でもそれ以上に僕は前述の発言を何故出来るのか不思議に思うのだ。少なくとも日本語化の善し悪しを評価するにあたり、Amazonでの発言者は原書もしくは別の翻訳本を読んでいなければならない。原書が新刊書であれば別の翻訳本がない可能性は高く、誤訳・不適訳の評価もあることから、当然に原書を読んでいるということになる。そこが不思議なところである。
つまり原書を日本語訳と同様に読めるのであれば、翻訳本を読む必要性は始めからない。でもAmazonのカスタマーレビューに記載していることは、とりもなおさず発言者は、まず翻訳本を読み、翻訳の拙さを実感し、かつ翻訳の内容も疑い、それでも尚、当該著書の内容を知りたく原書を読み、その上で翻訳本の評価をAmazonに発言した、ということになる。ネットであれば、以前とは違い原書を手に入れるのは簡単なはずであるから、随分と回り道をするものだと僕は思うのである。
実を言えば僕は今まで翻訳本の善し悪しを実感したことは少ない。特に翻訳がきちんとした日本語になっているか等とは考えたこともない。それはお前の感受性の鈍さだと言われてしまえばそれまでだが、実際にそうなのだから致し方ない。Amazonでの発言者がまず「翻訳の拙さ」を実感できることが、嫌味でもなんでもなく、僕には実感できないのである。
それでも良い翻訳だったと、後から振り返ればだが、思った本も何冊かはある。その中の一冊がトーマス・ベルンハルトの小説『破滅者』(岩下眞好・訳、音楽之友社)である。書籍の末尾に翻訳者の後書きがあり、そこには原書は一文が非常に長く、そのまま訳した時、文章として判別不能になりかねないので、ある程度の長さで区切ったと書いてあった。それでも日本の小説と較べても十分に長い。
またそれ以上に僕が意識したのは翻訳文の文体であった。文の末尾に「と僕は思った」が非常に多いのである。文の全てに「と僕は思った」とあるように感じられたほどだ。おそらく、これはあくまでも僕の推測だが、『破滅者』の翻訳文は日本語としては悪文であろう。それでも僕にとっては、この悪文こそがトーマス・ベルンハルトの文章のように思えたのだ。
僕はベルンハルトの原書を読んだこともない。しかし彼の言動は伝え聞いていたので、僕なりに彼のイメージが造られていた。そしてそのイメージと『破滅者』の翻訳文は一つの調和を以て重なったのである。この翻訳文でしか『破滅者』の文体はないとさえ思った。「と僕は思った」の反復は僕にとっては苦痛ではなく、『破滅者』という小説が持っているリズムのように思えたし、反復することで小さな波が相乗し、終には津波となって小説の世界に引きずり込まれた様にも思えたのである。「ああ、こういう日本語での表現の仕方もあるのか、出来るのか」、それは新鮮な感覚だった。その「新鮮な感覚」を得られたから、逆に僕はベルンハルトだけでなく、翻訳者である岩下眞好さんのことも意識することになった。僕にとって、ベルンハルトと岩下さんは「破滅者」を通じて一つだった。そしてベルンハルトの『破滅者』は忘れ得ぬ小説のひとつになった。
(その時の簡単な感想は、『Amehare's MEMO トーマス・ベルンハルト「破滅者」』 に書いています。)
僕にとって岩下眞好訳ベルンハルト『破滅者』との出会いは幸運だった。今から思えば、欧米の小説は「彼が言った」「彼女が言った」「私は言った」と文において主客を明確にするから、「と私は思った」の多さは原書の直訳に近いのかも知れない。でもだからといって本書の評価がいささかも変わるこはない。翻訳について回る多くの言葉、意訳・誤訳・直訳・妙訳・外国語化・翻訳文臭さ等々・・・、それらの言葉は読者が翻訳書に対する評価だが、多くは主観的である。翻訳は原書のジャンルによって、技術書・ビジネス文書などのいわゆる産業翻訳、医学書・学術系論文・法律系の文書の翻訳、そして文芸書翻訳と大雑把ながら分けられ、それ毎に求められている事が違う。そして今も昔も日本語化する分野で最も多いのは産業翻訳であると思える。産業翻訳は、例えば武器製造のしかたからその使い方、ビジネスにおけるリサーチ資料等々多岐にわたるが、それらの翻訳は伝える物が明確で、しかも正確さが求められる。明治維新以降、西洋のあらゆる技術資料が翻訳されたことだろう、つまり日本における翻訳理由の歴史は、中国・朝鮮から技術を仕入れた大和朝廷以降変わらないと言うことだ。
様々な翻訳一般に対する読者の評価を表す言葉の背景にはそういう産業翻訳の歴史が内包されている様に僕には思える。しかし文芸翻訳の場合、産業翻訳とは伝える物は違ってくる。僕が様々な翻訳に対する評価を表す言葉が概ね主観であると思うのは文芸翻訳のことである。ヴァルター・ベンヤミンは著書『翻訳者の課題』で文芸翻訳について以下のように語る。
翻訳は、原作を理解しない読者たちに向けられているのだろうか?そう考えるのなら、芸術の領域における翻訳と原作との地位の差は、一目瞭然に見えるだろう。加えて、「同じもの」を反復して語る理由も、ほかにあるとは思いにくい。しかし、文学作品はいったい何を<語る>のか?何を伝達するのか?それはそれを理解するひとには、きわめて僅かなことしか語らない。それの本質的なものは、伝達でもなく、発言でもない。にもかかわらず媒介者たろうとするような翻訳は、伝達をしか-つまり非本質的なものをしか-媒介できはしない。ベンヤミンが『翻訳者の課題』において念頭にあったのは文芸翻訳のなかでも特に「詩」の翻訳であった。故にその語りには一種の偏りがあるように僕には思える。しかし日本語の語によって区切られた世界(日本というシステム)に生きる僕にとって、別の言語で創作された書籍は同様に別のシステムが潜在しているのは容易に想像できるし、その両システムの関係を考えた時、ある文芸書を日本語に訳することは、原理的に伝達さえ難しいこともあり得るかもしれないとも思う。
(『翻訳者の課題』 ヴァルター・ベンヤミン 岩波文庫 野村修編訳)
別に他言語間の翻訳不可能性を言っているわけではない。そもそも僕にとっては「翻訳不可能性」という言葉自体不可思議な言葉なのである。何をもって完全な「翻訳」と言えるのであろう。もしくは何をもって翻訳可能性の是非を定めるのであろう。一つの逆説的なことを言えば、完全な翻訳書とは「翻訳」されていない書物のことだろう。翻訳することとは、ベンヤミンの言うとおりに「形式」なのかもしれないが、新たな問題を、翻訳する側のシステム(ラング)に持ちこむことに近いと僕には思える。どの様な問題か、それは持ちこまれた側(例えば日本というシステム)の再構築を迫ることだと思う。再構築と言ってもそれほど大袈裟なことではない。それは例えばブログの記事の修正・追加の毎に行われる再構築、もしくはデータベースに新たな項目を付け加えることによる関係づけのための構築に近い。それでも語により区切られた世界は変わる。
ここで翻訳者ではない読み手である僕にとって幾つかの疑問点が浮上する。例えば僕はベルンハルト『破滅者』を読んだのだろうか、という疑問。その疑問は、日本におけるドイツ語理解者の数と、出版市場により担保され、購入時に何ら疑問を持たなかったのも事実である。僕はドイツ語圏のオーストリア作家であるベルンハルトの小説として「破壊者」を図書館で借り受けた。そして僕はベルンハルトの『破滅者』を日本語で書かれた小説として読んだ。日本語として個性的な文体は、ベルンハルトの文体だと僕は思った。読み終えるまで、
僕とベルンハルトの間に翻訳者である岩下眞好さんが存在していることは全く意識しなかった。それを意識したのは、小説の面白さと文体の新鮮さを感じながら訳者の後書きを読んだからだ。
読み手の立場から一つ言えば、確かに『破滅者』はベルンハルトの作品だからこそ読んだのだが、それはきっかけに過ぎない。作品はどの国の誰が書こうとそれほど重要なことではない。ただ日本語を母国語とする人の多くの作品は、日本語に囚われている。それは致し方ないことだと思うが、それらの作品はそれ故に新鮮な驚きが得られにくい。さらに気になるのは日本語の可能性を広げることなく固定化しようとする動きである。
そのことが政治的にどういう動きをもたらせるのかという問いへの悲観的な回答を打開するために、ますます諸外国の現代小説などの翻訳を、日本語として善し悪しを気にすることなく、行うべきだと思っているし、それらの作品を読みたいと願っている。