最後の「産経抄」には密かに「毒」を盛ることを常としてきたとも言っていたので、少なくとも僕にとっては、石井さんの思うつぼだったのだろう。
「産経抄」は毎日の楽しみの1つだった。一時発言が過激であると、少し敬遠した時期もあったが、それでもやはり気になるコラムであり続けた。
新聞を選ぶとき、僕はコラムで選ぶ。コラムでの主張がその新聞の考えを端的に示していると思うからだ。そう言った意味では「産経抄」は、そのまま「産経新聞」の顔であり声でもあった。
「産経抄」で今年沸き上がった議論に「自己責任」があった。今年1月1日の産経新聞の特集に恒例の「産経抄で見る今年の一年」が掲載されていたが、その中でも「自己責任」のコラムが載り、石井さんは最後まで自説を変えてはいなかった。
「自己責任」に対する考え方もそうだが、その他の考えも僕とは違う点が多々あった。逆にだからこそ僕は「産経抄」を読み続けたのだと思っている。心地よく響くコラムはコラムではないと僕も思うからだ。
考えが違うと言っても、それでも石井さんのコラムには頷く時もあった。そして辛口といわれたコラムにも、石井さんの優しさがその中には沢山あった。
「人間の心と魂は別だと思う。江藤さんの心は「慶子夫人」の後を追って死んだが、魂は「昭和」に殉じて憤死した。」(1999年7月23日)「江藤淳は形骸に過ぎず」の遺書を残して、亡き妻の後追い自殺をした江藤淳氏を偲んでの産経抄の一節。「心と魂は別だと思う。」のひと言が奥深い。未だに僕には、その違いがわからないが、石井さんには、江藤淳氏の二重の苦の内容が十分にわかっていたのだと思う。
石井さんのコラムでは「コブシ」の花の話題が毎年恒例だった。また山本夏彦氏の話題も時折でた。山本夏彦氏のコラムで以前に笑ってしまった一文で、「バカが100人集まれば100倍バカ」というのがある。石井さんの場合はそこまでは言わないが、確かに「文章の書き方」については山本夏彦氏の後継の印象を受ける。
石井さんがコラムニストとして常に心がけていたのが、「平易でない名文はない、難しい文章はつまり悪文なのである」だろう。それに続くコラムがある。
「平易で、しかも味のある文章はどうしたら書けるのか。これは天下の難題だが、実は折から山本夏彦氏の近著「完本文語文」が答えてくれる。『文はあまりすらすら読まれると忘れられる。所々むずかしい漢字をころがしてつまづいてもらう必要がある』。なるほどそれが骨子であるらしい。(中略)日本人はすでに文語文を捨て、いま口語文もおぼつかなくなった。滅びるべき言葉が滅びるのは仕方ないが、滅びなくてもいいのに滅んでゆく言い回しを山本さんは強く愛惜している」(2000年6月16日)日本語の美しさに石井さんは求めていたようにも思う。それは気障な文章でなく、雑学を披露する事でもなく、あくまで内容は今の社会であり、そして誰もが同じように理解出来る平易さだったように思う。
「産経抄」の執筆をやめても、石井さんはたぶんコラムニストとして文筆活動は続けられると思うし、そうあって欲しいと願う。本当に今までご苦労様でした。そしてさらなる活動を期待しています。
最後の石井さんの「産経抄」を下記に残します。
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ことしを象徴する漢字は『災』だったが、年が押し詰まったところで地球的な“大災”が発生した。スマトラ島沖巨大地震の大津波では、万を超える人びとが波にさらわれた。日本人ツアー客にも多数の犠牲者がでているという。
▼被害の広がりが気になるところだが、きょう二十八日は「仕事(御用)納め」。歳時記に「古筆も洗ひて御用納かな」(瓜青)の句がでていた。ところでもう一つ納めるものがある。小欄・産経抄も本日をもって筆者交代いたします。それが何と三十五年間も長居をしてしまっていた。
▼日ごろ愛唱する言葉に「花は愛惜(あいじゃく)に散る」と。道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のなかの詩句だが、ナニあの難解膨大な書物を読み通したのではない。教えられて聞きかじった言葉で、何事も惜しまれているうちに散れという戒めだったが、つい忘れていた。
▼某夜、酒席で作曲家の船村徹さんから「お前さんの産経抄には毒がある」といわれたことがある。「ただし毒にも薬にもならぬコラムはコラムじゃない」とも。それを聞いてにんまりした。なぜなら、ひそかに耳かき一ぱいほどの毒を盛ることを常としてきたからだった。
▼「戦争に大義は無用である」「(従軍)慰安婦は国家の下半身だった」「反戦平和ほどうさん臭いものはない」「学校教育に強制は不可欠である」「日の丸・君が代のどこが悪い?」などなどと。とにかく時流に逆らうことばかり書き続けてきた。
▼そういうへそ曲がりで時代遅れの小欄にとっては、年貢の納め時がきたというべきかもしれない。晩唐の詩人・杜牧の一節に「長空 碧(みどり)杳杳(ようよう)たり/万古 一飛鳥」と。担当は石井英夫でした。ありがとうございました。明日から小欄は新しい視点と切り口で再生いたします。
(2004年12月28日 産経抄から)
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