萩原朔太郎は西脇順三郎の私論について以下のように語っている。
『人生に於いて、詩が要求されることの必然性と、詩を歌はねばならない生活の悲哀や苦悶(それがポエジーの本質である)を知らない』
(萩原朔太郎 「西脇順三郎氏の詩論」から)
詩は生活の中から産まれる。その点においては僕も同意する。ただ、萩原朔太郎が言うように詩を産む生活とは悲哀や苦悶であることに同意できない。それもあるとはおもうが、それだけでもない。西脇順三郎の詩集「近代の寓話」の冒頭文で、彼は詩について以下のように語っている。
『私の考えでは一つの作品は与えられた瞬間に於いては唯一つの形容をもっているが、それは常に変化して行くべきところを知らないのであって、決して定まるところが無いのだと思う。私の詩などは現代の画家と同じく永久に訂正しつづけるのであって、それは画人も詩人も同じことだ。一つの詩の存在は遂に無になるまで変化しつづけるのである。詩の生命はパラドックスでなく理論としては無であると思う』
(西脇順三郎 「近代の寓話」から引用)
確かに西脇順三郎の詩は萩原朔太郎から見ると、主知主義に偏る傾向があるかも知れない。ただ、それは見方を変えれば生活に対する見方の違いに過ぎないのではないだろうか。西脇順三郎も彼の詩に於いて常に生活を現しているのは間違いない。それであれば、西脇が考える生活とは、上記の言葉のように、永久に訂正し続け、その結果無になるまで変化をし続けるものと同義であることは間違いないと思う。
『アメリカのレイチェル・カーソンが言うように、浜辺のかたちは一瞬にして同じことはない。 (略) 「海と陸の接点はつねにとらえがたく、はっきりと境界線を引くことができない」 (略) そんな浜辺は日々の生活に似ている。小さく閉じながらもさまざまな情勢へと開かれ、単調な反復に見えながらも歴史の不可逆的な変動に左右され、微温的だが数多の情念の激高を惹き起こし、残酷なまでにしたたかでありながらも極度に脆い生活に』
(合田正人 「レヴィナスを読む」から引用)
上記の合田正人の一節と西脇順三郎の言葉とどこか相通じるものがあるように思う。それは、寄せては返す波のように、自分の詩を無限に訂正し続ける作業であり、境界線という無に向かう作業でもあるような印象だ。
盤石に思える生活も一瞬の出来事で足下からすくわれる思いを持たれた方も多いことだろう。それはやはり何かの境界線上に僕らの生活があることの証左のように思える。そして、生活だけでなく、「ある」と「ない」、「好き」と「嫌い」、「出来る」と「出来ない」等の狭間の中で僕らも揺れ動いているのではないだろうか。
萩原朔太郎の詩論は、どちらか一方に振れたときの感情がポエジーであるかのように聞こえてしまう。でもそうではなくて、ポエジーは僕らが普段の脆い日常の中にこそ存在しているのように思う。それは綱渡りの日常でもある。その境界を感じる中に、それを表現する中にこそポエジーはあるように思うのだ。
勿論、それを詩作する場合、それだけではなく詩においても、詩と詩でないものの境界線が存在している。詩は詩作するものであって、その点において小説とは違う物だと思うからだ。(小説は書くといい、詩は作るという)
『大げさに言えば、物質文明の管理社会は、詩に限らず芸術の毒は簡単に見抜いて、溶かしてしまうから、詩人という軽蔑以上に、詩人という賞賛をより警戒しなくてはならない。 (中略) 詩と詩でないものとのスレスレでなくてはならない。これはあまりにもむずかしいから、結局は詩でない危ない方へかたむくよりも、詩である安全な方へかたむいたとは思うけれども、わたしが一人の読者、観客となる時、たいてい、スレスレでそのものではない方へかたむいたものをおもしろいと思うのである』
(富岡多恵子 「詩と詩でないもの」から引用)
僕らのまわりには常に境界線が存在していると思う。漫画「プラネテス」の中でユーりーがハチの弟キュータローに、宇宙と地球の境界線はないと宣言する。確かにアナログ的な状況下でそれを明示的に線引きするのは不可能だと思うが、宇宙からと、地球からのせめぎ合いの中で、人に知覚できない中で境界線はあるのでないだろうか。それは厚みがなく、多くの方が言うように界面という名の境界線だと思う。
詩と詩でないものの境界線上に詩の生命はある、という富岡多恵子氏の言葉は西脇順三郎の言葉と同じ意味を持っていると思う。そしてそれはあらゆる芸術に対し言えることでもあるように思うのだ。
富岡多恵子のいう「詩である安全な方」とは、詩としてのイメージに合致した比喩としての言葉の羅列のような気がする。具体的には、巷に氾濫するJーPOPの歌詞がそれに相当するのでないか。中には詩として面白いのもあるが、多くはそうではない。ただ、それらは歌詞だけでなくメロディとの総合性で判断するものなので一概には言えないとは思うが、日本における詩の衰弱(もしくは死)の要因の一つだと僕は思う。ただしそれは原因では勿論ない。JーPOPの歌詞の多くが、萩原朔太郎の詩論の呪縛「生活(恋愛)の悲哀や苦悶」が未だに覆っているかのように思えて致し方ない。勿論それは悪くはないが、詩というイメージを固定化させることに僕は抵抗を感じる。それに、萩原朔太郎の呪縛は「詩である安全な方」により近いのではないだろうか。ただ、萩原朔太郎の天才があったからこそ、その中で彼は詩を作ることが出来た、そんな印象を持っている。
西脇順三郎の詩を語るとき鍵語として「淋しさ」が強調される。それは「存在の淋しさ」というものでも「淋しい存在」というものでもないように思える。これはあくまで僕の直感で根拠がないのだが、境界線上での日常の脆さの中で、言葉を選び綴った結果、淋しさが表出したような、一つの結果としてそれが現れたような気がしている。それをなんと言えばよいのだろう。この場では上手い言葉が見つからないが、浜辺で佇む淋しさに近いもののような感じに近い。
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