2005/04/19

映画「LOVE LETTER」小考

loveletter

映画「LOVE LETTER」は1995年に公開された。監督は岩井俊二さんで、彼にとっては初めての長編映画となる。
山で遭難死した恋人宛てに出した手紙が、偶然にも同姓同名(藤井樹)の女性に届き、そこから恋人の中学校時代の思い出を語ることで、現在の恋人でもあった女性の心情と、過去においての少年少女の淡く不器用な思いが抒情味豊かに語られていく。
今でもこの映画に共感する人も多いと思う。この映画は韓国でも大ヒットし、一時は舞台となった小樽に韓国旅行者が多く訪れたと聞いている。
この映画で言う、ラブレターとは一体何なのか。それは神戸の女性が亡くなった恋人に差し出す手紙のことであり、中学時代の思い出の中で少年「樹」が少女「樹」の名前を図書カードに書き綴ることでもある。

初めに恋人に差し出す手紙の宛先は届くはずのない宛先であり、いずれは自分の所に必ず戻る手紙でもあった。つまりは自分宛に出した手紙でもある。また少年「樹」が綴る名前は、少女「樹」の名前だけでなく自分の名前でもある。つまり、この映画は愛する者を自分の中に取り込みたいという同一性が底に流れているともいえるかもしれない。

ただ、そうはいっても僕はこの映画が好きである。最後の「失われた時を求めて」の図書カード裏面に描かれた少女「樹」の似顔絵をみて、大人になった「樹」が自分の幼い恋心を自覚して涙ぐむシーンが、それまでの閉塞感を打ち消すさわやかさとなって気持ちが良く、とても好きだ。

最初の手紙の内容は、「拝啓、藤井樹様。お元気ですか? 私は元気です」だけとなっている。これは手紙の冒頭に過ぎない。亡くなった恋人に対し、言いたいことは色々とあるだろう。何故この手紙の内容は挨拶だけだったのだろうか。それは、前段の映画のあらすじと異なるが、返事が必ず来るはずの手紙だったからのような気がしている。挨拶は反復される。映画の終盤近くに、神戸の女性が山に向かって「お元気ですか」と呼びかける。それは木霊と現在の恋人の掛け声、さらには小樽の病室での女性の言葉によって反復される。反復されることにより、お互いが認証し合う。しかしこれは映画全般を通じて思うことだが、そこには成人となり亡くなった男性「樹」の存在はない。中学時代もそうだったが、成人となり亡くなった「樹」の存在は、この映画では果てしなく薄い。ただ、唯一彼の存在を強く想像出来たのは、山での遭難時に歌う松田聖子の歌詞によってだった。

ただ映画評論家からの視点はこの映画に対し厳しい。
『回想シーンで素晴らしい抒情味を湛えたこの映画は、構造としては回想が主体、その限りで明瞭な中心性を貫いているのだが、それは自己愛的中心性が、作品構造に反映しただけともいえる。この作品には同一性だけがある。その意味ではこれは映画ではない。他者の身体の傷跡が過剰に観客に貫入して感動を与えるのが映画だとすれば、この作品では構造的な自己愛が鏡面反射のかたちで観客の自己愛に点灯させ、それが疑似感動になっているだけだ』
阿部嘉昭 「Love Letter」は映画ではない から引用)
確かにこの映画には多くの類似とも同一性とも言えるものが登場する。同姓同名、瓜二つの女性、小樽の女性の父親が風邪をこじらせ死んだ状況の繰り返し、白樺の名前「樹」等々。少年少女の淡い恋心がわかるだけに、阿部さんの評論に対し抗う強い言葉を僕は持っていない。しかし、この映画に対する評価は微妙なところで違うのも確かだ。(例えば、阿部さんの評では山での呼びかけはあざとくて嫌いだと宣言している。)
でも阿部さんが評されるように、この映画と少女漫画の世界観は同根かも知れないとは思う。
『つまり、「自分に似ているものは世界に無限にあり、それら相似物の存在により世界は穏やかに連鎖している」とでもいうような。これは読者~描き手の関係を考えれば、少女漫画の根幹にある世界観だとも理解できるだろう』
(阿部嘉昭 「Love Letter」は映画ではない から引用)
『ヒロインの古層にあった、けっして意識化できない、浮遊する恋情が、時間を超えた得恋体験として書いて側から照射されるこの作品のラストシーンは、確かに観客にとっては癒しの瞬間である。 (中略) これらにあっては観客は画面を観るという行為を貫徹できない。つまりは観客は画面の代わりに自分自身を否応なく見てしまうからだ。それらの画面は実は観客を愚弄している。つまり、「Love Letter」はポルノグラフィの亜種なのである』
(阿部嘉昭 残酷もまた「私」を癒す から引用)
ただ、阿部さんはこの映画をテクストとしての限定した世界観でのみ評しているように見受けられる。それであれば、何故この映画が日本と韓国において多くの共感を得られたのかの説明に続かない。つまりこの映画評は、「ふーん、それで何?」といった感想しか持ち得ないのも事実のような気がする。それは、テクストとしてのみこの映画を捉え、全体の流れの中で評していない視座がそこにあるからではないだろうか。ただ、映画公開時に発表したこの評にそこまで求めるのは酷なのかもしれない。

さらに、この映画は現在韓流と呼ばれる韓国で制作された様々なドラマと映画の一つの型になっている印象を受ける。だとすれば、この映画を再度評論することで、韓流ドラマが何故日本で受け容れたれたのかの新たな視野もそこに見つかるかもしれない。例えば、少女漫画的世界観を根底においての日韓の文化論など。そんなことを、久々にこの映画をDVDで見て思った。

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