2005/04/08

「Finalventの日記」というブログ

Finalventの日記」というブログがある。メインブログは「極東ブログ」といい、かなり知られたブログだと思う。僕は「極東ブログ」はほとんど読まないが、「Finalventの日記」はほとんど毎日読んでいる。長文ではなく(極東ブログはきわめて長文)、その日の新聞各社の記事とか社説を読み短文で感想を述べているだけなのだが、これがなかなか面白い。今日などはたとえばこんな感じ。

「産経社説 韓国の対日姿勢 成熟した対応を求めたい」

「成熟した対応が通じないという現実。」
(Finalventの日記から引用)

上文が産経新聞の社説のタイトル、下文がFinalventさんのコメント。
「パス」とか「与太話」とかのもっと短いコメントもある。突っ込みの極意というものかもしれないが、短いコメントで笑いを誘う。これだけ短いコメントなので、Finalventさんが省略した部分を把握することは難しいが、でも気持ちはよくわかるし、この短さが日記らしいといえば日記らしい。

それに毎日「Finalventの日記」を読んでいると、なにかしら社会に対しコミットしたい気分にさせられてくる。これもこの日記の不思議なところだ。省略した部分を埋めたいという気持ちになるのもあるとは思うが、省略は省略でもって意味を成すと考えればそれは無粋というものかもしれない。でもその意欲も、コメントが「与太話」とか「パス」とか「掛け合い漫談」とかになってくると、逆にコミットすることが馬鹿らしくなるのも、これまたこの日記の不思議なところ。結局、僕自身が素直(愚鈍ともいう)だからかもしれないが、「Finalventの日記」のコメントの威力につい従う気持ちにさせられてしまう。

さらに、従う気持ちになったり、面白いと感じる気持ちは、上記以外のものが彼の文体にあるように感じるときもある。それを書きたくて今回の記事にした。

例えば、ある企業が倒産したとする、新聞各社は経営陣の無能を報じるが、その企業で数十年も働いていると経営者でなく一介の従業員であってたとしても、心情として一抹の責任を感じるものだとおもう。それはあの時あの新商品を強引に押しておけばこんなことにならなかったのかもしれない、などという個人毎に違うかもしれないが、そういう気持ちが頭をもたげ、経営者を無下に弾劾できないとなるような微妙な感情のことだ。勿論、対面的には経営者の責任を言うのであるが、そういう気持ちがあるとないとでは、全体を通しての「感じ」は違ってくる。

上記の例は「企業」を「社会」に置き換える感じ。まぁ、場の流れというのもあるし(最近は空気の方が適切なのかも)、あの時新製品を・・・と思ったとしても難しいとは思うんだけどね。

なんというか「Finalventの日記」を通して読むと、そういう心情が見え隠れしているような気がするのだ。先輩記者が後輩記者にたいし、「バカだなぁ」という感じにも近い。でもその後輩記者を自分が育てたのであれば、まぁこんなバカにしたのは少しは俺の責任もあるしなぁ、という感じを、この短いコメントの中に感じてしまう。勿論、この感触は僕の勝手な思い込みなのだが、僕自身がそう読むことで「Finalventの日記」を楽しんでいるのだから、少しは許してくれるだろう。

この感触って、多分Finalventさんの年齢によるところが大きいかもしれない。上記の例で言えば、新人記者であれば題材を掘り下げ徹底的に戦う、「貫徹せよ」みたいな、そういうノリを持つだろう、しかもその心情には「俺はまったく無関係」「正義は我にあり」みたいなものがあり、結果的にはFinalventさんと同じかもしれないが、全体を通して受ける印象は違う。それがジャーナリズムといってしまえばそれまでだが、なんかねぇ、と思ってしまう。

最近「Finalventの日記」で思うことは、メインブログである「極東ブログ」はもしかして、「Finalventの日記」を面白くするための方法論?っていうこと。そんなことを言うと怒られてしまうかもしれないが、確かに「極東ブログ」があってこその「Finalventの日記」だと思うし、だから短いコメントでも面白いとは思うのだけど、両者への好みで言えば、僕の場合、「Finalventの日記」のほうに軍配が上がるのだから、そんなふうに思ってしまう。

しかし、前回に続き今回も愚考してしまった。よほど会社で暇なんだって思っているだろうなぁ・・・そんなことないですから、息抜きです、はい(笑

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