田口ランディさんのブログ記事「馬鹿な男ほど愛しい」を読んで、妙に納得してしまった。この記事はヨットマンで、現在単独で東回り無寄港世界一周に挑戦している斉籐実さんの事を書いているが、内容は斉籐さんだけにとどまっていない感じがする。
学生の時の話だけど、友人の彼女とても素敵だった。ある時に失礼とは思いながら、それは気の置けない友人関係のよしみで、彼女に聞いたことがある。
「あいつ馬鹿な奴だけど、何処が気に入ったの?」
彼女は笑いながら僕に答えた。
「私って馬鹿な男が好きなの」
その時の彼女の笑顔と言葉が忘れられない。友人は無茶苦茶な奴だった。勿論それは学生としては許される範囲だったのは間違い無いとは思うけど。
お互いに社会人になって、他の友人達と集まって飲み会を開いた。丁度金曜日と言うこともあり、10数名でそれこそ際限なく飲み続ける。当然に前後不覚に酔っぱらう奴が出てくる。その時急に彼が立ち上がり、みんなにカンパを要求し始める。僕らは一体何が始まるのか皆目見当がつかない。でもこちらもよっているので、千円とか中には5千円とかを出す奴もいて、合計では3万円くらいになる。
それからみんなで店を出て、酔っぱらった奴を二人がかりで抱きかかえ、東京駅に行き、その時に一番近い寝台列車に乗せてしまう。その男の背広のポケットにはカンパのお金を突っ込んで。あとは全員でその列車を万歳三唱で見送るというわけだ。
でもそんな事はまだ可愛い遊び程度の話で、そう言う話は出せばきりがない。彼に言わせれば、彼の先輩はもっと凄かったらしい、高校文化祭の後夜祭に、隣の農家で牛を飼っていたのを盗み、それをキャンプファイヤーで丸焼きにしたらしい。そしてその丸焼きにした牛の回りで、男女とも半身裸になりインディアン踊りを踊ったとのこと。
そこまで来れば、これはウソだという事がばれるが、実際それに近いことを一緒にやったらしいので、その時はそれ以上聞かないことにした。
勿論ランディさんのブログ記事で言うところの「馬鹿な男」とは次元が違うのはよくわかる。でも僕がこのタイトルで最初に思い出したのが、彼の話とその彼女の笑顔だった。
大学を卒業した彼はホテルマンになりたいと、京都に向かった。それから一度もあってはいない。今頃どうしているのだろう。
「堀江さんが正義の主役なら、斎藤さんは悪役の方だ。個性派だ。強烈な味がある。どうしようもない弱さがある。その弱さを露呈して生きる、泥まみれの強さがある。いや、弱いのか強いのかよくわからない。でも強い人っていないよなって思う。すごく弱い人、すごく繊細な人が、弱さをひっくりかえして強くなる。人間の幅ってのはおもしろい。強い方に突き抜ければ抜けるほど、弱い方にだって抜け方がすごいのだ。
斎藤さんは、そういう不思議なアンビバレンツな人であり、どうしても嫌いになれない。どうにもかわいい。弱くてかわいい。見てるとせつない。斎藤さんこそが孤高の冒険家だと思える。むちゃくちゃだが、その行動は私のきゅーんとさせてしまう。ジャック・マイヨールのような、透明で悲しい目をしている。」(同記事より引用)
ランディさんの人を見る目って凄いと思う。僕にはどうしてもここまでは感じることが出来ない。性差を持ちかけるつもりもないけど、この感覚は女性「田口ランディ」さん特有の見方ではないかなって思う。「弱い方にだって抜け方がすごいのだ」の感覚がすごい。
まず僕の場合「強い」「弱い」で人を見たことがあまりない。なにかしらの状況とか場で「強かったり」「弱かったり」している様な気がする。どんな人にもやはり弱点みたいな所を持っているような気がしているし、会社とか公の場で「強さ」を出す人は、逆の場では「弱さ」を出しているんじゃないかなって思ったりする。
そんな話をつい最近友人とした。その友人は、本人曰く雑草のような男だから、ランディさんの「抜け方」とか、僕の「弱点」とかの話はぴんと来なかったようだ。でも「抜け方」とは「弱さをひっくり返して強くなる」ような事みたいだと言ったら、「うーむ」とうなって、「今はわからないけど、覚えておくべき言葉だな」と言っていた。
このランディさんの言葉は、思うにランディさんとお父さんとの関係で得られたことのような気もしている。そんな気にさせたのは、同じくブログ記事「シンクロする言動」を読んだからだった。
このブログ記事は、ランディさんとお父さんの関係が良く出ている。しかもその関係は、少なくとも僕にとっては普通ではない。人と人はここまでしなければ、解り合うことが出来ないのか、もしくは、ここまでしても解り合えないのか、などと思ってしまう。僕の感想は意味不明だけど、とりあえず読んでくれればわかると思う。
「父と対決するときは、父の育った時代背景にのっとった、父の慣れ親しんだ環境の、父の言語を使うしかない……。私の言葉では聞いてもらえない。遠洋漁業の船乗りだった父に合わせると、まるで「ごくせん」のような言葉使いになってしまうが、こうするとなんだかわかりあえる……ような気分になる……から不思議だ。」(同記事から引用)
この気持ちは本当によくわかる。同じ日本語を使いながらも、育った環境が違えば言葉は通じなくなる。例えば、東北から東京に出てきて、正月などで実家に戻ったときに東京言葉が抜けなくて、地元の友人から訝しがられるのと同じだと思う。「場」には「場」の言葉があり、それを使わないとランディさんの言うとおりにリアリティに欠けてくる様に思う。
そんな事を考えていたら、日本人は「場」の文化を持つんじゃないかと思えてきた。欧米人が「個」の繋がりとし、東洋が「血」の繋がりとしたときに、日本では「家」の繋がりと言えるかもしれない。その「家」は「場」とも言えるような気がする。
そんな事をランディさんのブログを読んで、つらつら考えている。
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