2005/04/18

ワシリー・グロスマンを探して

1.発端
発端は合田正人さんの「レヴィナスを読む」(NHKブックス)の一文(下記)からだった。

『レヴィナスが世紀の証人と挙げている人物がいる。ロシアの作家ワシリー・グロスマン(1905-1964)の遺作「人生と運命」の登場人物のひとり、イコニコフである。「人生と運命」はスターリングラードの攻防を中心にナチズムとスターリニズムとの双生児的相似を描き出した衝撃的な大作で、KGBによって1960年に没収された草稿が奇跡的に国外に持ち出されて、80年にスイスの「人間の時代」社から出版されたのだった』

僕はこのワシリー・グロスマンの「人生と運命」を無性に読みたくなった。もとよりロシア文学に明るいわけではない。読んだ小説もたかが知れている。しかし上記に続く合田さんの文章が読書の意欲をもり立てる。

『イコニコフはむしろこの作品では脇役的な存在で、しかも、才気に乏しい人物として描かれているのだが、レヴィナスは、そのような冴えない人物だからこそ時代の本質を看取することができたのだという点を強調している』

実を言えば僕もこの考えに同感する。無論僕には才気の有無を判定する能力も資格も持たないが、自分がそのどちらにはいるかくらいは知っている。それであれば僕自身も「時代の本質」という眩しい言葉の幾つかを語ることが出来るはずだが、悲しいことに才気乏しい人は自分が何を語っているかを識ることが出来ない。イコニコフも同様であろう。その脇役的なイコニコフに僕はある意味同一化して、彼がナチズムとスターリニズムの中でどのような行動をしているのかが気になったということなのだ。これは是非とも読みたいと僕は思った。

もう一つの視点は、所謂日本の一般新聞紙としての目線における新たな見方の模索でもある。イコニコフと同様の目線で一般紙が記事を扱っているのであれば、連続する歴史の一こまとしてそこに知識人層が語れぬ「時代の本質」が隠されているかも知れない。そんな気持ちが僕によぎったのも実はある。

さらに本音を言えば、「時代の本質」なんて特に知る必要もないのかもしれない。イコニコフも時代の本質など知ったところで、彼はナチズムとスターリニズムの渦から逃れる事はできなかったはずだ。それは俺の力なんてたかが知れているという、ある意味決定論の波に飲み込まれ、単に愚痴の一つでの言いたくなったその中に、後の人がその愚痴を見つけ解釈の中に無理矢理定義づけたのかも知れない。つまり、「時代の本質」なんかを語る前に、彼は家族とか愛する人を連れてどこか遠くに逃げれば良かったのでないか。そんな思いも持っている。でも何処に逃げるというのだろう。

多分「人生と運命」を読む以前に、現在の日本では、才気云々に関係なく「時代の本質」は到る処に転がっている。例えば、様々な漫画の中にそれらは隠れているかもしれない。売れる漫画から同人誌の内輪の漫画まで、その中で多くの読まれる理由は「時代の本質」ではなく、たんなる時代のムードかもしれない、でもそのムードとして要請される中に「時代の本質」は隠されているような気もする。

なんだかんだといっているが、僕はこの本を本当に読みたいのか。一種のノリに近い勢いで読もうと思っているのは事実だ。でも本を読む時、そう言う気分も必要な場合もある。その気分は大事にしなくてはならない。

2.図書館にて
返却すべき書籍が10冊近くあり、目黒区八雲中央図書館に行ってきた。その際に、図書館員の方にこの「人生と運命」を相談しようと思っていた。後から考えると、まずはインターネットでの検索を行うべきであった。ただ、僕は日本において、すべからく著名な小説は和訳されていると思いこんでいたから、直接図書館員の方に相談することが近道だと思った。

対応してくれた図書館員さんは50代くらいの男性で、頭が8割くらい白髪でメガネをかけた気のよさそうな人だった。実を言うと図書館の相談コーナーに座っているのが男性だったのが良かった。女性であれば僕は男性に替わるのをしばし待ったことだろう。以前に何回か女性の相談員で、なにかつっけんどんな対応をされたので、少し閉口していたのだった。つっけんどんと言っても横柄と言うのではなく、勿論彼女の仕事はキチンとこなしていたのだけど、対応が事務的すぎるのだ。本を探す楽しみというのがあって、できれば少しの時間でも共に語り合いながら楽しみたいと思う。勿論本を探すのが目的であって、探す行為自体が目的ではないのはわかるが、そこに楽しみを持つのとそうでないのでは、得られる結果は間違いなく違う。

その男性の相談員に合田正人さんの本「レヴィナスを読む」を見せて、ワシリー・グロスマンの本を読みたいと告げる。彼にとっても初めて聞く作家だったらしい。まずは都立図書館で検索する。ヒット無し。続けて国会図書館。そこもヒット無し。彼の著作としてあるのは「万物は流転する・・・」のみであった。そのタイトルであれば僕もきいたことがあった。ああ、同じ作家だったのかと、以前に比べ少し親近感を憶える。といっても僕は「万物は流転する・・・」も読んだことはないのだが。

もしかすると「人生と運命」というタイトルでは無いのかもしれない。相談員は少し待っててくださいと僕に告げ、少し離れた百科事典の棚から集英社の文学事典を取り出し、ワシリー・グロスマンの事を調べ、僕に見せてくれた。その事典にはこう書いてあった。

『グロスマン ワシーリー・セミョーノヴィチ 1905・11.29?1964.9.14 ロシアの作家。ウクライナ共和国ペルジチェフ市のユダヤ系科学技師の家庭に生まれる。 (中略) 第二次世界大戦中は赤軍機関誌「赤い星」の通信員として従軍、多くのオーチェルクを執筆。43年頃より二部からなる大河小説に着手。スターリングラードの攻防戦を軸に現代史の一断面を一家庭の様々な人物を通して描き出そうとするもので、その第一部「正義のために」は52年に上梓された。 (中略) 当時ソ連で猖獗を極めた排外主義と反ユダヤ主義キャンペーンを契機に作者の歴史観は一変し、続いて着手された第二部「生活と運命」においては、ナチス・ドイツとソヴィエト・ロシアを同じ強制収容所へ行き着く同質の2つの体制と見る視点が確立している』

「生活と運命」と辞典では書いてあるが、これは間違いなく「人生と運命」の事だ。なるほど二部からなる大河小説だったのか。相談員の方と僕はお互いに顔を見合わせ、同じ思いをもった。それでは今度はと「生活と運命」で検索をし直す。でも、結果はヒット無し。
ここで無茶苦茶な推理が出てくる。それは「万物は流転する・・・」が、実はこの「人生と運命」の事ではないだろうか、ということ。人生と運命は流転するものだ。でも当然にこの案は即時却下。
うーむ、和訳はないかもしれない・・・・

ただ、相談員はやる気になっている。見せかけかも知れないが、僕からはそう見える。1週間ほど時間を下さいと云われ、お願いすることにした。相談を始めてから、ここまでやく30分間くらい。楽しかった。

実を云えば、この探す過程の中で僕の興味は、「人生と運命」という書籍から作家個人への興味に繋がっていった。考えてみれば、「時代の本質」という訳のわからぬものから、書籍の興味になり、作家自身への興味に変わっていったことにある。まぁそういうものかもしれない。

3.インターネットで
家に帰ってからネットでワシリー・グロスマンの事を検索する。思った以上に良いサイトが見つかる。しかも彼の短編小説も翻訳されて3編載っていた。こんどじっくりと読んでみよう。特に記事である、「ワシーリー・グロスマン(1905-1964)の人生と運命」は良質な情報だと思う。ただ気になったのは、彼の死についてであった。今のところかれがどういう死に方をしたのかがわからない。無惨な死に方をしてなければよいが、ふとそう思う。

さらにネットでわかったことは、「人生と運命」は翻訳されていないということだった。少し残念だとは思うが、それと同時に、もしかして今でも気にしているかも知れない図書館の相談員のメガネをかけた姿を思い出す。

でもこういう本は翻訳されることはないんだろうなぁ。
「人生と運命」について、合田正人さんの書から少し掲載する。

『強制収容所の中で、イコニコフは書き記している。「今や、ドイツおファシズムの恐怖が世界を覆っている。死にゆく者たちの叫びと涙が待機を満たしている。空は暗く、焼却炉の煙が太陽をかき消してしまった。しかし世界では類を見ないこの犯罪、地上の人間たちが目にしたことのないこの犯罪は、善の名において犯されている」と。』

『イコニコフの手記はさらに続く。「かくも恐ろしき巨大な善とは別に、日々の生活のなかで発揮される人間の善意が存在する。それは、道行く徒刑囚に一切れのパンを与える老婆の善意であり、傷ついた敵に自分の水筒を差し出す兵士の善意であり、老人を哀れむ若者の善意であり、老いたユダヤ人を納屋に匿う農夫の善意である。他の個人に対する個人のこのような善意は、証人なき善意であり、イデオロギーなき善意である」』

合田正人氏はこの善意に対し疑問を呈している。果たしてそうであろうかと・・・。巨大な善から強制収容所が産まれたのであれば、小さな善においても小さな悪意が産まれるのではないだろうか、そう彼は述べる。

『イコニコフの手記を読了した別の登場人物は、「こいつは愚かにも全世界の火災を洗面器の水で消そうとしている」と愚弄する。大事と小事。マクロなものとミクロなものとの混同が糾弾されているが、レヴィナスは逆に、「取るに足らない私の行為で世界の何が変わるというのか」などと言わないように、という』

僕らの生活の中から平和は生まれると思う。

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