません。なんか真面目に考えること自体アホらしい話です。
ただ、この「わいせつ」基準がアメリカの難癖の1つになっていくのでしょうか?だとすると、「わいせつ」の箇所を探すべく外務省で真剣に見ている人もいるのかもしれない。
それを考えてまた笑ってしまいました^^

2004/12/10

DDIポケット、日本テレコムの八剱氏を社長に

DDIポケットが誕生したのが、今から10年前の1994年のことだった。実際には当時親会社であったDDI(現KDDI)での検討は1990年か ら行われている。当時検討に中心的な役割を担っていたのが、現在イーアクセスCEOの千本倖生さんだ。事業会社になってからもポケットの中心的な人物で あったが、何故か急な退陣となる。一説には当時DDI会長だった稲森京セラ名誉会長との軋轢があったと噂されている。

その後DDIはIDO、KDDと合併しKDDIとなる。DDIポケットはPHS事業としてはドコモ、アステルを押さえシェアでは常にトップで居続け た。ただし、PHS事業全体が携帯との違いを明確にすることが出来ず、市場では安価な携帯電話の位置づけとなってしまった。その後の携帯電話の値下げ・ i-modeなどの新サービス展開により、携帯に較べ影が薄かった事もあり、事業は先細りとなっていく。いつまでたっても利益を出せないDDIポケットは いつの間にかKDDIのお荷物的存在になっていった。

DDIが発足したとき、新電電3社として他に設立したのが、JR系の日本テレコム、トヨタと道路公団系のテレウェイだった。日本テレコムはその後鉄 道通信と合併し、国際新電電の1つであった日本国際通信と合併、その後様々な変遷しリップルウッドグループからソフトバンクグループ傘下になる。ソフトバ ンク社長は勿論あのYahooBBの孫正義さんである。テレウェイはその後KDDと合併する。

DDIポケット社長から突然の解任の後、DDIを退職した千本倖生さんはイーアクセスを立ち上げる。千本さんは元電電公社時代に技師として世界的に 名を馳せた人だったが、京セラの稲森会長に引き抜きにあいDDIに専務として迎えられた。千本さんと共に電電公社から移った人がDDIとDDIポケットを 育てていった。その中の一人が現KDDI社長の小野寺さんだ。またもう一人小野寺さんのライバルであった種野さんと言う方もいたが、競争に負け退職し今で はイーアクセスの千本さんの右腕として活躍されている。

日本テレコムとDDIポケットは昔はライバル同士であった。そのライバル会社の社長がDDIポケットの社長になる。時代の変遷を感じてしまう。
今年DDIポケットはKDDIからカーライル傘下になり、来年は社名をウィルコムにかわる。

僕のように文章で大まかに語る事は誰でも出来る。ただ、その中には無数の企業人達の営みがある。そして無数の大小のプロジェクトが行われ、成功したものや失敗したもの、それぞれに語り尽くせない物語がそこにはあるのだと思う。勿論それは何処の企業でも同じだとは思うが。

現在の通信会社は固定電話での収入でなく、インターネット、そして携帯電話事業による収入で占められている。それも時代の流れだと思う。勿論、日本 テレコムの社長がDDIポケットの社長になることが、1つの時代の終わりを示すことではない。ただ、ビジネスとして扱ってきた各サービスも、それを作って きた多くの人達にとって、単にビジネスで割り切れるものでなく、その人の人生の一部分をそれに投与してきた現れと思う。そして、この激しい通信業界で DDIポケットに関与してきた人達は、このニュースで一抹の複雑な思いをその胸に去来させたことだろう。

携帯電話事業の後に続く事業はいったい何であろうか?多分それは携帯電話のIP化であり、高速化であり、常時接続化であるのだろう。さらに小型軽量 化し多機能となっていくと思う。それらが社会に与える影響はどの様になるかはわからないが、監視端末の一端を担う事だけにはなって欲しくはない。

雑文 男にとって「堕ちる」とは

田口ランディのアメーバ的日常 」のなかで以前ランディさんはこんな事を言っていた。
(2004年11月11日「どこかで別人として生きたい」から)
「昔 から私の夢は、蒸発して、名前を変えて、年齢を変えて、そうだな……33歳くらいに偽って、どこか東北の方の港町の場末のスナックあたりに住み込みで働 く……というものだ。それで毎晩、男の酒の相手をして、ちょっと気が弱くてセックスのうまい男を愛人にして、自堕落な生活をしてみたい。

で、男に飽きたらまたふらふらと旅をして、気に入った町の場末の(絶対に場末でなければならない)スナックに、名前を変えて住み込む。そして、新しい自分になってまた男と恋愛して、セックスして自堕落な生活を続ける……。」
これっていいいなぁ、と言うのが率直な意見。何となく男性社会での定型的な堕ちる女性の姿そのものって感じがするけど、時として定型は人を安心させるのかもしれない。
これに対する男性の「堕ちる」って?そう、これが今回の僕のテーマです。

最 近の僕は何でもありで、それと共に「堕ちる」というイメージがなくなってしまっている事に気が付いている。これでも昔はちゃんと「堕ちる」イメージを持っ ていた様な気がする。でもそれを現時点ですっかり忘れてしまった。それは僕の基準となっていた「モラル」の変質を意味しているのかもしれない。

例 えていうと、ランディさんの「自堕落な生活」に出てくる相手方の愛人男性のイメージでもないのだ。愛人男性になるのは男にとっては実は大変なことのように 思える。まずは自分を磨かなければならない。その上で遊んでセックスがうまくなっていなければならない。そうでなければランディさんの夢の愛人にはなり得 ないと思う。これも定型イメージに僕が囚われている結果なのかもしれないけど、何となくそう思う。

やくざの愛人男性イメージはビジネス的 要素が強く、これは「堕ちる」以前に脱社会的で世界が違ってくる。「堕ちる」為には「堕ちる」為の世界が必要になっていく。それはあくまで「社会」がそこ になくてはいけないように思えるのだ。「反社会」とか「脱社会」では「堕ちた」とは言えないと思う。それは全く違う話だと思うのだ。社会の中にしがみつき ながら、それでもずるずると堕ちていく感じ。そんな感じがする。

そう考えていけば、ランディさんに飽きられた男の姿に近いような気がす る。この男はランディさんから捨てられた後に、どんな生活をするのだろう。気の弱い男なので、捨てられた翌日は自分がどんな状況にあるのか理解は出来ない んだろうなぁ。等と想像したりするけど、男のその後はどうにもイメージできない。なんともはや妄想力のなさだろう。
逆に言うと定型を僕自身が放棄した時点で、何でもありが、何にも無しに変わっていったのかもしれない。そんなことをつらづら考えてみたりする。

僕 の友人に「性を売る」女性がいる。純粋に友人の一人だ。たまにお茶をしながら話をする。彼女はその都度、「こういう仕事は女性にとって最低の仕事だ」と言 う。僕はただ聴くだけだ。彼女がそう言う状況になったにはなったなりの理由があるし、僕はそれを信じている。でも最終的な選択をして決断したのは彼女なの で、僕にはその事に対して何にも言うことがない。時折、彼女が自分を責めることが、ある意味自分を浄化させているのではと思うこともある。
彼女は美人で頭もかなり良い。夢を持ち、モラル面もしっかりしている。自分で招いたことを自己責任で刈ろうとしている姿に、彼女のいう「堕ちた」イメージを僕は微塵も見ることが出来ない。

してみると「堕ちる」というのは外見を指すことではないのかもしれない。少なくともそれが現時点での僕の率直な感想だ。

以 前に見た映画で、主人公である若い弁護士が、企業の弁護士達に向かい「あなた達はいつから堕ちてしまったのですか?」と聴くシーンがあった。企業の弁護士 達は社会的にステータスを持っている人達だった。企業の悪事を隠すために、あの手この手で策略を巡らす弁護士達の姿をみて、主人公の吐くこの言葉に素直に 同感してしまった。勿論それを言われた方はたまったものではない。当然にむっとしている。映画の中では企業の弁護士達は自分が堕ちている感覚が全くないの だ。

少なくともこのイメージは、先ほどの「社会の中にしがみつきながら、それでもずるずると堕ちていく感じ」にほど遠い。前に感じた事 は、自分に対する内的な「堕ちる」イメージを外部に表現した感じに近いようだ。でも実際は外部に表現するまでもなく、それ以前に「堕ちる」時は堕ちていく のかもしれない。勿論それは自己のモラルに照らし合わせての話だから、人によって変わるとは思うけど。

冒頭に戻って、ランディさんの文章をあらためて読んでみる。そこで彼女が「自堕落な生活」と言っているが、それが自分が「堕ちる」事とは一切言っていないのに気が付く。
どうやら僕は「自堕落な生活」=「堕ちた」と独り合点してしまったようだ。彼女の自堕落な生活には、えもしれぬ安らぎがあるように感じ、それが男性だった時、具体的にどういう事なのかを考える事で始めた記事だけど、一種のループに入ってしまった感じがする。

別 の見方をすると、愛人男とランディさんの生活は「情念」の世界のような気がするし、「情念」から無理矢理離されてしまった男に、その後は何も無いような気 がするのだ。まるでオスがメスの生殖の為だけに存在するかのような虫の世界に似ている。でも人間の世界も似たり寄ったりなのかもしれない。一般に夫婦では 女性の方が長生きするし、仮に女性の方が先に逝った場合の夫である男性の寿命は短いとの統計もでている。夫が先に逝った場合、妻の方は活き活きと生活をし て行くのと対照的だ。

もしかすると、ランディさんの夢の生き方は女性でしか出来ないのかもしれない。男の場合、どうにも色気がない話だ が、「堕ちる」とは映画の様な悪徳企業弁護士の姿でしか表せないのかもしれない。そして男は「堕ちる」と同時に、すぐに社会から飛び出し「脱社会」に向 かってしまうのかもしれない。そんな気がしてきた。

ただそんな風に考える僕にも、1つだけ例外がある。それは石田吉蔵だ。吉蔵はあの阿部定の相手だけど、4月27日から5月18日迄の吉蔵の生活は、ランディさんの夢に匹敵する「自堕落な生活」のイメージに近いかもしれない。それに吉蔵が死ぬことで終わることも、僕にとっては男性の「堕ちる」を象徴しているような気もしてくる。
追記:「堕ちる」とか「自堕落」の言葉にロマンチシズムを感じるとすれば、そこに抗うことの出来ない運命の不条理さを見いだしているからだと思う。
そしてロマン主義以外の見方も当然にそこにはあり、それは自己責任における選択の結果という見方だ。どちらを選ぶかで、人生観も変わると思う。
「堕ちる」には基準が必要だと思う。それはその人のモラルによるものだろう。だから、実際には人の評価でなく、自分がそう思うことで、それは始まるのだと思う。
モラルの崩壊と言われて久しいが、僕にとってはモラルは崩壊するものではない。それは変わっていくものだと思う。モラルの崩壊というのがあるとすれば、それは過去において「共有」したモラルの事を指すのではないだろうか。

2004/12/09

満腔の怒り、それでも・・・

北朝鮮側が提出した遺骨がDNA鑑定で横田めぐみさんと違うことが明らかになった。横田さんの今まで に受けてきた暴力とも言える、数々の北朝鮮からの仕打ちに対して、言葉を失う。横田さんの言葉である「満腔の怒り」に強い意志を感じる、と同時にその「満 腔の怒り」がTVを通じて僕に伝染してくる。さらに、娘さんである横田めぐみさんの生存を確信する横田さん夫婦の姿に、親の愛情の強さを感じる。めぐみさ んが戻り、横田さん家族に平安の日々が再び訪れる事を願わずにはいられない。

その横田さんは北朝鮮への経済制裁発動を政府に強く要望している。北朝鮮との交渉での不誠実な対応と一向に解決の兆しを見せない状況に、別の仕方による新たな展開を求める気持ちはわかるような気がする。

でも「満腔の怒り」が伝わっている僕ではあるが、「経済制裁」の発動は慎重に行うべきだとの考えは変わらない。理由は幾つかある。勿論、国際政治に疎い僕の意見なのですが・・・

まず、経済制裁が的確に効果を出すとは思えない点だ。メディアには「北朝鮮は不誠実な国だ」「ねつ造する国」「北朝鮮は悪」「常識では考えられない 国」といった言葉が出てくる。この場合、北朝鮮という国のイメージは「金正日」個人と、金正日を将軍様として讃える体制と、一部の利権を貪る国家権力に携 わる人達の事だと思う。
経済制裁の目的が早期拉致事件の解決が目的であれば、その制裁がこれらの人達に対し、効果的でなければいけない。しかし、過去において他国が行った制裁に 効果があった例を僕は知らない。逆に北朝鮮のような体制であれば、そのしわ寄せは多くの北朝鮮国民に流れると思う。かつ、北朝鮮国民がその結果、現状より 辛い状況に陥ったとき、体制側がそれらを経済制裁を行った国に理由を求める結果になる様に思える。その結果、拉致問題解決の早期解決はさらに遅くなるので ないだろうか。

北朝鮮の国民にしわ寄せが出来たとき、脱北者が増大する事も予想される。その受け入れの体制は日本には十分には整備されていないように思える。多くの脱北者があり、それらが韓国の一国だけの受け入れが不能なとき、日本はどうするつもりなのだろう。

北朝鮮側は制裁によって追い込まれる時、制裁に反対する国も当然ながら出てくる。おそらく中国、ロシア、もしくは韓国だと思うが、それらの国は北朝 鮮に歩み寄る事で、日朝6カ国会議における、ひいては今後の東アジアにおける発言力を高めようとすると思われる。その結果の先々の日本の立場はどうなるの だろう。

そもそも北朝鮮が追い込まれたときに、「悪」「常識では考えられない」と言われる国がどの様な行動をとるのだろうか?その事自体予測不明でもある。
経済制裁の対象国が行う側と同じ論理であれば、予想可能であろうが、今回の相手は、メディアを含め多くの方が言うとおりであれば、そうではない。テポド ン、ノドンの射程距離は日本全土を覆っている。そのリスクの可能性はゼロと言えるのだろうか?少なくとも僕にとってはゼロではない。

アメリカが北朝鮮に対し強い態度でいられるのは、強大な軍事力の背景があるが、地政学的に距離が離れている事もあるように思える。なにしろ、最大射 程のテポドン2でさえ、アラスカに届くのがやっとなのだ。韓国が「太陽政策」を続け、北朝鮮に対し「同胞」とメディアを通じて言い続けるのは、「同胞」で あるのは事実としても、僕には現在休戦中となっている、朝鮮戦争の傷が相当に深い事の裏返しに見えてしまう。彼らにとっては、北朝鮮の少しの動きにも敏感 なはずである。韓国に日本の「経済制裁」がどの様な影響を与えるのだろうか?
しかも追い込まれた結果、休戦でなくなったときに、多くの犠牲者が出るのは韓国であろう。また当然にミサイルは日本にも飛んで来る。

またその際に、脱北者というよりは数十万規模の難民問題も当然に出てくると思われる。日本は国際圧力から受け入れをせざるを得ない状況になることだろう。

そんな状況はあり得ないと、思われる方も多いことだろう。その理由としてアメリカの軍事抑止力があると思う。確かに日本はイラク派遣を担保にアメリ カの国際政治に加担しているでの、確かにそれはあるかもしれない。多くのイラク国民を殺す事に加担する事が、北朝鮮から身を守ることにつながるという考え 自体、薄ら寒い思いがする。でも僕は北朝鮮問題とイラク問題を日本において繋げて見てしまう。

アメリカ無しでも、北朝鮮が追いつめられても戦争状態に持ち込むような事にはならないと考えている方もいるかもしれない。その場合、中国・ロシアが 許さないと思うのであろうか?ただ、現代の戦争は以前のような常識にとらわれる事が出来なくなっているように感じる。例えばアメリカのイラク侵攻の様に。 あれはアメリカと言う国の特別な状況下で起きたことだろうか?
少なくとも現時点で、北朝鮮を見るときに、その考えで決めてかかる事は僕には出来ない。

国際政治は緻密な戦略を練っての行動をとらなければならないと思う。その際、あらゆる可能性からリスクを算出し、その中で国益にかなった行動が求め られるはずだ。その戦略を担うブレーンが小泉政権では誰なのかわからないか、今回の「遺骨のねつ造」における対応についても、十分なリスク計算を行い、確 固たる方針を決めて欲しいと願う。決して、その時の国民感情だけで決めて欲しくはない。

北朝鮮にとって最も脅威を感じる国はアメリカである事は間違いないと思う。北朝鮮はアメリカに自分たちの体制を脅かさない様な約束を取り交わしたいと考えているはずだ。
今回、北朝鮮主導で行われたと言われている「日本の過去清算を求める国際連帯協議会」で、日本の過去の清算を求める決議がでたが、それは日本の制裁処置が 他国に過去の侵略行為をだぶらせる効果を狙った要素もあるのでないだろうか。それは日本の経済制裁をある程度怖がっているとも言える。
日本は、「遺骨のねつ造」と「経済制裁」のカード、および「アメリカ」へのパイプ役になり得るとのカードをうまく使い分けて臨んで欲しいと思う。
僕としては、6カ国会議で本議題を話し合って欲しいと願う。その為に必要なのは、アメリカ以外の3カ国にも理解を求めることだろう。
時間がかかるが、話し合い中心の進め方の方が、まだ予測可能で確実に思える。

問題は国際政治における戦略を練れるかどうかの手腕にかかっているのであって、「経済制裁」はその手腕のなさを他国に見せる事にしかならないように思える。

携帯電話にWindows


「KDDIは12月8日、2005年日本国際博覧会(愛知万博)向けに開発した情報端末「愛・MATE(アイメイト)」を公開した。OSにWindowsを採用した国内初の携帯電話端末となる。(CNETより抜粋)」

アイメイトは「ブルー」と「オレンジ」の2種類あり、通信機能があるのはオレンジの方だ。ブルーは入場券に埋め込まれた「ミューチップ」の読み取り ようとして使われるとのこと。ちなみにミューチップとは日立製作所が開発した無線機能を持った超小型のICチップで、紙に埋め込むために限界まで小型化し ている。愛知万博では入場券に埋め込まれるようだ。

通信機能がつく「オレンジ」の写真がCNETよりに掲載されていたが、手袋をつけて紹介しているのが、何となく面白い。なにか手袋をする理由でもあるのだろうか?

今回OSにWindowsを採用した結果、開発環境やソフトウェアが充実している為、開発期間が半年から1年間ほど短縮できたと言うことだった。確 かに愛知万博にむけて短期間での開発の選択肢としては正しいのかもしれない。でも背景として、LinuxやシンビアンOSを使用しなかった理由に、ドコモ とボーダフォンの影も感じる。ドコモはFOMAでLinux、ボーダフォンは702NKでシンビアンOSを採用しているからだ。
でも、今回は愛知万博のイベントのみの携帯端末なので、そこまで考えるのは考え過ぎかもしれないが・・・。

愛知万博での利用者の感触をみて、今後の製品として展開するかを判断するらしい。ただ、イベントでの反応をまつまでもなく、利用者の目からみると、現行見えているスペックだけでも気になる点がいくつかあるのも事実。

KDDI担当は「見た目はケータイだが、中身はパソコンと思ってもらっていい」と喋っているが、多分この言葉の持つ意味を、この担当は深く考えていないのも事実だと思う。
つまり、パソコンと定義する段階で、パソコンの持つポジティブな面と同様にネガティブな面も引き込まれ、それが携帯電話会社であるがパソコンメーカーでな いKDDIにたいする不安の面も助長される結果にならなければ良いと思うのだ。一番のネガティブな面として避けられないことは、当然の事ながらウィルスへ の対応だと思う。

携帯専用OSとして育ってきたシンビアンOSにも、一時ウィルス騒ぎがあったことを覚えている。特に今回はWindowsである。ネットのITサイ トを見れば、毎度出てくるのがWindowsの脆弱性とウィルスの記事だ。それへの対応はどうなるのであろうか?ウィルスチェックソフトを別途購入して下 さいって事になったら笑える。

パソコンと同様に、各種アプリのインストールと周辺装置の接続が可能となっている。そこで気になってくるのが、マンマシンインターフェースの部分。 つまり人が入力する際の仕方が気になる。従来と同様の数字部分を何回か押しての入力だと、対応仕切れない状況も出てくるのでないだろうか?
PDAと同様に、画面にペンを使っての入力も良いかもしれないが、画面の大きさを考えると、それも利用者としては遠慮したい気持ちが強いだろう。

それから、連続通話時間は150分、連続待受時間は30時間もパソコンとしてみても、携帯端末としてみても短いように思える。

多分この携帯端末は事業化したとき、対象顧客はビジネス利用を行う人達になると思う。OSの事を考えると、それなりの能力が必要なので、価格も高く なる事だと思う。まさしく、担当者が言いたいことは、この価格への伏線だと認識している。ビジネス向けであれば、当然に費用対効果の面で、この端末を利用 することへのメリットと使い方の提案を今後行ってくれる事も期待している。

ただ日本の通信会社で一番苦手な部分が、この新たな価値観の提言である様な気がする。できれば、使い方はお客様の方でご自由に考えてください、との突き放した事だけは止めて欲しいと思っている。

月下美人

リンカさんのブログ「★ Rinka * Diary ★」に月下美人の写真。とても艶やかでまさしく美人だと思った。人に聴くと、サボテン科の花で一晩しか咲かないのだそうだ。
昭和天皇が太平洋戦争前に台湾に行かれたとき、この花を見られてお近くの人に「この花は何ですか」と聞かれたそうだ。その時「月下の美人です」と側にいた人が言い、それからこの花が月下美人として広まったらしい。
それよりも気になったのは、月下美人は花の後に、食することが出来るらしい。
「花を食べる」で最初に僕が思い出すのは「菊」だ。特に東北の食用菊はおひたしにして食べると本当に美味しい。
月下美人は一体どんな味がするんだろう。香りが芳醇だというので、味と共に香りも楽しむことが出来るのだろうか。
リンカさんはおひたしにして食べたとのこと。羨ましい限りだ。
月下美人は、花が咲くまで5年かかるらしいが、咲き始めると1年に4回咲くと聞いている。この美しさを、月明かりの中で堪能し、後日舌で味わう。これって花と団子の両取りだ^^。僕も育ててみたくなってきたけど、性格的に花を育てるのは難しいだろうなぁ(笑

2004/12/08

ガラスの仮面の新刊発売

「盲亀の浮木」とはこの事だと思う^^
ガラスの仮面の新刊が発売する。しかも全編描きおろしとのこと。41巻目がでてから実に6年。正直言って未完で終わると思ってました。新刊が出るとは全く思わなかった。全くあり得ないことはないが、それに近い希有な事・・・・盲亀の浮木(笑

適切ではないのはわかるけど、僕にとって新刊が出るのは、そのくらいの可能性でした。

すでにもう関係ないと思っているファンも多いんでしょうね。でもきっとその人達も、本音では気になっていると思うから、買うか、借りるか、漫画喫茶で読むかするんだろうなぁ。
僕?はい想像通りです(笑

そう言えば「ガラスの仮面」の食玩が発売されたと聞いて思わず笑ったことも、最近のことでした。

2004/12/07

RMTという仮想世界での現実

ネットゲームの種類にMMORPG(以下 ネットRPG)というジャンルがある。数百人から数千人が 同時に遊ぶネットワークRPGのことで、プレイヤーは、自分もしくはシステム側が与えた目的をもって仮想世界の中で生活する。多くの様々な人が集まるの で、他のネットゲームよりはコミュニケーションを楽しむ事が大きな要素ともなっている。僕は1年くらい前から、その1つである「MU 奇蹟の大地」(以下 ミュー)というゲームで遊んでいる。

最近そのミューを含むネットRPGで話題を呼んでいるのがRMTの話だ。RMTとはリアル・マネー・トレードの事で、仮想物品を実際のお金で売り買いする事を意味する。
RMTは殆どのネットRPG運営会社が「利用規約」の中で禁止事項として扱われている。その理由は、仮想世界に現実の貨幣を持ち込む事により仮想世界そのものの価値が崩れる事とだと思う。

ネットRPGの開発コストは一般PCゲームソフト(コンシューマソフト)の開発期間より短いとされる。
それはネット開発がベータ版と言われる評価版から、ゲームプレイを無料として、多くのプレイヤーによる公開テストを順次行い、テスト期間を短縮する方法をとっている事が大きいと思う。開発期間短縮は開発コストに跳ね返り、ソフトの投資回収期間にも影響を与える。
回収期間が短いと言っても、それはコンシューマソフトに較べての話で、一般には約2年と言ったところかもしれない。勿論それは参加者を多くする事で短期間 化することは可能であるが、その為にはゲームのバージョンアップによる新機能の追加を強いることにもなり、それによる開発行為により回収期間は、さらに延 長することになる。

つまりネットRPG運営会社側の戦略としては、新規参加者の増加と、参加者が出来るだけ長い期間を遊んでもらうことにつきる。
新規参加者獲得については、新規登録時に一定の無料期間を設け、敷居を低くしている。また特典を付ける事もあるが、数多くのネットRPGが既にあり、かつ 新たなゲームが頻繁に登場する状況下では、新規参加者の増加はかなり難しく、一人あたりの獲得コストをみても高くならざるを得ない。
尚かつ、ネットRPGのゲームシステム上においても新規獲得は難しくなっている。何故なら、多くのネットRPGは敵であるモンスターを倒すことにより得ら れる経験値を積み重ね、レベルアップを行うことで、さらに強くなり、また仮想世界での移動可能世界が広がるので、新規参加者は従来の参加者に較べて差が歴 然となり、ゲームを行うモチベーションが上がりづらい事。および、従来の参加者が既に仮想世界の中にコミュニケーションを楽しむグループを形成している が、新規参加者はそれらのコミュニケーショングループに入りづらさがある事、等があげられると思う。

結果的にネットRPG運営会社は、新規参加者増加も視野に落とせないが、力点を従来参加者の継続利用に持って行く事になる。ここでいう従来参加者とは、評価版もしくは課金開始当初からの古くからの参加者のことを示す。

従来参加者がネットRPGを続ける理由として、仮想物品を時間をかけ苦労して手にする達成感と、目的と仮想現実の中で話題を共有する事により得られるコミュニケーションの楽しさにあると思う。
RMTは、上記のような、仮想世界の中で楽しむ従来参加者の達成感を阻害する事につながるので、ネットRPG運営会社にとって重要な禁止事項になっていく。

ただしRMT行為自体は現行法的には違反行為ではない。個人同士の合意による売り買いの範疇であるからだ。著作権の問題を指摘する声もあるが、結果的にそのシステム内でしか使用できないので、現行法での規制では難しいように個人的には思える。
結果的に、ネットRPG運営会社で出来ることは、登録された参加者が違反行為を行った場合の即時登録抹消くらいしかなく、しかもRMTでの取引はメールな どで行うことが多い為、ネットRPG運営会社では違反者の特定がきわめて困難な状況にある。さらに特定者が見つかり、登録抹消を行っても、再度登録は可能 となっている。

しかもRMTがネット運営会社の利用規約上で違反行為となっていても、それの位置づけは登録抹消の理由の1つでしかない。また法的には違反行為でないので、当然にRMTに対しても擁護派と否定派の双方の価値観が出てくる事になる。

擁護派の言い分としては、元々ネットRPGシステムには不公平があり、その中で楽しむためにはRMTは必要であるとの認識だと思う。不公平な部分と は、前記のように概ねネットRPGは経験値を得ることでより強くなり世界が広がるが、同時に敵を倒すことで得られるアイテムも貴重で高価な物となる。また システム自体は参加者の長期継続利用を戦術としているので、レベルアップにはそれなりのプレイ時間が必要となってくる。その為、プレイする時間がない会社 員などは、多くの時間をプレイに費やすことが可能な人達に、プレイ以前に差が付いてしまうことになる。その時間差の部分をRMTで補うと言うことになる。

それに対する否定派の言い分は、RMTによる仮想現実世界の崩壊につながる事への危機感となる。RMTを行う者は、ネットRPGの中で仮想物品の取得が中心的となる。効率よく仮想物品を取得するために、BOTもしくはチートの利用につながる。
BOTとは道具・もしくはマクロにより、本来人が操作しなくてはならないキャラが無人で敵を倒し続ける事。
チートはネットRPGシステムにおけるセキュリティの脆弱性をねらいネット上を流れるデータを改ざんし自分に有利な方向に持って行く事である。
この両者とも当然の事ながらネットRPGの中では禁止されている。

その他に外国人労働問題がある。外国人労働問題とは外国から日本のサーバに入り、RMT目的で仮想物品を取得しようとする問題で、時として人を雇い 組織として行動を取ることも多い。彼らにとっては自国でRMTの話を行うより、貨幣価値の高い日本でRMTを行う方が効果があることになる。

これらRMT目的の人達は、目的は遊びではなくビジネスになる傾向があるので、仮想物品を得る事に対し、成果と効率を追求する事になる。
ネットRPGでは敵(モンスター)が発生しやすい場所が幾つかあり、当然に人気スポットとなっている。RMT目的の人は、仮想物品取得が目的なので、他プ レイヤーへの迷惑行為を意識する事が少ない傾向にある。例えば、人気スポットの独占、他プレイヤーが占有している場所の横取り、その為のPK行為等で、そ の結果他プレイヤーがゲームを楽しむ事を妨げる状況になっている。

さらに、RMT目的の人は様々な仕方で仮想物品を収集する事になり、仮想世界の中においても富の独占が起こる事が予想され、その結果仮想世界のバランスが崩れる事にもつながる。

RMTが横行するネットRPGは、上記の結果、従来参加者の自主的退会が多くなっていく傾向になっていき、最終的には運営会社がゲームを続けることが出来なくなると、否定派は言い分として持っていると思う。

しかも、ここにきてネットRPG運営会社にとって、RMT行為以上に問題となる事が発生してきている。それは「ハックサーバー」の存在である。
ハックサーバーとは、ネットRPGのプログラムとプロトコルがハッキング・解析され、勝手に無料サーバーが立ち上がってしまうことだ。
元々ネットRPGがコンシューマーソフトより有利な点として、不正コピーが出来ない事があげられていた。「ハックサーバー」はこの前提を揺るがせている。

ネットRPG運営会社にとって、僕が思うに、「ハックサーバー」の乱立の可能性はRMT行為より脅威に感じているはずだと思う。
それは、前記の内容の通りに、参加者は新規より従来参加者が多いと思われ、他の競合ゲームも多いことから、新規参加者の大幅増加は期待できない。
よってビジネスとして利益を求める為には、ゲーム参加者を増やす為にゲームが出来る国を増やすことになる。元々ネットRPGのビジネスプランではグローバ ル展開が盛り込まれていて、それがバージョンアップ開発および運用費への増分支出根拠ともなっていると思う。かつグロバール展開の前提として不正コピー不 可があることに間違いはない。それが崩れるとしたら、ビジネスプラン全体が成り立たなくなる恐れが出てくる。

ネットRPG側からみると、RMT行為によるリスクは増大傾向にあるにせよ、全体から見るとまだ無視できる状況にある。それにRMTにおける問題の 難しさは、運営会社側での対応が難しい事なので、彼らにとっては法律の整備を期待するところが大きい様に思える。尚かつ、仮に日本での運用が失敗に終わっ ても、その他の地域で元を回収できれば問題はない。ネットRPGゲーム自体がプレイヤーにとって入れ替え可能であれば、逆にネットPRGゲームにとっても プレイヤーは国単位で入れ替え可能なのだ。
ただし「ハックサーバー」はそう言うわけにはいかない為、彼らにとってはRMT行為より脅威に感じる結果になる。

ただ見方を変えれば「ハックサーバー」の存在はネットRPGゲームへの不満がその動機にあるように思える。「ハックサーバー」への対応は技術問題へ 移行しがちではあるが、本質的な問題点を分析し、今後のゲームへの対応に生かされない限り、所謂「モグラたたき」的な状況になるだけで、真の解決には至ら ないように思える。しかも「ハックサーバー」への問題重視へのシフトの結果、残るは置き去りにされたプレイヤーとなるのは目に見えている。

上記の様な状況下で、僕はそれでもミューを楽しんでいる。実際の所、僕にとってはRMT行為もハックサーバーも無縁な存在だ。結果的に僕のキャラは 常に貧乏でもある。これをいわば「清貧」と言うのだろうと、一人自己満足になっている感もあるが、僕がゲームに求めているのがコミュニケーションを楽しむ ことでもあるので、それが気にしない大きな理由でもあると思う。仲間達とパーティーを組んで一緒に遊ぶことは本当に楽しい。そう言う僕が、ミューを背景に したネットRPGゲームを語ること自体に問題があるのかもしれないが・・・

僕が思うに、RMT擁護派とRMT否定派の双方の意見が擁立する事自体、価値観が違うので、当然のことだと思う。それら双方を否定するつもりはな い。僕にとって問題となるのは、プレイヤーとして楽しく遊ぶ環境が脅かされる事だが、それ以上に個人的に気になるのは法律による規制への動きだ。

プレイヤーとしての僕は、楽しく遊ぶ事が脅かされる事象の背景として、RMTの存在を認める。よって心情的にはRMT否定派に近い。
ただ、それ以上にRMT否定と擁護の2者選択を心理的に強要する環境が嫌いである。勿論、ゲーム上においては、まだそこまで至ってはいないが、全体の気分の盛り上がりとして、そこに流れる可能性を感じてしまう。
なぜ遊びで、どちらかに決める必要があるのだろう。それを求められる時は、僕は第三の選択肢としてある「ゲームをやめる」を選ぶだけの話だ。一緒に遊ぶ仲間達を除き、ゲーム自体は僕にとって入れ替え可能だからだ。

RMTは実際ネットRPGの草分けである「ウルティマオンライン」が始まった時から行われていると思う。それでも未だに「ウルティマオンライン」は 存続し続けている。ネットRPG運営会社から見ると、ビジネスプランの中で過去の経験からRMTについては盛り込み済みと考えられる。そして現行の状況で は、多分許容範囲内なのだろう。それが許容限界値近くになると法規制への動きになって現れると思う。

RMTは、詐欺行為およびその他の犯罪の温床になる可能性があると、指摘される場合があるが、それらは現行の法手順での解決が可能だと思う。なおか つ温床の規模が広がる可能性も否定できないが、現実的に考えてみて、他のネット利用と較べると個人的には広がるとは想像できない。

その中でRMT規制を法案化しようとする動きが、各ネットRPG運営会社側にある。僕はこの規制法案に付いては全面的に反対である。勿論どういう内 容を考えているのか、現状では全く不明であるが、規制を与えることにより、その他のネットの健全な利用も阻害される可能性が十分に考えられるからだ。

それにミューを中心に考えると、最近運営会社自体が始めた「RMTもどき」のサービスがあるが、これについてミュー内では批判を行うプレイヤーも多 い。僕にとっては「顧客囲い込み」のサービスの一環であって、ビジネス的には著作権を所有する仮想物品を売ること自体、問題のある行為ではないと思ってい る。
問題はミューにおける利用規約との整合性の問題とプレイヤーからの批判に対し何も行わない事だと思っている。
最近ミュー公式HPではプレイヤーからの批判が多いため、掲示板を閉鎖した。そして閉鎖の理由も明らかにされていない。過去においても、バージョンアップ延期を行った際に、プレイヤーの能力値不足を理由に挙げていた事もあった。
これらの事を考えると、ミューの運営会社は体質的に被害者意識が強い様に思えてしかたがない。その被害者意識の強さから、法規制に流れる事は容易に想像できる。

僕にとって、ミューを前提に考えると、運営会社にとっては問題が山積みだと思うが、まずやらなくてはいけないことは、プレイヤーに根付いた不信感を晴らすことだと思う。外部要因の不安材料があるにしても、まずは内部要因への対応だと思う。
多くのビジネスが内部要因への対応不足から潰れていったことを忘れてはならない。

2004/12/05

貴方は血液型による性格を信じますか?

僕は占い、星座、血液型等による性格判断とかが大好きだ。自分が判断に迷うときとか占いで決めるときもあるくらいだ。それに血液型判断はコミュニケーションの道具として有効だと思うし。
ところが血液型の性格判断もテレビなどで多く取り上げられると、懸念を表明する人も多いようだ。
(毎日新聞 「性格決めつけ」視聴者から抗議相次ぐ」)

その記事にあるように、子供らの中で不当な差別につながる事は避けなければならないと思うが、それは血液型の番組が問題なのだろうかと、つい思ってしまう。

人が生活すると、自分にとって嫌な奴と一緒に仕事をする事も出てくる。もしくは、好きな人でも嫌いな部分もあると思う。その時に、血液型は自分を「とりあえず納得させる道具」になっている。少なくとも僕の場合はそうだ。
また、僕はしないけど、人から「B型のこの部分が嫌い」と言われる場合も、血液型を緩衝させることで、言いたいことをソフトにさせる効果があるように思える。

しかし記事に書かれていた社会心理学教授の「大衆の常識のように定着してしまった」には思わず笑ってしまった。思わず言いたくなった言葉。

「先生方は大学の中だけでしか社会を見ていないのかもしれませんが、一般の人達は貴方が思っている程愚かではありませんよ。誰もが科学的根拠がない ことは知っています。多くの人達はそれらの話をコミュニケーションを潤滑に行うための道具として活用しているだけです。先生はその様に言うことで、ご自身 の生活の糧の領域を増やそうとされているのかもしれませんが、心配には及びません。先生方が活躍する場所は、世の中いくらでもありますから。」

僕は血液型による不当な差別が実際にあったとしても、それは単なる「引き金」でしかないと思っている。引き金を安易に提示すること自体が悪いことだ と言われればそれまでだけど。ただ差別したい対象がいる場合、する側はなんでも利用するのではないかと思ってしまう。問題は別の所にあるのではないのだろ うかと思う。それに必要なのは、差別を生む社会学的、心理学的な見地からの提言であり、それに基づく対応の検討だと思う。その為には、局所の対応でなく、 社会全体を捉えて、その中から本質を見抜く必要があるのではと、愚考している。

それが社会学者・心理学者の役目だと思うのだが・・・どうなのだろうか?

ただ、メディアが人に与える影響力に対して、僕自身が過小評価しているのが、この僕の記事の根底にあるかもしれない。もし血液型の番組の問題が、メディアにおける影響とその背景であれば、この記事では網羅できないし、荷が重たすぎる。

ちなみに、僕はB型、射手座です。
この組み合わせは、射手座の自由奔放な部分と、B型のマイペースが重なり、友人から言わせると最悪だそうだ。でもこれは誉め言葉として僕は受け取っている(笑

朝日新聞のコピーコントロールCD総括記事


asahi.comの記事「コピーコントロールCDを徹底的に総括する 」を読んで、あらためて音楽著作権協会と利用者およびアーティスト達との溝の大きさ深さに驚いた。

今秋にエイベックスがCCCD(コピーコントロールCD)の適用の大幅縮小、ソニー・ミュージックエンタティメントが全面撤退を表明したが、その時のエイベックスのコメントは僕にとっては迷セリフだったので良く覚えている。思わず笑った方も多かったのでないかと思う。

「ユーザーに著作権意識を根付かせることができたため」

著作権とは、芸術家達の創作意欲を高めるために発生した権利だと思う。彼らが安心して創作活動を行えるように環境整備する事が目的なのだ。でも今回のCCCD導入で僕がエイベックス等に受ける印象は、音楽業界の権益を守る為の著作権、でしかなかった。
権益を守るためであれば、アーティストが苦心して創造した音楽の品質を落とすことも、彼らにとっては当然の行為だったのだろう。

記事にあるが、この件で一番被害を被ったのがアーティストとのことである。理由は記事を整理すると、音質が悪くなる、ファンからの音質低下苦情の対応に時間がとられ心身共に創作活動が出来ない、ユーザがCCCDであれば購入しなくなった。

ユーザに著作権意識を根付かせる為に、アーティストが一番被害を被ったとは、笑えない話だと思う。

CCCDから普通のCDに戻すには、その為のコストがかかる。さらにCCCDはコピープロテクト技術のライセンス料も当該権利所持会社に支払ってい るので、簡単には一度作成したCCCDを普通のCDには戻せないらしい。もしかすると、今回のCCCDにおいて、一番利益を上げたのはコピープロテクトの ライセンス所持会社なのではと思ってしまう。

勿論、音楽業界に携わる方々の生活も守る必要があるが、CCCDは方向を見誤っているとしか思えなかった。iPod等のハードディスクタイプの携帯 音楽プレイヤーに例えることもなく、人の音楽を楽しむ仕方は新たな技術の提供により変遷してきている。そして現在はネットの普及によるネット利用の抵抗感 が薄くなってきつつある中で、日本でも大きく音楽業界が取り巻く状況が変わってきているのは事実だと思う。逆に言えば、積極的に音楽業界は自らの体質を変 えることが出来るチャンスでもあると思う。そして変わる事で、勿論変わり方にもよるが、新たな利益を音楽業界が得ることが出来るように思える。そして、こ の件に関して遅いと言うことはないとも思う。理由はどうあれ、CCCDの撤廃に動いているのだから、僕も少しは期待を持って見ている。

ちなみに溝の深さと大きさに驚いた内容は、asahi.comの記事にあった以下の事実だった。
「例えば02年9月の文化審議会著作権分科会司法救済制度小委員会で、当時の高杉健二委員(日本レコード協会法務部長代理)は「コピーコントロール回避助長を専ら目的とする情報を公衆に提供する行為の法的規制」を提案した。」
この法案は「言論の自由との関係で導入は見送られたが、同様の主張はその後も絶えない」との事であったが、提案の具体的な内容は不明だが、巡り巡って自分の首を絞める可能性もある様に思えて仕方がない。

画像はasahi.comの記事から

叱ることと怒ることは同じ

正直言えば、僕は以前に「叱る」と「怒る」は別のことだと思っていた。
別であると思いこんでいたのは、テレビや新聞などで、その様な話を度々していたから、知らず知らずのうちに擦り込まれたのだと思う。
曰く、「叱る」とは「相手を考えて」、「怒る」とは自分の意見を「押しつける」こと。

しかし今では「怒る」も「叱る」も同じだと思っている。少なくともビジネスの世界で2つが違うと云えば笑われる。ビジネスの世界では「怒る」も「叱 る」も自分の意見を通すコミュニケーション手段の1つでしかない。勿論生活の場はビジネスとは違うのはわかる。でも例えば「叱る」の「相手を考えて」何を 言うつもりなのだろうか?
やはり自分の意見を相手に通すことではないのだろうか?

何故今頃になってこういう話をしているかと云えば、先週社内でたまたま他の部署の年配の管理者同士がその様な話をしていたのを聴いたからだった。何か部下が間違いを犯し「叱った」そうだ。その時に「お前の事を考えて叱ったんだ」と話したとも言っていた。
この場合、管理者が「お前のことを考えて・・・・」というのはある意味正しい。それは、彼がその部下の人事評価を決定できる立場の一人だから、叱られた内 容が彼にとって不快な事であれば、今後その部下は同様の事をしないように注意しなければならない。故に部下は彼に気に入られるように、注意深く行動しなけ ればならなくなるが、それだけの意味しかない。その結果、部下の自由な発想も、時として阻害される要因になるかもしれないが、部下の立場では「叱られた 事」と「怒られた事」に何の違いもない。

子供の教育の話にかえてみる、勿論僕は教育者ではないが、子供に必要なことは「叱る」事でもなく、「怒る」事でもなく、認めることと選択肢を出来る だけ多く提示することだと思っている。そして出来れば色々な出来事に対し「考える」仕方を、結論でなく伝えることだとも思っている。子供の行動とか悩みは 時として選択肢の少ないことからおこる事が多いようにも思えるのだ。

僕にとっては、「叱る」も「怒る」も自分の意見を通す手段であり、両者の違いは無いように思える。これはこの両者を否定していることではない。自分の意見を通す手段であれば、それなりの技術が必要だと思っているだけなのだ。

コミュニケーションであれば、当然に相手がいて、その相手に自分の考えを伝わらなければ意味がない。時として相手が怒っていることは見てわかるが、 なんで怒っているかわからない時があるが、それはコミュニケーションとしては悪い例だと思う。そういう怒りからは、対する相手から何も得ることも出来な い。

また、自分が正しいと信念を持って、教え諭す様に「叱る」場合もあるが、その場合相手からの思わぬ反論にあい、「叱った」方がとまどう場合もある。 コミュニケーションだから、言葉のキャッチボールが行われているのである。当然に相手からの反応もあるのであるが、自分が正しいと信じている事で逆に思考 停止の状態になっていることも多い。

怒り方の技術として、重要なのは「自分が怒っている事」と「怒っている内容」の双方を知らせることだと思う。感情的になっているように見せるのも、1つの手段として有効だと思う。
あとは、相手と自分との関係と深さで対応が変わってくるはずだ。短期間の付き合いで、かつ浅い付き合いの相手と、その逆に深く長く付き合う相手とでは、自ずから仕方も違ってくる。

逆に相手が怒っている時の対応についても技術が必要になってくる。それも相手のとの関係で、最初にガス抜きをするか、臨戦態勢で臨むかが決まる。

でも「怒り方」「叱り方」で最も有効な方法は、頻繁に怒らないことにつきると思う。たまに怒るからこそ、その理由が相手に正当である印象を与えやすいからだ。

宗教的なことはわからないが、「神の怒り」と聞くけど、「神が叱る」とは言わないように思う。怒りは瞬間的な場合が多いような気もする。逆に言えば怒りは最初が大事だと言うことかもしれない。

テロの原因は「怨念」とか「憎しみ」からと聴くが、それらは永続的な気がする。それらは「怒り」とは本質的に違う様に思える。理不尽な叱られ方とか 怒られ方を受けると、受けた方は時として相手に憎しみの気持ちを持つことがある様な気もする。それらは人と人だけでなく、国と国との間でも言えることの様 な気もしてくる。

写真はいつも怒り顔の「ジュニア」

追記:
・「叱る」は(目上)から(目下)に向かっている。「怒る」にはそう言う関係はない。
・多くの人は「叱る」「怒る」をする側の立場で見ているように思える。される側の立場で見た時は、どうであろうか?
・今では、「される」側からみて、「叱られている」か「怒られているか」を判断すべきかもしれない。
・例えば世の中の理不尽さに怒る時。それは自分の思いを相手に押し付けることになるのであろうか?
それとも、叱ると怒るは、向かうべき対象によって意味が変わるのであろうか?
(例えば、子供と環境を汚染する企業による「怒る」事の意味の変化)
・戦前において「怒る」事は、今ほど悪く受け取られていなかった。それは三木清の「人生論ノート」を見てもわかる。体制の弾圧に怒り、人を貶める者に怒る 等。なぜ現代では「怒る」はこれほど地位を落としてしまったのだろう?少なくとも戦後に変わってしまった印象を受ける。最初に言い始めた方から、その意図 を聞きたくなる。

2004/12/04

「猫ばっか」という本

猫の関連の本で一番好きな本が「猫ばっか」

作者はあの「100万回生きたねこ」の佐野洋子さん。それに本の表紙が「吾輩は猫である」の苦沙弥先生を模した猫って感じで好きだ。

この本はもともと単行本で出版したのを、文庫本化の際、絵と話を新たに追加しているので、文庫本の方が「完全版」といえるかもしれない。この本を手に入れたのは一昨年の事だが、書店でなかなか見つからず、探すのに苦労したのを覚えている。

この本が好きなのは、作者が猫とのかかわりの中で、自分の世界に猫を引き込むのでなく、等距離において猫を眺めている点だ。

「人は孤独には耐えられないものであり、何かを愛したいのだ。それに生きる物の方がぬいぐるみよりも張り合いがある。猫が何を考えているのか知った人間は一人もいないのだから。」

「猫ばっか」では様々な猫が登場する。襟巻きとしての猫、北海道で生きている暖房器具としての猫等々。作者の猫「クロ」は最期の時に点滴の針をつけたまま病院を脱走して戻ってこなかった。そのクロに対し作者は「見上げた根性だ」と自慢し「逃げたのなら仕方がない」という。

「あんたも生きているし、私も生きている」

この姿勢が僕にとって好きでもあり、羨ましくもあるのだろう。

人と猫との関わりは農耕を始めてからなので、犬と較べると付き合いは新しいと言えるかもしれない。人はみずからの生活の役にたてるため、多くの生き 物を品種改良して飼育・繁殖させ家畜としてきた。猫の場合も古代エジプトでネズミの駆除のために家畜として飼われたのが最初らしい。

いつ頃から猫は家畜から愛玩動物に変わっていったのだろうか?
家畜と愛玩動物の線引きは曖昧だと思う。家畜が人の実生活で役に立つ事を目的に飼われるとすれば、愛玩動物は人の心の面で癒しとして飼われると思う。
でも家畜が、いわば生きている道具もしくは食料としてあったとしても、愛情をもち仲間として接しなければ飼育は難しいだろうと思うので、飼育の過程で愛玩動物と同様の癒しを人に与えていた様にも思える。勿論、一部の特権階級では愛玩動物としてだけで、飼われ続けていたが、それらは数から云えば無視できると思う。

そうだとしても、人が愛玩動物に対する気持ちは、現代と家畜が主として飼われていた時代とは大きく違うような気がする。今では誰も自分の飼っている動物を家畜とは思わないし、愛玩動物(ペット)として呼ぶことにも抵抗感があるのでないかと思う。

僕の場合、猫と生活を共にしているが、その2匹は性格も容姿は全く違うのが、生活を共にすることでわかる。そして2匹に対して、家族の一員として見 ている。そういう感情は、僕の手前勝手な思いこみの部分があることは理解しているが、僕がそう思うことは僕にとって自然なことであり、違う見方が出来るは ずもない。勿論2匹が猫であり、人とは違うことはわかってはいるが・・・。

そして以前の人が、僕と同様な見方で愛玩動物を見ていたのだろうかと考えるとき、多分違うような気がする。「猫ばっか」ではフロリダの若い女性の話を例に挙げて、「私が、その本に見たのは、大都会の底なしの孤独であった。」と書いてある。

孤独と言えば人は近代以降「孤独」であり続けたと思う。今に始まった話でもない。人が組織の中で歯車の一部分になり、置き換え可能な存在であることが意識された時に、自分が唯一無二の個として認められなくなってから人は孤独を意識するようになったように思える。そう考えると、生活は豊かになったけど何かが 違う、そんな気持ちを持ち始め、それを補うために様々な動物が家畜から愛玩動物に変わっていったのではないかと思うのだ。

一時「ペットロス症候群」が話題になったことがある。多分この症候群はこれから先、増えることはあっても無くなることはないだろう。今後理由とか背景とかを検討するのでなく、きちんとしたケアを受けられるような体制作りを望む。

話を猫に戻すが、猫が人とかかわりをもってから、エジプトでは神の使いとなり、西洋では悪魔(特に魔女)の使いとなってきた。犬に較べ人とのかかわ りの歴史が短いとはいえ、既に「イエネコ」として人の手で品種改良されてきてもいるので、逆に言えば、人との係わりの中でしか種として存続は難しい生き物であるのは間違いないと思う。それであれば、身近な存在として「あんたも生きているし、私も生きている」との気持ちで接することが出来ればと、自分のことを思う。

画像は「猫ばっか」の表紙。
amazonでの場所はここ。レビューを読めばこの本の魅力をさらに知ることが出来ると思う。

死刑制度についての拙い考え

僕はもともと死刑制度に反対する考えを持っている。ただアムネスティのサイトを見れば死刑制度を続ける根拠が少ない事がわかるが、逆に廃止への説得力も強いとも思えない。死刑制度に関する議論は、死刑制度を他国で廃止の方向に動いているという事実を除き、アムネスティでは次ぎの3点になると思う。

1.犯罪抑止論議
2.死刑廃止の犯罪率への影響
3.無実の者に対する執行の可能性

上記1と2に関しては今までに説得力のある科学的根拠は提示されていないと言われている。3に関しては確かにその通りだと思う。
ただ、個人的にはアムネスティが述べている事だけでなく、幾つか考えなくてはいけない事があると思っている。それは被害者家族と関連する人達の気持ちのケアであり、実際に刑務所で死刑に携わる刑務官の実態である。

前者は「犯罪被害者等基本法」が成立したことにより、この基本法で適切な運営が行われるか見ていく必要があると思うが、まだまだ不十分であるとの意 見も多い。さらに実際に被害者家族の気持ちが「気がすむ」ためには、加害者である犯人の死か激しい懺悔の気持ちでしかないのかもしれない。

後者については、あまり話題になっていないと思う。職業なので嫌であれば退職する自由もあるが、再就職も難しい時代なので、無理をして続ける人も多 いのではないかと思う。ただ公務員として本人の意志ではなく刑務官に配属され、死刑に携わる人がいるのは紛れもない事実だ。法律上では刑務官に死刑執行の 職務規定は無いと聴いている。でも刑務官の仕事の延長線でやらされている。ボタンを押す人、縄を首にかける人、執行文を読む人、それぞれの立場で、仕事と 割り切れるほど人の精神は単純には出来ていないと思う。だから彼らの心情としては死刑は行って欲しくはないというのが本音だと思う。

死刑制度について良く言われていることに、応報刑としての役割がある。所謂「目には目を」の考え。映画「七人の侍」では、野武士集団との戦いの時、 落馬して動きがとれない野武士に老婆が鍬を打ち下ろし殺す場面がある。被害者である老婆が野武士を殺す時、だれも老婆を止めることが出来なかった。そうい うものだろうと思う。
映画で良く見るのが、西部劇での公開絞首刑のシーンとか、フランスでの公開ギロチンでのシーンだ。日本でも同様だった。公開処刑では様々な人々が見物に集 まり、一種の興奮状態の中で刑が執行される。それにより被害になった家族を含め社会を構成する人の気持ちがある程度浄化されてもいた様な気がする。

死刑執行人は公開処刑時代には賤しむべき職業の1つであった。日本の場合は最下層の人達がそれに携わり、同情を受ける者の刑の執行の時は、その最下層である死刑執行人に恨みを持って行くようにしたのだと聞いたこともある。
勿論現代では全く違う、刑務官としての普通の公務員がそれに携わっている。

現代では刑の執行は密室で行われている。公開処刑から密室処刑への変化は時代の変化だろうが、逆に応報刑として「気がすむ」事も出来なくなっている部分もあるかもしれない。また同時に死刑の残酷さも覆い隠す事にもなっているように思える。
ただ、勿論近世の様に公開処刑が現代で出来るかと言えば、間違いなく無理だと思う。

たしかにアムネスティが述べている死刑廃止の考えは正しいと僕は思う。でもいくら統計値をだしても、科学的根拠が薄いと述べても、それだけで死刑を 廃止する事は難しいかもしれない。逆に死刑廃止を行った多くの国が、被害者達の「気がすむ」為に何をしてきたのかを考え、それを実行する事が結果的に廃止 の方向に向かうのではないかと考える。

刑務官達についての待遇が現在どうなのか、実際の所は僕は知らない。ただ異動サイクルを早めるとか、様々な待遇上の処置を講じていて欲しいと思っている。

これらを考えていけば、僕にとっての死刑廃止は条件付き賛成となるように思えた。

2004/12/02

友人事務所のサイト構築

今年の春頃、友人の建築設計者の事務所がサイトを立ち上げたいと言うので、サイト構築の相談に乗っ た。彼がサイトのホスティングの会社を決め、その会社がホームページ作成も行うので、何回か僕も友人に付き添って話を聞いた。独自ドメインも取得し、あと は実際にサイトに載せる原稿を渡すだけどなった段階で友人も僕も急に本業(友人は勿論設計の仕事、僕は会社の仕事)が忙しくなり、しばらく間が空いてし まった。

僕はサイトの文章を書く約束もしていたので凄く気になっていたけど、友人の方もかなり忙しく、緊急にサイト立ち上げの必要性もなかったこともあり、 時間だけが過ぎてしまった。でも12月に入り、いくら何でもそろそろ立ち上げないと拙いだろうと、友人の所に電話をかけた。すると彼も仕事も少し空いたの で、再度始めようと思っていたらしく、僕に電話をかけようと思っていたところだったらしい。

それで、友人はホスティングサービスを頼んだ会社に電話をした。でもつながらない。電話は鳴るけど、相手が出ないのだ。時間は夕方の5時頃。間違い なく人がいる時間だと思う。電話をあきらめ、今度は何か情報がないかと、その会社のサイトを見ようとしたら、今度はアクセス不能とページに表示される。ま さか、倒産したのでは?
その時は僕は友人の事務所に着いていたので、再度一緒に確認したが、結果は同じ。

その会社が所有するサーバーは、実際は大手のホスティングサービスを利用した再販なので、親の会社に電話をかけてみた。今度は勿論繋がり、調べてみるとの約束を取り交わした。
それからネットで帝国データバンクの倒産情報を検索してみたけど、その会社が倒産した履歴を見つけることが出来なかった。友人は既に倒産しているのでない かと思っているようだけど、もしそうでなかったら本当に不誠実な会社だとおもう。だから、倒産であれば債権取り戻し、していなければ契約打ち切りをしてい こうと言うことにした。

現在ホスティングサービスとホームページ代理作成サービスには多くの会社が参入していて、競争が厳しいこともわかる。危ない会社も多いことだろう。
でも実際に身近に起きるとは思わなかった。

だから今度はホスティングサービスとホームページ代理作成を分けて、それぞれに頼む作戦に変更することにした。ホスティングサービスは、今では大手 でも相当に安いので、大手を中心に捜すことにした。ホームページ代理作成は最初だけ安いところに作ってもらうことにして、事務所からの情報発信はブログを 使うことにした。

一時は僕にホームページを作ってと友人は頼んだけど、いくら何でも素人の僕が無責任に作ることは出来ないので、今までと同様に文章作成だけで勘弁してもらった。

それだって無謀と思うのだけど・・・