▼田口ランディさんのブログ記事「中道」を読んだ。面白かった。彼女の以前記事「反日デモ」が掲載されたとき、こういうテーマは苦手なんだよなぁ、という思いの中でろくに読まなかったが、「中道」を読んで読む気になった。
▼最近自分のブログ記事に毒がないなぁとしみじみ思う。まぁそんなことを考えて書くことはないけど、でも笑いの中で毒を出す文体は確かにあると想うし、そういう文体に憧れを持ってしまうが、いかにせん僕には果てしなく無理だ。じゃあ、逆に「善いこと」を全面に出しているかと言えば、勿論そんなこともないわけで、要するに、どっちつかずの中途半端と言うことかもしれない。ただ、僕はそう言うのも嫌いではない。
▼僕も勿論だけど、人の記事、書籍とか映画等のテクストを解釈するとき、自分の読みたいことを読んで、語りたいことを語る。それはとても自然にその人をバイアスするので、自分にもわからないかもしれない。彼女がランディさんの記事を読んで得たことは、逆に言えばそれは彼女自身が願うことなのだと思うのだ。そう考えると彼女はとても善い人(皮肉ではなく)だと思う。
▼彼女は解釈した内容を、ただ私はこう思いました、と言えば良かったのかも知れない。その解釈をランディさんと同一化しようとしたことに、間違いがあったように思う。
『書かれたものをどう読むかは、読み手の自由だから、あなたがそう読んだのならそれはしょうがない』
ランディさんはこういって一種のあきらめの気持ちを持っている。これが「善いこと」の話だったからこれですむが、もし読み手が悪意をテクストからとってしまえば、「しょうがない」の一言で終わったのだろうか。多分、やはり「しょうがない」で終わるのだろう・・・
▼テクストにおいて正しい解釈とは一体何だろう。ランディさんが書きたかったことは、彼女が解釈したこととは違っていた。その時、彼女の解釈は違うとは誰が言えるのだろうか。違うのは、解釈を書き手に同一化しようとしたことであり、解釈自体ではないかもしれない。読み手は書き手が思いもしないことをテクストから発見する。たとえば、単語、トーン、助詞の使い方、文と文とのつなぎ、等々、そこから読み手は自分が欲しい情報を発見しようとするのだ。確かにそれはバイアスされた発見かも知れない。でもそれは時として、逆に書き手が気が付かなかった書き手の思いであることもあり得るかも知れない。つまりは何が正しい解釈かを言うのはとても難しいことだと思うのだ。ただ、それだとテクスト批評は不能になってしまう恐れも確かにある。
▼ところでランディさんのいう「中道」とは、微妙な天秤ばかりの振れのなかで、どちらに振れることなく、振れようとすると自分で戻すような、そんな感じでしょうか。そしてその振れを戻したりするのは、自分だけじゃなくて他の人とのコミュニケーションの場でそういうことが行われる。そんなふうに思えた。出来ればもう少し詳しく話を聞きたい。
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