太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。
三好達治「雪」
産経新聞に掲載している白川郷の写真を見ていたら、三好達治の詩「雪」を連想した。そこで、遊びとして、この有名な2行詩を解釈してみようと思った。
三好達治の伝記も知らない。あるのはこの2行詩のテキストだけだ。知っているのは、この詩が昭和5年に発表した詩集「測量船」に載っている詩というだけだ。それだけで、どこまで解釈出来るのかを試してみたい気持ちもあった。
詩の解釈は、多分文学としてみれば一応の正解はあるのかもしれないが、どんな解釈も間違えていないようにも思える。
「雪」も、一定の解釈は既に定まっているのだと思う。でも、僕はそれを知らないので、逆に固定観念に囚われず、好きに解釈が出来るという良さも持っていると思う。
この詩を読んだときの最初の印象は、その静けさであった。多分深夜に雪が降り続ける。その雪は太郎と次郎を眠らせ、そして家も町に降り積もっていく。静寂の中で二人は深い眠りの中で横たわっている。そんなイメージを僕は感じていた。
つまりこの詩の主体は「雪」であり、「雪」が二人を「眠らせ」、そして二人の家の屋根に降りつむ、という状況だ。ただこの場合、詩の後半に「雪降りつむ」と再度「雪」が出てくるのが不思議だった。
仮に主体が作者であれば、さらにこの詩は状況を明確に説明している。その場合、「雪」が屋根に「降りつむ」事を作者は屋内にいて想像している事になる。
主体が雪か人なのかが明確になっていないのは、どちらとも言えるからだと思う。つまり雪でもあり、人でもあるのだろう。心象と具体的な状況が渾然一体になって、1つの世界を現しているのだと思う。それに問題なのは二人が「眠らせ」られている状況であり、二人の「屋根」に雪が降りつむ環境なのだと思う。
「眠らせ」と受動的な表現をしているのは、2つの意味があると僕は思う。1つ目は、最初の浅い眠りがどんどんと深い眠りになっていく様を現す事。二つ目は「眠らせ」るのが「雪」であれば、それは自然に対する同化を現している事だ。
つまり僕にとっては「眠らせ」の言葉は、深く深く眠らせる事により、自然を受け入れて一体になっていく感じが出ているように思える。そこには自然との調和があり、その調和は雪が降り続く、深とした静けさの世界をイメージさせる。
「眠らせ」の2つの意味から、「降りつむ」のは屋根だけでない様に思える。太郎と次郎の「眠り」の中にも雪は降り積もっている様に感じる。そしてそれがさらに深い眠りに誘って行くのだ。
また「屋根」とは、具体的な家の「屋根」だけでなく、「家」そのものを現している様に思う。昭和5年当時の日本は家族関係を中心にした社会だった。それを考えると、太郎の屋根とは太郎の世界そのものであったし、次郎の屋根は次郎の世界そのものだったように思う。太郎と次郎の眠りの中にだけでなく、二人を包む世界の上に雪は降り積もっていく。
この2行詩において、1行目と2行目の差異は「太郎」と「次郎」の違いだけだ。しかも日本では一般に男性の名前である。それにこの詩では二人が子供なのか大人なのかの区別が出来ない。時間も不明だが、二人が眠っている状況から夜であることが推測できる。
この詩において差異は問題になるのであろうか。僕は「太郎」と「次郎」の置き換えは単純に二人を指すのでなく、違いを出すことで、あらゆる人をそこに対象としているのではないかと感じる。つまり、老若男女全ての人が「眠らせ」られた世界。ただ「雪」が深々と降り続ける世界。
この詩で作者が何を表現したかったのかは、正直僕には関係ない。読む人がそこに何を感じるかが問題なのだと思う。優れた詩は読む人に様々なイメージを膨らませてくれる。この詩は短いが故に、逆にイメージの膨らみはさらに大きくなるように思う。
この詩全体で感じることは「願い」という言葉だった。全ての人と、その人の世界の上に雪が降り積もり、自然と同化していく様には、安らぎをそこに感じる。差異を認め合うのでなく、互いに差異を攻撃し合うのであれば、いっそのこと雪がその上に降り積もり、自然へ調和に向かう方向性の中で、差異をなくしてしまいたい。こんな感じの「願い」だ。
ここまでくれば完全な独善的解釈なのはわかっている。そして、その「願い」は僕の願いとは少々違う。この詩に静けさの中の安らぎを感じるが、やはり安らぎは、差異を見えなくすることで得られる事ではないと思う。しかしこんな解釈をしたからと言っても、僕がこの詩が嫌いになるわけでもないが・・・
(画像は産経新聞から)
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