2005/01/30

MEMO 村上春樹 「1973年のピンボール」

200501303f892a6b.jpg「1973年のピンボール」を村上春樹の初期作品において好きだと言う人が多い。僕もその1人だ。そしてそれは僕がピンボールにはまった経験を持つのと無縁ではない。

この小説は、「僕」と「鼠」の話が、「今」と「過去」を織り交ぜて交互に現れるが、「今」では最後まで両者が交差することがない。でもそれぞれに違う物語かと言えば、そうではなく、お互いの話は補完関係にあり、両者の話で1つの物語と言っても良いように思う。

物語全体を通じて思うことは、生きることの重さと軽さであり、その中で自分を麻痺させなければ生きることが出来ない主人公達の姿だ。そしてその中で「ピンボール」が象徴的に使われている。

僕自身がピンボールにはまったのは大学に入った年の夏休みだった。家の近くに古いゲームセンターがあり、そこに店以上に古いピンボールマシーンが1台おいてあった。バーリー社の「kiss」だった。kissは勿論あのロックバンドの名前だ。後から調べたら1979年の製造らしい。フィールドの左右に各4つのターゲットがあり、それにヒットする毎に得点と倍率が変わるという、きわめてシンプルでわかりやすい点数配分だった。

夏の深夜にそのゲームセンターに行くと大抵は友人が既にプレイしている。そして明け方まで二人でプレイし続ける。リプレイがあるので、逆にプレイ数はやるたびに増えていく。

ピンボールでは技術面が非常に重要だ。運が左右する部分も勿論あるが、それ以上にフィールド内を移動する銀色の玉を支配するのは物理なのだから、テクニックを多く駆使できる物が点数を稼ぐことが出来る。

その時分、偶然に古本屋で見つけた雑誌ポパイの特集がピンボールだった。そこにはテクニックの基礎が詳細に説明されていたこともあり、それを読むことで、ますます僕はピンボールに熱中していったと思う。当時、友人も僕もそれなりに問題を抱えていた。勿論問題を抱えていない人は、現実には1人もいないかもしれない。ただ、その中でピンボールを熱中している時は、自分の気持ちを何かに昇華出来たような気分にさせられた。それは気分だけの話なのは間違いないことだけど。

「1973年のピンボール」の中では実際にある出来事、音楽、書籍が物語の中で登場する。それはこの サイトに詳しく載っている。でも僕にとって、それらは物語の中では逆にリアリティが欠けている様に感じている。そして、物語の中に登場するが実際にはない物が、この小説にとって重要な気がするのだ。

例えば、小説の最初に出てくるピンボール研究書「ボーナス・ライト」は作者の想像の産物なのではないだろうか。小説の初めに紹介される、この解説書の序文ではピンボールの事をこう語っている。

「あなたがピンボールマシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシーンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、あるものはプルーストを読みつづけているかもしれない (中略)。 そして彼らは時代を洞察する作家になり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。」(同小説からの引用)

まるで「1973年のピンボール」の序文として書かれる内容だと思う。そしてこの序文を読むと、タイトルにピンボールが入っていることや、この小説がピンボールの小説であると、作者が語っている理由が何重にも見えてくる。

「孤独な消耗」を続けているのは、なにもピンボール・マシーンの前だけではない。小説の主要人物である「僕」と「鼠」にとって、生活する事自体が「孤独の消耗」をすることであると思う。

またピンボールは何処にも連れて行ってくれないように、「僕」と「鼠」は同じ場所にとどまり続ける。お互いがとどまることを止めるときは、「僕」がピンボールと別れるときであり、「鼠」が女性と別れジェイバーのある町を離れるときでもある。

小説には「僕」と一緒に暮らす双子の女の子が登場する。ベットでは双子の女の子の間に「僕」は割り込んで眠っているが、その姿で連想するのがピンボールそのものだ。
ベットをフィールドとしたときに、双子の女の子はピンボールのフリッパーをイメージさせる。そうなると「僕」はフィールドを移動する銀色のボールとなるのかもしれない。

もしくは、「僕」と双子の女の子をあわせて3人が、この小説のもう1人の主人公であるピンボールマシーン「スペースシップ」が3フリッパー・マシーンである事に関連しているのかもしれない。でもどちらであっても、「僕」の日常はピンボールを連想させ、それはピンボール研究書「ボーナス・ライト」序文で述べるところの、「孤独の消耗」と「何処にも連れて行かない」状況に繋がっていくように思える。

3フリッパーの「スペースシップ」も現実には存在しない企業で作られた架空のマシーンだ。でも「スペースシップ」というマシーンは実際には存在する。村上春樹はそれを知らずに小説に書いた。後で同名のピンボールマシーンがあることをしった作者は、このマシーンを実際に購入している。

小説では「スペースシップ」と主人公との会話はかなり濃密だ。

「彼女は素晴らしかった。3フリッパーのスペースシップ・・・・、僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。僕がプレイ・ボタンを押すたびに彼女は小気味の良い音を立ててボードに6個のゼロをはじき出し、それから僕に微笑みかけた。僕は1ミリの狂いもない位置にプランジャーを引き、キラキラと光る銀色のボールをレーンからフィールドにはじき出す。ボールが彼女のフィールドを駆けめぐるあいだ、僕の心はちょうど良質のハッシシを吸うときのようにどこまでも解き放たれた。」(同小説から引用)

「僕」と「スペースシップ」の会話は2回ある。1回目は過去の話として語られる。大学時代の「僕」は「草原の真ん中に僕のサイズに合った穴を掘り、そこにすっぽりと身を埋め、そして全ての音に耳を塞いだ」状態で、町のゲームセンターに置いてあった「スペースシップ」との関係を深める。

2回目は今の話として語られる。既に町のゲームセンターは無くなり、ドーナツショップに変わっている。主人公は「スペースシップ」を探しだす。彼女はコレクターにより収集され倉庫にいたのだ。その倉庫には合計で78台のピンボール・マシーンが置かれている。そしてその場所で再会を果たす。

倉庫での再会はとても印象的だ。78台のピンボール・マシーンが眠る倉庫に、電源を入れる時のイメージはすごい。この小説の中ではクライマックスと言ってもいいかもしれない。しかし、その倉庫は人がいる場所ではない。

倉庫での「スペース・シップ」との会話は、思い出を語り合うことと、「今」のお互いを確認することしかできない。彼女は主人公に向かって、ここは「寒い」からあなたのいる場所ではないと言う。

「僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい思いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光と共に歩むだろう。もう行った方がいいわ、と彼女が言った。」(同小説から引用)

現在ピンボールの姿を町で見かけることは少ない。以前はあれほど日本中に溢れていたというのに。ものが無くなっていくと言うことは、それが何かに置き換わる場合と、それが存在する理由が無くなった、のどちらかだと思う。ピンボールははたしてどちらだろう。

僕は、ピンボールがテレビゲームに置き換わった部分が大きいと思っている。両者の発生元は違うが、係わり方は似ている。でも「1973年のピンボール」では、そうは考えていない様に思う。ピンボールは存在する理由が無くなったから、が小説の中心を流れているように思う。

存在する理由が無くなったことは、僕らの社会が、ピンボールを受け入れたときと、必要が無くなったときとで、何かが変質したと言うことになるのかもしれない。そして、「僕」と「鼠」はピンボールを受け入れた時のまま、変質してしまった今を生きている。

彼らが今の社会に生きようとする決意を持つには、それなりにエネルギーを必要とする。そしてそのエネルギーを得る為に、彼らは多くの物を失う。生きて行くには、自分が変わらなければいけないと彼らは思っているが、どうやって変わったらよいかわからない。そして、変わっても本質は何も変わらないとも思っている。

実をいうとここまで書いて、この小説が僕に何を訴えているのか少しもわからない。ただ、僕はこの小説を読むと少し安らぐのは事実だ。小説の登場人物と僕が等身大であるとは思えないが、少なからずピンボールに熱中していた頃とだぶって読んでしまう。さらに、主人公達の選択の結果が、彼らの方向性を見失わさせているのも事実のような気がする。もしくは生きることに不器用な人にとって、選択の幅は狭いと言うことなのかもしれない。

でも生き方が器用な人って本当にいるのだろうか?

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