2005/04/29

風を撮りたい

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風を撮りたい。風の強い日にそんなことを思う。カメラを持って表に出る。晩春の風は、身を切られるような痛みは感じないが、それでも十分に圧迫を受ける。木々は先端になる程、風で大きくたわむ。マンションの鯉のぼりの矢車がカラカラと音を立て、まるでちぎり飛ばされそうな勢いで回っている。

季節毎に風が違うように。僕は晩春の風を撮りたいと思う。風の重さを撮れるのだろうか。風の匂いを撮れるのだろうか。風の息吹を撮れるのだろうか。海に出れば風の様子は波の状況でわかる。海面の色で季節も解るだろう。でもそれだけでは風を撮ったことにはならない。それは海面を撮ることでしかない。しかし、それさえも都会に住む僕にとっては難しい。

風を撮ることはブレを撮ることでもあると思う。ピントは合っているがブレている。ブレとは「ずれ」でもある。
昨日僕は、微妙にズレて別の自分がいて、そのズレに気持ちが妙に落ち着かなかった。自分とのズレは、なにも本来の自分というものがあると言うことではない。風に吹かれる末端の枝葉のように落ち着きがない、そんな感じに近いかも知れない。風を撮りたいという気持ちは、単にその時分の僕を撮りたいと言うことだと思っている。でもその時、誰かが僕を写したとして、どうやってもピントを合わせることが出来ないかもしれない。
僕は自分が写った写真を見るのは好きではないが、多分、自分が写った写真を見るときに、僅かに沸き上がる怖さがあって、その怖さは、ブレが写っているかも知れないという気持ちを持つからだと思う。

映画「リング」では、ビデオを見た人たちを写真に撮ると、画像がゆがんでいた。それは単に死に急速に向かう現在の姿を現しているに過ぎないとは思うが、そうであれば、映画でのゆがんだ写真は的確にその人を写していたことになる。あの映画でゆがんだ写真を見たときの恐怖は、本来の自分を見たときの恐怖に近いかも知れない。

ロバートキャパの「ちょっとピンぼけ」では、ノルマディ上陸のさいキャパが撮した連合国兵士の姿がピントが甘く、かつぶれていた。それはキャパ自身の手が震えていたからだが、逆にだからこそ、あの写真は上陸の模様が的確に撮されていたように思う。それは戦場での恐怖と言うより、生と死の境界線上で行動する人間が持つズレのようなものが現れていたと僕は思うのだ。

本来の僕が、ズレのある僕であるのかもしれない。そのズレは二重三重になり、微妙に重なったり離れたりしている。そのズレは時折「吐き気」をもよおす気分になるが、それ以上に、不安定さから、気持ちの中で、強い言葉を吐いたり、なじったりするようになる。なじる相手は自分だったり、他人だったり、社会だったりするのだが、多分それらの行為は自分のズレをなんとか一つに収斂させたい衝動が元にあるように思える。そう言う意味では全くサルトル的ではない。

都会に住む僕にとって、風の方向は前か後ろしかないように感じる。日本では土地毎に風の言い方が違う。誰かが調べたのかは知らないが、全国で約2300種類以上もの「風の言葉」があるそうだ。僕らは風を意識し、風と共に暮らしてきた、そういえるかもしれない。
オートバイで走るとき、当たり前だが風は常に前方から来る。風当たりが強いと感じるとすれば、それは自分が走っているから、ということを時折忘れるからだと思う。止まると、風は季節、雲行き、地形、気圧、天候、等々の状況により千差万別の姿をしていることに気が付く。2300種類の風の言葉を知りたいと僕は思う。

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