2005/04/07

物語「転生」について

▼以前にこのブログで田口ランディさんの初めての絵本「転生」の感想を書いたことがあった。その際に、僕は「転生」の中に他者性を観ていた。何度も生まれ変わるが、その世界は変わることがない。つまり自分の世界から逃れられない宿命をそこにあり、それ故に他者を見つけることが出来ない。最後の転生の時に主人公は他者を発見する。発見することが出来た力は、自分を再生する力でもある「愛」だった。そんなふうにこの物語というか、絵本の内容を読んでいた。

▼でも実のところ、この読み方に自信はなかった。人は自分の見たいものを見るし、語りたいことを語る。僕のこの読み方も、これに縛られているのは間違いないし、それはそれで構わないのだけど、何か無理があるような感じが、のど元に引っ掛かり、腑に落ちていかない妙な感触を残したままだった。

▼自分の読み方が間違っていることがわかったのは、ランディさんが2月に沖縄の平和記念イベントでこの「転生」を朗読したと聞いた時だった。その平和記念イベントは、祈り・音楽・スポーツで平和の思いをつなぐ主旨で糸満市の沖縄平和祈念堂で開かれている。当然にそのイベントの中で朗読される書籍の内容は「祈り」がふさわしい。

▼イベントの主旨がそうだから、僕の読み方が違っていたと感じたわけではなく、そこを起点にしてふたたび思い返してみれば、ランディさんが綴る物語は殆どと云っていいほど、そこには「罪」の意識があるように思ったからだ。僕はその事を思いだしたに過ぎない。「転生」において、問題になるのは何度も何度も輪廻転生を繰り返すことではないと思う。この物語は仏教的な輪廻転生の物語でなく、しかも僕が以前に思い描いていた「宿命」の物語でもなかった。そうではなくて、主人公が何度も生まれ変わっては、その生を全うせず、たいていは悲惨な最期を遂げる、まさにその点が重要だったように思うのだ。

▼「私は処女小説の「コンセント」で、兄はなぜ餓死したのか……?という問いに、全身全霊で自分なりの答えを出した。あの小説はそういう小説だったのだ。だけど、実は「兄はなぜ死んだのか……」に答えなどない。それでも問わざるえなかったのは、それが私の兄への鎮魂だったからだと思う。私は小説を書いて喪に服したのだ」
(田口ランディブログ 2005年03月08日「あわいを生きる」から引用)

「餓死」するというのは、食物を体内に取り入れないということであり、それは「生」への強い拒否がそこにあると思う。家族の一人がそのような仕方で死を選択した場合、ランディさんが発する問いは自然だろう。でも勿論答えはその問いでは得ることは出来ない。兄は既にランディさんの呼びかけに答える事が出来ない世界に行ってしまったからだ。

▼ランディさんの言うとおりに「コンセント」が個人的な鎮魂の物語だとすれば、これほど多くの読者から共感を得られたであろうか。勿論ランディさんの話を疑うつもりもない。それは事実だと思う。
また何故ランディさんはこれほど激しい感情で兄の鎮魂をしなければならなかったのだろうか。
それらについて、勿論僕にはわからないし、それこそ答えなどないと思う。僕に答えることができるとしたら、何故僕はランディさんの物語を読んで、そこに「罪の意識」を感じるのかということだけだろう。

▼これらの問いについて、僕は勝手ながらランディさんから受け取った僕への宿題とする。こういう問いに関して、僕は即時明快に答えるだけのものは持ってはいない。ただ、自分ではわからないと云うことだけを知っているだけなのだ。今僕の中にあるものは、有責性ということ、それに多分ランディさんは今でも答えを求めているだろうと云うこと。人は自分が行ってもいないことに対し、責任を感じなければならないのだろうか、と言う問い。
それらを気にすると云うことは、僕の問題でもあると思っている。

▼久しぶりに今まで書いてきた自分の記事を少し読み返してみた。当初、色々な問題に対し答えている。その答えが正しい問いから発しているかは別にして(多分問い自体が誤っているのだろうが・・・)、その姿が無知をさらけ出していて、とても恥ずかしい。でもそれは僕にとって大事なことなんだろう。そう思う。

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