映画「キャストアウェイ」をDVDで見た。感想を書きたいと思う。この映画の感想を書くにあたって、ネットで他の人の感想を大いに読んだ。当時話題を呼んだ映画だけあって、感想の量も多かった。当たり前だけど、一人一人毎に感想は違う。言葉だけで感想を分類すれば、多分かなり整理できるかもしれないが、そんなことは無意味だろう。それに僕の琴線に触れる感想もなかった。感想は人それぞれなのだから当たり前なのかもしれない。
「キャストアウェイ=CASTAWY」とは余分なものをぬぐい去るという事だ。キャストアウェイの公式サイトに書いてあった以下の文章がそれを物語る。
「4年が経ち、チャックはまったく生まれ変わった人間として文明社会に戻る。そして、彼は、これまで所有していたもの、大切だと思っていたものをすべて失ったことが、今までの人生に起こった最高の事だと悟るのだった。」
(キャストアウェイ公式ページから引用)
上記公式ページの文章は唐突に現れる。多くの人の感想を読んだけど、上記の文章に到達した方はかなり少ない。例えば最後のチャックの独白シーンでのセリフ。
「これからどうするか?息をし続ける。明日も太陽が昇り。潮が何か運んでくる。」
そのセリフと上記公式サイトの言葉との開きはなんだろう。このセリフをはくことが、人生最高の時と悟った男の言葉とは個人的にはとても思えない。映画として失敗したのだろうか。それとも僕の見方が浅いのだろうか?
実は、人生にはあらかじめその人が持っている生きる理由など無いのだと、この映画は云っているのであろうか。僕が生きる理由は、だた「呼吸をして」生き続けること。そしてその原点に戻ること、新たな贈り物への喜びを知ること、が人生においてもっとも素晴らしいことだと云いたいのだろうか。
正直言えば、現時点では僕はよくわからない。だからこそ、この映画の感想を書きたいと思った。
毎度の事ながら、この記事は評論ではない。たんなる感想だから、どこの言葉を見ても、そこに批評性は存在しないことをあらかじめ伝えます。
チャックが失ったものとは何だろう。いや、質問はこうすべきかもしれない。「チャックが失えなかったものはいったい何だろう」、失えなかったものを洗い出すことがこの映画で語りたかったものなのかもしれない。それが僕の感想への糸口だった。
映画「キャストアウェイ」は2001年公開のアメリカ映画だ。主演はトム・ハンクスとヘレン・ハント。二人とも好きな俳優だが、ヘレン・ハントは重要な役柄だが出番は少ない。それはこの映画の設定が現代版「ロビンソンクルーソー」だからだ。
チャック・ノーランド(トム・ハンクス)は世界宅配便フェデックスの敏腕システムエンジニア、ほぼ仕事中心で世界中をかけずり回る。そんな彼が飛行機事故に遭い、南海の孤島に漂着してしまう。過酷な環境の中で彼は4年間生き抜く。ある時島に漂着した「帆」を見つけ、それを使い筏で島を脱出する。再び戻った彼は、恋人のケリーが既に結婚しているのを知らされるのだった。
映画の冒頭で、ロシアにフェデックス事業を立ち上げるために出張したチャックは従業員を前にして叫ぶ。
「『時』は炎のように我々を滅ぼすか温めてくれる。我々は時間に縛られて生きている。『時』に背を向けたり、『時』の観念を忘れることは、この商売では大罪だ」
彼の必需品はポケベルとシステム手帖。会話の話題は殆どが仕事にまつわる話になる。彼はいわば、フェデックスという共同体の中でのみ生きている。
企業の中では、その事業体の内容如何に関わらず、一つの考えで統一される。それは、いかにして儲けるかである。そのために顧客を考え、社会を考える。もしくは、新たなサービスを考え、従来業務の効率を上げるために模索する。
その点において、経営者および従業員の言葉と思想は統一され、お互いがあたかも自分の分身のように語り合うことが出来る。それが良いか悪いかの話ではなく、企業が持続し成長を続けていくためには、構造としてそのようなシステムを持たざるを得ないということだと思う。そのシステム名は「企業文化」と呼ばれる。
だから、チャックにとって、回りは常に自分の分身である。ロシアであろうとアメリカにいようがそれは変わらない。同じフェデックス社の人間であれば誰でも自分の言葉は通じると思っているし、実際に通じ合える。
チャックにとって、他人とは自分の複製でしかない。そしてその複製達で造る世界を疑いなく受け入れていた。彼にとって世界はその意味で周知であり完璧であった。彼はその世界に引きこもった。そして自分が引きこもっていることさえ彼は知らなかった。
「引きこもり」は何も家(部屋)から外に出ない形態だけを指しているのではないと思う。家を「家」、外を「外」と括弧でくくれば、それは「家」と「外」の持つ象徴性により「引きこもり」の実体が見えてきそうな気がする。
実際に社会に出て働く人の中にも「引きこもり」は多い。
例えば、会社で遅くまで仕事をし自宅に帰って妻と子供らと多くを語らないお父さん、家庭の問題を会社の論理で解決しようとする人、等々。チャックの姿は現在の僕の姿でもある。
なぜこれらの「引きこもり」が問題にならないかといえば、それは経済活動の有無でしかない。企業にとって見れば、家に引きこもる場合、消費活動において何のメリットもないのだ。また家の経済状態においても負担を強いられ、それが結果的に消費活動に停滞を与えることになる。だから、「引きこもり」の本質でなく、形態にこだわるのだと思う。それは、とりあえず問題にはならないからだ、将来「離婚問題」、「親子の断絶」に繋がるとしても。
この話題は、本記事から少々逸脱しているので、話を元に戻す。
そんな彼の世界が崩壊するときがくる、それが飛行機事故であり無人島への漂着であった。
無人島に漂着した時、始めポケベルが使えるかどうか確認し、同様に島に漂着した宅配小包を集め仕分けする。彼にとって宅配小包はお客様のものであり、中身を見ることは企業倫理に反することである。宅配小包は必ず相手に送り届けなければならない。
それが変わるのは、その島で一番高い山の頂に立ち、島を俯瞰することで、無人島であること、孤島であること、の判明が一番大きいと思う。彼はその新たな世界で生きる事を強いられたのだ。
その状況下で、夜半に遠くに汽船の灯が見える。彼は夢中で遭難時につかまっていたゴムボートに乗り汽船の灯を目指す。でも願いは叶えられない。島に打ち寄せる大波により、外海に出られないのだ。彼は完全に島に閉じこめられていた。
彼は島に戻される。そして彼は宅配便の箱を開封する。理由は島で生き延びる為に使える物を探し出すことだったが、そこから出てくる物は、彼が今いる世界(無人島)では、即時利用可能な物ではなかった。
この宅配物の開封は、彼がフェデックスという共同体からの逸脱を意味する様に思う。それは彼にとっては元の世界の崩壊でもある。でも全てを開封するわけではない。一つだけはどうしても開封できなかった。
この映画には重要なアイテムが3つ登場する。
その一つが未開封の小包である。なぜチャックはこの一つを開封できなかったのかは多分問題ではない。問題はチャックは全てを開封できなかったと言うことだと思う。この一つが選ばれたのは偶然だろう。
小包はチャックの仕事を象徴していると思う。それは、無人島に漂着してもなお仕事に離れられない姿を見せているのでもない、と僕は思う。そこにはフェデックスという会社の存在は薄い。
また小包は差出人がいて宛先がある。小包自体が人と人を繋ぐ象徴でもある。彼にとってこの小包は宛先に届ける意志を持つことで、この島から抜け出す気持ちを忘れない、という事でもあるのかもしれない。
だから、僕にとってはこのアイテムは、複数の象徴からもたらされる、島でない「外の世界への志向」を現しているように思う。この開封されなかった小包の意味は重い。このアイテムがなければ、チャックは元の世界の「引きこもり」が、この島での「引きこもり」と場所を変えただけの状態に陥ったことだろう。
重要なアイテムの二つ目は、遭難する飛行機に乗り込む前にケリーからクリスマスプレゼントとして受け取ったケリーの写真入りの懐中時計である。この懐中時計はケリーの祖父の遺品でもある。いわばケリーから家族の一員として受け入れられたことを表す懐中時計でもある。この時計をチャックは受け取ったときに、ケリーが住む町の時間に合わせ「ケリータイム」と命名する。懐中時計の裏蓋にはチャックが最も好きなケリーの写真が貼り付いている。
この懐中時計はチャックにとってケリーそのものだったと思う。島で彼はネックレスのように首につけ肌身離さずにいた。いわば、懐中時計の時計部分は彼女の肉体そのものだったかもしれない。そして写真は彼女への愛情だと思うのだ。だからチャックにとっては、写真と懐中時計は一体になってケリーそのものだった。つまり懐中時計は「愛」の象徴だった。
三つ目のアイテムは、チャックが開封した小包の一つであるバレーボールから作られたウィルソン氏だろう。チャックはバレーボールに自分の手形を押し付け、それをウィルソンの顔にした。それはまさしく自分の手形(分身)であった。
ウィルソンは常にチャックの傍らにいて、チャックと会話をする。いわば、ウィルソンはチャックの視覚的に表された自我と言ってもいいかもしれない。映画の中で徐々にウィルソンは自我から鏡像、他我と変貌していく。無人島生活の後半では、ウィルソンはチャックの批判者として映画の中では登場する。
(島を出る間近にはチャックとウィルソンは喧嘩をするほどになる。その時チャックはウィルソンに向かって「バレーボール」と差別的?な表現をしウィルソンを海に投げ捨てる。でも、その瞬間チャックは後悔し謝りながらウィルソンを捜し出す)
チャックはウィルソンの批判に折り合いを付け自分の意見を多少修復するか、その意見を糧に自分の信念をさらに強める。その時点で、チャックにとってウィルソンは他の人と同じだった。
でもウィルソンが自分の手形から発しているので、他我以上の存在にはなり得ない。しかし、それでもチャックはウィルソンを媒介して自分の存在を確認している。自分がここにいるという事はウィルソンを通じて明らかになっているのだと思う。
自分への自問自答であり、独り言ですむのであれば、ウィルソンを視覚化すること自体無意味だろう。ウィルソンを視覚化したのは、映画の視聴者に理解しやすい配慮だけではないと僕は思っている。なぜウィルソンを視覚化したのか?
チャックはウィルソンを見ることにより、語りかける対象として認識し、逆にウィルソンからも見られているという意識を持ったのではないだろうか。結論からいえば、ウィルソンを視覚化したのは、ウィルソンを見るためだけでなく、自分が見られる為だったように思うのだ。「見る」、「見られる」、「語る」、「語りかけられる」、それらのメッセージの交換の相手、その相手がいる故に自分を確認できる相手。ウィルソンが象徴するものは一言で言えば、「メッセージの志向性」としての、「相手」であり、「自分」であるように思う。
レヴィ・ストロースによれば、人間が生きるためには3つの交換システムが必要だという。逆に言えば、人間はそのシステムの内部でしか生きられない。この交換システムは、財貨サービスの交換、メッセージの交換、女の交換の3つの水準で展開している。
チャックが無人島で生きるために、映画に登場する3つのアイテムが、丁度この3つの交換システムに符合するのは偶然だろうか。
財貨サービスの交換(経済活動)としてのアイテムは、一つだけ未開封状態におかれた宅配小包。メッセージの交換(言語活動)としてのアイテムは、バレーボールのウィルソン氏。そして、女の交換(愛)としてのアイテムは、遭難する飛行機に乗り込む前にケリーからクリスマスプレゼントとして受け取ったケリーの写真入りの懐中時計に関係づけられるように思える。
勿論、火をおこし、水を確保する事を覚え、魚を獲り、草木からロープ等の日常品を作ることは、生きていく上で根本の技術だと思う。これらの技術を取得する迄の過程は、映画では極めて丁寧にかつい重要に扱われている。でもこれらの生きる根本の技術取得は、この映画において、僕にとっては特に重要ではない。それらは4年後のチャックに唐突に繋がるストーリー設定に重要であって、映画の主眼として注目することではないように思う。
人は生きる最低限の技術を確保するだけでは生きることは難しい。ものを交換し、愛を語り合い、挨拶を含めた様々なことを語り合う相手が必要なのだ。チャックが無人島で生きるためには、生きる技術を含めた最低限の4つが必要であり、チャック自身が捨て去ることが出来なかったのは、この4つのものと云うことが出来る。そのどれ一つ失ってもチャックは生きることが出来なかった。
ある時、島に「帆」が流れ着く。「帆」といっても、実際には運搬用のプラスティックで出来た何かの切れ端にしか過ぎない。それは「帆」として明示された状態で現れるわけではない。「帆」としたのはチャックが、「帆」として使うことを考えたからだ。
「帆」の出現により、チャックは島からの脱出を計画する。いわば「帆」はきっかけに過ぎない。島以外の世界があることは、チャックは既に知っていたし、島に閉じ込まらずにチャックは生きてきた。だから、「帆」に未開封の小包と同じ「天使の羽」の絵を描いたのも、うなずける。その2つのものは「外の世界」という事で繋がっているからだ。小包の持つ「外への志向性」が、「帆」を産んだと僕は思う。
つまり、島という脱出困難な自分の世界から抜け出るために、「帆」は必要であるけど、それは自分の殻に閉じこもり「外への志向性」がない状態であれば、「帆」として利用すること自体思いつかなかっただろう。
きっかけにしか過ぎないことは、脱出の途中で嵐の中、役目を終えたかのように風でとばされ事からでもわかる。
「帆」の出現によりチャックは筏を造る。そして、筏を造る過程の中で、チャックは以前に自殺を試みた事が明らかになる。その話は、映画後半のチャック独白のシーンでより具体的に明らかになる。そこでチャックは自殺を試みたことについて喋っている。
「島からは出られない、孤独のまま死ぬのだと、いずれ病気かケガで死ぬ。唯一残され道、自分の意志で選べる道は、いつどうやって、どこで死を迎えるか」
チャックのいう「孤独」とはいったい何だろう。逆説的なことを言うかもしれないが、「孤独」は全てを知り得た状態で感じるものではないだろうか。彼が自殺を考えたのは、島に漂着してから3年目に当たる。周囲数時間で歩ける島の事を知るには十分すぎるくらいの時間だと思う。
彼は知ってしまった。この世界(島)において、何ら新しいことはない。しかも彼は他の世界を知っているから、その島に閉じこもる事も出来ない。しかし、彼は知ってしまった以上、他の世界に行く事も出来ないのも「知ってしまった」のだ。彼は「知る」ということで、再び自分の世界に捕らえられる。それがチャックのいう「孤独」のような気がする。
自分以外に誰もいないからという、物理的状況からの「孤独」ではないのだ。「知る」ことに捕らえられることにより、「出来ない」につながり、「絶望」に導かれる。
彼が「知ってしまったこと」が事実にせよ、そうでないにせよ、一つ言えるのは、その状況は「島」にいようが「他の世界」にいようが変わることはない。
以上のようなことを、この映画で見ていくと、自ずから解釈の一つの方向性が出てくる。
勿論僕は、自分の解釈に捕らえられている。それはまるでチャックが島に捕らえられたかのようだ。僕は自分の解釈から抜け出るきっかけが欲しいと思うが、やはりそれも「帆」を必要とするのだろう。そしてそれはまた別の物語となる。
そろそろ僕はこの映画の感想のまとめに入らなければならない。チャックが筏をつくり、島から抜け出たとき、この映画は一つの終わりを告げている。あとは物語の後日談としての位置づけでしかないとも思う。
ウィルソンとの不慮の別れも、自分の存在を確認する相手の喪失による、自己の喪失であるように思う。だから、彼はその後に、筏の生命線でもあるオールを自ら手放すのだと思う。
ケリーに懐中時計を返すことの象徴は、僕にとって懐中時計そのものがケリーの肉体を象徴している以上、ケリーへのお別れに繋がる。チャックは懐中時計に貼り付いていたケリーの写真は受け取っている。それもケリーの写真がケリーへの愛情を現しているのであればよく分かる。
最後にチャックは未開封だった小包を宛先に届ける。
「この荷物で僕は救われました。ありがとう」と書いた紙は勿論お世辞ではない。この荷物が意味するものがなければ、彼は死ぬまであの島にいたことだろう。
荷物を届けた後、チャックは偶然に荷物の宛先であるベティーナに会う。ベティーナはチャックに向かっていう。「道に迷ったの?」
チャックは答える、「僕が?」
チャックは道に迷ってはいない。道に迷うとは目的地があり、そして自分の立ち位置が不明なときにおきるものだ。チャックには目的地がない。十字路の真ん中でベティーナが去るのを見て、彼女の車にあの「天使の羽」が描かれているのを発見する。それは、ロマンティックに考えればチャックの新たな「帆」なのかもしれない。
島に漂着する前の彼は、仕事の世界の中に閉じこもり、他者との関係を構築しなかった。唯一の存在は愛するケリーの存在だったけど、チャックはケリー自身も自分の世界に納めようとしていた。チャックにとって、その世界以外に世界はなく、ない以上、他の世界に向かうこと自体考えもしなかった。世界とは何か、それは他者であり、自我でもあるように思う。
それが突然の無人島への漂着で変わる。島は、漂着する前にいた世界の裏返しではないだろか。そこでチャックは他者との関係を逆に構築していった。その構築は前の世界より深く濃密だった。具体的にいえば、小包、懐中時計、ウィルソンがそれにあたる。そしてそこでチャックは人との関係、つまりコミュニケーションをする意味を知ったのではないだろうか。
冒頭に書いた公式サイトの言葉、「今までの人生に起こった最高の事だと悟るのだった」で悟ったこととは、他者を認め、その関係を大事にすることだったように思う。
僕がそう思う映画の中の逸話を最後に載せて感想を終わりしたい。
島に漂着する前に、彼は友人の奥さんがガンにかかり危険な状況にあることを知る。それは、友人である限り、事前に知らされていた話だったと思うが、チャックは友人と一緒にいてもその事を思い出すことはない。同僚の女性が友人に向かって奥さんの状態を聞く。それを傍らでチャックは聞いていて、それで初めて友人に奥さんの話題をするのだ。
島から戻ったチャックは、飛行機の中で友人と言葉を交わす。その際チャックが切り出した話は、まずは友人の奥さんのことだった。彼は心を込めて奥さんのことを語る。
その両者の差は歴然と違う。この差が、チャックが島の体験を通じて得たことに他ならない。
蛇足ではあるが、チャックが行方不明になった時、チャックの事を諦めようと、棺を作り各自色々なものを思いつくまま中に投じた。それらの投じられたものが、友人達が思い描くチャックのを現していた。
携帯電話、ポケベル、エルビスのCD、写真・・・、それらの総和として以前のチャックがあるとしたら、それはなんと薄い存在だったのだろう。