2005/03/31

アメリカン・ミソジニー

内田樹さんの「映画の構造分析」(晶文社)を読んだ。内田さんの文章は本当にさくさく読める。

この本は3章からなっている。1章は本のサブタイトル「ハリウッド映画で学べる現代思想」通りに、映画を通じて現代思想を紹介する内容となっている。まぁこれはこれでよい。僕がこの本で一番面白かったのは3章「アメリカン・ミソジニー」である。この文章だけでもこの本を図書館から借りた価値があるというものだ。だからこの記事では、この3章を限定して紹介したい。尚、記事で 『』 内で紹介した文は全て「映画の構造分析 3章アメリカ・ミソジニー」からの引用である。
『アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。珍しいことに、この点については、多くのフェミニストが私と同意見である。』
実はこの見方を初めて知った。それ以前にフェミニズムについて、あまり考えたこともないのだから、今まで知らなくて当然かも知れない。知らないと言うことについて、恥ずかしいことなのかも実は解らない。でも会社勤めの男性としてはかなり一般的な姿なのではないだろうか。なにしろ同僚の男性同士で「フェミニズム」について議論することはないし、しなくても同僚がその事を意識しているとは到底思えない。だから、この本の書き出しから僕は全く未知の領域に足を踏み入れたと言うことだ。(あ、勿論知らないといってもゼロというわけではないですから・・・)

内田さんは証左としてジュディス・フェッタリー著「抵抗する読者」の一文を紹介する。
『アメリカの文学は男の文学なのである。わたしたちの文学は女をほうっておきもしないし、かといって参加させるわけでもない。(略) アメリカは女であり、アメリカ人であることは男であることを意味する。そしてもっとも重要なアメリカ的体験は、女に裏切られることである。』
この原因をフェッタリーは「西洋文化全体」が女性嫌悪的であるからと述べているが、そうであれば「なぜ、アメリカでは・・・」という問いが立てられているのかと内田さんは疑問視している。そして、この発想は「世界全体」を「アメリカ」に置き換え、成立させる、現代アメリカ人固有の思考上の「奇習」であると、内田さんは述べている。
つまり、まずフェッタリーは「西洋文化全体」と先送りしないで、「なぜアメリカ人は女性を嫌悪しているのか」の問いを答えるべきであるに、それはやらず女性嫌悪の証拠のみをあげているらしい。

続けて内田さんはハリウッド映画で「女性嫌悪」の映画を幾つかあげている。特にマイケルダグラス主演の映画はその傾向が強いとのことだ。例えば、「危険な情事」、「氷の微笑」、ローズ家の戦争」、「ディスクロージャー」 、「ダイヤルM」などである。
勿論これらの作品はフェミニスト達の批判を強く受け、内容を詳細に分析されている。
『ここまで「手の内」が暴かれており、女性観客の圧倒的な排撃を受けながら、同じタイプの映画がどんどん作られ、ブロックバスター的な興行的成功を収めているということは、アメリカの男性が心の底から、確信犯的に、アメリカ女性を憎んでいるということを「事実」として受け入れない限り説明がつかないだろう』
そして反復される話型を内田さんは次のように示している。(以下も本文から引用)

(1)「男のテリトリー」に女性が侵入してくる。
(2)この女性は何らかの権威ゆえに、参入を許されている。
(3)男(たち)はこのテリトリー審判を不快に感じるが、受け容れざるを得ない。
(4)この女性は男たちの世界の秩序を揺るがせる。
(5)男たちは団結して、女性を排除し、世界はふたたびもとの秩序を回復する。

この状況をアメリカ特有として見たときに、その理由として内田さんはアメリカ開拓の歴史がそこにあると述べる。
『アメリカ開拓の最前線には、当然の事ながら、女性の数が少なかった。場所によっては数百の男に対し女性が一人というような比率の集団も存在した。それがアメリカにおける「レディ・ファースト」という女性尊重のマナーの起源であるということを私はこれまでに何度か聞かされたことがある。女性尊重のマナーは男女比率の圧倒的な差から説明される。それと同じく、女性嫌悪もこの統計的事実から証明されるのではないかと私は考えるのである。』
当然にその中では、男女の情緒面は副次的なものとなる。女性は男の群れの中で生きるため、男性は生活財として、男女関係はまず存在することになる。(個人の特性はそこには殆ど重きが置かれていない)
それ以上に、殆どの男性開拓者は、生涯に一度もパートナーを得ることなく死んでいったということでもある。そしてその期間は西部開拓時代の初めから終わりまでの、約200年間続くのである。

男だけの世界に女性が一人やってくるとする。女性は「生活財」として一人の男性の占有物となる。そうなると、他の全ての男性があぶれることになる。それまで男だけの世界での「価値のものさし」は、腕力、胆力、直感力、狩猟の才能、動物の知識、ものを作る技術、酒量、等々と極めて男性的であった。しかし、女性が男性をみる価値観は、男性の価値観とは全く異なる。よって、男たちは理解しがたい「ものさし」によって差別化されることになる。

「女に選ばれなかった」ことは、その男性を深く傷つけ、男性的価値観のなかで築いてきたものが崩れることを意味する。それはその男性にとって、まさしく人間的価値に疑問符がつけられたということを意味する。しかもそれを受ける男性の数は膨大である。彼らはトラウマを癒す必要に迫られ、一つの物語を創り出す。その物語は内田さんによれば、次のようなものとなる。
『女は必ず男の選択を誤って「間違えた男」を選ぶ。それゆえ女は必ず不幸になる。女のために仲間を裏切るべきではない。男は男同士でいるのがいちばん幸福だ。』
『「選ばれた男」は「選ばれなかった男」の価値観に照らせば、必ず「間違った男」でなければならない。というのも、ある男が選ばれ、残りの男が選ばれなかったのは、選ばれなかった男たちの方が、選ばれた男よりも、人間的に高い価値を持っていたからである。節度があり、欲望の実現めざして利己的になり切れなかったために獲得レースで出遅れてしまったのだ』
利己的な男だから、女を得ても、その女はかならず捨てられ不幸になる、というわけである。「誤った男」の成功話は、そのような男を選んだ女の失敗話とセットでなければならない。そうしなければ、選ばれなかった男たちの深い傷は癒されない。

さらに、罰を受けるのは、誤った選択(男性的価値観でない選択)をした女性だけである。
「誤った男」の不幸にはならないのは、選ばれなかった男たちの気持ちが、選ばれたいからである。つまり、今回選ばれなかったとしても、次は「誤った男」を演じ選ばれたい気持ちがそこにあるからだ。
『フロンティアの死者たちはアメリカにとって建国の礎を築いた人々であり、そのエートスを「フロンティア・スプリット」として聖別することに、アメリカは共同体神話のかなりの賭金を置いてきた。であれば、彼らはいかなる代価を払っても、安らかに眠ってもらわなければならない。その祈りの一つがアメリカ文化に横溢する「女性嫌悪の物語」なのだと私は考えている。
「女なんてろくなもんじゃない。」
これは、生涯ついに女に選ばれることなく死んだ無数の開拓者に向かって、アメリカ人たちがその身を切り裂くようにして死者の墓に向けて語り続けている「弔辞」なのである。』
実はこの文章は、内田さんがハリウッド映画から見るアメリカ文化の「女性嫌悪」を語ることで、あわせてフェミニストたちの姿勢をも問うている。それは文頭からもうかがい知ることが出来るが、文末の最後の数行でより鮮明となる。
『アメリカの女性嫌悪は「二十世紀アメリカの病」である。その事実から目をそらして、アメリカ史全体に、西欧の歴史全体に、あるいは人類の歴史全体に根深くはびこった女性嫌悪に「責任を転嫁する」ことによって、むしろアメリカの現代文化に猖獗(しょうけつ)する女性嫌悪が分析を免れているということではないだろうか』
この文章を読んで、最初に感じた正直な気持ちは、男性にとって見れば、これほど明確に生物学的な意味で「勝ち組」と「負け組」に差別化される姿はないかもしれない、ということだった。

これがアメリカにとって特有な事情なのかは、僕にとって不明だが、ある意味美名で語られる「フロンティア・スプリット」が、なぜ美しく語られる必要があったのかが、何となくわかる文章だった。

2005/03/30

村上春樹「パン屋再襲撃」、逆転の物語

世の中は物語に満ちている。僕らは、多分物語でしか人になにかを伝えられないかもしれない。それに考えてみれば僕自身も一つの物語と言えるだろう。それは自分自身が再読不能な物語であり、人にとっては断片でしか語れない物語でもある。新聞を開いても、ネットをあけても、あるのは物語だけだ。「作者の不在」が語られても、「物語の死」などあり得ないかのようだ。

その物語の中には、同じ話を二度繰り替えさなければならないものが在るように思える。たとえば、「こぶ取り爺さん」や「花咲き爺さん」は同じ物語が繰り返され、それでひとつの物語となっている。
二つ繰り返されるのは二項対立により差異を明確にするためだろう。初めがあり、次があり、そして初めと次の結果は違う。何故違ってしまったのだろう、そう聞き手に思わせることが、この物語を持続的に伝承させる。

「こぶとり爺さん」で繰り返される話は、「鬼の前で踊る」という事だ。その結果、最初のお爺さんはこぶがなくなり、次のお爺さんはこぶが増える。最初と次とで何が違ったのだろうか。
最初のお爺さんが「鬼の前で踊る」のは極めて偶発的な出来事だった。しかし、次のお爺さんは、最初のお爺さんから状況と内容を聞き、偶発を装った意図的な出来事で対応した。しかし、その結果は次のお爺さんの意図に反しこぶが増える事になる。

ここでは「こぶとり爺さん」が物語として意図することを追及するつもりはない。明らかにしたいのは、一つの物語で二つの物語が繰り返し語られる事があるということなのだ。
「こぶとり爺さん」が「鬼の前で踊りこぶを取ってもらいました。めでたしめでたし」で完了したとしたら、僕らはこの物語を伝承し続けたであろうか。

村上春樹の小説「パン屋再襲撃」でもパン屋の襲撃は二回行われる。何故二回襲撃されなくてはならないか、それはこの物語も二回繰り返すことで一つの物語となるからではないだろうか。
仮にそうであれば小説「パン屋再襲撃」も「こぶとりじいさん」と同じ構造を持つ事になる。その構造とは、「こぶを気にしている二人のおじいさんがいる」、「最初のおじいさんが偶発的に鬼の前で踊る」、「こぶをとられる」、「次のおじいさんは意図的に鬼の前で踊る」、「こぶを増やされる」。となるだろう。

「こぶ」とは圧倒的な空腹感がそれにあたるだろう。そうだとしても、パン屋襲撃にかんして言えば、最初と次の順番が、こぶとりじいさんの構造に反することになる。最初のパン屋襲撃の結果、「僕」は何か間違えた感触を持ち、呪われたと感じた。だから、パン屋を再襲撃するきっかけになったはずなのだ。これは「こぶ」を増やされた次の話に相当することになる。パン屋襲撃の最初と次を逆転させると良いかもしれないが、今度は再襲撃の意図的な状況が最初に来るので、これも不明だ。
でも「偶発的」と「意図的」の順番が良いとすれば、その主体が誰であろうと良いのかもしれない。さすれば、この「パン屋再襲撃」が示す方向は僕にとって一つしかない。

それは、「こぶとり爺さん」になぞって見れば、「僕」と「妻」は鬼に相当するのでないかということだった。つまり「パン屋再襲撃」とは「鬼」側から見た物語という事なのだ。
鬼が主人公となる物語。それは人の物語ではない。鬼だけしか知らないルールがそこに横たわる。だから、マクドナルドの店員にとってルールを理解する事ができない。
だからなんだと、言われてしまえば今のところそこまででしかない。ただ鬼とは何かと考えれば、それは「他者」の象徴のような気がする。

物語は人に伝えることを前提にしている。人は同じ言葉と文化より物語りは他人に伝わる事を信じて疑わない。でもそれが伝わらないとすればどうなのだろう。それが鬼を主人公とする「パン屋再襲撃」の物語の意味ではないだろうか。人に伝える事ができない物語。それは物語の一つの死を意味している。そしてそれは語るべき言葉を失う事でもあるのかもしれない。

2005/03/29

村上春樹「パン屋再襲撃」、物語の行方

200503306e9d9c82.jpg村上春樹の短編小説「パン屋再襲撃」は1985年に雑誌「マリー・クレール」8月号に掲載された。8月号となってはいるが、実際に発売されたのは7月のことだと思う。新聞は豊田商事の永野一男会長刺殺事件が占めていたことだろう。多くの報道陣が自宅マンション前に陣取るなか、暴漢2名が押し入り、永野会長を刺殺した事件は未だに僕の記憶にある。しかし、それから1ヶ月後、新聞は更に大きな事件報道を行う。あの御巣鷹山への日航機墜落で、520名もの乗客乗員が帰らぬ人となったのだ。

「パン屋再襲撃」のあらすじを簡単に記すとこうなる。「僕」と妻は夜中に同時に目が醒める。そして二人とも異様なほどの空腹感を覚える。その中で「僕」は、その圧倒的な空腹感を過去にも味わったことを思い出す。それと同時に過去の「パン屋襲撃」の記憶が蘇る。妻はその話を聞き、呪われた状況がそこにあり、その呪いを解消するために、異様な空腹感がある今こそ、再度パン屋を襲撃すべきだと主張する。妻に引っ張られる形で、「僕」は深夜のマクドナルドを襲撃し、ビックマックを30個強奪する。

豊田商事の商法は主に一人暮らしのお年寄りに歩み寄り、徹底的に人情と親切を道具にして信頼を得るというものだった。被害者の中には、夕食の材料を老人宅に持ち込んで、「おばあちゃん、僕を息子だと思って、今日はすき焼きを作るから一緒に食べましょう」と云われた人もいたという。その方にとっては、優しい息子の登場で新たな物語を自分に語り始めたことだろう。突然に、その男が息子でなく、自分の貯えを狙う他人であると知ったときの驚きはどれほどだったであろうか。考えるだにおぞましい話だが、語り始めた被害者の物語は何処にいったのであろうか。多分それは物語の終焉でしかない。新たな物語はそこからは産まれない。僕はそう思う。

人は物語の中で生きているのかもしれないが、その物言いには誤解が生じるかもしれない。でも少なくとも僕にとっては、人は物語の中で、自分が幸せであることを実感する時もあるような気がしてならない。

「パン屋再襲撃」も物語の終焉を現しているような気がする。パン屋はなぜ再襲撃されなくてはならなかったのか。それは最初の襲撃が物語として成り立っていなかったからだ。
物語として成り立たずに放置することで物語は呪いに変質していく。物語として成り立たせるためには、主体はあくまで主体として振るまい続けなければならない。
桃太郎の物語が、途中で鬼が主人公になったら物語として成立しないのとそれは同じだろう。
最初のパン屋襲撃において、途中で襲われたはずのパン屋がワグナーの曲を聴いたらパンを好きなだけやると取引を求め、それに応じることで、物語は主客逆転してしまう。
成立できなかった物語は伝わることなく封印される。

「パン屋の主人は??何のためにそんなことをしたのかいまだに理解することができないけれど、とにかく??ワグナーのプロバカンダをすることができたし、我々は腹いっぱいのパンを食べることができた。にもかかわらず、そこに何か重大な間違いが存在していると我々は感じたんだ。そしてその誤謬は原理のわからないままに、我々の生活に暗い影を落とすようになったんだ。僕がさっき呪いという言葉を使ったのはそのせいなんだ。それは疑いの余地なく呪いのようなものだった」
(村上春樹「パン屋再襲撃」から引用)

封印された物語は熟成されることはない。それは未完の状態でもない。そして封印された物語は意識の下に追いやられる事になる。
物語は消えることはなく、腐ることもなく、ただそこに不成立のまま横たわる。それが「呪い」に変質したとしても不思議ではないかもしれない。

「パン屋再襲撃」は成功したのだろうか。確かに彼らは、襲撃には成功しビックマックを貪る事が出来た。飢餓感は一時的にせよ緩和されたことだろう。
でも僕は成功したとは思ってはいない。物語は作る物でなく、出来てしまうものだと思うからだ。事前に計画的な物語などないような気がする。それは物語不在の世界だからこそ意識的に作り出したと思うのだ。物語が成立しない以上、多分再襲撃は新たな呪いとなって二人に横たわることだろう。

「作家の死」、「物語の終焉」と云われる。それは時代と共に何回か云われ続けてきている。明治の頃、ある民俗学者は「物語の衰退」を示唆した。それは印刷本の普及による、手と口の伝承による物語の衰退のことだった。
確かに、物語とは伝承されなくてはならない。となれば、時代毎に批評家達の間で云われてきた「物語の終焉」の物語とはいったい何なのだろう。
それは1980年代の一連の事件と無縁ではないような気がする。僕はそれらを精査したわけではない、でも1980年代からオーム真理教事件、そして拉致問題へと様々な事件が物語として成立せず、大きな呪いとして社会に横たわっているといたとしても、案外僕はそれを信ずることが出来るように思えるのだ。勿論個人的で文学的な妄想に近いかもしれないが。

日航機墜落から20年経つ。一瞬の出来事で途絶された520名の御霊の物語は未だに語り続けられている。そしてこれからも語り続けて欲しいと願わずにはいられない。

2005/03/28

少し憂鬱

少し憂鬱である。その原因とかをなにやら話すこと自体愚痴モードになりそうで怖い。それに自分の仕事に対する出来事を本ブログに書くのも少しためらいもある。まぁ、でも書いてしまおう。その方が自分にとっては精神衛生上良いかもしれない。

人が憂鬱になるときはどういうときだろう。僕の場合、概ね面倒が眼前に在るときである。そしてその面倒を避けて通れぬ状況にあるときでもある。
あれこれと手順が想像できるが、その手順の1つ1つが面倒で適わない。えてして、こう言うときに憂鬱になる場合が多いのではないだろうか。少なくとも僕の場合は概ねそうだ。

その手順を行えば成功するのは分かっている。頭が良ければ、もう少し簡単で最小の手数を考えることが出来るかもしれないが、如何せん僕の知識と経験ではたかがしれている。

今回の憂鬱の内容は「ナレッジマネージメント」だ。会社員であれば一度は聞いたことがある単語だと思う。そんなに新しい考えではないし、どちらかと言えば言葉として使われすぎ、既に鮮度はかなり落ちている。

僕の上司の上司(つまりかなり偉い人)が、ナレッジが好きな人で、4月からコンサルタントを呼ぶらしい。目的は「作業の効率化」と面白みのない内容だが、具体的にいえば「ナレッジマネージメント」なのは事前に情報を得ているのでわかる。

「ナレッジ」が話題になるとすれば、コンサルタントがどんな言葉を使ってどんな内容で話をするのか想像が十分に出来る。それは情報系企画部署メンバーが概ね見ているサイトである、「@IT」と「CIOオンライン」をみれば一目瞭然だ。

曰く、技術でなく人とプロセスが大事です。プロセスとは「知」が生成され新たな「知」となる過程をいう。又、「知」を作るには「場」が大事なので、それに対しても言及してくるだろう。

元々「ナレッジマネージメント」は野中郁次郎さんが「暗黙知から形式知への相互変換」を提唱してから一般的に知られるようになった話なので、どうしても「暗黙知」の話題が出てくる。
「暗黙知」はハンガリーの物理学者・哲学者のマイケル・ポラニー氏がその著書「暗黙知の次元―言語から非言語へ」で述べている概念で、言葉にすることが出来ない何かである。

例えば「クロール」の泳ぎ方を言葉で伝授しきれない。言葉で説明する場合、どうしても説明しきれない何かが出てくる。それが「暗黙知」と呼ばれる物となる。ポラニー氏はその著書の中ではっきりと「暗黙知」を「記述不能な知識」と言っている。

その「記述不能な知識」を野中郁次郎氏が形式知への変換を行う事のモデルが「SECIモデル」となってくる。

でも思うのだけど、「記述不能な知識」はやはり記述不能なのではないだろうか。
勿論それでも5年か10年かけて文化革命的なことを企業内で行えば、SECIモデルも適用可能かもしれない。でもかなりの先行投資を必要とするだろう。そしてそれだけの投資効果が得られるかと言えば、それは正直疑心ばかりが先行する。なぜなら、「知」のプロセス自体、人の営為に委ねられ、そのマネージメント自体が非常に脆いと思うからだ。
それに例えば、来期に今期の倍の開発が必要にもかかわらず、人数が増えない状況下の中で、ナレッジマネージメントは即効力は無いに等しいと思う。それをやるくらいなら、中核社員一人一人に秘書を付けて雑用をやって貰った方がよほど良い。

こう考えてくると、僕のやることは決まってくる。それは「ナレッジマネージメント」なんていうものに流れていく方向を、少しでも変えていくと言うことだ。そして、これが僕を憂鬱にさせている。それは前述の通りの憂鬱さに、「ナレッジ」の有効さも実はある意味認めてもいる部分もあるのも事実だからだろう。少々矛盾するけど、形式知についてはプロセスと共有化は立ち上げた方が良いと思っている。「暗黙知」に行くことだけが、状況を袋小路に陥らせると思っている。勿論現状においては、形式知の話が出たとしても整備するマンパワーが不足している事実はあるのだけど・・・

この記事を読む人は、企業ってそんなことやっているの?と笑うかもしれないけど、実際はこんな事だらけと言っても良い。

以前にある企業で、これからはITだ、一人一台PCだと叫び、めでたく社員全員にPCを配布したことがあって、配布完了日に全員でPCを立ち上げたら電力が足りなくなり、ビルの電気が落ちたという笑い話のような本当の話を聞いたことがある。

だんだんと愚痴モードになりつつあるので、ここいらで終わろう。

2005/03/27

映画「キャストアウェイ」の感想

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映画「キャストアウェイ」をDVDで見た。感想を書きたいと思う。この映画の感想を書くにあたって、ネットで他の人の感想を大いに読んだ。当時話題を呼んだ映画だけあって、感想の量も多かった。当たり前だけど、一人一人毎に感想は違う。言葉だけで感想を分類すれば、多分かなり整理できるかもしれないが、そんなことは無意味だろう。それに僕の琴線に触れる感想もなかった。感想は人それぞれなのだから当たり前なのかもしれない。
「キャストアウェイ=CASTAWY」とは余分なものをぬぐい去るという事だ。キャストアウェイの公式サイトに書いてあった以下の文章がそれを物語る。
「4年が経ち、チャックはまったく生まれ変わった人間として文明社会に戻る。そして、彼は、これまで所有していたもの、大切だと思っていたものをすべて失ったことが、今までの人生に起こった最高の事だと悟るのだった。」
キャストアウェイ公式ページから引用)
上記公式ページの文章は唐突に現れる。多くの人の感想を読んだけど、上記の文章に到達した方はかなり少ない。例えば最後のチャックの独白シーンでのセリフ。
「これからどうするか?息をし続ける。明日も太陽が昇り。潮が何か運んでくる。」
そのセリフと上記公式サイトの言葉との開きはなんだろう。このセリフをはくことが、人生最高の時と悟った男の言葉とは個人的にはとても思えない。映画として失敗したのだろうか。それとも僕の見方が浅いのだろうか?

実は、人生にはあらかじめその人が持っている生きる理由など無いのだと、この映画は云っているのであろうか。僕が生きる理由は、だた「呼吸をして」生き続けること。そしてその原点に戻ること、新たな贈り物への喜びを知ること、が人生においてもっとも素晴らしいことだと云いたいのだろうか。
正直言えば、現時点では僕はよくわからない。だからこそ、この映画の感想を書きたいと思った。
毎度の事ながら、この記事は評論ではない。たんなる感想だから、どこの言葉を見ても、そこに批評性は存在しないことをあらかじめ伝えます。
チャックが失ったものとは何だろう。いや、質問はこうすべきかもしれない。「チャックが失えなかったものはいったい何だろう」、失えなかったものを洗い出すことがこの映画で語りたかったものなのかもしれない。それが僕の感想への糸口だった。
映画「キャストアウェイ」は2001年公開のアメリカ映画だ。主演はトム・ハンクスとヘレン・ハント。二人とも好きな俳優だが、ヘレン・ハントは重要な役柄だが出番は少ない。それはこの映画の設定が現代版「ロビンソンクルーソー」だからだ。
チャック・ノーランド(トム・ハンクス)は世界宅配便フェデックスの敏腕システムエンジニア、ほぼ仕事中心で世界中をかけずり回る。そんな彼が飛行機事故に遭い、南海の孤島に漂着してしまう。過酷な環境の中で彼は4年間生き抜く。ある時島に漂着した「帆」を見つけ、それを使い筏で島を脱出する。再び戻った彼は、恋人のケリーが既に結婚しているのを知らされるのだった。
映画の冒頭で、ロシアにフェデックス事業を立ち上げるために出張したチャックは従業員を前にして叫ぶ。
「『時』は炎のように我々を滅ぼすか温めてくれる。我々は時間に縛られて生きている。『時』に背を向けたり、『時』の観念を忘れることは、この商売では大罪だ」
彼の必需品はポケベルとシステム手帖。会話の話題は殆どが仕事にまつわる話になる。彼はいわば、フェデックスという共同体の中でのみ生きている。
企業の中では、その事業体の内容如何に関わらず、一つの考えで統一される。それは、いかにして儲けるかである。そのために顧客を考え、社会を考える。もしくは、新たなサービスを考え、従来業務の効率を上げるために模索する。
その点において、経営者および従業員の言葉と思想は統一され、お互いがあたかも自分の分身のように語り合うことが出来る。それが良いか悪いかの話ではなく、企業が持続し成長を続けていくためには、構造としてそのようなシステムを持たざるを得ないということだと思う。そのシステム名は「企業文化」と呼ばれる。
だから、チャックにとって、回りは常に自分の分身である。ロシアであろうとアメリカにいようがそれは変わらない。同じフェデックス社の人間であれば誰でも自分の言葉は通じると思っているし、実際に通じ合える。
チャックにとって、他人とは自分の複製でしかない。そしてその複製達で造る世界を疑いなく受け入れていた。彼にとって世界はその意味で周知であり完璧であった。彼はその世界に引きこもった。そして自分が引きこもっていることさえ彼は知らなかった。
「引きこもり」は何も家(部屋)から外に出ない形態だけを指しているのではないと思う。家を「家」、外を「外」と括弧でくくれば、それは「家」と「外」の持つ象徴性により「引きこもり」の実体が見えてきそうな気がする。
実際に社会に出て働く人の中にも「引きこもり」は多い。
例えば、会社で遅くまで仕事をし自宅に帰って妻と子供らと多くを語らないお父さん、家庭の問題を会社の論理で解決しようとする人、等々。チャックの姿は現在の僕の姿でもある。
なぜこれらの「引きこもり」が問題にならないかといえば、それは経済活動の有無でしかない。企業にとって見れば、家に引きこもる場合、消費活動において何のメリットもないのだ。また家の経済状態においても負担を強いられ、それが結果的に消費活動に停滞を与えることになる。だから、「引きこもり」の本質でなく、形態にこだわるのだと思う。それは、とりあえず問題にはならないからだ、将来「離婚問題」、「親子の断絶」に繋がるとしても。
この話題は、本記事から少々逸脱しているので、話を元に戻す。
そんな彼の世界が崩壊するときがくる、それが飛行機事故であり無人島への漂着であった。
無人島に漂着した時、始めポケベルが使えるかどうか確認し、同様に島に漂着した宅配小包を集め仕分けする。彼にとって宅配小包はお客様のものであり、中身を見ることは企業倫理に反することである。宅配小包は必ず相手に送り届けなければならない。
それが変わるのは、その島で一番高い山の頂に立ち、島を俯瞰することで、無人島であること、孤島であること、の判明が一番大きいと思う。彼はその新たな世界で生きる事を強いられたのだ。
その状況下で、夜半に遠くに汽船の灯が見える。彼は夢中で遭難時につかまっていたゴムボートに乗り汽船の灯を目指す。でも願いは叶えられない。島に打ち寄せる大波により、外海に出られないのだ。彼は完全に島に閉じこめられていた。
彼は島に戻される。そして彼は宅配便の箱を開封する。理由は島で生き延びる為に使える物を探し出すことだったが、そこから出てくる物は、彼が今いる世界(無人島)では、即時利用可能な物ではなかった。
この宅配物の開封は、彼がフェデックスという共同体からの逸脱を意味する様に思う。それは彼にとっては元の世界の崩壊でもある。でも全てを開封するわけではない。一つだけはどうしても開封できなかった。
この映画には重要なアイテムが3つ登場する。
その一つが未開封の小包である。なぜチャックはこの一つを開封できなかったのかは多分問題ではない。問題はチャックは全てを開封できなかったと言うことだと思う。この一つが選ばれたのは偶然だろう。
小包はチャックの仕事を象徴していると思う。それは、無人島に漂着してもなお仕事に離れられない姿を見せているのでもない、と僕は思う。そこにはフェデックスという会社の存在は薄い。
また小包は差出人がいて宛先がある。小包自体が人と人を繋ぐ象徴でもある。彼にとってこの小包は宛先に届ける意志を持つことで、この島から抜け出す気持ちを忘れない、という事でもあるのかもしれない。
だから、僕にとってはこのアイテムは、複数の象徴からもたらされる、島でない「外の世界への志向」を現しているように思う。この開封されなかった小包の意味は重い。このアイテムがなければ、チャックは元の世界の「引きこもり」が、この島での「引きこもり」と場所を変えただけの状態に陥ったことだろう。
重要なアイテムの二つ目は、遭難する飛行機に乗り込む前にケリーからクリスマスプレゼントとして受け取ったケリーの写真入りの懐中時計である。この懐中時計はケリーの祖父の遺品でもある。いわばケリーから家族の一員として受け入れられたことを表す懐中時計でもある。この時計をチャックは受け取ったときに、ケリーが住む町の時間に合わせ「ケリータイム」と命名する。懐中時計の裏蓋にはチャックが最も好きなケリーの写真が貼り付いている。
この懐中時計はチャックにとってケリーそのものだったと思う。島で彼はネックレスのように首につけ肌身離さずにいた。いわば、懐中時計の時計部分は彼女の肉体そのものだったかもしれない。そして写真は彼女への愛情だと思うのだ。だからチャックにとっては、写真と懐中時計は一体になってケリーそのものだった。つまり懐中時計は「愛」の象徴だった。
三つ目のアイテムは、チャックが開封した小包の一つであるバレーボールから作られたウィルソン氏だろう。チャックはバレーボールに自分の手形を押し付け、それをウィルソンの顔にした。それはまさしく自分の手形(分身)であった。
ウィルソンは常にチャックの傍らにいて、チャックと会話をする。いわば、ウィルソンはチャックの視覚的に表された自我と言ってもいいかもしれない。映画の中で徐々にウィルソンは自我から鏡像、他我と変貌していく。無人島生活の後半では、ウィルソンはチャックの批判者として映画の中では登場する。
(島を出る間近にはチャックとウィルソンは喧嘩をするほどになる。その時チャックはウィルソンに向かって「バレーボール」と差別的?な表現をしウィルソンを海に投げ捨てる。でも、その瞬間チャックは後悔し謝りながらウィルソンを捜し出す)
チャックはウィルソンの批判に折り合いを付け自分の意見を多少修復するか、その意見を糧に自分の信念をさらに強める。その時点で、チャックにとってウィルソンは他の人と同じだった。
でもウィルソンが自分の手形から発しているので、他我以上の存在にはなり得ない。しかし、それでもチャックはウィルソンを媒介して自分の存在を確認している。自分がここにいるという事はウィルソンを通じて明らかになっているのだと思う。
自分への自問自答であり、独り言ですむのであれば、ウィルソンを視覚化すること自体無意味だろう。ウィルソンを視覚化したのは、映画の視聴者に理解しやすい配慮だけではないと僕は思っている。なぜウィルソンを視覚化したのか?
チャックはウィルソンを見ることにより、語りかける対象として認識し、逆にウィルソンからも見られているという意識を持ったのではないだろうか。結論からいえば、ウィルソンを視覚化したのは、ウィルソンを見るためだけでなく、自分が見られる為だったように思うのだ。「見る」、「見られる」、「語る」、「語りかけられる」、それらのメッセージの交換の相手、その相手がいる故に自分を確認できる相手。ウィルソンが象徴するものは一言で言えば、「メッセージの志向性」としての、「相手」であり、「自分」であるように思う。
レヴィ・ストロースによれば、人間が生きるためには3つの交換システムが必要だという。逆に言えば、人間はそのシステムの内部でしか生きられない。この交換システムは、財貨サービスの交換、メッセージの交換、女の交換の3つの水準で展開している。
チャックが無人島で生きるために、映画に登場する3つのアイテムが、丁度この3つの交換システムに符合するのは偶然だろうか。
財貨サービスの交換(経済活動)としてのアイテムは、一つだけ未開封状態におかれた宅配小包。メッセージの交換(言語活動)としてのアイテムは、バレーボールのウィルソン氏。そして、女の交換(愛)としてのアイテムは、遭難する飛行機に乗り込む前にケリーからクリスマスプレゼントとして受け取ったケリーの写真入りの懐中時計に関係づけられるように思える。
勿論、火をおこし、水を確保する事を覚え、魚を獲り、草木からロープ等の日常品を作ることは、生きていく上で根本の技術だと思う。これらの技術を取得する迄の過程は、映画では極めて丁寧にかつい重要に扱われている。でもこれらの生きる根本の技術取得は、この映画において、僕にとっては特に重要ではない。それらは4年後のチャックに唐突に繋がるストーリー設定に重要であって、映画の主眼として注目することではないように思う。
人は生きる最低限の技術を確保するだけでは生きることは難しい。ものを交換し、愛を語り合い、挨拶を含めた様々なことを語り合う相手が必要なのだ。チャックが無人島で生きるためには、生きる技術を含めた最低限の4つが必要であり、チャック自身が捨て去ることが出来なかったのは、この4つのものと云うことが出来る。そのどれ一つ失ってもチャックは生きることが出来なかった。
ある時、島に「帆」が流れ着く。「帆」といっても、実際には運搬用のプラスティックで出来た何かの切れ端にしか過ぎない。それは「帆」として明示された状態で現れるわけではない。「帆」としたのはチャックが、「帆」として使うことを考えたからだ。
「帆」の出現により、チャックは島からの脱出を計画する。いわば「帆」はきっかけに過ぎない。島以外の世界があることは、チャックは既に知っていたし、島に閉じ込まらずにチャックは生きてきた。だから、「帆」に未開封の小包と同じ「天使の羽」の絵を描いたのも、うなずける。その2つのものは「外の世界」という事で繋がっているからだ。小包の持つ「外への志向性」が、「帆」を産んだと僕は思う。
つまり、島という脱出困難な自分の世界から抜け出るために、「帆」は必要であるけど、それは自分の殻に閉じこもり「外への志向性」がない状態であれば、「帆」として利用すること自体思いつかなかっただろう。
きっかけにしか過ぎないことは、脱出の途中で嵐の中、役目を終えたかのように風でとばされ事からでもわかる。
「帆」の出現によりチャックは筏を造る。そして、筏を造る過程の中で、チャックは以前に自殺を試みた事が明らかになる。その話は、映画後半のチャック独白のシーンでより具体的に明らかになる。そこでチャックは自殺を試みたことについて喋っている。
「島からは出られない、孤独のまま死ぬのだと、いずれ病気かケガで死ぬ。唯一残され道、自分の意志で選べる道は、いつどうやって、どこで死を迎えるか」
チャックのいう「孤独」とはいったい何だろう。逆説的なことを言うかもしれないが、「孤独」は全てを知り得た状態で感じるものではないだろうか。彼が自殺を考えたのは、島に漂着してから3年目に当たる。周囲数時間で歩ける島の事を知るには十分すぎるくらいの時間だと思う。
彼は知ってしまった。この世界(島)において、何ら新しいことはない。しかも彼は他の世界を知っているから、その島に閉じこもる事も出来ない。しかし、彼は知ってしまった以上、他の世界に行く事も出来ないのも「知ってしまった」のだ。彼は「知る」ということで、再び自分の世界に捕らえられる。それがチャックのいう「孤独」のような気がする。
自分以外に誰もいないからという、物理的状況からの「孤独」ではないのだ。「知る」ことに捕らえられることにより、「出来ない」につながり、「絶望」に導かれる。
彼が「知ってしまったこと」が事実にせよ、そうでないにせよ、一つ言えるのは、その状況は「島」にいようが「他の世界」にいようが変わることはない。
以上のようなことを、この映画で見ていくと、自ずから解釈の一つの方向性が出てくる。
勿論僕は、自分の解釈に捕らえられている。それはまるでチャックが島に捕らえられたかのようだ。僕は自分の解釈から抜け出るきっかけが欲しいと思うが、やはりそれも「帆」を必要とするのだろう。そしてそれはまた別の物語となる。
そろそろ僕はこの映画の感想のまとめに入らなければならない。チャックが筏をつくり、島から抜け出たとき、この映画は一つの終わりを告げている。あとは物語の後日談としての位置づけでしかないとも思う。
ウィルソンとの不慮の別れも、自分の存在を確認する相手の喪失による、自己の喪失であるように思う。だから、彼はその後に、筏の生命線でもあるオールを自ら手放すのだと思う。
ケリーに懐中時計を返すことの象徴は、僕にとって懐中時計そのものがケリーの肉体を象徴している以上、ケリーへのお別れに繋がる。チャックは懐中時計に貼り付いていたケリーの写真は受け取っている。それもケリーの写真がケリーへの愛情を現しているのであればよく分かる。
最後にチャックは未開封だった小包を宛先に届ける。
「この荷物で僕は救われました。ありがとう」と書いた紙は勿論お世辞ではない。この荷物が意味するものがなければ、彼は死ぬまであの島にいたことだろう。
荷物を届けた後、チャックは偶然に荷物の宛先であるベティーナに会う。ベティーナはチャックに向かっていう。「道に迷ったの?」
チャックは答える、「僕が?」
チャックは道に迷ってはいない。道に迷うとは目的地があり、そして自分の立ち位置が不明なときにおきるものだ。チャックには目的地がない。十字路の真ん中でベティーナが去るのを見て、彼女の車にあの「天使の羽」が描かれているのを発見する。それは、ロマンティックに考えればチャックの新たな「帆」なのかもしれない。
島に漂着する前の彼は、仕事の世界の中に閉じこもり、他者との関係を構築しなかった。唯一の存在は愛するケリーの存在だったけど、チャックはケリー自身も自分の世界に納めようとしていた。チャックにとって、その世界以外に世界はなく、ない以上、他の世界に向かうこと自体考えもしなかった。世界とは何か、それは他者であり、自我でもあるように思う。
それが突然の無人島への漂着で変わる。島は、漂着する前にいた世界の裏返しではないだろか。そこでチャックは他者との関係を逆に構築していった。その構築は前の世界より深く濃密だった。具体的にいえば、小包、懐中時計、ウィルソンがそれにあたる。そしてそこでチャックは人との関係、つまりコミュニケーションをする意味を知ったのではないだろうか。
冒頭に書いた公式サイトの言葉、「今までの人生に起こった最高の事だと悟るのだった」で悟ったこととは、他者を認め、その関係を大事にすることだったように思う。
僕がそう思う映画の中の逸話を最後に載せて感想を終わりしたい。
島に漂着する前に、彼は友人の奥さんがガンにかかり危険な状況にあることを知る。それは、友人である限り、事前に知らされていた話だったと思うが、チャックは友人と一緒にいてもその事を思い出すことはない。同僚の女性が友人に向かって奥さんの状態を聞く。それを傍らでチャックは聞いていて、それで初めて友人に奥さんの話題をするのだ。
島から戻ったチャックは、飛行機の中で友人と言葉を交わす。その際チャックが切り出した話は、まずは友人の奥さんのことだった。彼は心を込めて奥さんのことを語る。
その両者の差は歴然と違う。この差が、チャックが島の体験を通じて得たことに他ならない。
蛇足ではあるが、チャックが行方不明になった時、チャックの事を諦めようと、棺を作り各自色々なものを思いつくまま中に投じた。それらの投じられたものが、友人達が思い描くチャックのを現していた。
携帯電話、ポケベル、エルビスのCD、写真・・・、それらの総和として以前のチャックがあるとしたら、それはなんと薄い存在だったのだろう。

2005/03/25

同一の世界、見知らぬ世界

僕には自分の過去の事件で忘れられないことがいくつもある。別に過去を引きずるつもりはまったくないが、それらの出来事が今の自分に残ると言うことは、きっと自分がその時に解決できなかった故のような気がしている。
解決できなかったとしても、それは悪いことではない、なぜなら時の流れが解決する糸口を与えてくれることはあると思うからだ。でも自分でしか解決できない自分の事件を見詰めることは大事なような気がする。

ランディさんのブログを読むといつもそんな感じを受ける。彼女のブログではいつも事件が起きている。その中でランディさんは考え、もだえ、そして時には行動する。その姿を見ると共感することが多く色々なことを考えさせられる。ああ同じなんだなぁと時々思う。でもランディさんと同じことをするのは、僕にとって限りなく難しい。きっと、社会におきた様々な事件を論じる方が簡単かもしれない。

僕の中では平和を論じたり、社会システムの少しのほつれを見つけて喜び、政治を語ったりする方が、自分の事件を語るよりよっぽど楽なんだと思う。勿論それらは市民として大事なことかもしれない。でももしかするとそういう自分を見詰めることが、それらに繋がっていくこともあるかもしれないと時々思う。

実を言うとこの指摘は、以前に僕のブログで「東京大空襲」の記事を書いたときにsunahahaさんから上記と同じ内容で受けたことがあった。その時は、それは難しいかもしれないと僕の考えを書いてしまったが、後から考えると、僕のコメントも浅すぎたような感じを受ける。僕は、国際政治は企業とかが結びついた「国益」により、争いが起きる場合が多いのではと書いた。でも思えば僕が書いたコメント内容なんて誰でも言えることだ。それを承知で、それでもやはり自分を見詰めることから始めると、sunahahaさんが述べたとすれば、僕のコメントはずれすぎていたように思う。

この考えは、人は皆同じ、話し合えば分かり合える、が根本にあるように思う。僕もそれに同意する。でも同じように、人は個々に違う、人の気持ちは分からない、等とも聞く。そしてそれに対しても僕も同意する。多分両方ともいえることなのだと思う。人としての範囲があり、その範囲内で個々にばらつきがあるけど、上限下限の部分では同じと言うことなのかもしれない。

だとすると、この世界は多少のばらつきがあるにせよ、僕と同じ様な人だらけと言うことになる。確かに僕は人々が美しいと思う風景に感動し、良いと言われる映画に涙し、面白いと言われる小説に夢中になる。勿論、細かに見ていけば、ばらつきはあるけど、一つのものに人気が出ることを考えれば、人の感情はどこかで同じなのかもしれないと思ったりもする。同じだからこそ、ビジネスも成り立つだろうし、会話もできるのかもしれない。

でも、僕は全く違う世界の人と接触したことがある。これからその話を少ししたいと思う。
以前にこのブログにも書いたけど、家は下宿屋を営んでいた。近くに大学が2つあり、多くはそれらの大学生だった。長く下宿屋を営むと、最後の方には僕と近い年齢の下宿人が住むことになる。僕が大学3年の時だった。新たに下宿屋に入ってきた数名の男の中にTがいた。僕らは年も近いこともあり、結構仲良く暮らしていたと思う。麻雀もやったし、酒を飲んで朝まで話し続けたことも何回もあった。

Tは高校から始めたという剣道に熱中していて、大学でもたしか剣道部に所属していたように思う。彼が実家から持ってきた木刀は、長さが1.5mくらいで長くそして太かった。彼は時折、家の前で素振りをしていた。その姿は、熱中しているというだけあって美しかった。
そうやって、Tと他の下宿人達と1年が過ぎ、春休みになった。Tは春休みになっても実家には戻らなかった。かといってバイトをするわけではなく、自室に閉じこもり、なにやら一生懸命に読書をしていた。僕はバイトで忙しく、家には遅く帰るか、友人のアパートに泊まったりしていた。

ある日、僕が家に昼頃戻ったときのことだ。いきなりTが階段をどたどたとあわてて降りてきたのに遭遇した。手にはあの木刀を持っている。顔は真剣そのものだった。何かに追われているような印象を僕はその時に思った。彼は僕を見るなり言った。

「あ、Yさん。魔物が僕を襲ってくるので、僕はそこで待ちかまえています」

彼は確かにそう言った。(魔物?)瞬間に聞き間違えたと思った。
でも確認する間もなく、彼は家の前で木刀を構え、家の通りで大通りへの出口の方を見据え身動きしなくなった。
最初何かの冗談かもしれないと思った。本当にそう思った。それで僕は近くに行ってTに言った。

「T、なにやってんだ。どうしたんだ」

Tは厳しい顔で僕を見返し、「Yさん、すこし待っててください。いま奴らはやってくるんです。ここで待ちかまえますから」といった。

その真剣さに、何か異様な感じがして僕は少し怖くなった。そこで、春休みで実家から戻ってきている何人かの下宿人に状況をしらせようと僕は家に入った。家には2名の下宿人がいた。彼らにTが少し変だと告げ、ちょっと一緒に様子を見て欲しいと伝えた。もとより、仲が良かったこともあり、彼らはそれ以上は何も聞かずに僕と一緒に家の外に出てくれた。

しかし、そこにはTの姿はいなかった。何かしらもの凄い不安感が僕を襲った。
冷静だと思いながらも、実際は少しパニックにもなっていたかもしれない。
みんなで手分けして探すことにした。走った。Tを探しながら走った。
馴染みの商店の人にも尋ねた。そしたら、木刀を持った男が商店街の方に走っていったというのだ。僕は不安感でたまらなくなった。そして言われる方向にさらに走って向かった。

間もなく木刀を持ち、微動だに動かないTの姿を見つけた。人通りが多いところだったし、特にTは商店の近くで身構えていたので、周りの人はTの様子をうかがい、Tの回りには少し大きな円ができていた。通行人は、近寄ろうともしないし、Tの横を通り過ぎることもできない状態だった。

見つけたときは、僕の他にもう一人下宿人の仲間がいた。その男はTより先輩だったので、少し強めに 、「おいTなにやってんだよ。家に戻ろう」と叫んだ。
Tは先輩を凝視し、「いまくるんです。やられるまえにやらなくては」と叫び返した。
そこで、僕とそのTの先輩の二人で、Tを押さえ、少し強引に家に戻そうと試みた。でも彼は二人の力でも動かすことが難しかった。なにやら凄く重く感じた。

「戻ろう、T」
「いやここで迎え撃ちます」
「回りの迷惑になるからやめろ」
「いやです」
「襲ってくるって、誰もそんな奴はいないぞ」

そんなやりとりを、10分くらい続けたかと思う。もの凄く時間が長く感じた。気がつくと、近くにパトカーのサイレンが聞こえてきた。そしてパトカーは僕らの前に止まり、中から警官が3名ほど出てきた。しかも一緒に救急車もやってきた。どうも商店街の誰かが通告したらしい。
触られるのを嫌がり叫ぶTを彼らは取り押さえ、救急車に無理矢理乗せた。僕は警官にいわれるままパトカーに乗り、そしてそのまま病院に行ったのだった。僕は警察で事情を説明し家に戻った。

そのまま病院で彼は何日か過ごしたらしい。それから父親が上京し、彼を連れて実家に戻っていった。それから半年位して、父親が一人で家を尋ねてきた。自宅で静養させるとのこと。でも大学はやめることになった。そうしてTは僕らの前から姿を消した。

今の僕にとって病気というレッテルを貼ることは好きではない。でも、彼には僕には見えない何かが見えていたのは間違いないと思う。また、僕はその時のTを恐れたのは、彼が木刀を持っていたからではない。彼は、木刀を持って人を傷つけることができない男であることを僕は知っている。回りの人はそれを知らないと思うので、商店街の方が警察を呼んだ気持ちはとても理解できる。そして病院に連れて行ったのも正しかったのかもしれない。

その時、僕がTを恐れたのは、全くわからない人、話し合うこともできず、理解しあうことも不可能なそんな存在、強いていえば「異邦人」をTに見たからだった。彼の前では僕は抗うことなく翻弄され続けた。
そして、そのTをその当時の僕は、商店街の人と同じように、その理解できない状態を「病気」というレッテルを貼り安心したのだった。また、病院という社会から隔離された場所に閉じこめること、自宅で静養し僕の前からいなくなることも望んだのだった。簡単にいえば僕はとても恐れたし怖かった。

大人になるに従い、僕は見知っている人が、急に全く見知らぬ人に変貌する状況を何度も見た。そのたびに、理不尽な思いにかられたものだった。大げさには言えないし、世界を語るほどの見聞も持たないけど、多分、この世界は同じ人で成り立っているし、全く見知らぬ人でも成り立っているのかもしれない。そして、この同じ人は、同時に「見知らぬ人」でもあるような気がする。僕は僕の見る世界をどこかで抜けないと、違った世界(違う人もいる世界)を見ることはできないのかもしれない。そんな思いに駆られたものだった。

あの時の僕の経験は、色々なことを考えるきっかけになった。でも僕自身はそれでもやはり変わることはなかった。さらに大きくなり、僕はあの時と同じ状況に再びめぐりあう。そして同じことを繰り返してしまったのだった。この話は申し訳ないが語ることはできない。でも最近の僕はようやく、自分にとって全く理解不能な人、時折でもそうなる人がいることを受け入れ始めている。少しずつだけど。

受け入れるってことは、自分の世界に組み込むということかもしれない。自分の世界に組み込むことで人は安心していられる。でもこの全く見知らぬ人は、自分の世界に組み込むこと自体不能かもしれない。だから不安であり、怖いのだ。僕にできることは、いることを受け入れることしか思いつかない。そのために自分の世界を少し広げることしか手段が見つからない。社会システムの中で様々なレッテルを貼るのは簡単だ。でも誰にでもそれだけではすまされない人がいると思う。それは勿論自分自身を含めて。

たぶん、この話は「見知らぬ人」を書くとき誤った内容なのかもしれない。実は僕にはわからない。わからないで書いているし、僕自身に問いながら書いている。誰かにあてた記事ではないことは確かだ。

2005/03/23

IWさんのこと

今日仕事に使っている携帯に電話があった。見ると前の部署で付き合いのあった業者からの電話だった。会社としては付き合ってはいるが、今の僕の業務では付き合いのない業者だったので、優先順位を少し下げて、とりかかっている仕事を続けた。そうしていたら今度は社内の後輩からメールが届いた。なんだろうとメールを開けてみた僕は愕然とした。電話をかけてくれた業者で以前お世話になった IWさん が亡くなられたというのだ。あわてて、業者に電話した。

間違いなかった。IWさんは昨年夏頃から体調が芳しくなく、医者にかかっていたそうだ。でも原因は不明のままだった。それが昨年の12月になって倒れられたそうだ。それで緊急手術。肺ガンだったらしい。手術は一応無事に終わったけど、その後は抗ガン剤、しかも極めて強い抗ガン剤を続けていられたとのことだ。それでも持ち前の頑張りで、会社の方には5月頃には復帰できるかもしれないと告げていたそうだ。それが急に悪化したのはつい一昨日のことだ。そしてIWさんは帰らぬ人となった。僕より年長だが、50代にはいっていなかったように思う。

IWさんにまつわる思い出をこれから語ろうと思う。私事に近い僕のブログで、この内容はさらに個人的な内容だろう。でも語らずにはいられない。それが、僕が意識する極めて偽善的な態度だと分かっていても、やはり語らずにはいられない。

会社に入り立ての頃の話だ。設立したばかりの会社で僕はサービス開始の検討を行っていた。僕の担当業務は、お客様に請求書を発送し、それを回収し収納するための運用の流れとシステム構築だった。その中の一環として、請求書の用紙選びがあった。用紙と言っても、これはこれで単純ではない。請求書を印字するプリンターは、汎用コンピュータと連携する極めて高速な装置で、使う用紙も限定されていた。それを当時としては珍しく連続帳票でなく単票で印刷することにしたので、さらに用紙の選定が難しくなっていた。具体的に言えば「静電気」と「用紙のソリ」との戦いでもあった。

用紙メーカーは10社くらい抽出し、全ての用紙のテストを行った。その中にIWさんの用紙メーカーがあった。彼は本当に親身になってテストに協力してくれた。設立したばかりで、しかもサービスを行っていない会社である。それでも、今後の成長を楽しみにして、テスト毎に問題点が出れば、それを改善し特別に用紙を作り、またテストへと対応をしてくれたのだった。そんなことをしてくれた会社はIWさんの会社だけであった。それで僕らはIWさんの会社の用紙を選定することにした。

サービスが始まり、数ヶ月経ったことだった。順調にお客様が増え、数ヶ月後には数十万人の規模になった。翌日には印字を開始する時になり、運用者から連絡が入った。
「用紙が足りません。どうすればいいですか?」
急激に増えた顧客数が予想と食い違い、用紙の在庫が底をつき始めたのだ。
それが発覚したのが土曜日。業者に連絡とろうにも、何処も営業していない。僕の管理能力のなさで、大変なことがおきてしまう。焦りと、どうしようもない状況に、とまどうばかりだった。色々とプリンターの能力を使い、小手先で開発し、なんとか帳尻を合わせようとするが、全ては無駄であり、顧客に送付する品質に達してはいなかった。

そこにIWさんからの連絡が入った。問題が発覚したときにIWさんに連絡を取っていたのだ。その時は、IWさんの会社でも用紙を手配できないと言われていたのだが、IWさんはそれでも何とかしようとかけずり回ったらしい。そして、中東に送る船便に、うちで使う事が可能な用紙があることに気がつき、出航する前にその用紙をつかまえ、こちらに回すことができるように手配していてくれていた。しかも、緊急に輸送トラック手配し、こちらに輸送中だとのことだった。手元に届いた、アラビア文字の箱を見たときは力が抜けると共に、本当に嬉しかった。そして少しの遅れだけで、印字を開始することができた。

今でもIWさんの事を思い出すたびに、その事を思い出す。僕の失敗と共に、忘れることができない出来事になった。僕は本当に、IWさんには感謝している。それは、単にビジネス上の問題を解決してくれたから、と言うだけではない。実を言うと、今となってはそれほど重要ではない。僕が感謝ししているのはIWさんの気持ちである。IWさんは、用紙と一緒に僕らに「頑張れ」というメッセージを託されたと思う。そのメッセージに対しても僕は感謝している。

IWさんが亡くなられたと聞いたとき、最初同名別人かと疑った。でも本人である事が僕自信の内で納得したときに思ったのが、「ああ、あの時のお返しができなかった」という思いであった。企業としてみれば、IWさんのメッセージの通りに成長した。それはだいぶ前にIWさんも喜んでいてくれた。でも当の問題を犯した僕にとってはどうなのだろう。そんなことを思ってしまうのだ。

既にここまで読まれた方はおわかりの通りに、僕がIWさんを思うとき、この負い目がある。負い目が罪の意識となり、僕にこの文章を書かせている。その気持ちで書くことは、僕にとっては偽善以外の何者でもない。でも感謝している気持ちは本当だ。

それに亡くなられた方を語ること自体が不遜なのかもしれない。それを語ることができる人は、近い親族と宗教家だけなのかもしれない。どちらでもない僕が語ることはやってはいけないことのような気がする。でも通夜当日の深夜に、この文章を書いている僕にとっては、亡くなられた事実を受け入れつつも、まだIWさんはすっかり亡くなられていないのだ。へんなことを言っているが、これが今の僕にとって正直な気持ちだ。

自宅が近かったので、お子さんを連れているところにもお会いしたこともある。多分今では既に大きくなられたことだろう。お子さんが大人になられたときに、できればこの話をしてあげたい。そう思うのが、今の僕の精一杯のお返しでもある。

2005/03/22

「庭子の部屋」の庭子さんのこと

庭子さんのブログを知ったのは偶然の出来事だった。以前の僕のブログ記事に三好達治の「雪」を掲載したことがある。その時、僕は普段やらないことをやった。それは三好達治の「雪」にまつわるブログ記事を探したことだ。なぜその時のそんなことをしたのかわからない。多分、たまたまその時に知ったブログ検索サイトの能力確認の意図があったのかもしれない。

で、その検索に庭子さんのブログ「庭子の部屋」があった。検索結果の中で庭子さんのブログ記事に気になったのは、丁度僕と同じ時期に同じ詩について語っていたからだ。当たり前だけど、「雪」をテーマにしても書いていることは全然違う。そして、それも僕にとってはとても面白かった。

これが僕が庭子さんのブログを知ったきっかけだった。そしてそれと同時に庭子さんが主催する「たぬき村」についても知ることになる。「たぬき村」はサイトを見ればわかるが、1950年代を遊びながら子供達に生活体験してもらう村だ。その中で子供達は、短いが自炊し寝食を共にする。多分経験することで子供達にはかけがえのない思い出となるとおもう。

僕も大学の頃、友人達と子供達を集め同様のことをやったことがある。それは庭子さんほどの覚悟もなく、集まった子供達と一緒に遊ぶ程度の出来事だったけど、僕にとっても忘れられない思い出となった。その時に僕が苦労しながら作った、子供達が食べるみそ汁の事が今でも忘れられない。

タヌキ村を主催しているのは、NPOとこは生涯学習支援センターで、庭子さんはそれを2001年に立ち上げた。僕は庭子さんとは実際にお会いしたことがない。ブログだけのおつきあいだ。でもサイトに経歴が少し載っていたので、それを読ませてもらった。人は経歴だけでは勿論分からない。でも僕が庭子さんの経歴を読んで思ったことは、自らの力で自らが歩く道を切り開く姿だった。誰でもそうだと言えばその通りだと思う。でも今だに進む道を模索している僕にとっては、とても素晴らしく、そしてとても凄いことなのは間違いない。

最近読んでいる書籍に内田樹さんの「レヴィナスと愛の現象学」がある、その書籍の冒頭に内田さんは次のように書いてある。少し長いが引用する。

『こんなところで私が改めて説教するまでもないが、「知」というのは量的に計測できるものではない。それは情報や知識の「量」のことではない。そうではなくて、「私が知らないことを知っている人」との対話に入る能力のことである。
いま私たちの社会では「学級閉鎖」とか「知的崩壊」ということが深刻な問題になっている。しかし、しばしばここで見落とされるのは、教室でなされる授業にキャッチアップできない子どもたちに欠如しているのは知識や情報ではない、ということである。数学的思考力や英語的読解力とかいうものが彼らに欠如しているのではない。そんなものが欠如していても教育は少しも破綻しない。なぜなら、私たちが学校で学ぶものはそういうものではないからである。子どもたちが学校で学ぶのはある種の「双方向的なコミュニケーション」の進め方である。』

『多くの人が誤解していることだが、「・・・・ができる」と言うことよりも「・・・・ができない」と言うことの方がずっとむずかしい。』
(上記『』内はいずれも内田樹「レヴィナスと愛の現象学」から引用)

内田さんが言うには、「・・・・ができない」と明確に述べられる人は、自分の立ち位置を俯瞰的にしり、さらに行く先(目的)を知っているからこそ言えるのだという。「・・・・ができる」という場合、その目的に関連なく列挙できる。

僕がここで何を言いたいかというと、道を切り開ける人は、今自分が何が足りないかを意識している人だということだ。そして「知」はその時に初めて有効となる道具になる。
また、これは僕の思うところだけど、「・・・・ができない」は人に対して言うべき言葉ではないとも思う。人に対してはやはり「・・・・ができる」だろう。
「・・・・ができない」とはあくまでも自分に向けて言うべきだと思うのだ。

庭子さんの経歴を読んで、僕はこの内田さんの言葉を思い出した。NPOを主催している以上、日々において色々なことがおきるだろう。問題も山積みかもしれない。でも庭子さんであれば、内田さんの言うとおりに、何が足りなくて、それをするためにどうすれば良いのか、誰に聞けばよいのかを知っているように思えたのだった。

先日「庭子の部屋」の記事で、「静岡県共同募金会」から17年度施設整備費の申請が却下されたとのこと。一年近く待たされたうえでの却下に、とても残念な思いを味わったことだろう。

会社であれば、似たようなことは頻繁にある。稟議書を書きそれが否決される。その際社員である僕は、会社の方針としてそれを受け取る。
会社の方針とは、会社の資産配分の戦略的な考えに、当該稟議書の内容がそぐわないと言うことだ。
稟議起案者が否決を妥当と思わない場合、彼は決裁者である経営者を説得しなければならない。でもその時僕は、担当者の立ち位置だけで稟議内容を説得してもそれは無駄だろう。僕は2つの視点で物事を見なければならないと思う。それは、経営者の視線と担当者の視線なのは間違いない。
経営者の視線になって初めて、自分の稟議内容の会社における位置を知ることが出来る。それは担当者の視線では分からないことだ。
つまり僕は2つの視線で初めて、自分の位置を知ることが出来る。

でもこの話は庭子さんが味わった申請却下に対する言葉にはなり得ないし、僕が庭子さんに対しできる智慧も経験も知識もない。
役所への対応は会社とは全く違うように思う。多分、却下の理由も明らかにされていないのではないだろうか。それはまるでルールを知らないゲームにいきなり放り込まれた感覚に近いことだろう。それでも、なんとかされるのではないだろうかと思ってしまう。

人生の先輩に対して、生意気なことばかり言ってしまっている。でも僕が庭子さんの姿に感じたことは先ほど内田さんの文章を用いて書いたとおりなので、このブログ記事もささやかだけど、庭子さんに対する応援のつもりで書いている。平にご海容いただきたい。

2005/03/21

Spell with Flickr



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上は「Spell with Flickr」でつくった「Amehare」。
英文字1つにも、人により表現の違いが違ってくる。
「Spell with Flickr」は、英文字のランダムな画像を並べ、任意のワードを表すFlickrツールだ。出来たワードは、何か元の意味から別の意味へと姿を変えたような錯覚をもたらせる。

確かに世界は記号に満ちている。記号一つ毎に解釈をすることが可能で、しかもその解釈が、その人の国、社会、性別、好み等々に制約を受けるにせよ、その人生来のStyleにより違うとすれば、やはり解釈の組み合わせは無限に近い。

出かけるときにデジタルカメラを持つことが多くなった。初めは、何気なく気になる風景をただ写していたけど、最近は写真って何だろうと考えてしまう。気になる風景に出会ったとき、僕は何も考えずに写真を撮る。それを後で見ると、なぜ自分はこの風景を気にしたんだろう、と素朴な疑問がわいてくるからだ。

写真を撮るという行為。その風景の切り取り方。そこには何かがあるのは間違いない。そう思う。でも僕の少ない知識と経験で、答えを急ぐつもりもない。今考えても行き着く先は決まっている。

写真で「人」を撮れない。僕のFlickrを見れば分かると思うけど、僕は人を撮れない。
それは「撮らせてください」と人に頼めない気弱さ以上に、人を自分の切り取る風景の一部(記号化)にしたくない気持ちが強いからだ。うまく言えないけど、それを行うことは、僕にとっては凄く傲慢な気がする。ただ例外はある。自分に近しい者を撮るときは、相手を記号として見ることが出来ない。多分カメラを向ける相手に近しい感情を持つことが出来れば、僕でも撮ることが出来るのだろう。でもそれを今の僕に望むことは難しい。だから僕は写真家になれそうもない。

勿論、それは僕自身の行為に対しての思いなので、他の人が何を撮ろうと、その様な気持ちを持つとはない。多分、僕自身が「写真を撮る」という行為がよく分かっていないから、そういう風に思うのかもしれない。

解釈の総数は多分無限にあるかもしれないが、僕自身が出来る解釈はたかがしれている。やっていいことと悪いこと、出来ることと出来ないこと、なりたいこととなりたくないこと、好きなことと嫌いなこと、それらが良きにしろ悪きにしろ僕を規定するからだ。

つまりは何事も自分に戻ってくるのかもしれない。でもやはりその考えも、自分だけで考えるのはやめよう。

「独学者」は危険だと色々な書物が教えている。

2005/03/20

昼と夜の狭間

between day and night

図書館に行く道程に高圧電線の鉄塔が立っている。
見慣れている風景。
このまま電線は公園を抜ける。
ただ僕はこの高圧電線がどこから来て何処に向かうのかを知らない。
疑問に思ったこともない。
見慣れた風景の中に埋没する素朴な疑問。

この鉄塔も住宅も、そして眼前の空き地も全て人が造った物。
それを覆うかのような黒い雲が低くせまる。
一抹の不安。

先ほどまで明るい光の中にあった家が、闇の中にとけ込む。
昼と夜の狭間は表象として存在しない。
昼は夜があり区別され、夜は昼により区別され、
その線引きは曖昧故に個人に委ねられる。

でも狭間は昼から夜への時間の流れの中に、
僕の中では確かにある。
最初に僕らが住む地表が闇に閉ざされる。
薄闇の中で、天空の蒼さを僕らは仰ぎ見、
夜の到来を不安、期待、焦り、安らぎの中で待つのだ。

2005/03/19

あれやこれや

レイモンド・カーヴァーの感想文が破綻しそうな雰囲気です。でも続けるつもりです。世の中に意味不明の文章が一つ増えるくらい、どうってことないでしょう。

東京目黒の図書館から予約していた書籍が届いたとの連絡があり、早速行ってきました。
最近の図書館は本当に便利です。ネットで、予約と貸出期間の延長が出来ます。だから、読みたい本があるとまず図書館の検索で本を探し、ひとまず予約しておきます。

自宅は東京の世田谷区と目黒区の狭間に位置しているので、両区の図書館を利用しています。これって結構便利です。両区の検索を使えば、たいていの書籍が借りることが出来るからです。図書館のシステムを大いに利用するようになり、書籍を購入する事がめっきり少なくなりました。

それでもやはり手元に置きたい書籍はあります。最近購入したのが、ビジネス書の「イノベーションの解」、そして内田樹さんの「他者と死者」。内田さんの書籍は現在読んでいるところですが、とっても刺激的で面白い。刺激的とは、内容がレヴィナスとラカンを扱っているので、難しいと言うこと。でもそれを、いつものことながら見事に内田さんがわかりやすく説明してくれています。面白いから、再読する予定。

今日図書館から借りてきた書籍は、雑誌ユリイカのロラン・バルト特集の2003年12月号と宮台真司さんのエイリアンズ。どうやったらロラン・バルトの様な文章が書けるのかって思います。勿論すごすぎて、較べようもないのですけど・・・

「リュウ」という漫画があります。少し前にブックオフで買いそろえました。数店舗のブックオフを、数ヶ月かかり、少しずつそろえていき、やっと全7巻がそろいました。この漫画は昭和61年から63年まで少年サンデーに連載した漫画で、以前に友人の所で読んで、手元にそろえたいと思っていたのです。原作は矢島正雄さん、作画は尾瀬あきらさんです。個人的にはSF漫画の傑作と思っていたりしています。矢島正雄さんといえば、あの弘兼憲史さんとコンビをくんだヒューマンドラマ「人間交差点」を思い出しますし、尾瀬あきらさんといえばやはり「夏子の酒」でしょうか。この二人が組んでのSF漫画。ね、何か面白そうでしょ。

そういえば、映画「ローレライ」を見てきました。一言で言えば、格好が良い!、それにつきます。
主演の役所広司さんって、何を演じても様になるなぁと思いました。たぶん良い意味で役者として癖が少ないからだろうと思いました。実は以前に学生の頃、素人演劇集団に所属していました。だから、隅っこをほんの少しかじった程度に、あの世界を知っているですが、役者になれる人って、何か元々持っている物が違うんだなぁと感じたことがあります。僕は最初から役者になるつもりは微塵もなく、音楽担当で過ごしました。逆に言えばその時のわずかな経験から、効果音は気になってしまいます。「ローレライ」の音楽は、映画の感想と同じく、格好良かったです。(気になって、その程度の感想か!と自分で突っ込んでみる)

何を見ても何を読んでも、感想は良いとしか浮かばないので、こんな感想で申し訳ない。

2005/03/18

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」感想(その2)

僕らがいくら「愛」を語ろうと、語る瞬間から言葉は迷宮の暗闇へと誘う。迷宮の奧には何がいるのだろう。それは犠牲を拒んだ結果産まれた、人肉を食らう異形の者が住むだけなのかもしれない。もしくは聖なる秘宝が冒険者の手に委ねられるのを待っているのかもしれない。でもひとたび、語り漂う言葉を求め迷宮を彷徨えば、僕らは自力ではそこから抜け出ることが出来ない。迷宮の奧から戻るには、愛する者が提供する麻糸をたどるしかないのだ。

レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」の感想を書くつもりでいた。実際に少し書いてもいた。でもいま僕はそれを放棄しようかと思い始めている。
のど元まで出かかった様々な思いが、言葉となって出てこないのだ。僕の中には確かに、この小説を読み、感じた想いが在る。それは、僕らが「愛」を語ろうとしても語れない事だったり、「愛」を成就する為に必要な「第三者の死」という供物の話だったりする。しかし、それらを物語の「あらすじ」と小説の「引用」で説明することの限界を僕は感じている。

もっと自由に、膨らんだイメージだけで読後の感想を書き表すことが出来ないだろうか。そんなことを考える。それこそない物ねだりということかもしれない。結局僕は出来るだけ、慎重に進んでいくことしか出来ないのかもしれない。でも、あらすじの説明と引用は最小限に控えよう。それより自分のイメージを言語化することを考えよう。うまくいかないかもしれないが。

「愛について語るとき」に「愛」そのものを語ることは難しい。「我々の語ること」は「愛」にまつわると信じる経験を語るしかない。その語る言葉は「愛」の回りを漂うだけだ。
タイトルで僕が感じることは、愛について語ろうとするとき、我々は愛とは別の何かを語ってしまうと言うことだった。「愛」に言葉で辿り着くことは難しい。それは語れない何かだからだ。

この小説は2組4人が集まり、ジンを飲んでいる設定から始まる。2組4人とは、僕(ニック)、僕の妻ローラ、心臓の専門医である友人のメル、そしてメルの妻であるテリ、で仲の良い友人同士。
小説のあらすじは、この4人がメルの家の台所で語り合って終始する。レイモンド・カーヴァーの他の小説と同様に、何も特別なことは起こらないし変わらない。何気ない些細な日常の中にある一抹の不安が顔をだす寸前の所で、この物語は終わる。

彼ら4人は「愛」について語り合う。その中で色々な話が登場する。テリが前に一緒に過ごした男性、メルの愛についての考察、事故にあった老夫婦の話、メルが生まれ変わりたい中世の騎士の事。メルの前の細君の話。
それらの話題に共通するものは何だろう。それが逆に言えば「我々が語ること」の何かに繋がると思う。まずは、テリが以前に一緒に暮らしていた男の話をみてみる。

『私がメルと一緒になる前に暮らしていた男は愛するあまり私を殺そうとしたのよ、とテリは言った。「ある夜、彼は私をさんざん殴りつけたの」とテリは言った。「そして私の足首をつかんで居間じゅう引きずり回したの。彼はこう言い続けていたわ、『愛しているよ、愛しているよ、こん畜生』って』

メルはテリの以前の男の行動が「愛」によるものだとは信じることが出来ない。
「僕が話している愛というのは、人を殺そうとしたりはしないものなのさ」
でもテリは頑として、前の男は私を愛していたと譲らない。そういう愛の姿もあるというのだ。

「愛」には対象となるものがそこには在る。そして、そのものとの関係性の中でしか理解できない状況と「愛」がある様に思う。テリはそういう「愛」を理解して欲しいわけではなく、ただ認めて欲しいとメルに望む。

テリの以前の男は、テリとメルの愛が成就する事によりピストル自殺を試みるが失敗する。彼は頭が通常の倍以上に膨れ、3日間意識が戻らないまま死んでいく。その彼をテリは3日間病室で看病する。テリにとっては、自分を愛する故の死なのだから、彼女は彼に何らかのお返しをしなくてはならないと思う。でもメルはその気持ちがわからない。

本ブログは単なる感想なので、自殺について記述するつもりはまったくない。ここで書きたいことは、メルとテリの関係の外に、一人の男の死があったということなのだ。
このパターンは彼らが「愛」を語る話題に全てあてはまる。それは第三者の死、とでも名付ける事が出来る。第三者とは、愛し合う二人に関係ない者の死のことだ。

例えば、事故にあった老夫婦の話の場合には、事故の原因としての「酔っぱらい運転の少年」が登場しハンドルが胸骨を突き破り即死する。メルが時空を越えて生まれ変わりたい中世の騎士は、逆に馬から転落し身動きが取れない状態の中で、見知らぬ相手に愛のために殺される。別れたメルの細君をメルは死んで欲しいと願い、妄想の中で蜂を使って殺す姿を想像している。

愛の成就の為に必要な「第三者の死」の図式に何があるのか、実は僕にはよくわからない。ただ、「愛について語るとき我々が語ること」は「死」についてということであるかのようだ。
(その3に続きます。ただし不定期です)

2005/03/17

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」感想(その1)

レイモンド・カーヴァーを語るときどうしてもはずせない話題が3つあると思う。一つ目は編集者ゴードン・リッシュとの関係、二つ目は後に結婚するテス・ギャラガーとの生活、三つ目は短編小説という小説のジャンルについてだ。特に一つ目のリッシュとの関係は、レイモンド・カーヴァーの作家としての自立性が問題となる話なので、特に人によっては重要かもしれない。

でも僕にとっては、これら三つの話題はそれほど重要ではない。ただ、一つ目の話題について少しだけ触れたいと思う。この話題は1998年にニューヨークタイムズの日曜付録版「サンデーマガジン」に掲載されたD.T.マックスの記事「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか」が出発点となっている。日本語訳は村上春樹氏が行い、書籍「月曜日は最悪だと言うけれど」に掲載されている。

村上春樹氏もこの記事紹介の前置きに書いているが、アメリカでの作家と編集者の関係は日本とはまるで違うらしい。作家は出版会社を固定し、かつ担当となる編集者も固定らしく、作家と編集者の結びつきはかなり強い。編集者が、作家が提出した文章を訂正するのは、珍しいことではない環境がそこにはある。ただ、マックスの記事によれば、レイモンド・カーヴァーの場合、リッシュの訂正と書き換えはその程度を越えているらしく、共著と言ってもいいほどだったらしいのだ。

今回、このブログで書く予定の短編集、「愛について語るときに我々の語ること」についても、その例外ではない。逆に、カーヴァーの「訂正しないで欲しい」懇願にも係わらず、リッシュは自分の考えを押し通し、かなりの訂正と書き込みをこの短編集に対しおこなったとのことだ。

ただ、個人的な印象では、本短編集の標題にもなっている小説「愛について語るときに我々の語ること」について言えば、リッシュの訂正は少なかったのではないかと思う。
勿論、訂正の書き込みがある生原稿を見たわけではないので、確証は全くない。ただ本短編集の後書きにおいて、村上春樹氏がこの小説について述べている、「本短編集に載せるよりは「大聖堂」の短編集に載せる方が文体として似合っている」という一言が、その印象を持った唯一の根拠でしかない。短編集「大聖堂」では、殆ど編集者の訂正はされなかったからだ。

僕は以前のブログで書いたように、作家の自立性にはそれほど価値をおいていない。それ以前に作家の経歴および人物についても知りたいとは思わない。勿論、それらを知ることで、作品解釈において深みを増す場合も多いかもしれない。その場合は大いに知るべき話だと思う。でも今回の様に、カーヴァーの一つの作品に対する感想を書く場合、僕は特に必要生を感じない。

多分、作家の自立性が問題になる歴史的背景として、著作権の確立があると思う。著作権誕生以前にはその様な考え方自体なかったのではないだろうか。
勿論、作家が経済的自立により、創作活動が活発におこなわれる事は望ましいことだと思う。それは読み手である僕らにとっても嬉しいことだ。だから、作家の自立性は、その点においてのみ確定すべき事で、作品が優秀であれば、制作過程がどのような状況であっても気にしない。

例えて言えば、映画制作の様なものだ。映画は大勢が関与して制作される。監督一人だけの力、プロデューサー一人の力、もしくは俳優だけの力では、良い映画を制作することが出来ないのは自明だと思う。
大勢が関与して制作される映画であっても、良い映画は良い。なぜ、小説において一人の作家での創作にこだわる必要があるのだろう。それはある意味、芸術活動に対する神話に我々が縛られているからではないのだろうか。

また僕は本筋から話題を離れさせようとしている。これは悪い癖だ。
レイモンド・カーヴァーについて的を絞り、作家としてどうみるかと問われれば、答えは一つしかない。村上春樹氏も言っているように、「カーヴァーは圧倒的に優れた作家」なのだ。それはD.T.マックスの記事が正しかろうが誤っていようが作家としての評価には関係ない。特に、編集者の訂正が殆どなかった後期の作品群にいけばいくほど、優れた作品を創出している事実があるのだ。

何回かに分けて、レイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」の感想をブログに書きたいと思う。どちらかと言えば長文が多い僕のブログの中で、この感想はひときわ長くなりそうな気がしている。誰が読むのだろう。書く前からそんな心配をしている。

この小説を感想文に選んだ理由は、凄く単純な話だ。読んでよくわからなかったからだ。でもなぜか跡が残る小説だった。そこらへんの理由を僕は知りたいと思った。

小説には面白いかつまらないの2つしかないので、評論とか感想とかで、あれこれと理屈を付けることが無意味だと思っている方が本当に多い。その気持ちは僕にも本当によくわかるし、その考えに同意する。
逆説的に言えば、同意するからこそ、僕は小説の感想を書く。優れた小説を読むのは、一種の快楽に近い陶酔感を読後に味わう事が出来る。僕はその快楽を、さらに得たいと思う。感想を書くのはひとえに快楽への追求に他ならない。

当然に、僕のこの快楽は、ブログの僕の感想を読んでも得られないかもしれないので、一人勝手な行為かもしれない。でもこの快楽はマスターベーションではないと思う。
なぜなら感想とは、関係すべき対象がいるし、僕は対象とすべき相手に強引な手法を使うつもりはない。出来れば繊細なタッチで相手が喜ぶように感想を書いていければと思う。

そのための感想の原則は守るつもりだ。僕にとっての感想の原則とは、決して批判しないこと。つまらない小説は批判する以前に読むことはない。それは快楽以前の話であることも間違いない。

では始めさせていただきます。

2005/03/16

マリテ+フランソワ・ジルボーの「最後の晩餐」

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「パリ大審裁判所は十日、レオナルド・ダビンチの名画「最後の晩餐(ばんさん)」をもじったファッションブランド「マリテ+フランソワ・ジルボー」の広告写真を、フランス国内で使用することを禁じる判決を下した。」
(西日本新聞から引用)
「マリテ+フランソワ・ジルボー」側は、「写真はダビンチの作品を基にしたが、聖書を題材としたものではなく、現代の女性の地位を表した」と述べていた。

それに対し、司法における裁断は、「写真の軽さは、キリスト受難という原画の持つ悲劇的な性質を失わせ、カトリックの尊厳を汚す」として、ポスターの撤去と広告媒体での写真の掲載を禁止した。つまり、このポスターはカトリックの尊厳を汚すことが認められ、その毀損が表現の自由の公益性より高いということなのかもしれない。

仮にこれが日本だったらどうなっていたのだろう。そんなことを妄想する。きっと論点を含め何もかもがフランスとは違っているような気がする。

勿論そうなったときに、どちらが良いとか悪いとかのは話ではない。恐らく論点が違う事が想像できることから、かの国とは社会が違うんだなぁと思うだけだ。

妄想とはいえ、比較する事自体無意味と言うことかもしれないが、関係と比較によってでしか物事が区別できない自分がそこにいるのも事実だから致し方ない。

しかし、僕の目から見れば、十分に美しいと思う。
今回はこの写真をメモしたくてブログに記事を書いた。いわば記事は蛇足である。

2005/03/15

臭い話

「トイレットペーパーで読書できます――。東京都千代田区の出版社がトイレットペーパーの本を売り出し中だ。「トイレットブック」といい、アーティストの荒川修作さんと、妻で詩人のマドリン・ギンズさんによる哲学書「建築する身体」の要約が繰り返し印刷されている。」(朝日新聞から引用
 昔は母から、トイレに入っているときに地震にあったら、その場を動かないようにと言われたことがある。理由は簡単で、家の構造の中でトイレが一番頑強だからだそうだ。ただ、その話を聞いたとき、動きたくても動けないでしょ、と腹の中では思っていたのは言うまでもない。
でも、その様な目でトイレを見てみると、確かに狭い空間に柱が4本でしっかり作られていそうだし、なにより水も補給できる。そのうえトイレットペーパーが書籍だったら鬼に金棒かもしれない。そんなことを、この記事を読んで妙に感心し、一人でうなってしまった。

幼い頃、家のトイレはくみ取り式だった。このくみ取り式のトイレというのは、案外怖いものだ。学校の怪談を例にするまでもなく、何かがトイレの下にいそうな気がするし、少し冷気も来ることもあり、子供の時分は長くトイレにいることが出来なかった。

そのころ生家は、大学が近いこともあり下宿屋を営んでいた。1階は僕ら家族の部屋で、2階が6部屋に区切られていて、6人の学生がそこに住んでいた。下宿屋だから、当然に賄い付きで、朝食と夕食は毎日大家族さながらに食事をしていた記憶がある。
6人もいれば、そこに当然にボス的な奴が出てくるし、そこに小さいとはいえボスを中心とした共同体が作られる。勿論、一緒に暮らしているせいか、共同体と言っても、ぎすぎすとした感じは全くなく、自由でみんなはとても仲が良かった。

2階の一番奥には下宿人用のトイレがあるが、そのトイレがまた異様に臭った。土管で1階のトイレに繋がっているせいか、臭気が2階に上がってくる。しかも喚起は当然にない。だから、2階のトイレは、怖さ以上に臭さで、多分5分も中にはいられない環境だった。特に夏が輪をかけて凄かった。

2階の下宿人達は、時折賭け事をしていた。一時の暇つぶし程度の賭け事で、勝てばタバコかコーヒーをおごるくらいだと思う。でも一番負けた人の運命はいつも決まっていた。そう、ご想像の通りに2階のトイレに5分?10分間の監禁だった。これを決めたのは、やはり遊びとはいえ、真剣さを出すためのボスの采配だったと思う。確かにこれは効果があったようだ。勿論子供だった僕は、後から聞いた話だけど、何でも遊びにしてしまう彼らが面白く思えたものだった。

くみ取り式から水洗に変わることで、トイレに対するイメージは本当に変わったと思う。第一怖さが無くなったし、明るくなった。さらにウォシュレットなどの装備で、冬でも暖かい。そうなると、自然にトイレに長居をするようになる。棚には色々な置物を置き、トイレで読むための書籍とか漫画をおくようにもなる。

でも考えてみれば、今回朝日新聞で紹介している本は、トイレットペーパーに印刷しているということだから、勿論使い道は決まっている。これって反発する人もいるような気がする。さらに、今回は要約と言うことだけど、もしその本を気に入ったら、どうすればいいのだろう?別途購入できればいいけど、既に絶版している書籍だったら、やはりトイレットペーパーのまま本棚に置くのだろうか・・・
書籍の場合、一度読んでしまえば何回も読まなくなると思うので、段々と売れなくなっていく様にも思える。

そうか、連載物にすれば良いんだ。トイレットペーパーだから、それこそ一巻目、二巻目と語呂も丁度良い。そうすれば、続きが読みたくて売れ続けるに違いない。

2005/03/14

夏の思い出

「夏がくれば 思い出す」の歌詞で知られる「夏の思い出」(中田喜直作曲)の作詞者で詩人の江間章子(えま・しょうこ)さんが12日、脳内出血のため死去した。 91歳だった。(読売新聞から引用

夏の思い出」を作詞された方は、ご存命だったんだ・・・・訃報を聞いてまず思ったことがその事。随分と失礼な話だ。でもそれが正直な感想だった。

言い訳をさせて貰えば、この歌が愛唱歌として歌い継がれ定番となったことの証左だと思う。中学校の時に授業で習った気がするし、そのイメージ溢れる歌詞で、未だ見ぬ尾瀬に淡い憧れを抱いたものだった。今でも、ふとした時に口から歌詞が出てくるときもある。いわば名曲だ。こういう曲の場合、作曲家と作詞家は曲の裏側に隠れてしまう。この歌を口ずさむだけで、その人は自分の気持ちを歌詞に同化してしまうからだ。まるで自分の為の歌。そんな錯覚さえ浮かんでしまう。それは音楽の一つの理想型かもしれない。そしてその姿は、多分、江間章子さんの望むところだったのではないだろうか。

以前に人づてから聞いた話、江間章子さんは「夏の思い出」の作詞をしたとき、尾瀬に行ったことがなかったそうだ。少年時分に聞いた話なので、それは確かではないかもしれないが、聞いたときは俄に信じられぬ思いを持ったのは覚えている。でもその疑問はすぐに昇華し、腑に落ちたのも記憶にある。それは歌詞を自分の中で反芻したとき、そのイメージが、僕自身行ったことがない尾瀬への憧れと完全に符合したからだった。

実際にその場に行き、尾瀬を体感したとすれば、きっと歌詞はもっと生々しくなったのではないか。この歌詞での尾瀬はあまりにも透明だ。だから、僕は素直に尾瀬へのイメージをこの歌詞に重ねることができたのではないだろうか・・・。などと僕は納得した様に思うのだ。

もしそうであれば、人が持つイメージを創る力をあらためて凄いと思う。

僕はまだ尾瀬には行ったことがない。日光には数え切れないくらいに足を運んだ。日光は20回以上は行ったと思う。一度川俣湖から奥鬼怒温泉郷を通り、奥鬼怒山縦走経由で尾瀬沼に至るルートを検討したことがあった。これは我ながら素晴らしいプランで、エスケープルートも途中に何本もあり、僕の山の経験でも走破可能だと思われた。でも、最終的にこのプランを山の先輩に相談したところ、即座に「お前の力では無理だ」と言われ、そのままお蔵入りになった。

でも後日に、別の人から尾瀬の名山「至仏山」であれば、日帰りは可能だと聞いた。その場合、東京出発が午前3時頃で、山の登り口までは、全て高速を使った車での移動となる。その話を聞いたとき、尾瀬ってそんなに近いのかと、かなり驚いた。僕にとっては尾瀬はあくまで、「はるかな尾瀬」だったのだ。ただ、日帰りは「至仏山」だけで、尾瀬沼まで足を伸ばせばやはり宿泊するしかないそうだ。

こうやって、色々な方から尾瀬への道のりを聞くと、案外時間にしてみれば東京から近いことがわかる。でもなぜか僕にとっては、尾瀬はいつまでも遙かである。きっとそれは「夏の思い出」の江間章子さんの歌詞に依るところが大きいと思う。そしてこの遙かな尾瀬のイメージは、僕にとってとても大事で素敵なイメージとなっている。

江間章子さん、本当に素敵な歌をありがとうございました。
そして、心からご冥福をお祈り致します。

2005/03/13

読み手の時代

▼ブログで毎日記事を書き続けると、ふと思うことがある。この記事を書いたのは本当に僕なのだろうかという疑問だ。時に過去に書いた記事を読み返したときに、その考えは現れる。勿論、過去を含め記事を書いているのは紛れもない僕自身だ。でもそれらのテキストにおいて、主体としての僕の存在はなぜか薄い。

▼僕にとって主体とは、記事のオリジナリティとは少し違う。
オリジナリティは良く、「誰でもない私の何か」と言われる様に、他の人とのネガティブな関係において導かれるものだと思う。
「Aでもなく、Bでもなく」という具合に、差を較べ、残ったものがその人のオリジナリティと言われるような気がする。
僕の場合、多くの記事は僕にとっての現象の書き写しだったり、書籍から影響を受けての言葉だったり、人の話だったりする。多分、記事の中身にオリジナリティは殆どないが、それらの「語り方」が、他の人と少し違う何かが在れば、それが僕のオリジナリティだとは思う。でも、実はその点に関しては全く自信がない。それでも僕は何とか記事を書いていける。

▼でも記事の主体となると少し話が違ってくる。誰でもそう思うかもしれないが、僕が書く以上、僕の記事は書き手である僕の完全な制御下におきたいと思う。でも一度たりともそれを満足したことはない。いつも、記事は書きすぎるか書き足りないかのどちらかでしかない。また、自分が思っても見ない事を書いたり、書きたいことが結果的に少し違ったりする。その点において、僕が書く記事は、僕の意志とは違った場所に存在している。

▼さらに記事は一回性ものだから、書いている時点でパソコントラブルで消去されたりすると、二度と同じ文章は書けない。その時は、以前の消された記事を思い出し書くことになるが、できあがった文章は以前とは違うし、内容も時として結論も違ったりする。消去前の文章も、僕が書いた文章のはずだが、僕にとってその文章は、僕が書いた印象をもてないのだ。これも、僕が書くテキストを制御していないことの証左かもしれない。

▼なにかこんなことを考えていくと、書くという行為においての主体は確かに存在するが、その結果として生成されるテキストに主体はいないような気になってくる。仮にあるとすれば、テキストが生成する前の段階なのかもしれない。生成以前において書き手は、色々なことを考え、構想を練り、文章をイメージする。その時、書き手は頭の中でテキストを制御している感じを受ける。でもそれがテキストとして、書き手の内から表に出たとたんに、書き手を置き去りにする。

▼読み手から見たときの話をすれば、一部の人気作家を除き、殆どの場合は書き手のことを意識することは少ないように思う。例えばグーグルで検索の結果、僕のブログに来た人は、僕という書き手のことは全く意識していないはずだ。そこにあるのはテキストだけだと思う。検索者が望む内容がそこに在れば、彼は読むだろうし、なければ次の検索場所に飛ぶだけだ。彼にとっては書き手は常に不在なのだ。同じ様な傾向は、ネットで公開している多くの小説についても言えるように思う。

▼ただネットツールの中でブログは、ウェブなどに較べると、書き手が表に出ていると思う。それは、「書く」「読む」の単独の行為の他に、「関係」がそこに入っているからかもしれない。その点でブログの考察をおこなえば面白いかもしれない。つまり、ブログは書き手不在の状況から脱却することを目指した結果、多くの利用者が増えたという考え方だ。

▼2年ほど前だったか、僕は村上春樹の全小説を3ヶ月かけて読んだことがあった。丁度「海辺のカフカ」が出版する少し前のことだ。彼の年代順に読むのでなく、思いつくまま読み続けた。その時は僕の空き時間は全て「村上春樹」だった。最後に「ダンス・ダンス・ダンス」を読み終えた時、村上春樹の小説に完全に飽きてしまった。それ以降、彼の小説は一編たりとも読んではいない。

▼彼の小説には、村上春樹のオリジナリティがあった。しかし、それは彼の小説の内容ではない。僕にとって彼のオリジナリティは「文体」であった。語り方と言っても良いかもしれない。でも村上春樹が書く小説は全て同じ語り方だった。語り方が同じであれば、内容が違ったとしても、読み続ければ飽きるということかもしれない。

▼僕にとって、作家の語り方とは一体何だろう。それをうまく伝える術を現在の僕は持っていない。ただ、文体とも違うし、短いセンテンスで得られるものでなく、全体を通じて感じる何かなのだ。僕が村上春樹で思いだすのは、彼の経歴でも、写真に写された彼の姿でもなく、彼の語り方となる。村上春樹を理解することは、その語り方を理解することに等しい。そしてそれは、村上春樹という人を理解することと同じではない。

▼村上春樹をここに登場させた理由は、人気作家においても、ネットでの「書き手」と同じ状況にあるのではないか、ということを言いたかっただけなのだ。名前を意識しているのは、単に商品名としての名前であり、それは例えば「抹茶のアイスを食べた」の「抹茶」に相当するだけで、グーグルで「抹茶」を検索して得られたテキストと同じ重みしかないと思っている。

▼多分、作家は従来の孤独な文筆作業であり続ける結果、さらに自分の語り方を昇華してしまう結果になるような気がする。でもそれは、オリジナリティの追求ではない。読み手からみれば、それは逆にオリジナリティを薄める結果に繋がるのでないだろうか。

▼多分、現在は読み手の時代なのだと思う。作家にとっては大変な時代を迎えたのかもしれない。作家は多分自ら変革して行かなければならない時代なのだとおもう。その中で、実はランディさんに期待している。ランディさんが、作家になったのが遅かったことと、ブログなどで他の書き手(ブログの書き手)と交わろうとする姿に期待してしまうのかもしれない。

2005/03/12

テレビ三昧

夜は久しぶりのテレビ三昧だった。まず、19時からの「億万のココロ」、続けて「世界一受けたい授業」、「世紀の天才・ダビンチ最大の謎の暗号」、最後に「スマステ4」。
途切れることなく、面白さに釣られて見てしまった。あらかじめ予定していた訳ではないけど、面白かった。

最近のこういうテレビの番組構成って、なにかトレビア的な内容を、短くしかも沢山提示するみたいだ。だから飽きることなく、次は何と言う感じで最後まで見てしまった。でも、見終わった今となって、残っているものは実は少ない。

「世界一受けたい授業」では国語がテーマで、様々な問題が出た。でも内容は特に覚えていない。ダビンチの番組は話題のベストセラー「ダビンチ・コード」を元に作られていたけど、欧米の人ってキリスト絡みだとナーバスになるんだなぁ、という感想しか持たなかったし、スマステ4での日本人移民の話は、大変だったんだろうなぁが一番の感想。

次から次の番組から与えられる情報で、頭を整理する前に次の情報が来る感じで、感想まで浮かぶには至らず、先に感情がきてしまう。笑い、悲しくなり、文句を言い、と忙しかったかも。

でもまぁ、楽しかったのだから良しとしよう。

2005/03/11

田口ランディ「転生」の拙い感想

tennsei▼田口ランディさんの「転生」を読みました。この本はランディさんの初めての絵本で、絵は篁カノンさんが担当しています。絵本の場合、原作ありきで絵を後から付ける仕方もありますが、「転生」の場合は文と絵は同じ目的に向かい、多少の時間差があるにせよ、二人が共同して同時間で作成した印象を受けます。

▼あくまで印象なので、正確にはわかりません。ただ、ランディさんの文体が、「ドリームタイム」もしくはネットでのエッセイと違うことから、そのように感じます。作家であれば、文体は作品によって、ある程度切り替えることは可能でしょう。でも、「転生」の企画段階で篁カノンさんの絵が挿入することは、一般的に考えればわかることから、ランディさんがカノンさんの絵を意識して、文体を決めたと僕が思ったとしても不思議ではないと思うのです。

▼「転生」を少しでも読めば、ランディさんがこの文体を選択した正しさがすぐにわかります。書籍「転生」は装丁デザイン、カノンさんの挿絵、そしてランディさんの文体と物語の内容が、これ以外はないと言う形で綺麗に組み合わさっています。
だから、この本の感想を述べるとき、それら全てを織り込んで行うべきだと思うのですが、残念なことに、僕は絵のことは皆目わからないので、ランディさんが与えてくれる物語について語るしかありません。

▼「祝福もなく呪いもなく、ただ、ある瞬間から私は存在を始めたのでした。存在、存在とは何でしょう。私が私として在る、ということの不可思議。強い意志のような力のようでもあり、法則のようでもあり、でたらめのようでもありました。」
(田口ランディ「転生」より引用)

「私」が存在を始めたときから物語も始まります。「私」は「私」が存在することはわかっていますが、自分が何者なのか、どこからきたのかは知りません。「私」になる前は、微細な流れで世界に満ちていたはずが、在る瞬間に強い意志を感じ「私」になるのです。「私」は形を作り始め生命となっていきます。

▼そのように「私」は何回も転生します。最初は人間で中絶により「生」を終えます。次は奇形の鳥、昆虫、雄犬、人間・・・と様々な形で「生」を経験することになります。
「私」は何回か転生していることを記憶しています。しかし、「生」を受けているときは「私」の記憶はありません。「私」とは一体何でしょう。「転生」の物語にはその答えは最後までわかりません。

▼一つの見方をすれば、「私」はランディさんであり、形作られる様々な「生」は、ランディさんを通して見る世界そのものの様に思えます。自分の中に意識する「私」は、その人の現象によって形成される世界が時間と共に変化するのと較べ、常に普遍で在り続けると思うのです。鏡で見る現象としての僕は、年月と共に変化が生じます。でも僕の中の「私」は年齢による変化をすることなく、「私」は「私」で在り続けるように。

▼「転生」は、上記の見方をすれば、自己の意識と現象により形作られる外部世界の関係を表しているように、僕は思うのです。

「それからまた幾度となく生まれ変わりましたが、なぜか長くは生きられないのです。いつも死の影が色濃く生に寄り添っていて、死を受け入れる準備もできないうちに、死が突然やってきて私を次の生へと運び去ってしまうのでした。」
(田口ランディ「転生」から引用)

▼普遍の「私」がいたとしても、形作られる「生」での私は「私」にとって他者でしかありません。他者の私は、自分の生を全うしたいと本能的に思います。でも常に死は突然に襲いかかるのです。普遍の「私」は、他者の私に同化しなからも、それを他者の目で眺めています。突然の死は、他者の私に対する、普遍の「私」からの思いでもあるでしょう。

僕は僕の知覚を通して世界を見ます。上記の「他者の私」とは、わかりづらい表現をしてしまいましたが、私を通して形作られる世界であり、鏡を通して見る私でもあります。

▼「いつまで変転するのでしょうか。私は捉えられてしまった。この輪廻から脱することができない」
(田口ランディ「転生」から引用)

世界が自己を通して形成するのであれば、そこに僕の思考が大きく反映するのは間違いないと思います。悪く見れば悪くなり、良く見れば良くなると言った具合に。
つまり、客観的な見方は、僕にはできないと言うことでもあります。僕は自分の意識により捉えられ、世界は主観により偏っています。
輪廻は何も仏教的な転生の苦しみだけでなく、自己の意識により形成した世界によって苦しめられることもあるように思います。その循環から、僕はどのようにして抜け出ればよいのでしょう。

▼「転生」では最後に「私」は女性になります。しかし、黒い雨が降り、回りの者達は次々に倒れ、とうとう地球上で最後の1人になるのです。人が死に絶えた静かな世界の中で、彼女は今まで隠れていた家から外に出て、庭の楡の木に抱きついて叫びます。
「どうか私をあなたがたの世界に帰してください」
それから、彼女は全身から血を吹き出して死にます。身体は微生物によって分解され、そのなかで「私」は人間のはかなさと、その他の命の多さに驚きます。

▼「この力は何なのだろう。私を捉えて離さないもの。私を感応させるもの。形ある命を生みだすもの。昔むかし、私がまだ人であった頃に、この力を知っていたような気がします。そうです、この力をかつて人間は、こう呼んでいました。「愛」と。」
(田口ランディ「転生」から引用)

ここに一つの物語の結論を迎えます。意識としての「私」と「愛」は外部に独立して存在するものではないと思います。勿論、「愛」を向ける対象は表にいます。でも普遍的な「愛」は多分「私」とおなじ場所にいると思うのです。それは意識としての「私」を感応させ、その事により「私」をとおして形成する世界に愛が満ちると、「転生」では言っていると僕は思いました。そしてその力は、前記の輪廻の苦しみから、抜け出す力でもあるのかもしれません。

2005/03/10

クローン人間の禁止宣言を賛成多数で採択、国連総会

「クローン人間の禁止宣言を賛成多数で採択、国連総会
国連──国連総会は8日、人間のクローンを禁止する宣言を加盟191カ国のうち、賛成84、反対34、棄権37の賛成多数で採択した。医療目的のヒトクローン胚(はい)から胚性幹細胞(ES細胞)作成も、認めない内容。クローン胚作成に反対する米ブッシュ政権が後押しし、ローマ・カトリック教会の勢力が強いイタリアや中南米各国が賛成に回った。」
CNNーJAPAN からの引用

周知の通りに、クローン技術には、受精後発生初期の細胞を使う方法と、成体の体細胞を使う方法がある。受精後発生初期の細胞を使う方法が胚性幹細胞(ES細胞)作成と言われている。今回の国連総会ではこの両者の禁止宣言を拘束力はないが採択したことになる。

クローンと言っても、人のクローンを誕生させることではない。その可能性は否定できないが、僕にとっては仮にクローンが誕生すれば、それはやっぱり人だと思う。誕生させた人は、その命に責任を持たなくてはならなくなる。そう言うことを、望む人でない限り、誰も人のクローンを誕生させたりはしないと思うのだ。勿論、人のクローンにおいては、その他に倫理面で様々な問題が指摘されている。それらの問題の解決がある程度目処が立たない限り、人のクローンは行うべきではないとは思う。

今回、国連総会で賛成と反対にわかれ議論を戦わせたのは、この宣言にES細胞を含めるか否かだった。ES細胞の場合、そのままでは人にはならない。つまりクローン人間を作るために使われるわけではない。おもに医療面での応用が期待されている。例えばアルツハイマー治療、がん治療、不妊症治療、移植用臓器の製造、医薬品への利用らしい。これらはもちろん理論、研究、技術面で未解決の課題が殆どで、現行では始まったばかりの研究と捉えて良いと思う。

問題なのは、現行の技術ではES細胞を取り出すには、ヒト胚等を壊して取り出す必要があるということだろう。この点が禁止宣言賛成派の「人の命を奪う行為」と言われる所以だと思う。勿論、ES細胞にはこのほかにも様々な未解決な問題もある。ただ、それらはいずれ技術的には解決できる話であるのは、これまでの人類の歴史をみれば明らかだと思う。

今回、禁止宣言に賛成した国は、「人の命の尊厳」を題目にしているが、それが宗教上の理由から来ているように思える。CNNの記事にもあるように、ローマカトリック教会の影響力が強い国々が賛成に回っていることからもその様に見える。米国大統領ブッシュ氏の場合は米国の支持基盤を考えれば賛成に回ることは容易に想像できる。

ただ、人は科学・技術面で目の前に進むべき何かがあると、それに向かって行くものだと思う。現代においてそれを止めることは難しいのではないだろうか。禁止宣言反対派が拘束力がないことを理由に、さらに研究を進め、賛成派の国々との技術格差が広がったとき、さらにその研究が利益を生む市場性があるとわかったとき、賛成派はその時どうするのだろう。

しかし、問題を多く抱え込むのは、反対派の国々(日本)であることは間違いない。現在の所、研究開発フェーズがメインであるので、問題は研究運用レベルのままだが、実用段階レベルに近づいたとき、様々な解決すべき問題が具体化することになる。それらの問題は、多分、今の社会システムでは対応しきれない問題も出てくる可能性が高いと想像する。それらにたいし、従前の仕方に乗っ取った手順で進めることになるとは思うが、できるだけ透明性を高めて欲しい。さらに、広く国民に意見を求め、それがしっかりとした意見であれば、検討することも考えて欲しい。

すこし舌足らずの記事になってしまった。本当は思うことは色々とあるが、どちらかというとそれらの意見はきわめて主観が強い意見(この記事の内容もそうだとは思うが・・・)なので、別途機会を見て記事にしたい。

クローン関係参考サイト
ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する 基本的考え方

2005/03/09

花森安治「戦場」とNHKスペシャルでの東京大空襲

NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」を見た。その時に花森安治さんの文章「戦場」を思い出した。その文章で花森さんは、東京大空襲の経験を散文調で書いている。「戦場」とは空襲にあった地域のことを言っている。しかし花森さんが「戦場」と呼んだ場所は、現代でもそうは呼ばれてはいない。だから、僕は彼の文章をブログを通して紹介したいと思った。
(以下 『』 内の文は全て花森安治さんの「戦場」からの引用です。)
『戦場とここの間に 海があった 兵隊たちは 死ななければ その海をこえて ここへは 帰ってこられなかった』
それまで米軍は軍需工場への爆弾によるピンポイント攻撃に終始していた。その作戦を変えたのはカーチス・E・ルメイ将軍だった。彼にとって民間人を攻撃する理由は、軍需工場の従事者を減らすこと、それと戦意を落とすことにあった。彼は日本の木造家屋を効率的に消失する焼夷弾の研究を行う。その結果できたのが東京大空襲に使用された焼夷弾だった。

この焼夷弾は投下後、空中で複数の焼夷筒に分裂し、日本の木造家屋の瓦屋根を突き抜け部屋の中に刺さる。その後、ゼリー状の燃えた油が飛び散り、家屋を内側から燃やしていく。その焼夷弾が100万発投下されたのだった。

まず攻撃地域の外側をぐるりと爆撃し、逃げ場を失わせてから、その内側を爆撃する。外に出る物があれば、B29の機関銃によって撃たれる。いわば「皆殺し作戦」でもあった。
『地上 そこは<戦場>では なかった この すさまじい焼夷弾攻撃にさらされている この瞬間にも おそらく ここが これが<戦場>だとは だれひとり おもっていなかった』
ある男性は学校に逃げ込んだ、襲いかかる炎をさらに逃げようと、彼は学校のプールに飛び込んだ。そこには既に大勢の炎から逃れた人で溢れていた。彼は、同じように学校に逃れた母と姉と妹の事を気遣うゆとりは全くなかった。
プールの中で人は押し合い、彼をプールの最深部の方に押しやった。プールの最深部は人が立つことができない深さだ。人に押され最深部で溺れる人が出てくる。そして、その溺れる人の上に乗って助かろうとする者もいる。
彼はそういうことにはならなかったが、助かった後に自分の妹がプールで溺れ死んでいるのを発見する。90才近い今となっても、彼は自分が(押すことで)妹を殺したのではないかと悩み続ける。

ある病院の看護婦だった彼女は、このままでは病院ごと患者さんが焼死してしまう恐れから、看護婦全員それぞれに患者さんを割り当て、病院から脱出する。
亀戸当たりまで逃げたとき、逃げる先が炎に包まれていることがわかる。患者さん達は、どうせ死ぬのなら病院で死にたいと看護婦さん達に願い、彼女たちもそうしようと再度病院に戻る。

決死の思いで再び病院にたどり着いたとき、病院は全焼していたが既に鎮火していて、患者さん達と共に一命をとりとめる。でも戻ってこない看護婦さん達が数名いるのに気が付く。戻っていない人は、重傷患者さん達に付き添った看護婦さん達だった。
生き残った彼女は、戻ってこなかった彼女たちの命の重さに、適うだけの人生を送ったのだろうか、と自問自答する人生を送ることになる。

幼い子供を背負い、夫と共に橋に逃げた彼女は、橋の上が人で溢れているのを目撃し、炎から逃れるため隅田川に入っていく。そこは3月の初旬、身も凍る冷たさだ。背負う子供が濡れないように気を遣う彼女。その時、寒さから猛烈な睡魔に襲われる。このままでは子供が危ない。そう思った彼女は隅田川に浮かぶ大八車にしがみつく。でもそこには既に多くの人がいて夫の場所までは確保できない。夫は無表情に隅田川の中で立ちつくしている。
彼女は大八車にしがみついたまま意識がなくなる。気がつくと既に朝、回りに夫の姿はみえない。夫は寒さから力尽き流されてしまったのだ。子供はうなだれ意識がない。子供も全身が濡れ凍死していた。彼女は子供を背負っていたので、背中が濡れず助かったのだった。
子供を守らなくてはならない親が、逆に子供の犠牲で助かったことを彼女は生涯思い続けることになる。

これらの証言は全て、NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」で放映していた内容を僕がまとめた。彼らの証言は尊い。そして誰1人、焼夷弾を投下した米国の話も、戦争に導いた当時日本の政府の話もなかった。割愛された可能性もあるが、放送を見て、彼らが語る表情からそれは感じることはできなかった。正直に自分の思いを語っている様だった。彼らにとって東京大空襲は、日米両国の戦争が原因であることは知ってはいるが、身内が亡くなった問題を自分の内で捉えている様でもある。彼らが見ていたのは、敵と相まみえる戦場の姿でなく、烈しく襲いかかる炎と、そこで焼け死ぬ人、逃げまどう人々の姿だった。
『爆弾は 恐しいが 焼夷弾は こわくないと 教えられていた 焼夷弾はたたけば消える 必ず消せ と教えられていた みんな その通りにした 気がついたときは 逃げみちは なかった まわり全部が 千度をこえる高熱の焔であった しかも だれひとり いま<戦場>で 死んでゆくのだ とは おもわないで 死んでいった』
『しかし ここは <戦場>ではなかった この風景は 単なる<焼け跡>にすぎなかった ここで死んでいる人たちを だれも <戦死者>とは呼ばなかった この気だるい風景のなかを働いている人たちは 正式には 単に<被災者>であった それだけであった』
NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」放映のきっかけとなったのは、最近見つかったリストによる。そのリストには犠牲になった方々の亡くなられた場所が書き示されていた。それによって、犠牲者が自宅からどのように逃げ回ったのかが推測できる。そのリストでは、犠牲者の欄名が「被災者」と明示されていた。

大本営の発表では、空襲があり何時何分に鎮火したとの報告しかなく、犠牲者の数は全国に知らされることはなかった。亡くなられた方は約10万3千人。これは広島長崎の犠牲者を上回る。これ以降、米軍の爆撃は焼夷弾投下中心に切り替わる。でもその対応と対策を当時の政府はなにもしなかった。あの炎の中では、深さ2mくらいの防空壕では何の役にも立たなかったと思う。防空壕の上を数千度の炎が通り過ぎる毎に、その防空壕の中の人は、地獄の責め苦の様な凄まじい死を迎えたのではないだろうか。彼らは民間人で、公式にはそこは戦場ではなかった、だからだれも彼らを戦死者として扱わなかった。そして、その様な死に方がふさわしい人なんて誰もいなかった。
『ここが みんなの町が <戦場>だった こここそ 今度の戦場で もっとも凄惨苛烈な <戦場>だった』
花森安治さんは焼け跡を歩き続けた。呼吸をしている自分を意識することで、自分が生きていることがわかる。そして歩き続ける。沢山の人が死んでいる。その中で花森さんは「生きていてほしい」と願う。しかし自分はこれからどうして生きてゆくのかわからない。
彼が戦後「暮らし」を守る為に戦う様になる。その出発点がこの焼け跡を歩くことだったと僕は思う。
『とにかく 生きていた 生きているということは 呼吸をしている ということだった それでも とにかく 生きていた』
3月10日の東京大空襲以降、数回米軍は焼夷弾による空襲を行う。そして5月の終わりには焼夷弾で燃やす物は東京にはなくなる。
東京大空襲と呼ばれる空襲は、3月10日の空襲を言う。大空襲の「大」とは、犠牲者の数でもあり、使われた焼夷弾の数でもある。でも空襲に遭った人から見れば「大」も「小」もない。
『戦争の終わった日 八月十五日 靖国神社の境内 海の向こうの<戦場>で死んだ 父の 夫の 息子の 兄弟の その死が なんの意味もなかった そのおもいが 胸のうちをかきむしり 号泣となって 噴き上げた』
『しかし ここの この<戦場>で 死んでいった人たち その死については どこに向かって 泣けばよいのか その日 日本列島は 晴れであった』
東京大空襲を計画立案したカーチス・E・ルメイ将軍について、NHKの取材に応じた米軍関係者によれば、倫理観が高いとは言えない人だったらしい。だから、空襲で女性と子供を含む民間人が犠牲になったことについて、なんら逡巡はなかった。

その後彼は、グアム島米軍爆撃隊の司令官となり、広島長崎の原爆投下に深い係わりをもったと言われている。

カーチス・E・ルメイ将軍はその後、航空自衛隊設立への高い貢献が認められ、日本国から勲一等旭日大綬章が送られている。それを送ったのは後にノーベル平和賞を受賞する佐藤栄作首相だった。

政府レベルでは、辛い過去のことを乗り越えて、未来志向で行きましょう、と言うことなのかもしれない。でも僕にとっては政治に未来志向の言葉にウソを感じる。政治はあくまで現実主義という名の「その場主義」だと思うのだ。

両国の狭間で、業火に逃げまどい、焼かれなくなって行った人たちの思いは、花森さんの言うとおりに何処に向かうのであろうか。

明日3月10日00:08に開始した東京大空襲から、もうすぐ満60年を迎える。犠牲に遭われた約10万3千人の御霊が安らかにと祈る。それは少なくとも、この記憶を風化させないことなのだと、今生きている僕は思っている。

2005/03/08

af_blogさんの「優しい時間」の記事

毎週木曜日フジテレビ系で22時から放映しているTVドラマ「優しい時間」が面白い。
色々なことを考えさせられる。でもタイトルの「優しい時間」って何?とも思ってしまう。

僕の気持ちを言えば、毎回ドラマの終わり近くに登場する、亡き妻との語らいの時間が、一番優しさを感じる。
ただこのドラマを見る僕は単なるファンにしか過ぎないので、その世界に埋没してしまい、振り返ると多くを語れない。

af_blogさんのブログでは、「優しい時間」の毎回放送内容を色々な視点で簡潔に短く述べている。
af_blogさんの語る言葉は詩的で美しい。僕はドラマ「優しい時間」を見てから、さらにaf_blogさんのブログを読み、再び感動を味わっている。
この番組が好きな方はぜひとも一度読んでほしいと思う。きっと色々なことを感じると思う。

「もう泣かない もう負けない
思い出を超えられる 明日があるから」
(主題曲「明日」の歌詞から引用)

「明日」を主題にした曲なのに、この曲は僕に郷愁を感じさせる。僕にとって「明日」とは訪れることのない日のことだ。それは僕の心の中にしか存在しない。「明日」は常に未来であり、「今日」は常に過去になっていく。

ただ、「昨日」の出来事が「今日」の僕を縛っているのであれば、たぶん「明日」の僕を縛るのは「今日」の出来事なのだろう。だから、「明日」を考えるということは、「今日」とか「昨日」を考えることと同じような気がしてくる。

この曲が、僕に「郷愁」という名の「感傷」を感じさせるのは、「明日」は僕の心の中に「昨日の思い出」と共にあるからなのかもしれない。
でも「感傷」は僕をその中に止めようとする。僕が生きるということが、連続した行動の流れだとすれば、その場に止まり続ける事はできない。「思い出を超える」という事は、それでも歩き続ける気持ちを持つ事のような気がする。

逆に「明日」だけを思い描いて生きられればと思う。それができれば、きっと楽になるだろう。いやいや、ない物ねだりはやめよう。それらは全て僕の心の問題なのだ。

追伸:レオはまだ戻ってきません。お互いにこの世では一人と一匹。それぞれの生があるのはわかっているけど、できれば再会したいと願っています。

デレック・ウォルコット詩集

200503085d0bf1b5.jpg▼今日はブックオフで「デレック・ウォルコット詩集」を買った。この詩集も105円。紀伊国屋書店のWebで調べてみると、このカリブ海小島セントルシア出身で、ノーベル受賞詩人の日本語訳詩集はこの本だけ、しかも既に絶版しているらしい。これは思わぬ買い物をしたと思う。

▼詩集を購入すると、買った後で少しだけ後悔する。言葉の密度が高すぎるのだ。

「蝋引き屍衣にくるまれた記憶が諸々の河の香りを解き放つ
琥珀色の幼年期に防腐保存されたエジプトの香りを。
温かな マラリア性の森林浴につかっていたとき
濡れた葉が僕の肉に蛭のように吸いついた。幼児モーゼとして
僕は死ぬことを夢みた。僕が見た楽園は
百合の円柱や麦の髪をした天使たち。」
(「デレック・ウォルコット詩集」 「起源」 から引用 訳・徳永暢三)

▼詩題「起源」からの一節だ。たまたまこの詩集の冒頭付近にあり、印象的な言葉が目に付いたので引用してみた。この詩は長大で、このような感じで延々に続く。これをどう読めばいいのだろう。感受性の乏しい僕にとって、詩を読む場合、まず朗読し言葉が体内に染み込むのを待たなくてはならない。それでも実を言うとよくわからない。

▼そのまましばらく時が過ぎ、ふとした出来事で、急に自分の思考に朗読した詩文の一節が蘇る。その時に、そのわずかな言葉の断片を、僕は僕の思考の中で理解する。

▼ある哲学者が言うように、言葉は何かを指し示す「矢印」としての記号に過ぎない。だから言葉が実体そのものを現すことはないと思う。でも僕から見ると、詩人達にとっては言葉をつかって言語体系自体を再構築し、そこから新たな言葉を産み出すかのようだ。新たな言葉は従前の言葉より強く詩人の心象を指し示す。

▼さらに思うと、上記の僕の考え方も違うのかもしれない。もともと心象を表す言葉自体が存在しないかもしれないからだ。だから人は心象を語るとき、普段つかっている言葉を使うしかない。例えば、「起源」の詩文にある「琥珀色」「蛭」「百合」などの言葉も、その言葉自体が持つ「矢印」の意味をぬぐい去れないと思う。だから、詩人は言葉を繋げることで、その指し示す方向を、詩人の心象へと導くように組み立てているのかもしれない。うーん、まだまだ僕にはわからないことが多すぎる。

▼いずれにせよ、僕にとって詩集を読むのに時間がかかるのは間違いない。それは小説の比ではない。だから、多分僕はこの詩集をしばらく持ち歩くことになるのだろう。もしくは自分の気分が乗るまで、本棚に積むことになるかもしれないが・・・

▼さらなる命題。詩が詩人の心象を書き表すのであれば、何故人は詩を読むのだろう。ただ僕が詩を読むとき、詩人の心象を追い求めていないのは確かだ。では一体何を求めているのであろうか。とりあえずの気持ちとしてあるのは、自分の心象がそこにあると言うことだ。つまり自分の心を語る言葉を探しているのだと思う。

▼この記事に書いたことは、とりあえずの思いつきだ。次ぎに同じ事を書いたとき、多分内容は違う様な気もする。でもまぁ、「心根は猿喉の如し」と言うではないか。気にするのはやめよう。

画像はデレック・ウォルコット(DEREK WALCOTT)氏です。

追記:実際にお会いされた方のサイトを読んでみた。その方はセントルシアにホームステイしていた際、浜辺でバーベキューをやっていたところ、デレック・ウォルコット氏が「お腹がすいた」と言っていきなり割り込んできたそうだ。
それがカリビアン風だとか。とても気さくな方で、20世紀を代表する詩人にはとても思えないくらい、すぐにうち解けこんで一緒に楽しんだそうだ。
その話だけでも、彼の人柄が想像できる。

2005/03/07

ベロニカは死ぬことにした

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「ベロニカは全てを手にしていた。若さと美しさ、素敵なボーイフレンドたち、堅実な仕事、愛情溢れる家族。でも、彼女は幸せではなかった。何かが欠けていた。1997年の11月11日の朝、ベロニカは死ぬことに決め、睡眠薬を大量に飲んだ。だが、しばらくすると目が覚めてしまった。そこは精神病院の中で、彼女はまだ生きていた。そして医者は彼女に、心臓が弱っているので、あと数日の命だろう、と告げた。」

(「ベロニカは死ぬことにした」(パウロ・コエーリョ、訳・江口研一)から引用)

僕はこの本を自宅近くのブックオフで購入した。1冊105円の棚に置いてあったこの本を見つけたとき自由経済の恩恵に預かったと感じたものだった。この言い回しは少し皮肉が入っている。古本屋での本の価値は質ではない。それは人気度と流通量の兼ね合いから決まる。本が良質かどうかの価値観は読む側によって変わるので曖昧すぎる。だから質(本の評価)で価格を決める古本屋など何処にも存在しない。

僕にとってパウロ・コエーリョの作品はこれで3冊目だ。「星への巡礼」「アルケミスト 夢を旅した少年」。ブラジルのこの作家の作品を小説ではないと言う方もいると聞いた。彼らはパウロ・コエーリョを神秘主義者だといい、作品をその教本と言うのだ。それほど不思議な雰囲気を彼の作品は持っている。でも僕にとっては小説以外のなにものではない。

「ベロニカは死ぬことにした」には色々な逸話が登場する。それぞれの登場人物によって語られる逸話は、この小説を通じて作者が何を言いたいのかを現している。でもこの小説全体も一つの逸話に過ぎないかもしれない。逸話の中に複数の逸話があり、さらにその逸話の中に逸話がある。

この小説の構造は、僕が以前に読んだ他の2冊と同様のような気がする。作者のスタイルという物かもしれないが、この構造はまるで僕らが「神話」と呼ぶものに近似しているかのようだ。オデッセイが帰郷を目的に様々な旅をするように、彼の作品に登場する人達も自分を求めて旅を続ける事になる。

小説の舞台は精神病院となっている。この舞台設定と、小説の最初に挿入している「王様の逸話」は、端的に彼の主題を表現している。王様の逸話で語られる内容は、単純に言えば、1人を除く全員がおかしくなれば、結局最後に残った1人が回りから見ればおかしくなる、ということだ。作者はこの逸話をもって「普通」という意味を示している。

「普通の生活」「普通の女」「普通の男」「普通の人生」等々、「普通の」がついて語られる言葉。勿論、なにをもって普通と見なすかの規範は個人によって違う。でもそれならば何故、かくも多くの「普通」という言葉が社会には蔓延するのだろう。

「普通」を考えれば「普通ではない」に繋がっていく。僕の中では「普通」についての範囲をどこかで決めている様だ。その範囲の始めと終わりは、一体いつ頃誰によって形成されたのだろう。それを作ったのは自分かもしれない、この国の歴史かもしれない、もしくは現在の社会かもしれない。

でも僕の中の「普通」の規範は、多くの人との関係において、簡単に揺らぐ。そして何処にも普通の人など存在しない事に気が付く。「普通の生活」は「普通でない生活」に繋がるし、「普通の女」は「普通じゃない女」に繋がっていく。

「普通」の規範を共有する事がないのなら、「普通」を語ること自体無意味だと思う。
でも人によっては自己の中にある「普通への規範」に自分を縛り、行動を規制し、それ故にその人を苦しめる。そうパウロ・コエーリョは「ベロニカは死ぬことにした」の中で語っているかのようだ。

小説ではベロニカを通して、これらの苦しみからの解放の糸口を語っている。勿論、この糸口は小説ならではの設定となっているので、現実には適用不能な気がする。また、糸口は解決方法ではないので、読む側がそれを自ら問うて考えることなのかもしれない。

その他にもこの小説の設定から、読む側によっては様々なことを想起することだろう。例えば精神病院という「場」の設定から、集中管理する権力の構造の考えを想起する方もいるかもしれない。もしくは「死」について意識しながら「生」を送ることを考える方もいるかもしれない。それは人それぞれだろう。

僕は「普通」と言うことを考えた。それは「普通」という通念が、規範もなしに流通しているのを感じる中で、知り合う殆どの人が自分の事を「普通じゃない」意識を持っているからだった。僕自身は昔から「普通」について意識することが少なかったので、それは不思議でもあった。

「普通」という意識は、そんなに昔からあるとは思えない。多分近代になってからの産物ではないだろうか。社会システムを機能する為の仕組みがそこにあるようにも思う。

でも意識したことがない、と言いながら確かに自分の中に「普通の範囲」なるものを持っているのは間違いない。それをこの本を通して少しだけ考える事ができた。

2005/03/06

Tokyo Art Beat

Tokyo Art Beat(通称TAB)は、昨年の2004年10月からベータ版で開設している、東京のアート&デザイン・イベント全てを知ることができるサイト。
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様々なカテゴリー別にイベントを紹介していて、さらに自分が気になるイベントもしくは美術館などのスペースの情報を「MyTAB」として登録しておくことができる。カテゴリー毎にRSSフィールドも用意され、かつ望めばチェックしたイベントの開始情報をメールで受け取ることができる。

使うためには登録(無料)が必要だが、携帯からの利用もできるので、東京でのイベントに気になる方にとってはとても便利なサイトと思う。

メモとして記載する。

2005/03/05

Flickrにはまっている

20050305651df445.jpg

最近Flickrに凝っている。Flickrがインターネットの写真掲載サイトであることを思えば、それに凝っているという表現も少し変かもしれない。
Flickrに凝る前に、写真がなければならないので、まずは写真に凝っていて、それでFlickrを使っていると答えた方が正しい様に思えるが、僕の場合Flickrに凝っていると答えた方が正直いって正確だと思う。

つまり僕はFlickrに掲載するために写真を撮り始めたと言っても過言ではない。
でも面白いことに、そう言う気持ちで始めた写真が、最近では徐々に写真を撮る行為自体が好きになってきつつある。

ブログは文章が中心となる。Flickrは写真中心のブログと考えればイメージが近い。言葉は国によって違うので、例えばロシアのブログ記事を僕は簡単に読むことは出来ないけど、音楽と同様に写真は言葉の障壁がないので、ロシアと言わず世界中の写真が見る事ができる。

素晴らしい写真に出会えば、コメントも簡単に書き込むことができる。勿論日本語も使える。英語圏の人に対しても、最近は翻訳サイトもあることだし、メール・コメントレベルのコミュニケーションであれば、何も問題ないと思う。

誰かが言っていたが、写真は撮った人のイメージが一枚に全てを凝縮しているので、文字通り一目見てわかる。書籍は最後まで読まなければわからないし、音楽も同様だろう。一目見てわかるのは絵画の他は写真くらいの物かもしれない。

だから、メディア媒体の中では今でも一番ジャーナリスティックだと思う。もしかするとネット上では世界中の出来事を伝えるのが一番早いのがFlickrかもしれない。

Flickrは既に今年の2月で開始1年を迎えた。日々の新規加入者は凄い勢いで伸びていると聞いている。できればもっともっと参加して欲しいと思う。

Flickrを使っての遊び(メモ)
・ブログ「BlogTea」に「Flickr始め方簡易マニュアル」があります。

Color Fields Colr Picker
Flickrに登録してある写真を色で選ぶことができます。まずは触ってみて下さい。なかなか面白いです。

Longline Tool
Flickrに載せているLongline Tool用の写真を使い線を繋いでいくWin用ソフト。画像はこのソフトで作ったサンプル画像。

Zeitgeist
僕のブログにも載せている、Flickr掲載写真を見せるためのツール。Flickr登録者のブログにはたいていこれを載せています。色々と設定が可能です。

flickr graph
flickrでのつながりを視覚的に表すツールです。でもcontactでのつながりがなければ、使ってもあまり意味がないかも・・・
・Flickrに載せている写真を集めて作った「ヴィーナスの誕生
Flickrではタグを写真に付けることで、まとめて見やすくすることができる。このモザイクはタグ「Love」の写真3528枚で構成している。

ヴィーナス

2005/03/03

ランディさんの小説「私に似た人」感想

「だけど、それが私だし、頭でわかっていることでもどうしようもなく破綻した行動をとってしまうこともある。それもまた個性だと思う。そういうダメな自分を家族や友人が見守って好きになってくれるから、この世界に愛があることを実感できたりする。」
(田口ランディ 「まかせる……ということ」から引用)

▼このブログに掲載している資料「まかせるということ」を読んだ。ランディさんの言葉ではないが、貴重な言葉の数々だと思う。ランディさんはこれらの言葉を「「マニュアル」でもなく、「道しるべ」と思って読んでもらえるといいな」と言っている。でも僕にとっては、「ダメな自分を家族や友人が見守って好きになってくれるから、この世界に愛があることを実感できたりする」のランディさんのひと言の方が救われる思いがする。

▼小説「ドリームタイム」の中の一編「わたしに似た人」の中で、ランディさんと一緒に旅した熊井道子さんはランディさんに言う。
「私ね、実は、田口さんが私のことをどう書いてくれるか、それを読んでみたかったの」
熊井さんはさらに続ける。
「(略)・・・そして、私がどんなふうに見えるのか、田口さんの世界の登場人物になってみたかったんだと思う」
それから二人はたらふく飲んで、すっかり酔って布団にもぐりこむ。そしてランディさんは石の視点で人間の事を眺めている夢を見る。そして朝、まだ布団の中にいるとき、ランディさんは次のように考える。
「(略)・・・私がどんなふうにみえるのか誰かの視点で書いてほしい。私をその人の世界に書き写し、意味を与えてもらえたら、きっと救われるだろう」
(「」内は田口ランディ「わたしに似た人」から引用)

▼きっとランディさんが書き表す熊井さんのことは、熊井さんの実体ではないと思う。でもそれを言ったら、熊井さん自身、自分が何者かわからないかもしれない。そう、それはまさしく今の僕と同じだ。本当に辛いとき、そんな中から自分を見つけたとき、振り絞るように語る言葉。その一言を発したときにも残る一抹の疑問。そしてさらに語り続ける。でも語れば語るほど実体から遠ざかる。もしかしたら、僕は自分のことを語ることができないのかもしれない。そんなふうに思う。

▼自分を語れない言葉。だから人に語ってもらうしかない。でも人に語ってもらう言葉は、語る人の世界に位置づけされる自分でしかない。それは書き手の思考によって、ある意味偏った姿の書き写しとなって、書き手の世界に位置づけられる。それでもきっとランディさんの言うとおりに救われることだろう。

▼僕にとって他者とは一体何なのか。それに僕も他人から見れば常に他者であり続ける。仮に僕が地球上で最初から1人だけだったとする。他には誰もいない。その時、僕は自分が孤独であると感じるであろうか。多分感じることはないだろう。人は他者との関係性において、言葉を作り社会を作りそして自分を作ると思うからだ。だから「孤独感」は他者との関係の中で産まれるような気がする。

▼ランディさんの小説「わたしに似た人」を読んだとき、漠然とそんなことを考えた。「わたしに似た人」とは、ランディさんと熊井道子さんの事だ。二人が似ていると言っているのは共通の友達である。二人はそれまで似ているとは意識したことがなかった。小説の中でもランディさんは自分から、この点が似ている、あの点が似ていない、などと評する事は一度もない。ただ、ランディさんにとって熊井さんとの同行は気を遣うことがなかった。それはまさしく「わたしに似た人」だった。

▼作家は何らかの現象を元に小説を書くとき、その小説の世界が作家の主観から創出している以上、併せて自分の事を書いていると思う。その中で「わたしに似た人」を書くと言うことは、どういうことなのだろう。僕が感じたのは、自分を語れない言葉を使い、他者との関係を小説中に記載する中で、(自分に似た人を書くと言うことは)、とりもなおさず結果的に自分の事を具体的に書くと言うことだった。小説の中で、ランディさんと熊井さんは、お互いにとって他者でありながら同一化している様に思えた。

▼「道子は丸い背中を私に向けている。目の前に道子の背中がある。その背中がとても愛おしかった。ああ、生きているんだなぁ、ってそう思った。熊井道子っていい奴だし、私は道子を好きになったみたい。
「あたし、熊井道子について、書いてみようかな」
思いは言葉にすると大げさだし、言葉は傲慢な道具だ。でも細心に注意深く、道子について書いてみたくなったのだ。」
(田口ランディ「わたしに似た人」から引用)

▼他者と自分との区分けが曖昧になっていく中で、ランディさんは熊井さんの背中をみて、生きてるんだなぁと感じ、好きになっていく。僕はこの小説の中で上に引用したこの部分が大好きだ。熊井さんに対する友情と信頼を感じる。それはランディさん自身に向けた言葉でもあると思う。

2005/03/02

S.W.ホーキングの「私の信念」

S.W.ホーキングの「私の信念」という文を読んだ。ホーキングが1992年にイギリスで講演した内容となっているこの文章では、彼が自分の信じる科学論を率直に語っていて面白い。日本ではNTTデータが企画してNTT出版が発行した「S.W.ホーキング 宇宙における生命」(佐藤勝彦:解説監訳)の中の一編として掲載している。以下「」内の文章は全てこの書籍から引用した。
「私は物理理論とは観測結果を記述するための数学的なモデルに過ぎないという立場をとります。ある理論がよい理論であるのは、すっきりとしたモデルであり、広い範囲の観測を記述し、新しい観測結果を予言できる場合です。それを越えて、その理論が真実に対応しているかと尋ねる事は意味がありません。なぜなら私たちは真実とは何かを知らないからです。」
ホーキングは哲学者がお嫌いらしい。講演の冒頭では科学哲学者に対し苦言を呈している。曰く、哲学者達は基礎的な数学の知識を持ち合わせていない、また新しい理論を作ることができないから哲学者になったとも言っている。よほど過去に科学哲学者達に嫌な思いをさせられたのだろうか。

長い間科学は「真理」を探求するものだと信じられてきた。でもホーキングはそうは考えてはいないようだ。それは上記の意見を読んでもわかる。彼はあくまでもすっきりとした理論を求めている。

まず数学的モデルがあり、それが観測データを説明することができて、かつ新たな観測結果を予測することができる。でも「真実」とは何かを知らないから、当然に較べることができない。よって、如何に優れた理論であっても、それはその時点で優れた理論でしかない。逆に言えば、真実は気にしなくても物理理論は十分にやっていける、と言うことになるのだろう。これは僕もそう思う。
「探求され、理解されるのを待っている宇宙が存在すると考えているという意味で、私は実在論者であるといえるかもしれません。」
実在論には色々な考えがあるが、ここでは単にホーキングは宇宙は自分たちとは別個に存在すると認識している、と自分の思考を言っているに過ぎないと思う。何故なら、ホーキングにとっては、宇宙とは数学的モデルによる理論によって理解されるもので、それは日常に使われる言葉によってではなく、かつ「真実」と同様に誰も「宇宙」の実体を知らないのだから、優れた理論が作られたとしても、それで宇宙を理解したとは誰も言えない、と言うことになる。

仮にホーキングが熱烈な実在論者(しかもプラトン実在論者)だったとしたとき、彼の考え方では実在に到達すること自体が難しいように思え、結果的に矛盾をきたすのではないだろうか。

でもホーキングにとってそんな事はどうでもよい事なのだろう。多分そういう議論は彼にとっては時間の無駄と思っているのではないだろうか。前段にあるように、そう言うことを考えなくても十分に物理という学問はやっていけるのだ。

でも、この「やっていける」と言うのが、僕としては少し怖い。これは物理だけに止まる事ではないとも思う。多分、人は前に突き進んでいくのだろう。これはどうしようもない様な気がしている。人は今後も遺伝子組み換え技術はどんどん発展させていくだろうし、クローン人間だって作ってしまうかも知れない、核融合より強力で不安定なエネルギーを開発するかも知れないし、ロボットは人間と同じ知能を持つかも知れない。それら様々な新技術を「嫌だ」「良いんじゃない」等と議論している間に、それらはコストが見合えば実用化して行くと思う。

僕が少し怖いと思うのは、環境問題もそうだけど、新技術の多くは僕らの子ども達、そしてそれに繋がる多くの子ども達に影響を与えるだろうと思うからだ。たとえば、遺伝子組み換え作物の事を嫌がる人が多いが、実際にそれが人体に影響を与えていると言う証拠はない。でも多くの人が嫌がるのは、自分に繋がる多くの子孫達に与える影響を考えているからではないだろうか。「わからないけど、なにか長い目で見たら危なさそう」、「自分には影響がないけど、子ども達とその子ども達に影響が出るかも知れない」等と思っているからの様な気がしている。

影響が出るかも知れない、出ないかも知れない。それは誰にもわからない。遺伝子組み換え作物であることを食べる人が選択できる事が、まずは必用な気がする。選択もなしに与えられる状況が一番怖い。「やっていける」事に「やるな」の合意を得る事が難しいのだから、まずは選択できる事、そして選択した結果によって差別が生まれない社会が必用だと思う。

2005/03/01

レオが戻らない

以前にこのブログでも書いたと思うけど、ウチには猫が2匹同居している。しかし、現在その内の一匹が行方不明となっている。ふらりと表に出てそのまま戻ってこない。既に5日間もたっている。その間に雪も降ったし、寒い日も続いている。かなり気になっている。

行方不明になっているのは「レオ」。名前はいかにも格好いいが、実際は変な猫だ。何処が変だと言えば、以前のブログ記事にも書いておいたが、とにかく変なのだ。

およそ猫らしくない。少なくとも「猫」という名前で指し示される生き物ではないと、レオを見る度に思う。
これは飼い主が自分の愛猫を特別に思うあまりに勘違いしている、と思われる方もいるとは思う。確かにそういう気持ちはあるが、家に客が来て、その時たまたま傍にいたレオをみて言う言葉が、「猫・・・ですよね・・・」と確認をとることが度々ある事を思うと、あながち「親ばか」の発想とも言えないような気もする。

レオには放浪癖があり、必ず1日に1回は表に出ていた。しかも近所に飼われていた美人と誉れ高い雌猫が彼女だから、どういうわけかもてるらしい。
毎日その美人猫はレオを呼びに来る。そして家の塀に座り、レオが出てくるまで泣き続ける。
レオもその声を聞いたら表に行きたくなるらしく、窓の傍で「わ?ん」となく。それから2匹連れだって奧へと消えていく。それから、深夜、もしくは明け方になって戻ってくる。

寒かろうが雪が降ろうが、はたまた雨が降っていようがお構いなしに、そういう日課が続いていた。

5日前も彼女がレオを誘いにやってきて、そのまま出たっきり戻ってこない。おかしな事にレオが戻っていなければ、その美人猫も呼びには来ないようだ。
だから、最初は彼女と仲良く過ごしているんだろうと思っていた。そのうち雪が降って寒い日が続いた。

以前にも雪が降ったとき、表に出てそのまま翌日まで戻らなかったときがあった。
ついでに言えば、雪だからと外には出さないように心配るが、レオは隙をみて表に遊びに行ってしまう。だから、雪で寒いと言っても、そんなに強くは気になることはなかった。
でも5日間も戻らないとなれば話は違う。

以前にもこういう事はあった。たしか夏だったと思う。その時は4日間ほどして、ドロドロになって戻ってきた。
ドロドロとは文字通り体中が汚れていると言うことだ。家に入ってレオは、まず少しおびえた感じで僕をみる。それは「怒っているかなぁ」と相手の様子をうかがう感じに見えて、思わず笑ってしまう。
笑う様でレオは安心したのか、食事を出せとうるさく鳴きまとわりつく。仕方がないので猫缶を一つあけると、まるで今まで何も食べていなかったかのように、貪り尽くす。その所作をみて、こちらは再び安心してしまう。

昨日、レオの彼女が塀を歩いているのを見かけた。いつもであれば家の前に止まり、レオを呼びだすのに、今回はそう言うそぶりも見せずに、そのまま通り過ぎていく。
レオは彼女と一緒じゃなかったのか。そうわかると何かしらどす黒い不安がもたげてくる。
実を言えば一抹の予感が自分の中にあるのも事実なのだ。それはもしかしてこのままレオは戻ってこないのでないかと言うことだ。

勿論そうなって欲しくはない。でもいくら飼われていると言っても、レオにはレオの命があり、それは人間の僕には計り知れない事でもあるのだ。
共に頑張って生きている。レオが自分の生を僕の所以外に求めたとしても、それはそれで致し方ない部分もある。ただ、戻ってきて欲しいと願う気持ちは強く僕にはある。
そうなのだ、そういう気持ちの間で僕は揺れている。

追記(2005/3/2)
そう言えば以前に、レオが家を出る夢を見たことがあった。まさか、正夢?