2005/01/31

内田さんのブログ記事「止まらない大学の凋落」を読んで思うこと

ビジネスで使われる理論とか手法とかを使って企業が成功したからといって、全ての企業に同じことが適用できるかといえば、間違いなくそんなことはない。理論とか手法は、単なるフレームワークに近いもので、それだけでは何の役にも立たないとさえ思う。実際にその企業に合う形を構築し、そして運用するのは人だから、担当となった人の資質というか人間性が重要になると思う。

そのうえでさらに思うことは、それらの理論手法はあくまでビジネスの世界でのみ適用すると思ったほうが間違いない。ビジネスの各種理論手法は以前にはなかったし、必要もされていなかった。それは、あれこれとかんがえなくても商売ができたからだと思う。商店街に来る人はいつもの見慣れた人だったし、大企業になればそれはそれで大雑把に力を押していけば売れたような気がする。

理論手法が登場したのは、競争が激しくなり、普通にやっては売れなくなったからだろう。つまり人の出し抜き方として登場したのでないかと思う。また戦略、組織とか運営については軍事面をビジネスに応用したかもしれない。しかしそれぞれの研究が進み、今ではビジネスとして独自に発展しているように思う。ただ、ひとつの企業がそれで初めて成功すると、他の企業も真似をしだす。そうこうしているうちに、大体の企業が同じことをやり始める。こうなると理論手法なんてあまり意味がなくなってくる。

今はそんな時代のような気がする。それに加え、多様化と不透明な時代で、ヒット商品は当たるも八卦当たらぬも八卦と占い状態のようなものだ。ますます理論手法は使えない。でも逆にそうだからこそ理論手法にこだわる人もでてくる。そういう人たちの概ねは、社内内部で上層部に説得するか、株主宛ての魅力ある資料を作るために道具として使っていることが多いようだ。つまりは誰も実際面で役に立つとは思っていない、もしくは非常に少ないと思っている。

つまりは、現在大手を振って歩いているビジネス理論は、いわば建築の設計図の作り方と同じ者の様な気がする。設計者はあらかじめ何を作るか知っているし、そのための部材をそろえることも出来る。でも現在は誰も何を作って良いかわからない。でもとりあえずこんな感じでと作り始める。部材も資本が有限である限りは、そこら辺にある部材を適当に使って作っていくしかない。だからできあがりの姿は誰にもわからない。そういうビジネス理論が実は現状にあっているような気がするが、誰もそんな理論を言う人がいない。

僕の勝手な意見を言えば、顧客優先主義とかお客様第一主義なんて嘘っぱちだし、それが企業にとって一番の優先順位ではないと思っているし、理論手法を駆使して商品を作ったとしても、売れる保障はまったくない。たとえばマイクロソフトが顧客第一主犠だなんて言ったことは一度もないと思う。彼らの商品は常に封建的で、上から与えられ、ユーザは自分がその商品に合わせるしかないと思う。それでも彼らの商品は売れている。

今までにヒットした商品を企画販売した企業の担当者の話を聞けば、大体最初に出るのが「信じられません」だと思う。マーケティング理論は、結局のところ売れれば良いわけだし、売れるために顧客に少しでも迎合しましょうと始まったのが、「お客様は神様」理論だった。でも一人のお客様のために10億円もシステムを構築することがないのは誰でも知っている。もちろん、その一人のお客様で15億円くらい買ってくれるんだったら、喜んで作るとは思うけど、そんなお客様は少ない。

内田樹さんのブログを読むと、大学の経営状況は年々悪くなっていっているらしい。大学は確かにビジネス面とアカデミックな面との両方を持っていると思うが、ビジネス面よりはアカデミックな面のほうが目的として重みがあるように思っている。つまり「知」を産み育てる場所としての組織で、その維持費分を得るための経営となる印象に近い。

企業の目的は、利益追求と成長にあるのは間違いない。さらに経営者は企業価値を高めたいと願っている。企業価値とは、株相場とかが主だとは思うけど、今ではそのほかに社会貢献とか環境貢献なども評価対象になっているようだ。それでも、やはり企業の目的は利益追求が第一だと思う。

大学の場合は良くわからないが、利益追求と臆面もなく言っている大学は聞いたことが無いので、多分それが一番ではないのだと思う。そうであれば、大学経営者がビジネス理論手法を駆使して、今後の経営に利用するのであれば、それは止めたほうが良いかもしれない。

何でもそうかもしれないが、理論手法には生れ落ちた場所と理由があって、その理由が範囲を決めるし、また場所から逃れることもできないように思う。経営理論、戦略計画、マーケティング理論、運用手法、組織論などなど、ビジネス理論手法は他の業界から見ると、具体的で魅力的なものが多いかもしれない。でもそれらはあくまでビジネスの限定された世界でのみ適用されるもので、ビジネスの世界とは利益第一主義だから、すこしでもそれにそぐわない場所では、逆に弊害のほうが多くなってくるような気がする。

以前に民間の優秀なビジネスマンを学校の校長に抜擢し、その方がかなりのご苦労をされた話を聞くし、苦労だけならまだしも、場合よっては悲しい結末になってしまったこともあったと思う。それらの一因として、小さいかもしれないけど、学校(特に小中学校)の運用と企業の運用とは本質的に違うことに気がつかなかった点があるのではないかとも思っている。

でも残念なことに、学校の運営とか、大学組織の作り方とか、非営利団体向け会議のまとめ方とか、そういう理論手法及び具体的な経験談の書籍って少ないように思う。多分それは書いても売れないからだとも思うが、それ以前にビジネス向けで適用可能との気持ちが背景にあるような気がしている。

つまり僕の意見をまとめると、ビジネス理論手法はかなり怪しげなものが多く、しかも適用範囲はビジネス面に限定される。ビジネスとは、あくまで利益追求を目的としているので、それに少しでもそぐわない場所で適用すると、逆に弊害が多くなると思う。

ではどうすればいいのだろう。僕の意見だと、やはりまず外部と内部からみた強みと弱みを洗い出し、強みを特色として育てる方向に向かうことだと思う。世の中のトレンドを追求する考え方は、学府には似合わない。家電商品のように、A機能がライバルにあって自社には無いから設ける考えでなく、やはり従来のアカデミックな分野に大学経営資産を多く分配することだと思う。

大学に入る人は多く分けて3種類の人がいると思う。まず高校から大学に進学する人、時間が取れたので再度勉学のために入学する人、そして企業から専門知識理論を学ぶために入学する人。それぞれの状況によって選ぶ大学も違うだろうけど、大体の人が選ぶ場合、やはり得たい知識がえられる場所かどうかだと思う。でもこの3種類の人を全て満足できる大学は少ないように思える。

僕は今後の大学が注目する人は、再度勉学の人と企業からの人の事だと思っている。企業定年者は、今まで企業でお金儲けを考えてきたから、その反動で純粋な学問をやりたい人が多いような気がする。
企業が年間に費やす企業内人材育成を大学が肩代わりする事もいいかもしれない。ビジネススクールとまでいかなくても、理論より実際に企業が抱えている問題を解決するために、実践的な講義を行うとか。もしくは新製品開発に大学の持っているリサーチ能力と分析能力を提供し、見返りとして商品売り上げの数%を受け取るのもいいかもしれない。

これらの人を大学に入ってもらうには、問題は新学科をむやみに増やすのでなく、いかに入りやすく、かつ受講料を払いやすくする仕組みを作るのが大事だと思う。だから受講料も細分化することが必要だとおもう。まら新学科を増やすにしても、やはり強みを延ばすために行うべきだとも思う。

新学科を増やした時、先生の補充は、大学間でそのための提携を行って、出向などの形で来てもらうのはどうだろう。ただしその場合、先生方の評価測定に不利にならないような仕組みを作る必要があるとは思うが。

いずれにせよ、僕の意見としては二つの方向で、一つは純粋学問への強化、もうひとつは、より実践的な学問へのシフトと、実績を積むことによる企業連携への道を開くこととなる。

とここまで書いて、ビジネスの考え方は怪しいと良いながら。それを中心に考えているのに気がついた。いやはや育った環境とは恐ろしい。それに学府の事を何も知らずに書いている。まったく無知な者は怖いと我が身のことを思う。それに積み木理論(勝手に命名)の方が、仕方として学府には適していると思うが、今のところ単なる思いつきなので、話にならないのが残念でもある。

中尊寺ゆつこさんのご冥福をお祈りいたします

「90年に流行語大賞になった「オヤジギャル」を生み出した漫画家、中尊寺ゆつこ(ちゅうそんじ、本名・小林幸子=こばやし・ゆきこ)さんが31日、S状結腸がんのため死去した。」(毎日新聞
驚いた、彼女の書く漫画は結構好きだった。何よりもトレンドと政治経済を彼女なりにわかりやすく述べて、それが漫画としても面白かった。

考えてみれば、中尊寺さんは常に若い女性にエールを送っていたような気がする。「諦めないで、たくましく、がんばって」と、それは受けるほうも強要されるのでなく、自然に彼女の漫画を読んで伝わった感じがした。そしてそれは男性である僕にも十分に伝わった。

あの雰囲気のある絵を見られなくなるのは本当に残念です。ご冥福をお祈りいたします。

2005/01/30

NHK問題に関する内田樹さんのブログ記事を読んで

言論の自由に関する内田樹さんの意見をブログで読んで、大いに勉強になった。備忘録として本ブログに残す。内田樹さんのブログ記事はここ
『言論の自由というのは「言う自由」のことだけではない。
「言われたことば」の適否を判定する権利を社会成員が「平等なしかたで」分かち合うことも「自由」のうちにはふくまれている。』
『「選択的に正しいことだけを報道する」ということが原理的にありえないからである。というのは、無数の無価値な情報、虚偽の報道、イデオロギッシュなメッセージの中から、何を聴き取り、何を「正しい」とするかを決定するのは国民ひとりひとりの不可侵の権利だからだ。』
『「視聴者には報道内容の適否を判断する能力がない」というのは「事実のレベル」ではかなり蓋然性の高い主張である。しかし、「だから適否の判断を視聴者には委ねない(私が代わりに決めてやる)」というのは「原理のレベル」で受け容れることのできない主張である。』
『民主社会における私たちの人権は「誤り得る自由」も含んでいる。
「誤り得る自由」が認められず、「正解する自由」だけしか認められない社会というのは、人間が知的であったり倫理的であったりする可能性が損なわれる抑圧的で暗鬱な社会である。』
『正解を急がないこと。これが実は「言論の自由」の核となることなのである。
「正解を今この場で」と性急に結論を出したがる人は、「言論の自由」という概念を結局は理解できないだろうと私は思っている。』
上記『』内の文章は全てブログ「内田樹の研究室」からの引用です。

僕自身は以前のブログ記事で、NHK内に基準が無いことが今回の事件が大きく報道された理由としてあげた。そして統一見解を持たないNHKという組織に欠陥があると思った。もし仮に、NHKの報道が、NHKに属する1人1人の考えで報道したとしたとき、それを流す側と受け取る側にきちんとした了解が無ければならないと考え、今の日本ではそれが出来ていないと思ったからだ。

ただ問題がこのような形になった以上、内田樹さんの発言はもっともな考えだと思う。それに個人的には、とても勉強になった。

内田さんは、無時間モデルで判決を下した「民主法廷」と報道を妨害した政治家を同根だと見ている。そして、(こうなった以上)「民主法廷」を編集無しで最後まで放映すべきだとも考えているし、政治家は広く自分の考えを述べる権利を支持すると言っている。

なんと強い信念と意見だろう。確かにこの問題から考えることは多いように思う。問題が泥沼化している様相の中で、僕自身はこの問題に思考停止が過ぎたようだ。

僕自身も「民主法廷」と政治家の意見、を見て聞いて判断したいと思った。多分個人的には双方の考えに対して強い反発を持つとは思うが・・・

さらに内田さんのブログで書かれているように、「調停案」については僕もその通りだと思う。

「1973年のピンボール」に出てくるピンボールマシーンの絵

spaceship村上春樹の小説「1973年のピンボール」に登場するピンボールを紹介します。
ピンボールの得点を表示する場所(BackGlass)には、そのピンボールの名前をイメージする絵が描いてある。個人的には1965年から1975年くらいのポップな感じが大好きだ。また実際にプレイしてみると、その頃のピンボールはデジタル化されてなく、機械的で、何故か和む。

といっても、その時代のピンボールを探すこと自体が困難だ。ただ、最近ダーツバーなどでオブジェとして置いてある店も少ないが見かける。でもそのマシーンでプレイしている人を見かけたことはあまりない。

あと、温泉地の少し大きめのホテルの地下にゲーム室があれば、そこに置いてある可能性が高い。

村上春樹の小説「1973年のピンボール」ではピンボールマシーンとして架空の「スペースシップ」が登場するが、実際にゴットリブ製で1960年代後半に製造されている。トップの画像はその「スペースシップ」。

「ウィルアムズの「フレンドシップ・7」、ボードに描かれた宇宙飛行士の名前は誰だったろう? グレン・・・・・? 60年代のはじめだ。バリーの「グランド・ツァー」、青い空、エッフェル塔、ハッピィ・アメリカン・トラヴェラー・・・・。ゴットリーブの「キングス・アンド・クイーンズ」、ロール・オーバー・レーンが8つもあるモデルだ。口髭を綺麗に刈り上げたノンシャランな顔つきの西部のギャンブラー、靴下どめに格下スペードのエース・・・・。」
(「1973年のピンボール」から引用)

ちなみに全てのピンボールマシーンの画像は、「INTERNET PINBALL DATABASE」からのものです。


friendship7
ウィルアムズの「フレンドシップ・7」
描かれている人は、「ジョン・H・グレン」
1962年にアメリカで初めて地球軌道を回った宇宙飛行士。グレンが乗ったのが、フレンドシップ7号・マーキュリー宇宙船。彼はアメリカの英雄になります。でも僕にとっては、その後に日本の向井宇宙飛行士らとともに史上最高齢(77歳)で宇宙に出たときのグレンの方が印象的です。






friendshipfield

フレンドシップ7のフィールド。僕はBackGlassの絵より、フィールドの絵の方が好きかも。














grandtour

グランドツアーのBackGlass。なかなか良い味を出しています。











kingqueen

キングスアンドクイーンズのBackGlass。じっくり見ると、この絵は楽しいです。
下はそのフィールド。








kingsqueenfield

MEMO 村上春樹 「1973年のピンボール」

200501303f892a6b.jpg「1973年のピンボール」を村上春樹の初期作品において好きだと言う人が多い。僕もその1人だ。そしてそれは僕がピンボールにはまった経験を持つのと無縁ではない。

この小説は、「僕」と「鼠」の話が、「今」と「過去」を織り交ぜて交互に現れるが、「今」では最後まで両者が交差することがない。でもそれぞれに違う物語かと言えば、そうではなく、お互いの話は補完関係にあり、両者の話で1つの物語と言っても良いように思う。

物語全体を通じて思うことは、生きることの重さと軽さであり、その中で自分を麻痺させなければ生きることが出来ない主人公達の姿だ。そしてその中で「ピンボール」が象徴的に使われている。

僕自身がピンボールにはまったのは大学に入った年の夏休みだった。家の近くに古いゲームセンターがあり、そこに店以上に古いピンボールマシーンが1台おいてあった。バーリー社の「kiss」だった。kissは勿論あのロックバンドの名前だ。後から調べたら1979年の製造らしい。フィールドの左右に各4つのターゲットがあり、それにヒットする毎に得点と倍率が変わるという、きわめてシンプルでわかりやすい点数配分だった。

夏の深夜にそのゲームセンターに行くと大抵は友人が既にプレイしている。そして明け方まで二人でプレイし続ける。リプレイがあるので、逆にプレイ数はやるたびに増えていく。

ピンボールでは技術面が非常に重要だ。運が左右する部分も勿論あるが、それ以上にフィールド内を移動する銀色の玉を支配するのは物理なのだから、テクニックを多く駆使できる物が点数を稼ぐことが出来る。

その時分、偶然に古本屋で見つけた雑誌ポパイの特集がピンボールだった。そこにはテクニックの基礎が詳細に説明されていたこともあり、それを読むことで、ますます僕はピンボールに熱中していったと思う。当時、友人も僕もそれなりに問題を抱えていた。勿論問題を抱えていない人は、現実には1人もいないかもしれない。ただ、その中でピンボールを熱中している時は、自分の気持ちを何かに昇華出来たような気分にさせられた。それは気分だけの話なのは間違いないことだけど。

「1973年のピンボール」の中では実際にある出来事、音楽、書籍が物語の中で登場する。それはこの サイトに詳しく載っている。でも僕にとって、それらは物語の中では逆にリアリティが欠けている様に感じている。そして、物語の中に登場するが実際にはない物が、この小説にとって重要な気がするのだ。

例えば、小説の最初に出てくるピンボール研究書「ボーナス・ライト」は作者の想像の産物なのではないだろうか。小説の初めに紹介される、この解説書の序文ではピンボールの事をこう語っている。

「あなたがピンボールマシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシーンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、あるものはプルーストを読みつづけているかもしれない (中略)。 そして彼らは時代を洞察する作家になり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。」(同小説からの引用)

まるで「1973年のピンボール」の序文として書かれる内容だと思う。そしてこの序文を読むと、タイトルにピンボールが入っていることや、この小説がピンボールの小説であると、作者が語っている理由が何重にも見えてくる。

「孤独な消耗」を続けているのは、なにもピンボール・マシーンの前だけではない。小説の主要人物である「僕」と「鼠」にとって、生活する事自体が「孤独の消耗」をすることであると思う。

またピンボールは何処にも連れて行ってくれないように、「僕」と「鼠」は同じ場所にとどまり続ける。お互いがとどまることを止めるときは、「僕」がピンボールと別れるときであり、「鼠」が女性と別れジェイバーのある町を離れるときでもある。

小説には「僕」と一緒に暮らす双子の女の子が登場する。ベットでは双子の女の子の間に「僕」は割り込んで眠っているが、その姿で連想するのがピンボールそのものだ。
ベットをフィールドとしたときに、双子の女の子はピンボールのフリッパーをイメージさせる。そうなると「僕」はフィールドを移動する銀色のボールとなるのかもしれない。

もしくは、「僕」と双子の女の子をあわせて3人が、この小説のもう1人の主人公であるピンボールマシーン「スペースシップ」が3フリッパー・マシーンである事に関連しているのかもしれない。でもどちらであっても、「僕」の日常はピンボールを連想させ、それはピンボール研究書「ボーナス・ライト」序文で述べるところの、「孤独の消耗」と「何処にも連れて行かない」状況に繋がっていくように思える。

3フリッパーの「スペースシップ」も現実には存在しない企業で作られた架空のマシーンだ。でも「スペースシップ」というマシーンは実際には存在する。村上春樹はそれを知らずに小説に書いた。後で同名のピンボールマシーンがあることをしった作者は、このマシーンを実際に購入している。

小説では「スペースシップ」と主人公との会話はかなり濃密だ。

「彼女は素晴らしかった。3フリッパーのスペースシップ・・・・、僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。僕がプレイ・ボタンを押すたびに彼女は小気味の良い音を立ててボードに6個のゼロをはじき出し、それから僕に微笑みかけた。僕は1ミリの狂いもない位置にプランジャーを引き、キラキラと光る銀色のボールをレーンからフィールドにはじき出す。ボールが彼女のフィールドを駆けめぐるあいだ、僕の心はちょうど良質のハッシシを吸うときのようにどこまでも解き放たれた。」(同小説から引用)

「僕」と「スペースシップ」の会話は2回ある。1回目は過去の話として語られる。大学時代の「僕」は「草原の真ん中に僕のサイズに合った穴を掘り、そこにすっぽりと身を埋め、そして全ての音に耳を塞いだ」状態で、町のゲームセンターに置いてあった「スペースシップ」との関係を深める。

2回目は今の話として語られる。既に町のゲームセンターは無くなり、ドーナツショップに変わっている。主人公は「スペースシップ」を探しだす。彼女はコレクターにより収集され倉庫にいたのだ。その倉庫には合計で78台のピンボール・マシーンが置かれている。そしてその場所で再会を果たす。

倉庫での再会はとても印象的だ。78台のピンボール・マシーンが眠る倉庫に、電源を入れる時のイメージはすごい。この小説の中ではクライマックスと言ってもいいかもしれない。しかし、その倉庫は人がいる場所ではない。

倉庫での「スペース・シップ」との会話は、思い出を語り合うことと、「今」のお互いを確認することしかできない。彼女は主人公に向かって、ここは「寒い」からあなたのいる場所ではないと言う。

「僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい思いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光と共に歩むだろう。もう行った方がいいわ、と彼女が言った。」(同小説から引用)

現在ピンボールの姿を町で見かけることは少ない。以前はあれほど日本中に溢れていたというのに。ものが無くなっていくと言うことは、それが何かに置き換わる場合と、それが存在する理由が無くなった、のどちらかだと思う。ピンボールははたしてどちらだろう。

僕は、ピンボールがテレビゲームに置き換わった部分が大きいと思っている。両者の発生元は違うが、係わり方は似ている。でも「1973年のピンボール」では、そうは考えていない様に思う。ピンボールは存在する理由が無くなったから、が小説の中心を流れているように思う。

存在する理由が無くなったことは、僕らの社会が、ピンボールを受け入れたときと、必要が無くなったときとで、何かが変質したと言うことになるのかもしれない。そして、「僕」と「鼠」はピンボールを受け入れた時のまま、変質してしまった今を生きている。

彼らが今の社会に生きようとする決意を持つには、それなりにエネルギーを必要とする。そしてそのエネルギーを得る為に、彼らは多くの物を失う。生きて行くには、自分が変わらなければいけないと彼らは思っているが、どうやって変わったらよいかわからない。そして、変わっても本質は何も変わらないとも思っている。

実をいうとここまで書いて、この小説が僕に何を訴えているのか少しもわからない。ただ、僕はこの小説を読むと少し安らぐのは事実だ。小説の登場人物と僕が等身大であるとは思えないが、少なからずピンボールに熱中していた頃とだぶって読んでしまう。さらに、主人公達の選択の結果が、彼らの方向性を見失わさせているのも事実のような気がする。もしくは生きることに不器用な人にとって、選択の幅は狭いと言うことなのかもしれない。

でも生き方が器用な人って本当にいるのだろうか?

2005/01/29

「HyperCard」から生まれたモダンアート

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アランケイがダイナブック構想を立ち上げたとき、現時点で最も具現化した姿として、僕はMacの世界に入り込んだ。その当時の僕はパソコンの将来に「ドラえもんのポケット」の様な姿を見ていたように思う。

ただ当時Macはやたらと高価で、やっとの思いで購入したのが「SE/30」だった。「ハイパーカード」は、その当時のMacに標準添付していて、Macを購入する動機の1つになっていたのは間違いない。僕も幾つか自分のために「ハイパーカード」でアプリを作っては楽しんだ。

当時は本当に多くのスタック作家がいて、Mac同士の場合、ハイパーカード形式のファイルでの流通は一般的であった。

ハイパーカードはオブジェクト同士を結ぶハイパーリンク構想をカード単位で具象化したソフトだったと思う。でも、質の面でWWWへと置き換わっていったような気がする。だから、僕にとっては、ネットというよりはWWWの登場によって、Macを使う理由が無くなっていったように感じている。そして、今から10年以上前に僕は、当時の言葉で言うと「転向者」になった。
丁度その頃あたりに、Appleでは「ハイパーカード」のフルセット版が有料になったとおもう。それ以降はMacに標準添付されたのは機能制限版だった。そんな流れで、Macの世界からハイパーカードは消えていった。それはMacが普通のパソコンに変わっていく流れでもあった。少なくとも僕はそう感じていた。

そんな「ハイパーカード」がモダンアートで生かされているという。記事は「旧型マックと『HyperCard』から生まれたモダンアート」。
『「引退するまでMacintosh Classicを使いつづけ、それでいて作風を決して繰り返さないことだって可能だ」とボーラム氏は話す。「人々はいまだに、鉛筆や絵筆で描くことをやめていない。可能性が尽きていないからだ。私も同じように感じている」』(同記事より引用)
僕はこの記事を読むまで誤解していたことがあった。僕は、人が表現したいことを実現するために、新しいテクノロジーが産み出されるのであれば、その線上にある古いテクノロジーからは新しい物は何も産まれないのではないかという考えを基本に持っていた。
しかしその考えは、幾分古いテクノロジーを、「古さ」の1点だけで自分で限定していた部分がある様に思えたのだった。確かにボーラム氏の言うことはもっともかもしれない。ただそれ以上に感じることは、彼の作品を見るときに、同時に古いテクノロジーで表現する環境も見ている事であり、それらが作品に対して一定の意味を与えていると感じる様にも思える。

新しいテクノロジーは古いテクノロジーを包括しながら発展してきたのでは無かったのだろうか。暗黙のうちに僕らはそう考えると思う。そしてその考えが、ボーラム氏の作品に対する、現代のテクノロジー全体へのアンチテーゼとなっているかの様に捉えてしまう。
でも別の見方をすると、新しいものは古いものの全てを包括して発展してきたのではない、との考えもあると思う。そしてボーラム氏の発言は、彼がその考えであることを示唆しているかのようだ。

包括されていない部分とは一体何だろう。正直僕にはわからないが、1つに上げられることは記事にあるように、「遅さ」かもしれない。ただ、ボーラム氏にとっては、その部分を正確に理解し、それ故にかれが表現したい芸術に「ハイパーカード」を使ったのは間違いないのだろう。

「ハイパーカード」を開発したビル・アトキンソンは、Macに同ソフトを標準添付することを強力に推し進めたそうだ。彼は自分がやりたいことを楽に出来るように、ハイパーカードを開発した。現在は自然写真家になっているビル・アトキンソンは、最新PCとMacを写真加工に使いながら、他にもクラシック環境のMacで自分の作ったハイパーカードアプリを使っているそうだ。

もしかすると、僕がMacに感じた一種の諦めは、期待値が高すぎることの反発もあったとは思うが、時期尚早だったかもしれない等と考えてしまった。

関連サイト
ハイパーカードパーク
ビル・アトキンソンの自然写真サイト

2005/01/28

田口ランディさんのブログ記事

田口ランディさんのブログ記事「馬鹿な男ほど愛しい」を読んで、妙に納得してしまった。この記事はヨットマンで、現在単独で東回り無寄港世界一周に挑戦している斉籐実さんの事を書いているが、内容は斉籐さんだけにとどまっていない感じがする。

学生の時の話だけど、友人の彼女とても素敵だった。ある時に失礼とは思いながら、それは気の置けない友人関係のよしみで、彼女に聞いたことがある。

「あいつ馬鹿な奴だけど、何処が気に入ったの?」
彼女は笑いながら僕に答えた。
「私って馬鹿な男が好きなの」

その時の彼女の笑顔と言葉が忘れられない。友人は無茶苦茶な奴だった。勿論それは学生としては許される範囲だったのは間違い無いとは思うけど。

お互いに社会人になって、他の友人達と集まって飲み会を開いた。丁度金曜日と言うこともあり、10数名でそれこそ際限なく飲み続ける。当然に前後不覚に酔っぱらう奴が出てくる。その時急に彼が立ち上がり、みんなにカンパを要求し始める。僕らは一体何が始まるのか皆目見当がつかない。でもこちらもよっているので、千円とか中には5千円とかを出す奴もいて、合計では3万円くらいになる。

それからみんなで店を出て、酔っぱらった奴を二人がかりで抱きかかえ、東京駅に行き、その時に一番近い寝台列車に乗せてしまう。その男の背広のポケットにはカンパのお金を突っ込んで。あとは全員でその列車を万歳三唱で見送るというわけだ。

でもそんな事はまだ可愛い遊び程度の話で、そう言う話は出せばきりがない。彼に言わせれば、彼の先輩はもっと凄かったらしい、高校文化祭の後夜祭に、隣の農家で牛を飼っていたのを盗み、それをキャンプファイヤーで丸焼きにしたらしい。そしてその丸焼きにした牛の回りで、男女とも半身裸になりインディアン踊りを踊ったとのこと。

そこまで来れば、これはウソだという事がばれるが、実際それに近いことを一緒にやったらしいので、その時はそれ以上聞かないことにした。

勿論ランディさんのブログ記事で言うところの「馬鹿な男」とは次元が違うのはよくわかる。でも僕がこのタイトルで最初に思い出したのが、彼の話とその彼女の笑顔だった。
大学を卒業した彼はホテルマンになりたいと、京都に向かった。それから一度もあってはいない。今頃どうしているのだろう。

「堀江さんが正義の主役なら、斎藤さんは悪役の方だ。個性派だ。強烈な味がある。どうしようもない弱さがある。その弱さを露呈して生きる、泥まみれの強さがある。いや、弱いのか強いのかよくわからない。でも強い人っていないよなって思う。すごく弱い人、すごく繊細な人が、弱さをひっくりかえして強くなる。人間の幅ってのはおもしろい。強い方に突き抜ければ抜けるほど、弱い方にだって抜け方がすごいのだ。

斎藤さんは、そういう不思議なアンビバレンツな人であり、どうしても嫌いになれない。どうにもかわいい。弱くてかわいい。見てるとせつない。斎藤さんこそが孤高の冒険家だと思える。むちゃくちゃだが、その行動は私のきゅーんとさせてしまう。ジャック・マイヨールのような、透明で悲しい目をしている。」(同記事より引用)

ランディさんの人を見る目って凄いと思う。僕にはどうしてもここまでは感じることが出来ない。性差を持ちかけるつもりもないけど、この感覚は女性「田口ランディ」さん特有の見方ではないかなって思う。「弱い方にだって抜け方がすごいのだ」の感覚がすごい。

まず僕の場合「強い」「弱い」で人を見たことがあまりない。なにかしらの状況とか場で「強かったり」「弱かったり」している様な気がする。どんな人にもやはり弱点みたいな所を持っているような気がしているし、会社とか公の場で「強さ」を出す人は、逆の場では「弱さ」を出しているんじゃないかなって思ったりする。

そんな話をつい最近友人とした。その友人は、本人曰く雑草のような男だから、ランディさんの「抜け方」とか、僕の「弱点」とかの話はぴんと来なかったようだ。でも「抜け方」とは「弱さをひっくり返して強くなる」ような事みたいだと言ったら、「うーむ」とうなって、「今はわからないけど、覚えておくべき言葉だな」と言っていた。

このランディさんの言葉は、思うにランディさんとお父さんとの関係で得られたことのような気もしている。そんな気にさせたのは、同じくブログ記事「シンクロする言動」を読んだからだった。

このブログ記事は、ランディさんとお父さんの関係が良く出ている。しかもその関係は、少なくとも僕にとっては普通ではない。人と人はここまでしなければ、解り合うことが出来ないのか、もしくは、ここまでしても解り合えないのか、などと思ってしまう。僕の感想は意味不明だけど、とりあえず読んでくれればわかると思う。

「父と対決するときは、父の育った時代背景にのっとった、父の慣れ親しんだ環境の、父の言語を使うしかない……。私の言葉では聞いてもらえない。遠洋漁業の船乗りだった父に合わせると、まるで「ごくせん」のような言葉使いになってしまうが、こうするとなんだかわかりあえる……ような気分になる……から不思議だ。」(同記事から引用)

この気持ちは本当によくわかる。同じ日本語を使いながらも、育った環境が違えば言葉は通じなくなる。例えば、東北から東京に出てきて、正月などで実家に戻ったときに東京言葉が抜けなくて、地元の友人から訝しがられるのと同じだと思う。「場」には「場」の言葉があり、それを使わないとランディさんの言うとおりにリアリティに欠けてくる様に思う。

そんな事を考えていたら、日本人は「場」の文化を持つんじゃないかと思えてきた。欧米人が「個」の繋がりとし、東洋が「血」の繋がりとしたときに、日本では「家」の繋がりと言えるかもしれない。その「家」は「場」とも言えるような気がする。

そんな事をランディさんのブログを読んで、つらつら考えている。

2005/01/27

ブログを初めて4ヶ月経って思うこと

検索などでわざわざこのブログに来てくれた方は知らないと思いますが、このブログはLOVELOG村では「ビジネス」のカテゴリに入っていました。

どのカテゴリに入れるかは、入れる方の勝手ですが、僕は自分に対して厳密になってしまう部分があり、なんかこのブログは「ビジネス」にそぐわないんじゃないかなと思ったりしていました。

最初にこのカテゴリを決めたのは気楽なノリでした。でも面白いことに、気楽に決めたカテゴリに逆に徐々に縛られていく自分がいるんです。

個人的に思うことは、できればカテゴリなんか無くして欲しいけど、それは反対する人も多い様な気がします。もしくは、1つに決めるんじゃなくて複数のカテゴリに入れるとかしてくれると嬉しかったりします。

ブログの場合、日々に思う事を備忘録として記載する人が多いと思います。そして僕もその範疇に入ります。でも暮らしの中で、日々に思う事って様々なんですよね。当然に「ビジネス」にカテゴリされていたこのブログもそうです。だから結果的に、ビジネス以外の話の方が圧倒的に多いことになります。

何をもって「ビジネス」とするかは、人によって違うと思うけど、範囲を広げれば限りなく広がってしまう気がします。僕としては、何でもビジネスの範囲に出来るとは全く思ってないけど、目的が利益追求に合致しているのであれば、ビジネスの範囲で書けると思うし、その気持ちで記事をビジネス扱いで書いてきました。

でも当然に利益追求が目的になっていない事も社会には多くあって、それらについても思うことを書いていこうと思うのです。さらには備忘録的な要素もこのブログにさらに多くしようとも思っています。

そこでカテゴリを「ビジネス」から「独り言」に変更しました。また文章のスタイルも徐々にですが変えていこうとも思っています。ブログをはじめて4ヶ月を超え、いままで人様のブログを拝見させて頂き、自分が書きたい文章の内容とかスタイルとかが、やっと見えてきたような気がします。その方向に徐々に変えていこうと思っています。

このブログについての些細な話ですが、MEMOとして掲載します。

2005/01/26

アエラ記事「独走iPod対国産」を読んで思うこと

200501268e7766fc.jpg「アエラ」(05.1.31号)に記事「独走iPod対国産」が掲載していた。この記事を読んで幾つか思うことがあった。

「米アップル社の昨年10月?12月期決算書が四半期業績で過去最大となる前年同期比74%増の34億9000万ドルを記録。実にその40%をiPodとその関連事業が占めた。市場占有率は米国で3割超、日本では4割を占め、iPod現象が起きている。」(同記事から引用)

記事によれば、iPod独走の理由として以下の点を上げている。

1)iPodのハード面から見た優位性。
・優れたデザインと単純な操作性。
・HDDタイプなので、相当数の曲データを収納でき利便性が増した事。
2)iTunes(音楽管理ソフト)が優れている。

僕が面白いと思ったのが、音楽配信を行っている企業が挙げている理由が、上記1)のハード面の優位性であり、ソフトウェア開発業者があげているのが2)の音楽管理ソフトの優秀さだった。つまりは発言する企業が、触れたくない部分(音楽配信の価格と著作権の問題)と、触れたい部分(ソフトウェア開発)を述べているに過ぎない様に思える。

それらはそれで間違いはないが、僕が思うに日本でiPodが売れた理由は、自社のコーディック(AAC)だけにこだわらない姿勢とデザイン性であり、それ以上に米国での人気の波が日本に伝わった事だと思っている。

そして、米国でiPodが売れている理由は、iTunes Music Storeでアルバム内1曲単位での安価な音楽配信ビジネスの成功によるものだと思っている。

日本の場合は、SONYなどの自社コーディックへのこだわり、ネットでの音楽配信ビジネスの立ち遅れによる製品との一体化した囲い込みが不十分、等の失敗で出遅れてしまった様に思える。

例えば、iPod発表当時においてHDDタイプは東芝の製品があったし、音楽管理ソフトはSONYが開発したソフトもかなり優れていると思う。しかし、東芝製品はiPodより操作が重く、SONYのソフトは自社製品にしか添付されず、MP3等の標準コーディックに対応するにはそれなりの対応が必要で手間がかかった。

記事では、SONYを含む各家電メーカーが打倒iPodにむけて新製品を次々に出していくと宣言していた。特にSONYは新たなHDDタイプの「ウォークマン」を出し、さらに音楽配信サービスのさらなる展開を行うと言っていた。

新しいHDDタイプの「ウォークマン」には正直興味がそそられる。しかし、iPodと同じ技術を使って、同じ価格帯での参入であれば、非常に厳しいビジネスを強いられることになるのは間違いない。(例えばNWーHD3の様に)
ただ、新しい「ウォークマン」が新技術(例えばHDD容量比でのさらなる小型化)か、きわめて安価な価格帯であれば、話は違うかもしれない。

日本において、まもなくiTunes Music Storeが運用を開始すると聞く。いずれにせよ、今年においてiPodを取り巻く、音楽配信ビジネスを含めた状況に目が離せないと思う。

(画像はiPod2世代目)

禁止用語の取り纏め

今まで携わった業務の中で面白かったのが禁止用語集の取り纏めだった。

以前、会社でネットサービスを開始するというので、システム開発を行ってきたのだが、何しろ会社にとっては始めての分野だった事もあり試行錯誤の連続だった。

初めてのサービスを考えるときに、本当に色々とやらなくてはいけない事が多いと思う。例えば市場調査からビジネスプランの策定、プロジェクト体制の確立、開発、現行業務への引渡し、もしくは新組織の立ち上げ。大項目だけのかなり大雑把な話でもこのくらいはあると思う。

それがこのネットサービスに関しては、市場調査などの各種マーケティングは一切考えず、まず開発だったのだから、今から考えると恐ろしい話だった。

ただ開発といっても、開発する元ネタがないと開発しようがない。元ネタといっても、最初から詳細が欲しいのでなく、サービスの大雑把な内容と言ったところがまずは必要だが、実際はそれさえもなかった。

しかしサービスインは近づいてくる。営業に迫っても埒が明かない。それで思い余ってまずは開発側でサービスを考えていった。

参考になる事例は当時の日本にはなかったので、米国のコンサルタント会社から情報をもらった。しかしもらった情報は、米国のその時点での事情はわかるけど、日本に同じサービスを適用するには、法制面で無理があった。でも何となく検討している間で、おぼろげながらサービス内容の輪郭が掴めてきたので、サービス内容の概略を書いた。

概略ができたら、それをプロジェクトに提示して、営業を交えて詳細検討を行ってもらい、なんとか開発着手(といっても外部要件の入り口レベル)をすることができた。

ところが、ある程度開発が進んでいく段階で、お客様が任意で決めるIDについて、何でも許していいのかという話が、開発サイドから持ち上がった。

たしかに何らかの対策は必要かもしれないので、とりあえず開発は禁止IDリストありきで、進めてもらった。サービスに関する話なので、まず営業側に相談してみた。でも意見は特になかった。
「公序良俗に反する言葉を禁止すればいいんじゃない」、などと曖昧な回答をもらうだけだった。

それでは致し方ないと、それも開発サイドで作った。でも実際に開発行為に携わっている所は、忙しくてそんなことを考える暇も立場でもなかったので、結局僕が考えるしかなかった。

業務としては片手間にやり始めた禁止IDだけど、そのうちに面白くなり、何日かはそれだけしかしなかったように思う。その当時、ネットで検索しても、今ほどサイトが多いわけでもなく、禁止IDで即座に結びついた「放送禁止用語集」みたいなものを、見つけることができなかった。

そのときに受けた印象は、放送禁止用語とは、新聞での使用禁止用語から発生しているらしく、各社独自のポリシーで決めている様な感触だった。
何しろ情報がなく、期間も短かったこともあり、「えいやっ!」と開き直り、全て最初から自分で考える事に決めた。

正直言って、どんな言葉も文脈によっては、悪意に満ちた言葉になりかねない。もしくは、その気がなくても相手に不快な感情を持たせてしまうこともある。だから、禁止IDの言葉を捜すこと自体、意味があるかということにもなる。

ただ今回の場合、文脈ではなく、文字数制限がある中で、単語がそれだけで意味を持ち、尚且つ人に不快な感情を与える恐れがある言葉のリストを作成することだったし、原案を考えたとしても後でプロジェクト内でチェックを受けるつもりだったので、とりあえず気楽な感じで始めた。

始めは見つかる単語は数が少ないだろうと思っていた。しかし探したり、考えたり、想像したりすると、次から次へと出てきた。

僕の場合、いわゆる「差別用語」と呼ばれる言葉の数は少なかった。それより性的なことを印象付ける言葉がやたらと出てきた。
言葉というのは、その国の文化を表すかもしれないが、個人が持つ言葉のボキャブラリィはその人の(つまりは僕の)実態を表しているかのようで、それに気が付く事が、この業務を面白く感じた理由だった。

それらの言葉は、生々しく、かつ強く「性」を主張していた。これらの業務を通じて僕が思ったことは、「何故、僕は(人は)こうも性に対して情熱的なんだろう」ということだった。誤解しないで欲しいのは、いつも僕がそういうことを考えているのでなく、その時の業務でわかったという事。実際の僕はそういうことに、友人との会話をしても結構淡白(笑)方だと信じて疑わなかった。

しかもそのリストをプロジェクトの他のメンバーに見せたときに、「よくもまぁ、こんなに出てきましたね」と、少し苦笑しながら言われ、実は密かに傷ついた。
その時は、「ええ、ネットとか本とか、または人に聞いたりして、集めるのに苦労しました」と嘘を言ったけど、実際は誰にも聞かなかった。

結局他に意見はなく、しかもそれ以上の言葉も出なかったので、僕の案がそのまま禁止IDリストとなった。まじめに考える人が少ないって事なのかもしれないが、業務に携わった僕としては色々な面で勉強になったのは事実だった。勿論それらで得たことは、実際の仕事で生かされる事がほとんどなかったのも事実だった。

楽しい業務だったのは間違いないが、現時点で同じ事を任されたら、きっと大変な事になるような気がする。言葉の選択もそうだけど、まずネットでの検索が監視にあってできないように思える。

2005/01/25

長崎の小中学校調査

「長崎県佐世保市の小6女児事件を受け、長崎県教育委員会は県内の小中学生を対象に「生と死のイメージ」に関する意識調査を実施。「死んだ人は生き返る」と思っている子供は全体の15・4%に上り、小学生よりも中学生の方がその割合が高かったとする調査結果を24日発表した。」(産経新聞から

グーグルニュースでは、1月25日3時の段階で、全国紙および地方紙新聞のうち計16社の同一記事を紹介していた。そしてそれらは、ほぼ全て同じ内容の記事であった。

ただ毎日新聞だけが本調査に対し、調査実施者である長崎県教育委員会の以下の言葉を掲載していた。

「ただ、中学生の方が小学生より「生き返る」と答えた割合が高く、県教委は「結果については一部疑問もあり、経年調査をしたい」としている。」(毎日新聞から

上記の県教委の発言は重要だと僕は認識している。一部疑問の内容は明らかにされてはいないが、毎日新聞の文脈を見れば、「中学生の方が小学生より「生き返る」と答えた割合」が高かった事がそれに含まれている様だ。また、調査実施者のこの発言は、同調査結果が一人歩きをする事を、出来るだけ止めたい配慮もあるかもしれない。

いずれにせよ県教委が述べたように経年調査が必要だと僕も思う。それまでは本調査結果は参考程度にとどめておく事が一番良いと考える。

本調査では2択方式で6項目の質問を行ったそうである。抽出方法は明らかにされていないが、自分が中学二年生の頃を考えると、変に厳密な所があったように思う。

例えば「死んだ人」の定義次第では「生き返る」事もあると考えても不思議はないように思える。蘇生した者の体験談をテレビなどで聞けば、そう言う場合もあると思うことで、「生き返る(事もある)」などと考えるかもしれない。

6項目での質問は、質問数が少なすぎるのでないだろうか。もうすこし多面的に質問を行う必要があるように思える。

僕が初めて人の死を目前にしたのは、母方の祖母の時で、小学校低学年だった。祖母には4才頃まで育てられ、怒られてばかりいた記憶があり、怖い人との印象が強かった。祖母が自宅で横たわっている姿を見て、僕は何故か厳粛な気持ちになったのを覚えている。

それは回りの親戚の人が、静かで悲しみに耐えている姿と、泣いてすがる姿を見て、子供ながらに祖母は戻らぬ人になったのだと思ったのだと思う。それから何度か親戚・友人の親・友人・会社関係と葬送の儀礼にでた。

葬式に出るというのは、色々な意味で僕らに考えさせることが多いような気がする。もしかすると、子供達にも、子供だからと言って除外するのでなく、積極的に親はそう言う場に連れて行くべきなのかもしれない。そんなことも考えてしまった。

2005/01/24

ソニーエリクソンの携帯端末

premini何故かソニーエリクソン製の携帯電話が好きだ。僕はauを使っているが、機種変更した3台は全てソニーエリクソン製だった。

特に今使っている機種A1402Sは、折り畳みタイプの中では軽く薄く、アンテナ内蔵なので出っ張りもなく気に入っている。多分、当分はこの機種を使い続ける気がする。

この機種は、auが繰り広げる新サービス展開には一歩で遅れた感じを受けるが、そもそも僕は携帯にそれらを求めてはいないから問題はない。

以前にふとしたことで、ソニーエリクソンの技術の方と話をする機会があった。ちょうどS505isが発売された直後で、あの形がau向けにも出て欲しいと思っていた僕は、それを図々しくも彼に話してみた。でもソニーエリクソンでは、ドコモとauでは事業部が違うらしく、それはかなり難しいとのことだった。

確かに、同じ企業で同じ携帯電話を作りながら、au向けとドコモ向けとではコンセプトを含めて何もかもが違う。それは製品を見でも明らかだ。そして、ドコモ向けのデザインに羨ましくなるときがあるのも、本音を言えば事実。そう思っていたら、今度もドコモ向けに「premini??」が発表された。

実は去年に「premini」が発表になったとき、そのシンプルさと小ささが気に入った。それまでの携帯は、メーカーの不安感からか、持てる機能は全て付けて、それを携帯上級者向けみたいな雰囲気で売っていた。しかし僕としては、携帯端末メーカーのその方向性に、何か違うんだけどなぁと思っていた。そこに登場した「premini」は僕のツボに見事にはまった。

かといってauからドコモへの切り替えは面倒だったし、「premini」自身がFOMAで無かったこともあり、切り替えは行わなかった。

今回発表した「premini??」はその後継に当たる機種になるのだろう。
1.9インチQVGA液晶を搭載したストレートスタイルで、すっきりとしたデザインで個人的には好感が持てる。発表では、130万画素のCCDカメラを搭載したiモード対応携帯電話の中で世界最小1の体積(79cc)との事。しかもメモリースティック Duoに音楽データを保存し、メール作成やiモード閲覧をしながら音楽が聴けるとのことらしい。

ただ、今回もFOMAではない。それが販売にどう影響するのかが興味深い。

音楽に関する内容はいまいち不明だが、Duoに保存したATRAC3フォーマットを聴けるとのこと。つまりは、別途何かから(多分PCから)Duoに音楽データを入れる必要があると言うことかもしれない。

しかし、auにも同様のコンセプトを持った携帯端末があったら嬉しいけど、やはり難しいのでしょうね、ソニーエリクソンさん。

関連サイト
ソニーエリクソン
ドコモ
ITMedia

2005/01/23

バイク窃盗団からの手紙

バイク窃盗団が捕まり、僕のバイクは証拠品として警察が預かっていたが、2週間くらい前に引き取って下さいとの連絡があった。でも寒い事と、修理とバイク屋に運ぶ手間と金銭的な事から、もう少し警察においてもらおうと思い、手続きはまだ行っていない。

そんな中、今日見知らぬ弁護士からの封書が僕宛に届いた。「オレオレ詐欺」「フィッシング詐欺」の事件が多い中で、弁護士に対する信頼度が彼らに関係なく落ちている中、弁護士からの封書に少し緊張したが、読んでみるとバイク窃盗団の国選弁護士からだった。

手紙の内容は、窃盗団の犯人が罪を悔いている様子を、弁護士と犯人の手紙で綴られていた。具体的な内容は相手もいることなので明かすことは出来ないが、この手紙の内容が真実であれば、確かに同情する点が多い。つまり、やむにやまれぬ状況で犯罪行為におよんだと言うことだった。(誰でもそうかもしれないが・・・)

実を言うと、こういう展開になるのは予想外だった。僕にとって窃盗団は、あくまでビジネスの一形態と彼らが認識している、と信じていたからだった。勿論、これらの犯罪行為は反社会的であり、ビジネスが社会に閉じられた行為であるのであれば、ビジネスとは言えないかもしれない。

ただそこには、盗む者、分解する者、搬送する者、組み立てる者、売る者の専門分業化され、効率化を求めた形態がある事。そして何より、日本市場(盗む場所)より高く売れる市場に商品を持ち込み売る、という行為にビジネスを感じてしまったのも事実だった。

だから、窃盗団は僕にとって「ドライ」でなければいけなかったし、犯人がその行為に恥じる事があるとは想像もしていなかった。
さらに言えば「WHOに対するアンチテーゼと世界を支配するグローバル企業への反乱」などとウソぶいて欲しかった気持ちも多少あった。

例えば、日本重要文化財の掛け軸を盗み、法廷で「文禄・慶長の役で日本に略奪された文化財を取り戻すため盗んだ」とウソぶいた韓国人窃盗犯の様に。ただ、この窃盗犯の場合は歴史を用いてしまったので、根拠がない事がすぐにばれてしまったのが、浅知恵といえばそれまでの話だけど・・・

勿論、この弁護士からの手紙の内容は、日本人の心理を巧みに利用し、出来るだけ被告人の罪を軽減する為の方法かもしれない。だから人が理解しやすい犯罪動機を提示し、犯人が「人である」事を示したのかもしれない。そしてその作戦は、見事に僕には的中したようだ。

僕は彼ら犯人の罪を軽減しても良いと思っているし、その為に何をしたらよいかを国選弁護士に聞くつもりでいる。そしてその気持ちの中には、早く家族の元に戻してあげたい気持ちと、自分の妄想とは違う現実の姿を見る事で、自分がこの窃盗事件に対し気持ちが収まった事が確かにある。

スマトラ沖津波は神がもたらした

「スマトラ沖津波は神がもたらした――米国人の4分の1が信じ、日本人は信じない」(ITMediaより

調査方法など明らかにされていないが、日本人の僕としては俄に信じられないアンケートと結果だった。記事のよると宗教別ではキリスト教徒が最も高く、地域別ではロシアが27%、米国が26%、韓国が15%となっている。

ただこのアンケートは20カ国おのおの1千人つづなので、僕にとっては結果を出すには母数が少なすぎるように思える。ただ、地域別でなく宗教別として結果を見たときに、キリスト教が多いことに、根拠はないが、ノアの箱船を思い出し、妙に納得してしまったのは事実。

『「津波のような恐ろしい悲劇は理解しがたいもので、科学の力でその威力や原因を説明したとしても、なぜそれが起きたのかという説明については、多くの人がさらなる答えを求めてしまうものだ。宗教はしばしば、わかりやすい答えを示してくれる」とGMIの最高執行責任者であるミッチェル・エッガーズ博士は説明する。』(ITMediaより)

宗教も科学も因果性を説明する事では同じかもしれない。災害に遭われた人が「何故」を繰り返し、その原因を求めることで、納得する場所を求める気持ちは僕にも理解できる。

それが科学で得られないとき、もしくは十分に納得出来ない時、宗教にその回答を求める事もあるのだろう。
例えば記事の解説だけでなく、災害は自然が起こしたこととして受け入れたとしても、その災害が起きた時に、自分がそこにいた理由を神に求める人もいるかもしれない。
また、助かる人と亡くなる方の違いに神を求める人もいるかもしれない。

ただ、うまくは言えないが、それらの考えが科学的な防災手段構築に阻害とならなければと思う。

三好達治の詩「雪」について

2005012374f4b363.jpg世界遺産に登録されている岐阜県の白川郷で22日夜、合掌造りのライトアップが始まった。(産経新聞から

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。
三好達治「雪」

産経新聞に掲載している白川郷の写真を見ていたら、三好達治の詩「雪」を連想した。そこで、遊びとして、この有名な2行詩を解釈してみようと思った。

三好達治の伝記も知らない。あるのはこの2行詩のテキストだけだ。知っているのは、この詩が昭和5年に発表した詩集「測量船」に載っている詩というだけだ。それだけで、どこまで解釈出来るのかを試してみたい気持ちもあった。

詩の解釈は、多分文学としてみれば一応の正解はあるのかもしれないが、どんな解釈も間違えていないようにも思える。
「雪」も、一定の解釈は既に定まっているのだと思う。でも、僕はそれを知らないので、逆に固定観念に囚われず、好きに解釈が出来るという良さも持っていると思う。

この詩を読んだときの最初の印象は、その静けさであった。多分深夜に雪が降り続ける。その雪は太郎と次郎を眠らせ、そして家も町に降り積もっていく。静寂の中で二人は深い眠りの中で横たわっている。そんなイメージを僕は感じていた。

つまりこの詩の主体は「雪」であり、「雪」が二人を「眠らせ」、そして二人の家の屋根に降りつむ、という状況だ。ただこの場合、詩の後半に「雪降りつむ」と再度「雪」が出てくるのが不思議だった。

仮に主体が作者であれば、さらにこの詩は状況を明確に説明している。その場合、「雪」が屋根に「降りつむ」事を作者は屋内にいて想像している事になる。

主体が雪か人なのかが明確になっていないのは、どちらとも言えるからだと思う。つまり雪でもあり、人でもあるのだろう。心象と具体的な状況が渾然一体になって、1つの世界を現しているのだと思う。それに問題なのは二人が「眠らせ」られている状況であり、二人の「屋根」に雪が降りつむ環境なのだと思う。

「眠らせ」と受動的な表現をしているのは、2つの意味があると僕は思う。1つ目は、最初の浅い眠りがどんどんと深い眠りになっていく様を現す事。二つ目は「眠らせ」るのが「雪」であれば、それは自然に対する同化を現している事だ。

つまり僕にとっては「眠らせ」の言葉は、深く深く眠らせる事により、自然を受け入れて一体になっていく感じが出ているように思える。そこには自然との調和があり、その調和は雪が降り続く、深とした静けさの世界をイメージさせる。

「眠らせ」の2つの意味から、「降りつむ」のは屋根だけでない様に思える。太郎と次郎の「眠り」の中にも雪は降り積もっている様に感じる。そしてそれがさらに深い眠りに誘って行くのだ。

また「屋根」とは、具体的な家の「屋根」だけでなく、「家」そのものを現している様に思う。昭和5年当時の日本は家族関係を中心にした社会だった。それを考えると、太郎の屋根とは太郎の世界そのものであったし、次郎の屋根は次郎の世界そのものだったように思う。太郎と次郎の眠りの中にだけでなく、二人を包む世界の上に雪は降り積もっていく。

この2行詩において、1行目と2行目の差異は「太郎」と「次郎」の違いだけだ。しかも日本では一般に男性の名前である。それにこの詩では二人が子供なのか大人なのかの区別が出来ない。時間も不明だが、二人が眠っている状況から夜であることが推測できる。

この詩において差異は問題になるのであろうか。僕は「太郎」と「次郎」の置き換えは単純に二人を指すのでなく、違いを出すことで、あらゆる人をそこに対象としているのではないかと感じる。つまり、老若男女全ての人が「眠らせ」られた世界。ただ「雪」が深々と降り続ける世界。

この詩で作者が何を表現したかったのかは、正直僕には関係ない。読む人がそこに何を感じるかが問題なのだと思う。優れた詩は読む人に様々なイメージを膨らませてくれる。この詩は短いが故に、逆にイメージの膨らみはさらに大きくなるように思う。

この詩全体で感じることは「願い」という言葉だった。全ての人と、その人の世界の上に雪が降り積もり、自然と同化していく様には、安らぎをそこに感じる。差異を認め合うのでなく、互いに差異を攻撃し合うのであれば、いっそのこと雪がその上に降り積もり、自然へ調和に向かう方向性の中で、差異をなくしてしまいたい。こんな感じの「願い」だ。

ここまでくれば完全な独善的解釈なのはわかっている。そして、その「願い」は僕の願いとは少々違う。この詩に静けさの中の安らぎを感じるが、やはり安らぎは、差異を見えなくすることで得られる事ではないと思う。しかしこんな解釈をしたからと言っても、僕がこの詩が嫌いになるわけでもないが・・・

(画像は産経新聞から)

2005/01/22

ビジネスにおける「能力」を考える

会社で良く聞く言葉に「能力」と言う言葉がある。例えば、特定の人をさして、「あいつは能力があるから」と言う感じで使われる。この場合、「能力」があると言うことは「優秀」と同義となっていて、優れている人に対し使う場合が多い。では会社で言う所の「能力」とは一体何を指すのだろう。

以前に部署にいる人の教育計画を検討したことがある。部署には会社から委託されている機能があり、その機能を満足するために必要なスキルを洗い出し、それをランク付けした上で、それぞれに該当する外部教育機関のカリキュラムを探した。参考にしたのは産業経済省が策定した「ITSS」だった。

その際に思わぬ抵抗があった。つまり外部教育機関で教育を受けたとしても、それは無駄との意見が思いの外強かったのだ。それらの意見を強く言う人の趣旨は、経験が重要、短期間の外部教育で真にスキルが上がるとは思えない、備わっているセンスがあるかないかが大事、教育はOJTで十分、と言う物だった。

それはそれで正しいと思う。人はそれぞれ持っている資質は違うし、経験は大事だ、それに短期教育で誰もスキルが身に付いたとは考えないだろう。OJTについては、その仕方によっては確かに有効だと思う。全て彼らが言うことは正しい。正しいが、それを正しくするとすれば、部署内にきちんとしたポリシーがあればの話だ。

まず、人それぞれが持っている資質を高める事は、どうやれば出来るだろう。全ての資質を完璧に満足する人は間違いなくいない。例えば、指導力があるけど実行力が乏しい人もいるかもしれない。次ぎに経験は重要だが、経験をさらに補強する手段はどうするのだろう。もしくは経験を後継者に正しく伝える方法はどうするのか。OJTにしても、適切なOJTの仕方という物があるが、実際にそれと照らし合わせて行っているのだろうか。

短期間での外部教育は即戦力に成り得ないものが殆どだと思う。成り得る教育とは、パソコン操作、プログラム言語、等々の所謂周辺技術スキルという物で、それらの周辺技術は陳腐化が早いこともあり、カリキュラムにそぐわない。根幹となる要素技術スキルの為の勉強となれば、それが身に付くまで時間がかかる。でも新たなスキル技術の勉強は、まず受講する人の意欲が高まり、別な視点からの見方が出来るようになり、外部での教育のため自分のスキル程度を客観的に知る事にもなる。

つまりは、部署内で教育に関する、それぞれの考え方についてきちんと持ち、それらが機能しているかで、彼らの言うことが正しいかどうかが決まると思うのだ。そして現状において、残念ながら当部署では教育に関しては何も行われていなかった。

それに、技術者にとって、1つの技術に深く勉強する人もいるとは思う。でもそう言う人であっても、新しい技術動向を知ることは間違いなく必要なことだと思う。

さて、「能力」の話だけど、上記のやりとりで僕は気が付いたことがあった。それは、どうも多くの人が言う「能力」とは、「資質」の事を指している場合が多いかもしれないと言うことだった。そして「スキル」にあまり重きを置いていない状況もあるのかもしれない。さらに、「能力」とは全人格的な事を指すのでなく、局所的な事を指すと僕は思っているが、その点についてもどうも彼らと考え方が違うようだった。

僕にとっては「能力」とは、与えられた業務を成功するための力、だと考えている。だから、業務が違えば当然に必要とされる「能力」も違う。さらに言うと、「能力」に必要なものは、「資質」と「スキル」だと思う。どちらかが欠けるのは、バランスが崩れていると言うことに繋がる。

「資質」は、個人差がある。だから個人毎に良い面を延ばし、不足面を育てる必要がある。育てるためには何よりも必要なことは、個人の意欲でしかない。だから、意欲を高めるためのカリキュラムが必要となる。それらはスキル取得の為のカリキュラムでも、高まる場合が多いとも思う。

「スキル」は技術だと思う。だから誰でも取得は可能だ。「資質」の不足分を技術である「スキル」を取得する事でも十分に補うことが出来ると思っている。

具体的に「議事録作成」を例にとって話せば以下の通りになる。

1)議事録作成には、まず会議に出席し議題を把握した上で、発言内容の理解と要約が必要となる。その際に必要な資質の中で重要なのは、自発力、記憶力、企画力、思考力、判断力、課題把握力だと思う。またスキル面で必要なのは、コミュニケーションスキル、議題の内容、実現可能な技術スキル、会議出席者が所属する部署機能の動向。

2)実際に議事録作成する場合、今であればPCで作成メールで送信となるだろう。その過程で必要な資質は、自発力、達成意欲、企画力、シナリオ力、図解力、文章力、要約力。スキルでは、PC操作、各種ソフト操作、議事録フレームワーク。

つまり、議事録作成では文章力(文才)は、ほんの一部分でしかない。
参考までに僕が参照している「資質」一覧を掲載する。

20050122a4cd6be0.GIF例えが悪いかもしれないが、「資質」と「スキル」の関係は、犬を猟犬にするために行う訓練と考えてみる、犬には元々猟犬になる資質を持ち合わせているが、訓練をしなければ猟犬として役には立たない。そして訓練を受けた犬だけが、猟犬としての一歩を踏み出す事になる。あとは実際の猟での経験がその犬を育てることになる。

人の場合も、「資質」と「スキル」だけでは当該業務を行う最低限の能力を持ったにしかならない。あとは業務における経験が、その人の自信と信念に繋がっていくことになるのだろう。

言葉でビジネスチャンスを掴む

宣伝会議」という月刊雑誌がある。販促営業を中心に扱っている雑誌で、僕にとっては職種が違うが、これが読むと結構面白い。一年くらい前の「宣伝会議」の特集が「言葉がブランドをつくる 磨け!企業の表現力」(2004年4月号)で、たまたま図書館で見つけ、気になる特集だったこともあり、借りて読んでみた。

その中で「言葉でビジネスチャンスを掴む」という短い記事があった。なかなか示唆に富む記事であったので、紹介と共に簡単に内容を記す。

「もしある商品を商品名以外でインターネット検索するとしたらどんな言葉がふさわしいかを考えたことがあるだろうか。実は企業側が打ち出すキーワードと、ユーザーが思考するキーワードにはズレがある。」(宣伝会議 2004年4月号より引用)

記事によると、企業側はピンポイントで自社の商品名やブランド名を出したいのに対し、ユーザー側はもっと漠然としたイメージで探すのが多いそうだ。しかも、ユーザー側は思いつくまま「ひらがな」、企業側はローマ字遣いなど、正しく出すことを希望する。

また、企業側は商品をユーザに検索してもらう時、周辺キーワードとして使う言葉が、ユーザーが実際に使う言葉とも違う場合が多いとのこと。原因は、企業側が商品イメージに直接繋がる周辺キーワードに対し、ユーザー側は状況に応じて周辺キーワードを使う事から、違いがでてしまうらしい。

確かに企業側は商品を売り出すときに、その状況も同時に考えたうえで、商品の説明をしなくてはならないと思う。その状況を現す言葉が、ユーザーの周辺キーワードと合っていれば、良いと言うことになるのかもしれない。

また記事では、「商品を買いたい人にリサーチさせるキーワード」と「より多くの人の目に触れさせるキーワード」とは違うと言っている。

ここまでの記事の内容をまとめると、周辺キーワードを何を使うかで、購入意欲があるユーザーが来るかが決まるということだろう。では実際にどういうキーワードを商品説明の文章に使えばいいかと言うことになる。

でもそれは、企業側がどれほどユーザーマインドを理解するか、つまりはユーザーがどういう気持ちでその商品を探しているかの気持ちを推し量れるか、の手腕にかかっていると言うことになるのかもしれない。

でも記事では、言葉選びの参考になるサイトを紹介している。この検索サイトは1ヶ月前にネット上で、検索キーワードとして人が何を使ったのか件数でわかる。例えば僕は「香水」で調べてみた。その結果は、当然に一番は「香水」の13万6千。周辺キーワードを含む2語での検索では、「香水 ランキング」で8543件となった。このサイトを使えって、商品イメージを考えるのも面白いかもしれない。

言葉の検索サイトは、検索したキーワードに関連する広告を表示する「スポンサードサーチ」サービスを展開しているオーバーチェアの「キーワードアドバイスツール」です。

2005/01/21

会社のことなど、徒然なるままに

昔、実母は保険の外交をやっていた。やり手だった母は外交でも頭角を現し、常に成績は上位の方だった。保険会社では外交の契約金額が上位の人を優績者として表彰し、旅行にも連れて行ってくれる。ある年の表彰式で社長が母達優績者の前で挨拶をした。

「皆さんは、我が保険会社にとって宝とも言える人達です。ゆっくりと旅行でリフレッシュして、これからも頑張って下さい。ところで皆さん、安心して下さい。今回の皆さんの旅行は2回に分けて出発することにしました。もしどちらかの飛行機が不慮の事故にあったとしても、皆さんの半分は助かっていますので、会社は安泰です。」

ウソのような本当の話だ。この話はそれから以降、素晴らしい演説として家では今でも語りぐさになっている。演説した彼が特殊でも何でもない。以前は会社にこういう人は案外多かった。つまり、会社あっての会社員、国あっての国民、という考え方だろう。そして、その考え方が広く社会にも通じると信じて疑わない。

日本は議会制民主主義をとっている国だ。経済も自由市場経済が原則で、国営よりは民営、政府は市場に広く介入はしない、企業は競争で切磋琢磨し、商品の価値は市場に委ねる、という考え方が多分一般的ではないだろうか。(あくまで原則としてです。)

所が、企業組織が民主的かと言えば、それは全く違う。民主的で自由主義の企業組織があったら、一度見てみたいと思うくらいだ。組織の形態は色々とあるが、多くの企業は軍隊的な組織形態を持っている。いわゆるピラミッド型と言う物だ。社長を投票によって選ぶ会社が現れたら、これはこれで面白いかもしれないが。

その中で会社員は、一日の殆どを会社で過ごす。そうなると自然に会社での物の考え方と常識が身に付いてしまい、退社後の日常生活においても、同様の考え方で社会を見てしまうことになってしまう。

冷静に考えれば、会社での考え方は、その会社の企業文化によって違うだろう。常識も業界によって種々様々だと思う。僕も会社員だから、あまり言いたくはないけど、自分を振り返れば学生時代の方が賢く、世の中のことを正しく見えていたような気がする。

今の会社に入ってビックリしたことがある。それは経営者には哲学があって、それを年に数回集まって勉強会を開いていたことだった。勿論その哲学は体面上は経営者からの押しつけではない。でも会社に影響力がある人の考えだから、自然にその考え方を信奉する人が多く、いつのまにかそれが会社の哲学になってしまった。

哲学とは、具体的に言えば会社員の生き方みたいな感じで、企業のビジョンとか戦略とは次元が違う話だ。まぁ、言っていることは、企業人としては悪くはないから良いのだけど、一頃は自分が毛語録をかざした中華人民共和国の人の姿とだぶったこともあった。

しかし、何故企業経営者は成功すると自分の人生訓を語り出すのだろう。これは何処の国でもありがちな話だと思う。書店に行けば経営者達の自伝とか成功話を書いた書籍でビジネスコーナーは埋まっている。

実を言えば、僕は最近までビジネス書とかを読んだことが全くなかった。でも2?3年前に、あるビジネス書を読んだらこれがとても面白く、それが契機となり読み始めた。読むビジネス書は概ね理論本で、ハウツー本、成功話、伝記物は今でも読んだことがない。

日本にも何人か有名な経営者達がいるけど、ああいう人達は最初から聖人君主的な人達だったのだろうか。実際にはそういう風には全く思えない。最初は小さな企業で、何時潰れるかもわからない状態で、哲学を論じていたとは思えないのだ。いつ頃から彼らは哲学を語り始めるのだろう。それは多分、自他共に成功したと認められたときからだと思う。

でも言っている事は、そんなに大したことは言ってはいない。ただ実績が背景にあるから人に対し説得力があるのだろう。ただ、その人達の話を聞いたとしても、実際に役に立つとは限らないわけで、つまりは彼らと今では状況は全く違う。同じ事をやったとしても、間違いなく今では失敗する様に思う。

それは何故かというと、彼ら成功者達の多くは物作りだったと思うが、戦後からしばらくの日本は自由市場経済ではなく保護主義だった事から、外国から守られていた点。
国に守られながら、今よりは厳しい競争もない中で、朝鮮戦争などの悲劇により、日本は景気が良かった事等が、簡単にはあげられると思う。

勿論、その中でも成功した人は、経営者として優れていた点が多かったのは間違いないとは思うのだが。ただ、失敗した多くの人の中にも、素晴らしい人格者はいたと思うし、もしかするとそう言う人の声の方が、僕らには有意義な感じもする。それに、経営に失敗したからと言っても、素晴らしい人生を送った人も多かったかもしれない。そう言う人の伝記物があれば、僕も喜んで買うと思う。少なくとも成功者の話よりは退屈しなくて済みそうだ。

NHK問題 上意下達のジャーナリズム

NHKの番組内容変更問題では、朝日新聞とNHKおよび代議士とのやりとりが、泥沼化していく感を深めている。どちらが真実を話しているのかは、僕にとっては全く不明だけど、多分どちらも自分が言っている事が正しいと信じている様に見える。でもこの問題を通じて、僕にも1つだけわかる事は、NHKが「公正中立」に対して曖昧だと言うことだ。

「公正中立」とは考えてみれば随分と怪しげな言葉かもしれない。何故なら社会状況などで線引きをする位置が変わると思うからだ。でもジャーナリズムである限り、取材に裏をとり、それが事実であれば「公正中立」の報道と言えるように思える。そして、それらの事実認識は各会社の判断に委ねられている部分が大きいとも考える。

今回の問題で、明らかに言えることは、NHKの番組内容変更について内部告発が為されたという事実。つまり、内部告発した人は、番組の内容が変更された事に納得していなかったと言うことだ。

もし仮に、「公正中立」の何らかの基準とか、曖昧なときの手順とかがあったとして。それに準じて当該番組が照らし合わされた結果、「公正中立」でないと判断されたとしたら、今回のような内部告発はなかったような気がする。

その場合、変更に不満がある時は、基準もしくは手順の内容についての是非となり、NHK内部問題で終始するはずだと思うからだ。

今回の場合、告発者は番組が変更された理由について、十分に説明を受けなかったのは間違いない。そして、お互いに共有する基準がない故に、現場を納得させる側は、その場しのぎで「議員理由」の言葉が出したかもしれない。

ただ、NHK側が言うには、番組は自主的に変更したとの事だから、公正中立」の基準を持っていたことになる。でもその場合、基準を持っていたのなら、何故議員に意見を聞く必要があったのかが疑問に思える。

この記事では議員の圧力があったかどうかを書くつもりはないが、僕にとってはこれだけは事実と思う事をまとめると次のようになる。

1)NHK現場側(内部告発者)は番組を「公正中立」の内容と考えていた。
2)しかし、NHK幹部側は「公正中立」と考えてはいなかった。
3)番組内容に反対意見を持つ議員に意見を聞く。
4)自主的に番組の内容を変更する。議員から圧力は受けていないとNHK側は言っている。
5)制作者側は番組の内容を変更されたことについて不満を持っていた。つまりは、NHK内で現場側を納得させることが出来なかった。
6)今回の内部告発に繋がる。

あきらかに、NHK内部で何が公正中立なのかの基準が、共有化されていなかったのがよくわかる。しかも、現場側→責任者→幹部→議員の方向には向いているが、逆の戻りがそこにはない。これを何というのであろうか?

僕にとっては、これを「上意下達のジャーナリズム」とでも言った方がよいかもしれない。まぁ、これがジャーナリズムと言って良いというのであればの話ではあるが・・・

2005/01/20

ライス補佐官の発言を聞いて、自由市場経済を思う

「米上院外交委員会は18日朝(日本時間同日深夜)、ライス大統領補佐官の次期国務長官への就任承認を審議する公聴会を開いた。ライス補佐官は冒頭発言で「自由に味方する世界での力の均衡」を形成し、自由と民主主義を全地球に広げることが米外交の使命だと指摘。キューバ、ミャンマー、北朝鮮、イラン、ベラルーシ、ジンバブエの6カ国を「圧政」を行っている国と名指しで批判し、圧政に苦しむ人々の側に米国は立つと言い切った。」(毎日新聞
 僕にとって、この6カ国の中で知っている国と言えば北朝鮮くらいかもしれない。知っていると言っても、北朝鮮についてさえ、新聞などの記事に書いてあるレベルでしかない。

だから、ライス補佐官が「圧政」を行っている国と断言しても、北朝鮮以外の国に対しては、何が?どこが?と言った素朴な疑問が沸いてくる。さらに、1つ1つの国をおしなべて同列に語る事に、多少の抵抗も持ってしまう。

予言を行った。「キューバは時間が経てば、政治的・・・・重力の法則により、熟した果物が収穫されるように、米国の手に落ちるはずだ」と。実際にその通りになった。革命前のキューバは米国大農場と犯罪シンジケートと観光客の穴場に換えた。(ノーム・チョムスキー氏論文、自由市場への情熱から引用)

このキューバを支配下におきたい意志は、180年以上経った今でも変わらない・・・

■日本における北朝鮮への対応を米国が意識する背後には、キューバに対する日本の対応への協力の意味も当然にあると思う。しかし、キューバと北朝鮮を同列に見ては間違いだと僕は思う。

2005/01/18

映画「ターミナル」を見て、複雑な気持ちの感想

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ターミナル」を見てきた。まさしくファンタジー映画として楽しんだ。実を言えば見る前におおよその「あらすじ」から勝手にイメージを作っていたが、それは見事に覆された。結果から言えば良くもあり悪くもあった。

最初僕がイメージしていた映画は、人々が過ぎる場所としての空港に、拘束される事で止まる主人公がいて、彼とそこに行き交う人々との間に芽生える物語だった。止まった人は移動したくてもそれが出来ない人であり、しかも帰る場所もない宙ぶらりんの人でもある。その宙ぶらりんの人の視点で、アメリカという国を移動する人を介して見る。そんな映画だと思っていたのだ。

実際の映画での主人公は、状況としては僕の想像通りだったが、そこに止まる人でなく常に動く人であった。ポジティブに状況を受け入れ、その中で彼にとって最善の事をした。また、彼は自立していた、そして人を信じ裏切らなかった。だから、彼の回りには自然に人が集まり、その人達は好意を持って彼を応援した。

一見して不条理な状況に陥っても、目的に向かって前向きに動けば、周りの人は手を差し伸べてくれる。そんなメッセージを素直に感じた。

「ターミナル」の主人公として、トム・ハンクス以外には考えられないと思う。コミカルにそしてチャーミングに、悲壮感を漂わす事なく演じきった。トム・ハンクスの昔の名作「ビッグ」を思い出してしまった。それほどはまり役だと思う。
この映画はファンタジーだから、細かな点に揚げ足を取るのは失礼かもしれない。少なくとも僕はそう思った。映画の世界を楽しめればいい。そう言う映画だ。
でも「楽しむ」と言う事は、良い事である反面、物事を片側でしか見ていないと言うことにも繋がる。もう一つの視点で見ると、この映画は怖い映画になるかもしれない。

例えば、主人公の敵役である空港警備局主任が、元上司に言われるセリフ「ここは人間重視の国だからな、少しはビクター(主人公)を見習え」。
人間重視の国とは米国のことを指しているのだろうけど、背景にその逆として「人間軽視の国」があると言うことなのだろうか。

最後に主人公は友の為に祖国に戻る決心をするが、その友は自分が足枷になっている事を知らずに、彼を「臆病者」と言ってなじる。その友は自分が原因であることを知ると、自ら彼の重みを外すために行動する。その姿をみて主人公は再び目的に向かって行動を取るのだか、ここら辺の価値観の決めつけが少し興ざめさせたのも事実だった。

上記だけでなく、こういうセリフと価値観が、「楽しさ」の中に随所に現れてくる。そしてそれらは「楽しさ」によって覆い隠され、見る人に自然に植え付けて行くように思えた。
映画終了後エスカレータ内で見知らぬ友人同士の男性二人が「良かったね」と言っているのを聞いて、実をいうと言われたのが僕でないことを喜んだ。良い映画だと思うが、素直に「良かったねと」同意を求められたとき、多分即答は出来ない自分がそこにいたからだ。
昔からハリウッド映画に親しんだ僕は、こういう映画は好きであるのは間違いないが、以前のファンタジーもしくはコメディ映画には「国」というイメージを喚起する事が少なかったような気がする。それはこの映画が「空港」という場所での物語と無縁ではないとは思うが、何か少し気になったのも事実だった。

なにやら訳がわからない感想になってしまった。でもその訳がわからない雰囲気が僕の気持ちを良く伝えていると思う。

2005/01/17

阪神大震災から10年目、河島英五の唄

産経新聞に毎日連載している記事に「凛として」がある。既に亡くなられた著名人をエピソードを中心に、その人となりを紹介している。今連載している人は「河島英五」だ。その中で、彼が「復興の詩」を始めるに至った話が出ていたので、少し紹介します。

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『それとは別に、長い目で、何か自分なりにできることがあればいいな…と、英五は乗り気を見せた。
「おれは大阪でやるわ。大阪は神戸の隣町や。これからずっと助けなあかんと大阪の連中に訴えたい」

前田との五時間ほどの打ち合わせで、広告費はかけず、収益は全額寄付することが決まった。
「生きてりゃいいさ」(昭和五十五年)をプログラムに加えてほしい、と前田が頼むと、「そうやな…考えとくわ」と英五は返事した。

英五は東大阪市で育った。「河内のど関西人」と言われもするが、そうしたイメージに縛られるのを嫌っていた。
シンガー・ソングライターとも自称せず、「一歌手」といい続けた。神戸と格別な縁はなかったが、開放的な港町が好きだったらしい。
「この街はいい街やな、という中に、坂道の函館とか尾道とか、神戸は絶対入るよね」と桑名に語っている。

一八二センチ、八〇キロの体格。思い立ったことは、その体で躊躇(ちゅうちよ)せず実行する。若いミュージシャンを引き連れ、大阪城公園やJRガード下で自らビラを配り、路上で歌った。

「四月二十九日、大阪城野外音楽堂で、河島英五プロデュース、復興の詩(うた)チャリティーコンサートがあります。よろしくお願いします」。
口上が終わると、一同はギターをかき鳴らし、数時間歌い続けた。』

(産経新聞 2005年1月10日東京朝刊 「凛として」から引用)

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第一回の「復興の詩」終了後、河島英五は経費を自己負担し10年は続けると宣言した。しかし10年目の「復興の詩」開催には彼の姿はコンサートで見ることはなかった。彼は7回目の直前、平成十三年四月に四十八歳で急逝したのだった。そして7回目は遺影での参加となった。

「復興の詩」開催するにあたり、河島英五の唄「生きてりゃいいさ」が大きな役目を持ったのは事実だろう。それ以上にこの唄が「復興の詩」開催の動機になったと言ってもいいのかもしれない。しかしその唄も河島英五という人がいて、歌ったからこそ、阪神大震災の多くの被災者達に勇気と感動を与えたのだと思う。

河島英五は、一見するとその体格の良さと、彼を代表する「酒と涙と男と女」のイメージから豪放磊落で酒好きのイメージがあるかもしれないが、実際にはその唄を作った時、一滴もお酒は飲めなかったらしい。常にギターを側に置いて離さず、少しの暇さえあればギターを演奏し歌った。名が知られるようになっても路上で歌い続けた。

「生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいさ
喜びも悲しみも 立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ」
(河島英五「生きてりゃいいさ」から)
僕のiPodには数が少ないが日本の歌も入っていて、その中に河島英五もいる。彼の歌を時折聴く。彼の歌声は正直言って美しくはないが、何か心を揺さぶるものがある。それは彼の音楽に対する真摯な気持ちが人に与えるのだと思う。それにしても、河島英五がいなくなり、後に続く歌手はいるのだろうか。歌の持つ本来的な強さを信じる事が出来る歌手は、今日本にどのくらいいるのだろう。ふと、そんなことも考えたりしている。

今年1月17日に阪神大震災から10年目を迎えた。その10年間に多くの災害があった。
新潟県中越地震、三宅島噴火、スマトラ沖大地震とインド洋大津波。1つ1つの災害がおきた日は、それぞれの被災者達にとって忘れることが出来ない日になることだろう。災害では多くのボランティア達が、人の為に働いた事も忘れることが出来ない。人を癒すのはやはり人なのかもしれないなどと、河島英五を聞きながら思った。

2005/01/16

ヒーローものゲーム、子供の攻撃性増加の可能性

「悪者が暴れまわるテレビゲームより、かっこいいヒーローが敵を倒すゲームの方が、むしろ子どもの攻撃性を高める可能性があることが、お茶の水女子大の坂元章教授らのグループ研究で明らかになった。」(読売新聞

読売新聞に2005年1月7日に掲載された本記事は、ネット上において話題を呼んでいる。今までの一般的な見方では「暴力描写の高い」ゲームに熱中することが「攻撃性」を増すと思われていたことを考えれば、この研究成果は一定の評価を与えられる様に思える。

例えば映画で言えば、高倉健出演の任侠物の後と、エイリアン2の後では確かに肩の上がり具合が違うと言うことなのだろう。そう言ってしまえば身も蓋もない話だが。

正義の味方が存在する場合、当然の事ながら対極として悪が存在しなければならない。その単純な二元論は、多様化している社会の中では現実的でなく、ゲームもしくはハリウッドのアクション映画の中でしか存在しない、と考えているとしたそれは誤りかもしれない。

逆に現実の世界にこそ、この善悪もしくは敵味方、または賛成反対の単純な二元論は存在しているように思う。暴力・批判を与える一方は正義の名の下に力を行使し、相手を悪と認識する事で、その行為は正当化される。それらは社会の中で多く見られる光景だろう。以前に米国大統領は北朝鮮とイラクは悪の枢軸国だと言っていたし、実際にイラクに力を行使している。それらの社会の中で子供達に、ゲームの世界と現実の世界の違いを、どの様に教えて行くべきなのか、正直少し迷う。

しかし、今回の被験者となる小学五年生の選択をどの様に行ったかは記事だけでは不明だが、一ヶ月間の実験中、子供達の「攻撃性」に関連する生活環境の変数は出来るだけ削除したのだろうか。また「攻撃性」が増すとは具体的にはどの様に測定されたのだろう。いや、それよりも子供達1人1人が元々持っている「攻撃性」は違うだろうし、その中で少ない子も高い子もいることだろう。その「攻撃性」が表に出るとした時、普通は喧嘩として現れるとは思うが、それは一体問題につながるのであろうか。子供は時折の喧嘩によって、コミュニケーション能力を養っていくように思える。怖いのは「攻撃性」が増すことに過剰反応する大人達の方だと僕は思う。

問題は「攻撃性」が増すかどうか出なく、「攻撃性」の表し方であり、その持続時間であり、単純に敵味方で相手を認識する事なのではないだろうか。

本当はこの記事は、坂元章教授らの研究の事を書くつもりはなかった。実際に僕がこの記事を読んで、最初に疑問に思ったのは、今この記事を新聞に掲載する理由だった。

通常この様な研究は、発表するまでに現場では色々と試行錯誤があり、今回だけでなく中間発表も含めて意見を述べてきていると思う。つまりは坂元教授らにとっては、今回初めて発表した事でないのは間違いない。ただ、今回だけ読売新聞が記事として取り上げたのだ。

奈良県で小学生の誘拐殺人という不幸な出来事が生々しく人の記憶に残っている。これから加害者男の人生が事細かく分析されていくことだろう。また中高校生が引き起こす事件も多い。子供達の犯罪行為を考えたときに、簡単に結びつけられるのは、アニメであり漫画であり、そしてゲームとネットなどのサブカルチャー群だろう。

今までは、暴力描写のアニメがあったとしても、それと犯罪行為との因果関係は明らかになっていなかった。それは今でも実際は変わらないが、そこに坂元教授の研究成果は一定の根拠を、これらサブカルチャーを原因とする者達に与える事になると思える。研究成果の応用は、主人公であるヒーローに同化する傾向が高い作品であれば、使われるメディアは関係はない。

その様な状況をさりげなく、読売新聞読者もしくはネット利用者に印象づけているように思えるとしたら、それは考え過ぎなのだろうか。

2005/01/15

タイタン調査と二十億光年の孤独

「欧州宇宙機関(ESA)の小型探査機ホイヘンスが米東部時間14日早朝(日本時間同日夜)、土星最大の衛星タイタンの大気圏に突入し、約2時間半後に人工物体として初めて凍える地表に着地した。」(朝日新聞から

僕がこのニュース記事を知ったときに、何故か思い出したのは谷川俊太郎さんの詩「二十億光年の孤独」だった。

「万有引力とは
ひきあう孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う」
(谷川俊太郎 二十億光年の孤独から)

それは、NASAの科学者の言葉から誘われた思いだった。
「タイタンは予想以上に地球や火星に似ている。地球だけが特別な星ではなかった」(読売新聞から

以前にNHKで宇宙をシリーズ化して放映していたと思う。その中の1つに「地球を探せ」みたいなタイトルの番組があったように覚えている。
宇宙の中で地球と同じ惑星を探すといった内容だったのだけど、これが案外難しい。難しいどころでなく、その番組では「地球はもしかして全宇宙の中で特別なのでは」などと言う科学者まで番組の後半に現れたくらいだった。

地球に似た環境の惑星を探す科学者達を「惑星ハンター」と言うらしい。その惑星ハンター達も最初は簡単に考えていたようで、宇宙はこんなに広いのだから、地球と同じ様な惑星は何個か見つけることが出来るだろう、と思っていたようだ。

基本はまず太陽系と似たような恒星系を探すことから始まるが、これがまず少ない。その少ない恒星系を見つけたとしても、そこに地球と似たような、大きさと位置そして公転をしている惑星がなければならない。

僕にとって、放映時期もタイトルも全て曖昧になってしまった番組なので、信頼性に欠ける話なのは間違いないが、「地球は全宇宙の中で特別なのかもしれない」という思いが、その番組をして記憶に残らせたのだと思う。

僕らは地球上で案外忙しく動き回っている。だから、この宇宙に僕らの他には誰もいないとなっても、暮らしに何の変化もないのは事実だろう。ただ、番組を見終わった僕の心に去来した物は、とてつもない孤独の大きさだった。僕の想像を遙かに超える宇宙の大きさの中で、生命はここにしかないという事は1つの恐れさえ感じる。今回のタイタン調査の目的は、地球誕生時のメカニズムを調べることが大きいかもしれない。でも人が宇宙を調べる背景として、この「孤独でいたくない」という気持ちがあるのでないかと、僕は勝手に思いこんでいる。

NASAの科学者のひと言で、彼ももしかして似たような事を感じていたのかもしれないと思ってしまった。新聞記事にあるように、「気温が低いため液体の水はなく、生命そのものも存在しないとみられる」が、そこには地球誕生時の姿があるのかもしれない。
惑星ハンターが見つけることが出来なかったとしても、それは時間軸が違う事が理由だった様にも今では思う。
誰もが言うことだが、確かに宇宙に生命が地球だけだとしたらスペースがもったいない。そんなことをタイタン調査で思ってしまった。

いずれにせよ土星衛星のタイタンまで人の思いは直に到達した。でも僕らが到達させたい思いは、地球上にもまだ沢山あると思う。それは地球規模の問題から、果ては個人が抱える問題まで。それらが解決へと到達する事は、地球からタイタンまでの距離より遙かに遠く感じてしまうが、それに向かって歩いていく事が必要なのかもしれない。

記録としてホイヘンスが送信したタイタン画像を載せます。全て朝日新聞からの抜粋です。

「土星の衛星タイタンに探査機が初着陸 素顔明らかに」

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土星の衛星タイタンに着陸したESAの小型探査機ホイヘンスが送ってきた着陸後の画像=AP
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土星の衛星タイタンに着陸したESAの小型探査機ホイヘンスが送ってきた降下中の上空16.2キロからの画像=AP

t01 土星の衛星タイタンに着陸したESAの小型探査機ホイヘンスが送ってきた降下中の上空8キロからの画像=AP

2005/01/14

スマトラ沖地震 インド洋大津波関連MEMO (2)

「国連人道問題調整事務所(OCHA)は13日、スマトラ沖大地震による死者と行方不明者の数が18万人を超えたことを明らかにした。避難生活者は約124万人という。いずれも10日現在。
死者は計15万3397人で、インドネシアが10万6523人、スリランカが3万882人、インドが1万327人など。行方不明者は計2万7194人で、インドネシアが1万2047人、スリランカが6088人、インド5628人など。 」(朝日新聞)

■犠牲者の数がどのくらい増えるのか予想が付かないとのこと。国連の推定では犠牲者の3分の1が子供であるとの見解を述べている。良く言われることだが、災害に遭う事は平等だが、ダメージは不平等であるとつくづく思う。まさしく災難はその人の弱い部分を突いてくるのだと思う。

■大津波被害で各新聞記事を参照すると、各社での違いがよくわかる。以下に切り抜くが、鮮度は当然に低い。

「国連のイゲランド事務次長(人道問題担当)は13日、スマトラ沖大地震と津波の犠牲者について「半数が子供だと見られる」との推定を発表した。震災直後、国連児童基金(ユニセフ)は被災国の人口統計をもとに、犠牲者の3分の1が子供と推測していた。」(朝日新聞)

■この推定は人口統計の他、「子供の割合を見直したのは、遺体に占める大まかな割合のほか、津波の直前に潮が引き、浜に残った魚を拾っていた子供が行方不明になったという目撃証言が多いことからだという。 」とのこと。
同時に人身売買に対する懸念も広がっている。

「津波孤児襲う人身売買の手
15万人以上の死者を出したインド洋津波は、膨大な数の孤児も生んだ。最大の被災地、インドネシア・スマトラ島最北部では、救済を装い孤児を、売春や臓器移植などの目的で売り飛ばそうとする組織が暗躍している。」(読売新聞)

■売春・臓器移植の他、養子縁組の商品としての人身売買の懸念もあるようだ。当ブログはビジネスをカテゴリにしているが、「金が儲かれば何をしても良い」とは全く思わない。しかし、その線引きは何処に持って行くのだろうか。いずれ自分なりの考察をしてみたいと思っているが、全く未熟なのでそこまでいっていない・・・

「津波で1000人が孤児に スリランカ
避難所ではこれまで確認されただけで6件の児童虐待、2件の人身売買があった。少数派タミル人武装組織タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)が避難所から子供を兵士として徴用するケースも数件あったという。」(産経新聞)

■兵士としての徴用も行われているのか・・・
しかし、災害に最も弱い子供に群がる人がなんと多いことだろう。お年寄りと女性は新聞記事に状況が載っていないが、どうなのだろうか?
多分女性の場合は、日本などに売春目的のために人身売買されてくるのも多いかもしれない。

「緊急支援の「即金払い」、日本は3割超と突出
スマトラ沖大地震・津波の災害救援を協議する支援国会合で、日本は国連が強く求めた「即金払い」支援の3割以上を表明、「貢献」を強くアピールした。 」(朝日新聞)

■2位の英国より3倍強との事らしい。日本は良くやっていると思う。

「孤児支援策来週めどに 外務省方針
スマトラ沖大地震と津波で数万人の孤児が生まれていることを受け、外務省は孤児支援策を来週中にとりまとめる方針を決めた。日本政府が無償資金を拠出する国際機関などと調整したうえで、実施に移す。これに関連して町村外相は13日、現地で援助活動を行う国際機関や民間団体の代表を外務省に招き、意見を聞いた。各代表からは孤児たちの心のケアやシェルター(避難所)の設置を求める意見が相次いだ。 」(朝日新聞)

■的を絞った支援を検討することは必要なことだと思う。援助金は当然ながら我々の税金となる。正しく使われる事を願う。僕にとって「正しく」とは、子供達の様な災害弱者の事をまず考える事となる。

「インドネシア、各国の救援活動制限へ 治安悪化で配慮
スマトラ沖大地震と津波の被害を受けたインドネシア・ナングロアチェ州で、支援にあたる国連や各国軍、NGO(非政府組織)などに対し、インドネシア政府が活動の制限に乗り出した。
(中略)
朝日新聞記者に対し、GAMが戦闘や誘拐などを活発化させており「外国人が狙われる可能性も排除できない」とし、治安悪化の懸念があるためと説明した。
(中略)
市民団体などによると、GAM掃討作戦の名目で、国軍兵士が住民虐待や拷問などをしているとされ、密輸などへの関与の指摘もある。今回の措置は「こうした行為から、国際社会の目をそらせるねらいがある」(人権団体関係者)ほか、アチェ州を今後とも国軍の支配下に置きたい思惑があるとみられる。
これに対して、GAMの北アチェ地区の報道官は、朝日新聞の電話取材に対し「地震以降、停戦態勢にあるが、国軍は戦闘をやめようとしない」と指摘。また「外国の支援に対しては、感謝しており、それを狙うことはあり得ない」と強調した。 (05/01/12) 」(朝日新聞)

■インドネシア政府と市民団体、北アチェ地区の報道官のどの言葉が真実なのかは、立場によって変わると思うが、個人的な心情から言えば、インドネシア政府のコメントに政治的な意図があるように思える。

「インドネシア、イスラエルの支援を拒否スマトラ島沖地震と津波の復興支援のため、イスラエルがインドネシアに援助物資の提供を申し出たのに対し、インドネシア政府が受け取りを拒否していたことが分かった。」(朝日新聞)

■日本人である僕の感覚からは理解しづらい事ではあるが、インドネシアがイスラム国である以上、当然に反米・反イスラエル感情が強いと思われる事から、拒否したことが想定される。ただ、被災者にとってもそうであろうか?
また、仮にイスラエルが拒否されることがわかってて、援助を申し出たとしたら・・・等と考える僕が一番不純なのかもしれない。

世界の漁獲量、半世紀で5倍

2005年1月13日産経新聞朝刊の一面に掲載されていた記事。他の新聞では掲載していなかった様に思える。何故産経新聞以外では本記事が掲載されていないのだろうか。素朴な疑問を持つ。

見出しは大きく以下のように書かれていた。
「世界の漁獲量、半世紀で5倍 乱獲深刻 中国消費が突出 FAO統計」
この見出しだけを読むと、中国が問題を引き起こしているかのような印象をもってしまう。しかし記事を読むとその様なことではない。以下に抜粋する。

「世界の漁獲量がこの半世紀で約五倍に増え、世界規模で深刻な乱獲が進んだことが、国連食糧農業機関(FAO)の統計で分かった。研究者らの調査では、世界の魚種の約三割が過剰に取られており、海域によっては五年間で魚が四割も急減したという報告もある。低カロリーの魚への需要が増大するなか、国際規制を守らない操業のケースもあり、生態系全体に着目した漁業資源管理などが課題になっている。」

■過剰に取られている3割の魚種とは?4割急減した地域は一例の話だと考えるが、気象との因果関係を切り離した上での調査だったのだろうか。ただ確かに乱獲は実際に行われているようだ、目が細かい網で一挙に大量に取り、それらを養殖の餌にするといった話を聞いたことがある。そして、それらの養殖魚は日本市場に向けての商品となる。

「FAOの統計によると (中略) 中国の漁獲量は千七百万トンと突出、二位ペルーの千七十万トンを大きく上回っている。三位の日本は五百万トンほどだ。中国は、九四年以降、北西部太平洋、東シナ海を中心に漁獲量を増やし、魚の世界最大の生産・消費国となり、FAOの推定では中国人一人当たりの推計消費量は七二年の四・四キロから九九年には二五・一キロに増加した。日本の場合は約二十年間、一人当たり約七〇キロで、横ばいに推移している。」

■中国が世界最大の魚消費国になっても、1人当たりの消費は25.1kgとなり、日本の70kgとの差はまだある。実際には1人当たりの消費は、日本は世界の中での有数の消費国となっている。日本の漁獲高が約500万トンとしたとき、赤ん坊を含めて1人当たりの漁獲量は約41.7kgとなり、消費量の70kgとの差が出る。この差は輸入分と考えて良いのだろうか。そうであればその量は約360万トン分と言うことになる。

■記事にもあるが、中国では13億人の食糧を確保するために、腐心している状況があるのは間違いないと考える。今後、中国が益々経済的に豊かになれば、漁獲量は比例して事になる。逆に日本の場合、20年間1人当たりの消費量が変わらないのは、食生活の変化が大きいと思う。つまりは20年前と比べて、各家庭で月に食する魚の回数と内容が変わっているのでないだろうか。個人的な感想を言えば、各家庭での消費は減っているように思える。しかし延べでの消費量が変わらないとすれば、どこかで逆に増えていると言うことになる。消費する内訳を知りたいと思った。

■中国が先々消費量が増えたとしても、日本の1人当たりの消費量から見れば、まだまだ少ない。魚資源の枯渇が深刻な状況に陥っているのであれば、まず日本の対応が先のように考える。問題は中国ではなく、日本の問題なのだと思う。

■記事では、日本海のマイワシの減少をあげていたが、以前にTVでマイワシの量は、ある一定の期間で増えたり減ったりしているそうだ。現に米国カリフォルニアではマイワシは大量に収穫されている。ただ、自然的な傾向だけでなく、乱獲による影響からの関係もそこにはあるように思える。

■「持続可能な発展」の定義は、「将来の世代が自らのニーズに充足する能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすような発展」となるそうだ。でも今回の漁業資源への警告から思うだけでなく、そもそも何もしないままで「持続可能な発展」が困難なのは事実だろう。

■1992年にリオデジャネイロで行われた地球サミットで採択された中に、リオの二大原則と言われているものがある。1つは先進諸国の責任の重さは途上国より重たいこと。もう1つは深刻あるいは不可逆性な被害の恐れがある場合、その因果関係が科学的に認められていなくても環境の安全性を優先すると言うことだ。

■リオでの地球サミットの議題として漁業資源については特に出てはいないが、FAO調査の結果を見れば、科学的な因果関係の調査も必要だが、まず必要なことは日本の対策検討と意思表示かもしれない。勿論各国との協議は必要だが、無策のままであれば、最初に叩かれるのは日本であるのは、ほぼ間違いないと思えてくる。

2005/01/13

iPod Shuffleは売れるか?

200501137d401bc8.JPG今年のMacworldで「iPod shuffle」が新たに発表された。(アップルサイトでの紹介はここ

「Apple Computerは米国時間11日、大方の予想通り、高い人気を誇る同社の携帯音楽プレイヤー、iPodの新バージョンを発表した。iPod shuffleという名前のこの新製品には2つのモデルがあり、99ドルのモデルには約120曲の楽曲を、また149ドルのモデルには240曲をそれぞれ保存できる。 」(CNET.com

ジョブズはかつて「容量が小さく比較的低価格のMP3プレイヤーを、贈り物として買われることはあっても実際にはほとんど利用されない製品だ」と言っていた。そのジョブズが容量が小さく比較的低価格のフラッシュメモリー型iPodを売り出した理由は何だろうか。

CNETでは、それを従来路線の変更(低価格路線)だと言っている。確かに一緒に発表された「Mac mini」を見ると、今回のMacworldで受ける印象はその通りだと思うが、僕は単に以前と状況が変わっただけという気がする。どんな状況と言えば、それはハードディスクタイプの携帯音楽プレイヤー市場で圧倒的な強みを見せるiPodの存在と、「iTune Music Store」の成功、およびフラッシュメモリーの容量増加と価格の下落と言うことになる。

特に「iTune Music Store」は一曲単位での販売をコンセプトにしている。その結果特定のCDの中から自分の好みに合う曲だけを購入するユーザーも多いことだろう。まさしく、そういう音楽の利用方法の変化が、この製品誕生の背景にあるように思える。

新製品にありがちな話だが、本製品にも賛否両論がある。賛成派であるアナリストは以下のように言っている。
「shuffleの位置づけは適切だと思う。これがiPodのシェアを奪う可能性はかなり低く、Appleは他社のフラッシュメモリ・プレイヤーに積極的に挑めるようになる。またこの製品で、同社は米国よりも消費者が価格に敏感な海外市場にもうまく対応できるだろう」(CNET.com)
そして反対派は、画面の省略を価格を押さえるために行ったと思うが、それが失敗だったと述べている。特に競合他社でもあるRioマーケティング担当者は以下のように言っている。
「この業界では(ユーザーインタフェースを)省いた機種が以前にも登場したことがあったが、顧客の反応は芳しくなかった。画面が付いていれば、それを見て『再生中の曲は何だろう』とか『次の曲は何だろう』と確認できる。またナビゲーションは視覚的にも重要だ」(CNET.com)
確かに画面がないことを指摘する声は大きいようである。当初のフラッシュメモリー型機種が徐々に画面を装備する様になった経緯も理解できる。ただ、それでも僕は「iPod shuffle」は成功すると思っている。僕の考えを以下に述べる。

1.Appleは「製品」でなく「状況」を売っているのだ。従来のフラッシュメモリータイプのカタログは主に仕様面が強調されすぎている。仕様面を強調すれば、結果的にハードディスクタイプに容量面で差が付きすぎてしまう。それがフラッシュメモリータイプが売れなかった理由の1つではないだろうか。Appleのサイトを見ればわかるが、本製品に対して、どの様な状況で利用すれば良いかが明示されている。そしてその状況下では本製品の形が(画面がないことも含めて)最適であると思われる。

2.画面をつける事は、筐体を大きくし価格も上がると言うことになる。それは本製品が使われる状況下ではマイナス面が大きすぎる。特に価格が上がることは、iPod miniとの競合も出てくる可能性が高い。競合となった場合は、使われる状況に対する説得力が乏しくなる。

3.本製品はiPodを持っている顧客が購入する事を期待している。「iPod shuffle」がセカンドとして考えると、さらに「状況」が見えてくる。既に利用者は「iTune Music Store」を利用し、曲単位での購入の考え方に慣れている。特に容量の問題から本製品に納める曲は厳選した好みの曲に限定されることになるだろう。つまり利用者は購入した好きな曲だけを入れることになるので、次が何かを気にする必要は特にないと思う。この製品は別途「ドック」の提供もあることから、「状況」にあわせて、頻繁に曲の入れ替えを行う製品でもあるのだと思う。

つまりは母艦としてパソコンと同じ規模の曲が持てる「iPod」があり、戦闘機として「iPod shuffle」があるという位置づけになると思う。今回Appleはその戦闘機の提案をしているのだと思うのだ。

それを踏まえて「iPod shuffle」は売れるだろうか?僕の意見は売れると思う。iPodのブランド力も加わり、少なくともフラッシュメモリータイプ市場ではシェアはかなり取れると考えている。

ただし、日本では難しいかもしれない。理由は米国ほど曲のネット販売が育っていないことが上げられる。でも今年に始まると言われている「iTune Music Store」の成功次第では、勿論成功する可能性は十分にあると思っている。

未だにiPodの買い換えで悩んでいる僕は、買い換えを止めて本製品を購入すると思う。最近運動不足の僕としては、今年はジムに再び通うつもりでいる。そしてこの製品はジムで運動しながら音楽を聞く状況にとても合っている。

恥ずかしがりやの小さな妖精「ノワノワ」

20050113fc63b1c6.jpg新しいキャラクターはそれを創造した企業にとって知的財産として利益につながる。例えば、文具類、アミューズメントの景品、雑貨、食器、絵本等々と応用範囲は広い。

一度ディズニーキャラクターの契約書を見たことがある。それは契約書と言うより一冊の本だった。任天堂のポケットモンスターの契約書も厚かったが、やはりディズニーには量で負けていた。勿論、利益が出るとしても、それは人気キャラクターになったらの話で、新しいキャラクターとなればそうはいかない。そこには新人タレントと同じ内容のマーケティング技術が必要になる。

しかし、このキャラクター「ノワノワ」は個人的にはヒットしそうな気がしている。まずバックストーリーがなかなか良い。

「はずかしがり屋の小さな妖精ノワノワは、日本から来たやさしい画家のおじいさんがだいすき。でもおじいさんはある日お空のお星さまになってしまいました。ノワノワはいっぱい泣きました。そしておじいさんに教えてもらった「ともだち」を探しにフランスから日本へと旅立つのでした。」

「ノワノワ」はフランスの妖精となっている。実際に企画したのはバンダイグループのメガハウス。少し悲しげで、寂しげな雰囲気が逆に新鮮かもしれない。2004年8月に東京と大阪などの玩具店5店舗で試験販売したところ、全く告知していないにもかかわらず、かなり売れたらしい。そのため2004年11月に「ぬいぐるみ付き絵本」「キーチェーン」等のアイテムを販売するに至った。朝日新聞に紹介されたこともあり、問い合わせが殺到し、これもかなり売れたとのこと。新人キャラクターとしてはまずまずの出発だったと思う。

「販促会議」(2005年2月号)によれば、ターゲットは20代女性。中でも母性本能に目覚め始める20代後半の女性をコアターゲットにしていたらしいが、実際はそれだけに止まらず、未就学児童から小学校低学年までの子供達にも人気がでたそうだ。また中高年女性からの問い合わせも意外に多いとの事だった。

日本でノワノワが多くの友達に出会い、今後の成長を楽しみにしている。

ノワノワの公式サイトはここです。

2005/01/12

SF小説 2015年 性犯罪者Tの話

2015年、ここは東方の小さな島国。僕は夏のまぶしい日差しに目を細めながら車が通りすぎるのを待っている。道を渡った所にあるファーストフードの店で友人と食事をする約束をしていたからだ。今日は日曜日、子供を連れた家族が目立つ。そう言えば最近警官の姿をよく見る。犯罪が多くなったせいで、犯罪抑止効果を狙って警官の数を大幅に増やしたと、新聞に書いてあった。

電信柱には左右に首を振るカメラが終始僕らを守ってくれる。何かあればカメラを通じて、僕の行動が警察につながっているので、すぐに助けてくれる事になっている。カメラの横には小さな拡声器が付き、何か叫んでいる。最近空き巣が多くなり、家を出るときには鍵を必ずかけましょう、と言っているようだ。一瞬自宅の鍵をかけ忘れたのでないかと気になる。しかし、こんなに警官が多くなっているのに、社会には犯罪が多くとても不安だ。

カメラは、最初コンビニなどの店内を監視する為に設置された。そのうちに商店街のアーケードに、情報漏洩防止のために企業内にと、どんどん増え続け、そのうち警察がそれらのカメラをネットワークで繋げるシステムを構築した。日頃カメラ運営コストに頭を抱えていた人達は、国が代わりに監視してくれるので、そのシステムに喜んだものだ。検挙率があがったのかはわからないが、警察の発表では効果があると言っていたからそうなのだろう。

あ、カメラを見てはいけない、迂闊にカメラを見ると不審人物扱いになってしまう。

通り過ぎる人はみんな静かに歩いている。5?6人の学生達がその中で楽しそうに声高に話している。回りが静かだから、やけに目に付く。彼らは多分、他の場所から遊びに来ているのだろう。地元であれば、5?6人で歩きはしない。徒党を組んでいると判断され、やっかいなことになるからだ。注意してあげようかと思うが、見知らぬ人に声をかけるだけで、あらぬ疑いをもたれても面白くない。警官に注意されるのも、彼らにとっては勉強という物だろう。

目の前を歩いていた、乳母車を押していた母親のポケットからハンカチが落ちた。伝えようか少し迷ったがほっておくことにした。以前友人が、親切に落とし物を拾ったら、カメラを通じて警官が見ていたようで、危うく窃盗犯にされそうになった話を聞いていたからだ。

店に着くと友人のTが僕に向かって手を振って合図をよこした。Tは相変わらず髭が伸び、髪は手入れもして無く、外面を元々気にしない奴だったが、それがさらに拍車をかけたようだ。でも根はとても良い奴で、以前はある企業の研究所で何とかという遺伝子研究をやっていた。やっていたというのは、今ではある事情で会社を首になったからだ。

ある事情とは、彼は性犯罪者なのだ。これは大きな声で言えない。それを少しでも声に出し、誰かに聞こえるだけで大変なことになる。
彼は電車の中で痴漢行為を働いた。その日は徹夜続きの研究で、寝不足もあり、彼の近くにいた好みの女性に対し、一瞬に沸き上がった衝動を抑えることが出来なかった。勿論それは許されない事だし、言い訳も出来ない。彼はその場で彼は女性に謝ったが、女性は許してくれなかった。彼は逮捕され、性犯罪者矯正所に送られた。性犯罪矯正所とは、衝動を抑える薬を投与する場所だ。そこで彼はまず心理テストを受けた時、衝動を抑えることが出来ない性格であると認定されてしまい、薬の投与が行われた。

もともと頭が良く親分肌のTだったので、多分に血気盛んなところがあった。しかし、企業は矯正所に入所したTを雇っておく訳にはいかないので、逮捕時に首になっている。でもまぁ、なんとか研究の実績があったので、小さな会社だが、また勤めることが出来た。

彼の不幸は、それから数ヶ月後に訪れた。かれが出勤時にまた痴漢行為で捕まってしまったのだ。今度は彼は無実を主張した。しかし、女性は譲らなかった。痴漢被害を受けたと言うだけで女性にとっては恥ずかしいことなのだからと、回りもTの言うことを信じなかった。そして2度目の逮捕となる。逮捕後も自分はやっていないと言い続けたが、結局裁判にも負け、彼は3年の実刑判決を受けてしまった。

出所後の彼は、入所時の投与された薬の副作用のせいで、以前の彼の利発さは微塵も感じられなかった。なにか行動が遅いのだ。勿論、再就職会社も首になっていたし、同じ業界では彼は勤めることも出来なくなっていた。それでも彼は何とか勤め口を見つけた。でも、どこかで性犯罪があると必ず警官がTを尋ねてアリバイを尋ねるようになった。それが頻繁にあると、折角勤めた会社も首になった。そんなことが何回か繰り返された。

転居するときは、警察に住所を届けることが義務づけられていた。近所に住む住民達には、勿論その事は伝えられていないが、頻繁に現れる警官によって、性犯罪者であることが噂になり、結局その事が原因で転居も数回している。

「俺はこの国を出ようと思うんだ・・・」彼は唐突に言い始めた。
「出るって・・・どこに行くんだ?」
「うん、ベトナムあたりかな」
「向こうに行っても、仕事はあるのか?」
「その点は大丈夫だ、なんとかやっていけると思う。なにか俺が以前にやっていた研究を向こうでも出来るらしいんだ」
「え、それは良かったじゃないか。でも向こうはこっちらに比べて安全ではないって聞いているぜ、その点は大丈夫なのか?」
「・・・・・・・・・、お前は平気なのか・・・・」
「え、何が?」
「いや、何でもないんだ。ただ、今では何処に行っても監視されている感じがして、実際そうなんだけど」
「監視されるのが嫌なのか?おれは全然平気だぞ。国が監視しているから俺らは安心して生活できるんじゃないか。変なこという奴だな」
「そうか・・・・、そう思っているのなら別に良いけど」
「お前変わったな・・・」

彼と別れてからも彼のことが気になった。でも新天地で以前の彼に戻れるのだったら、それはそれで良いかもしれない。

自宅に戻る最中に、後ろから僕についてくる男がいた。気になって後ろを振り向くと、そこには身体が大きい短髪の男が、にこりともせずに僕を見詰めていた。

「****さんですね」かれは僕に向かって尋ねた。
「はい。あなたは?」
「******署の刑事です。失礼ですが貴方は先ほどまでTと一緒でしたね。」
「はい、それが何か?」
「いや、Tをいつも監視しているのですが、最近彼の様子がおかしいので気になっています。もしかして、Tはこの国を離れる算段でもしているのではないですか?何かその様な話でも出ていましたか?」
「え?、何故そんなこと聞くんですか?」
「いや、最近外国からうるさく言われているんです。我が国で監視している程の凶悪な性犯罪者を、他の国に渡航させても良いのかってね。それで、今度新たな法律が出来るんです。その法律では性犯罪者に渡航させてはいけない事になっています。」
「え?だって、彼は既に出所してから3年も経っているんですよ」
「知ってます、でもね性犯罪者は再犯するんです。これは常識ですよ。」
「・・・・・」
「今度彼にあったら、それとなく聞いてください。そして、渡航するつもりの様だったら、我々に教えて欲しいんです。」
「・・・・・・」
「社会の安全の為ですから。みんなのためにも教えてください。では頼みました」

そう言うと彼は離れていった。でもどこかで僕を監視している事だろう。
心配しなくても、彼のことは後で警察署に行ってちゃんと言うつもりだ。それが国に対する国民の義務というものだ。彼には悪いけど・・・結果的にみんなの安全につながるのだから、彼もわかってくれるだろう。

2005/01/11

北米国際自動車ショー始まる

200501115272928b.jpg「世界の自動車メーカーが今後の主力となる新型車や試作車を問う北米国際自動車ショーが米ミシガン州デトロイトで9日開幕した。」(読売新聞 記事1 記事2

2004年の北米における日本車の勢いは強く、初めて米国ビックスリーのシェアが60%を切り、日本車が30%を超えたという。
勢いの要因は、ガソリンの値上げによる低燃費車の見直しと、環境問題からのハイブリッドカーの人気だ。両者とも米国車よりは日本車の方に一日の長があった。
米国ビックスリーは危機感を強め、今回の北米国際自動車ショーへの意気込みは強いと聞く。

さらに昨年は米国の牙城とも言われたピックアップトラック市場にトヨタと日産が本格参入した事もビックスリーに危機感を募らせた一因であったとも聞く。今年は日本車の勢いを米国車が止めるか、さらに明暗を分けるかの年になるのかもしれない。

その一方で、日米のメーカーを脅かす歩を着々と進めているのが、韓国と中国のメーカーだ。今回、中国車は北米国際自動車ショーに参加していないが、開催数日前に北米への参入を発表した。

「中国車が北米に進出することになった。米自動車輸入販売会社のビジョナリー・ビークルズは3日、中国の自動車メーカー、奇瑞汽車(安徽省)の乗用車を輸入販売することで合意したと発表した。」(FujiSankei Business

同一クラスの日本車に比べて約30%も低価格で売り出す。新興勢力といっても、技術面は日米に学んできている。さらに記事によると10年間10万マイル(約16万キロメートル)の走行保証付きと、かなり意欲的なサービスも提供するそうだ。

日本メーカーは、最初小型低価格で北米に参入し、クラス毎に徐々に市場を占めながら、上位車種に移行してきた。今では高級車種クラス、そして米国牙城のピックアップトラック市場への参入も果たし、上位クラスでは既に全ての参入が完了したと思う。逆に言えば、一番企業として危ない時期にさしかかっているとも言える。

何故なら、中国車が参入を開始したクラスは、日本車にとって利益率が低く、その事が結果的に中国車の参入を静観するしかない状況を作り出している。しかし、手をこまねいていると、いずれは現在の地位を脅かされることになるのは必至だと考える。中国車は最安値車種で約40万円と言うことだ。その価格帯であれば、アジア諸国および中国市場でも十分に魅力的な価格になる事だろう。

現在、北米の自動車産業は日米の戦いの様相を呈しているが、日米にとって真のライバルは、もしかすると中国・韓国車なのかもしれない。

画像は「米デトロイトの北米国際自動車ショーで、ホンダが発表した新型スポーツタイプ多目的車(SUV)「RD―X」(共同)」

2005/01/10

マイクロソフトのスパイウェア対策ソフト

「Microsoftが米国時間6日に「Windows Anti Spyware」アプリケーションのベータ版を発表した。同社は、Windowsユーザーに対してスパイウェアから身を守る手段を提供する目的で、この製品を開発した。スパイウェアは、ユーザーの気付かぬうちにコンピュータにインストールされてしまうソフトウェアのことで、画面にポップアップ広告を次々に表示したり、コンピュータの動作を密かに監視したりする。」
CNET.COMより


「Windows Anti Spyware」アプリケーションのベータ版はここからダウンロードできます。対象OSはWindows2000、XPです。

「Microsoftが12月に買収したスパイウェア対策ツールベンダGIANT Company Softwareの技術をベースに開発された。」(CNET.COMより)

通称GAS(GIANT Anti Spyware)と呼ばれたアンチスパイウェアの特色は、SpyNetと呼ばれるコミュニティを形成し、そこでユーザの判断もスパイウェア決定の材料にする事らしい。逆に言えば、インストールするときSpyNetにアクセスされ、自分のPCの内容が伝わってしまう事になる。勿論それが嫌な人はインストール時に拒否すればよい。また後からでも設定は可能。

今回GASからMAS(Microsoft Anti Spyware)に変わったが、インストール時の画面を見る限りにおいては、全てGASと同じ。買収から1ヶ月で提供すると言っていた意味は、多分簡単なテストのみだったのではないだろうか。

GASの場合、98SEも対象となっていたが、今回のMASになった時点ではずされている。一部噂では、GASは98SEを対象としながらもシステムリソース不足から色々な問題があったらしい。そのためのMS側の判断があったと思われる。

スパイウェア対策ソフトは、Ad?AwareやSpybot SeachやDestroyが知られているが、GASも評価が高かったらしい。(ここ

MASのインストールは全て英文なので、PCに慣れていない方はとまどうかもしれない。その場合は、このサイトにインストールの仕方が詳しく載っているので、参考にして欲しい。

なお、インストール時にはOSのプロダクトキーの投入が必要。(通常はPCの側面に貼り付けてあります)

追記:早速インストールして動かしてみた、結構動作が速い。僕としては、なかなか良い印象を持った。MSは今後この製品をどの様に提供していくか、今のところ未定だが、出来ればこのまま無償提供してくれると嬉しい。

日本のファーストフード会社トップ5に公開質問状

cinemacafe.net」では映画「スーパー・サイズ・ミー」公開前に日本のファーストフード会社トップ5に公開質問状を出している。
内容とその結果はここを参照。

トップ5とは「日本マクドナルド」「モスバーガー」「ロッテリア」「ケンタッキー」「フレッシュネス」の5社。

実際何のトップ5か正直わからなかった。1日のハンバーガー販売個数なのか、売上げなのか、利益なのか。でも公開質問状のサイトを観ればわかるが、単なる映画の話題集めを目的とした内容であるので、気にする必要もないのだろう。

公開質問状は一見もっともな書き方で目的を説明している。

「業界を揺るがす問題作の公開を前にファーストフードの実情を探るべく、日本トップ5のファーストフード会社に公開質問状を送付。ファーストフードは本当に健康に悪いのか?ハンバーガーの未来は?各社の反応はいかに?」(cinemacafe.netサイトから)

つまり今回の公開質問状は以下の点を目的としている。
1)ファーストフードの実情を探る事
2)ファーストフードは本当に健康に悪いかを知る事
3)ハンバーガーの未来像をしる事
4)質問状を送付する事による各社の反応を見る事

その結果、公開質問状の回答は「日本マクドナルド」と「ロッテリア」の2社のみが行って、残りの3社は未回答とのことだった。未回答の3社についてサイトでは以下のように言っている。

「食生活を脅かし兼ねないファーストフードから自身を守るには情報が必須なだけに、私たちがおかれている状況は一目瞭然だろう。比較すると、ロッテリア、そして『スーパーサイズ・ミー』でまさに渦中の企業であるマクドナルドが、ファーストフード自体の害悪はさておき、情報開示という社会的責任を果たしているといえる。」(cinemacafe.netサイトから)

僕は質問は、質問する側の立場と目的を明確にした上で行うべきだと思っている。尚かつ質問に対する回答は公平に扱い、回答に対する精査も質問者の方で行うべきでは無いかとも思う。今回の質問の目的が、ユーザからの情報開示が主であれば、その旨の質問を行うべきだし、その場合質問内容は自ずから違って来るとも思う。

公開質問状の質問内容を確認したが、質問者は企業としての回答を求めているのか、当該企業に勤めている社員の個人的意見を聞くために質問をしているのか、質問レベルの統一が為されていない。
また、日本マクドナルドに厚生労働省の資料を指摘されるなど、基本的な知識を持ってもいない。さらに、全体を通じて、質問内容が目的に向かって流れているとも思えない。

また、これらの回答を得た後に、それを扱っての行動が、質問内容と各社の回答をただ掲載するだけとなっている。つまり嘘でもなんでも、とりあえず回答すれば「cinemacafe.net」では社会的責任を果たしたと言うレベルが何ともはや可笑しい。

目的が日本人の肥満化を中心に見たファーストフードの悪弊を証明するのであれば、自分たちで各社のハンバーガー類をサンプリングし、成分調査と栄養学的な見地からの調査を行い、その上で各社の回答について論じるべきではないのだろうか。

僕がこの公開質問状から得られることは、企業として、どの様な質問であっても「質問状に回答する」という仕組みを持っているのが、この2社である事がわかるだけである。
他の3社は、オーソライズされた回答を持っていないか、持っていても回答が公平に取り扱ってくれない恐れ(映画を広報する立場からの質問)から、差し控えたに過ぎないと思う。

日本マクドナルドの回答は、手慣れた感じを受ける。既にファーストフードのあらゆる質問に答えるマニュアルを持っているのだと予想する。それはグローバル企業として、今回の映画を含め、種々様々な批判があることにより、育ってきたノウハウとも言える。

逆にその様な企業と対峙するためには、質問する側も周到な準備と理論武装が必要なのだ。稚拙な質問は、いくら話題作りでも行わない方が良いとさえ思う。

企業側の立場から見ると、つくづくこれからの企業は大変だと感じてしまう一幕でもあった。

2005/01/09

ピーター・セラーズのチャンス

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ピーター・セラーズの伝記を元にした映画「ライフ・イズ・コメディ」が1月29日からシャンテ シネ、ヴァージン TOHO シネマズ六本木ヒルズで公開が始まる。

主演は、あの「シャイン」のジェフリー・ラッシュ。「シャイン」での演技は素晴らしかった。彼のことだからきっとピーター・セラーズの事もきちんと表現してくれるのであろう。

ピーター・セラーズのなかで一番好きな映画は「チャンス」だ。有名な映画なので、観られた方も多いと思う。僕はだいぶ前にレンタルビデオで観たが、今でも心に残る味わい深い映画の1つだ。

「世間知らずの庭師のチャンスが、主人の死をきっかけに外の世界へ。そこで政界の人物と知り合い、人々の勘違いから、何も知らないチャンスが政界へと進んでいく姿をシニカルなユーモアたっぷりに描いたハル・アシュビー監督作。
庭のこと以外、何もわからないチャンスの素朴な発言を、政界の人物たちがこれまでにない斬新な発想だと重要視し、チャンスを政界入りさせようと躍起なる様が可笑しい。」
アマゾンドットコム のレビューから)

アマゾンのレビューが端的に映画の内容を示している。ただ、勿論この映画はこのレビューだけに止まらない。この映画の企画を長年温め続けてきたのは、他ならぬピーター・セラーズ自身だった。彼はこの映画で何を言いたかったのだろう。それは映画の主人公でもある「チャンス」自身にそれが現されていると思う。

チャンスには人が生き生活するときに発散する汗(匂い)が全くない。常に清潔で、身なりも正しく、少しも乱れる事がない。いわばチャンスは浮世離れという以前に、人間離れしている存在だ。彼は自分を持っていない。多分中身は何もない存在なんだと思う。

その中身は、彼と接する人が、自分の持っている物で埋めていく事になる。だから人によってチャンスの見方は大きく変わる。つまり人はチャンスを見ることで、逆に自分をそこに投影している。そんな風に僕はチャンスの事を観ている。

チャンスは一体何処から何のために来たのだろうか。それはピーター・セラーズ自身にとっても一番知りたいことのように思える。何故なら、僕にとってチャンスとはピーター・セラーズ自身の事に他ならないと思うからだ。いくつもの顔を持つ男、と言われたピーター・セラーズ自身が、自分の本来の顔を忘れている様に思える。中身は空虚で、それを埋めるために映画と女性に没頭する。そんな彼の人生が映画となって僕らの目の前に差し出される。今度はその映画を通じて、僕らが自分の事を観る番なのかもしれない。

2005/01/08

新日本人

日経ビジネス「Associe」(01.18)での特集「新日本人度チェック」によると、日本人は1996年から1998年を境に大きく変わったそうだ。それによると「新日本人」の特徴は以下の通りらしい。
1)価値観は現実主義に
2)仕事にはきわめて真面目
3)人間関係・恋愛観は自分重視
4)生活・消費観はより賢く



全体をみると、かなり合理的になったらしい。チェック項目の中で面白い内容があった。

・昼休みにビールを飲んで構わないと思いますか?
・勤務中に私用電話は構いませんか?
・お中元、お歳暮は毎年欠かさずに贈っていますか?
・情報に対する全般的な処理能力が高い方だと思いますか?

「新日本人」の意識では、昼休みのビール、私用電話は「NO」。お中元とお歳暮に等の仕事関係の付き合いも{NO」。情報に対する処理能力については「YES」となっている。

これらは96年?98年を境に、変化が出ているとのことだった。昼休みのビールについては、それ以前では約1/4の人が構わないと言っていた。それが今回では1/10にも満たない結果となっている。

会社と個人の係わり方が変わったのかもしれない。今までは個人と会社との関係が曖昧だった部分が、96年から98年を境に、そこに明確な線引きがされてたかのように思える。しかも、ネットによる情報収集が盛んになり、グローバルな視点で情報を扱うことに慣れてもいる。確かに「新日本人」と日経が言うのも無理はないかもしれない。

96年から98年に日本では、国内総生産(GDP)が下落、実収入および貯蓄純増も下落、年間の自殺者は98年に一気に1万人も増えているそうだ。さらに消費税が5%に引き上げられたのも97年。銀行の破綻が相次ぎおこり、金融不安の言葉が盛んに使われたりもした。

つまり一連の不安が、こうした意識変化につながっていると日経では分析している。1990年代は「失われた10年」でなく、もしかすると最も日本人にとって、変化の10年だったのかもしれない。

僕はこの日経の記事を読んで思ったことがある。「新日本人」として意識の変化が大きくあったのが正しい場合、意識の変化が旧態依然の人も当然にいると思う事から、意識の断絶がそこに出てくるのではないだろうかと言うこと。
その断絶は、今まで言われている世代毎でも、性別でも、キャリア別でも、年齢別でもなく、全く新しい線引きがそこに産まれるようにも思えてくる。

それに、合理的なことは良いことだけでなく、元々持っている日本人の曖昧さが薄まる事につながるのではないかという懸念も僕にはある。曖昧さは、確かにグローバルの世界では通用しない部分があるかもしれないが、争いを避ける知恵でもあったように思える。それは、曖昧さの中に、相手を思いやる優しさがそこには必要だと思うからでもある。

いずれにせよ、日本人のこうした意識の変化は、ビジネスをする上でも気にしておく必要があるとは思っている。

会社でのネット監視について

社員のメール内容とブラウザを監視する企業が多くなってきている。今後は益々その傾向は広まる状況のようだ。監視の内容とレベルは企業によって様々だが、概ね履歴チェックと閲覧制限といったところだろうか。企業側で社員のネット利用をチェックする理由として、「アエラ(05.1.3号)」によれば、次の3点に絞られるらしい。

1)業務に関係がないため
2)ウィルスなどに対するセキュリティの確保
3)内部からの情報漏洩の防止

具体的には、ネット制限の場合は、2ちゃんねる等の掲示板・オンラインショッピング・ウェブメール等が多く、時にはブログの閲覧と更新も制限対象にしている企業もあるらしい。またメールの場合は内容と宛先のチェックで、私用メールを監視している。

企業で社員に対するネット監視はバランスが非常に難しいと思う。監視のレベルを上げる毎に、社員の意欲がそがれる結果に繋がるようにも思われる。また、社員のプライバシー侵害になる可能性もある。

さらに「業務に関係ない」と判断する側の「業務」が、実態とはかけ離れれている可能性も高い。その場合、ネット制限が業務に差し障りが出てくる事になる。
例えば、各営業がそれぞれに担当する企業・業界の情報収集を行う状況、企画者が若者のトレンドなどの情報を収集する状況など。

よって「業務に関係がないから」の論点で、ネット制限を行うことは僕は反対する。業務に関係ないか否かは、その社員が担わされた業務が成功するか否かで判断すべき話だと思う。業務を遂行する上で必要な情報は、その過程において種々様々であり、特定は難しいと思うからだ。この発想は、企業内における様々な業務を、ステレオタイプ的に見て判断している結果のように思えて仕方がない。

特に各企業では、新たな価値を創造する事が求められている現状において、個々の社員が持つ様々知識を育てる必要がある。ネット閲覧の制限を行うことは、僕にとっては情報収集の制限を行うことと同義で、知識を育てる事とは逆方向とさえ思う。

ウィルスに対するセキュリティの確保から、ネット制限およびメールのチェックを行うことは、ネットに企業の各端末がネットに繋がっている以上、全面的に回避するのは難しいと思うが、そのリスクを最小限に抑えることとしては、やむを得ない状況かもしれない。

ただ、ウィルスおよびスパイウェアの発生元サイトは概ねわかっていると思われる。企業に設置しているPCにはウィルスチェックソフト、スパイウェアチェックソフト等もインストールされている現状から、ネット閲覧制限ではなく、ブラウザの諸設定で対応が可能なのではないかと思う。よって、これらの制限は発生元サイト、もしくは疑いがもたれるサイトだけの閲覧制限で十分な気がする。

内部からの情報漏洩に対する為には、社員がPCで行う総ての操作を監視しなくては意味がないかもしれない。しかしそれも情報漏洩が結果として行われた後で、犯人を特定する為の履歴でしかない。また履歴で明確になることは、犯人ではなく使用したPCだけである。ただ、監視していることを社員に周知することによって、一定の抑止効果が期待できるが、多くの社員側からしてみれば、そこまで疑われているのかと「意欲」が落ちることに繋がように思える。

しかも、PC操作を監視する側の監視は誰が行うのかと行った、素朴な疑問も持ち上がる。監視する側は、そこに穴を空けるのはたやすいと思うからだ。

情報漏洩が企業に大きなダメージを与える状況の中で、決定的な方法が見つからない。ポリシー設定と教育だけでは防ぐ事が難しいのは事実だと思う。勿論、金券を取り扱うような場所では、様々な策を講じているだろう。PC操作の監視も当然で、常にカメラが職場を録画し、ビル内への出入り時における持ち物確認も行っているかもしれない。それらの監視レベルは、企業が担っている業務によって変わると思うが、多くの企業はそこまでは求めていないと思う。

情報漏洩と言うからには、PCで漏洩されてはいけない情報がそこにあるはずである。総ての操作を監視するよりは、その情報にアクセスする箇所にだけ監視レベルを高めれば良いと思うのだが。それに、監視レベルを何処に設定するかは、企業毎に違うとは思うが、基本は社員を信じることであって欲しいと願っている。

ネット利用における制限と監視を行う理由3点について、簡単に僕の考えを述べてきた。ここで整理すると、制限と監視を行う場合は最低限として、行う場合は最も効果がある点についてのみ行う。具体的には以下の通り。

1)「業務に関係ないから」で全体を括り理由にする事は難しく、逆に業務を阻害する事につながる。
2)ネット閲覧制限を行う場合、スパイウェア・ウィルス発生元サイト、もしくは疑いがもたれるサイトだけに限定する。
3)情報漏洩は教育と情報にアクセスする事にのみ監視レベルを高める様にする。
4)メール内容の閲覧監視は、社員のプライバシー侵害に発展する可能性があるので、出来るだけ行わない。

ネット利用にもメリットとデメリットがある。メリットが大きいからこそ、各企業はネットが利用できる環境を構築してきたのではないのだろうか。利用制限と監視を行うことで、そのメリットの部分が薄くなる事の方が、長い目で見れば企業にとって不利益だと僕は想像する。それに、一度管理を始めると、管理はどんどん強まっていくのが常であると考えるので、それに対する歯止めもポリシーとして必要だと思う。

最後に各種制限監視ツールについて紹介する。
主要なメール・フィルタリング/監視分析ツール
主要なWebフィルタリング・ツール
主要なクライアント管理ツール

2005/01/07

飛行船ツェッペリン号、海を渡る

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最近少し憂鬱だったが、朝日新聞のこの記事で少し改善。ドイツから購入した会社「日本飛行船」の名前も何故か気に入ってしまった。

しかも日本郵船の子会社だという。同じ船という事からの事業展開かもしれないが、語呂も合っている。それに「飛行船」の名前自体に夢があるとも思う。

この夢は、僕にとっては「宮崎駿的世界」に近い感じかもしれない。「天空の城ラピュタ」を思い出す。そう言えばインディジョーンズにも飛行船内で活躍する場面があった。人が空への憧れを具現化した時、その形は僕にとってはジェットもしくはロケットで推進する飛行体ではなく、やはりプロペラ機であり、単葉機よりは複葉機だったりする。

しかも、空に憧れる時、空を自由に飛べる鳥を見るか、のんびり漂う雲を見るかで、その形も違うように思う。飛行船はまさしく後者の方だ。

そんな愚にも付かないことを、日本飛行船のサイトをみて、漠然と心に浮かんでしまった。
日本飛行船のホームページはツェッペリンNT号の写真と、飛行船の歴史などコンテンツも多く、しばらく楽しめそうだ。

ツェッペリンNT号に乗ってみたい、真面目にそう思った。

2005/01/06

奈良市の事件で感じたこと

奈良市の小1女児誘拐殺害事件が、昨年中に犯人逮捕となり本当に良かったと思う。
実は本ブログでこの事件について書くのをためらわれた。今回の事件に貼り付いていた物が多く、何を視点にするかで事件の様相と今後の展開が大きく変わる。そして、それ以上に被害者とご家族の心情を鑑みると、逮捕されて良かったとしか言えない自分がいたからだ。

僕にとって犯人の性癖には興味がない。また社会状況から、この事件についてコメントをするつもりもない。それらのコメントは新聞もしくは他のブログで展開している事だろう。

それに、何をしても、何を言っても、被害者達の気を晴らすことが出来ない。女の子は将来、政治家になり貧困をなくしたかもしれない、もしくはマザーテレサの様に病気に苦しむ人達に希望の手を差し伸べたかもしれない、歴史的な発見をしたかもしれない、ビジネスで成功する可能性もあるだろう、さらに母親になり優しい子供達を育てたかもしれない。
それら多くの可能性を1人の男が握り潰したのだ。ご家族の喪失感も想像できないほど深く暗い事だろう。これらは世界中でおきている、戦争・紛争・テロ・事件等に巻き込まれた多くの子供達に対しても言える。僕はこの事件を通して、そこまで気持ちと想像を深めることが出来るのだろうか。少なくとも、今回の事件で自分の暗闇の部分を含め、どこまで人の痛みを実感し見詰める事が出来るかが、僕にとって総てだった。

話は変わるが、今回の事件であまり語られない話題があった。少なくとも僕にとってはそう感じた。それは何かと言えば、犯人が新聞販売所店員だったことに対する、新聞社各社のコメントに感じた違和感だった。僕にとってそれらは新聞各社のアリバイ作りに思えて致し方なかった。そしてその対応は本質的でない印象を受けた。

犯人は各新聞社の販売所を転々としている。産経新聞、朝日新聞、読売新聞、そして毎日新聞。毎日新聞を除く各紙販売所では数ヶ月勤務し、「勤務態度」が悪いと解雇させられている。新聞の読み方によっては、毎日新聞を除く新聞各社が販売所を適正に管理している結果とも受け取れるが、それはたまたま偶然の事でしかない。

また毎日新聞社側もコメントも発表している。コメントの中で本音と思う部分は「痛恨の極み」のひと言だと思う。他の新聞各社は、自分の所に勤めての事件でなかった事に胸をなで下ろしていることだろう。

「このような卑劣な事件の容疑者として、毎日新聞社と取引関係にある販売店の従業員が逮捕されたことは、当社にとって痛恨の極みであります。 (中略) 当社としては、事実関係の確認を急ぎ、販売店に対して従業員の人事管理をさらに強化するよう指導していきます」(毎日新聞 社長室広報担当名でのコメント)

新聞社にとって、販売所の役割はきわめて大きい。販売所の人達は新聞を、配達し、集金をし、新規顧客の開拓も行っている。逆に言えば、新聞社に働く人達は、販売所の努力と苦労によって生活できていると言うことになる。
しかし、記者を代表する新聞社に働く人達と較べ、その地位と賃金は低い。その関係はまるで死語となった「搾取する資本家と搾取される労働者」の関係のようだ。

新聞配達所の人達の仕事は辛い。だから今では誰もやりたくはない仕事の1つだと思う。でも新聞社が存続するには、誰かにやってもらわなくてはならない。そのなかで、毎日新聞社側が言う「人事管理強化への指導」とは一体何をしようとするのだろう。

まず「指導」という言葉が時代錯誤のように思える。人事管理を強化することで、販売所に勤務する人が少なくなる事に繋がるのではないだろうか。その結果は、販売所経営者とその家族の益々の苦労だろう。

まず新聞各社が取り組まなければならない事は、販売所の地位向上と改善だと思う。新聞記者の人件費を削減すれば、購買価格を変えずに販売所にお金を回すことが可能だと思う。
例えば、宅配便の仕事も辛いが、苦労があっても人が勤めるのは、その給与の高さだと考える。それと同様にすれば、そこに自ずから人事管理も成り立っていくように思える。今回のことで、本当に新聞社が遺憾に感じるのであれば、そこまでやらなくてはならない。

2005/01/05

発信者番号改ざんに見る怖さ

200501058a4c5ff8.JPG米国ではいま「発信者番号改ざん表示」の電話サービスが話題を呼んでいるらしい。日経ビジネス「Associe」(01.18号)に少し載っていたので、本ブログにて要点を述べる。

a)ことの起こりは2004年9月に新興企業「スター38」が開始した「発信者番号改ざんサービス」
b)このサービスは、実際とは異なる番号と名前を発信元として相手の電話に表示できるサービス
c)同社では、債権回収業者・調査会社・警察に限定し、利用者の身元確認を行うことで悪用を防ぐつもりだった
d)しかし、消費者・学識者・プライバシー保護団体から「受信者のプライバシーを侵害する」として非難を受けた結果、サービス開始後3日間でサービス停止し、会社もなくなった。
e)しかし、その後「カモフォーン」と名乗る第二の提供会社が登場する。カモフォーンはスター38とまったく同じ内容のサービスを提供した。
f)カモフォーンの場合は、スター38が提供するサービスより、さっらに簡単に利用できるシステムを持っていた。しかも誰でもお金さえ払えば利用できる。
g)このサービスがマスコミ報道されると、このサービスを利用した「番号改ざんサービス」を提供する会社まで現れた。
h)現状で米国の法律ではこのサービスを取り締まることが難しい。

怖い話だと思う。記事ではそもそも「番号表示機能」も「発信者のプライバシーを侵害する」観点から「発信者の非表示機能」を設けた経緯があり、その発信者と着信者の均衡が崩れてしまったと言っている。

確かにそのとおりだと思うが、僕にとっては電話の世界では常に着信者(電話を受ける人)の生活を無視してきていると思っている。電話をかける方(発信者)は自分の都合で電話をかけられるが、受ける方はそんな準備など出来ていないのが普通だと思う。そもそも不公平なのではないだろうか。
その不公平さの中で、発信者番号通知は電話に出るときの事前準備として十分に役に立っている。孫子の兵法で言えば、「相手を知り己を知れば」という事であろうか。

「着信者番号」が改ざんされて表示されるとなれば、これは社会に与える影響は極めて大きい。米国の事だからと言ってはいられないことだと思う。なにしろ電話もインターネットと同様に世界中に繋がっているのである。特に日本では「おれおれ詐欺」が横行している。彼ら詐欺師がこのサービスを使わないわけがない。また迷惑電話もかけ放題、ストーカーからの電話も止められない。

このサービスの利用方法を少し考えるが、どうもまともなサービスは思いつかない。嫌な相手からの着信拒否も出来なくなるのだから、当然にこのサービスを利用する人は、電話先の相手にとって嫌な奴という事になる。嫌な奴の中には犯罪者もいて、彼らにとっては法律は関係ない話だろう。

このサービスを利用した電話が日本にもかかって来たとき、もしくは日本でも誰かがこのサービスを開始したとき、僕らに出来ることは一切発信者番号表示を信用しないことに尽きるかもしれない。
こうやって一つのサービスが終わり、その結果「発信者番号改ざんサービス」も意味を成さなくなっていくような気がする。その前に法の整備と同様に、技術的な対応も考えて欲しいと願う。

佐世保バーガーに見るブランドの危うさ

sasebo毎日新聞のこの記事を読むまでは「佐世保バーガー」の存在を知らなかった。読んではじめて知ったことは、佐世保が日本におけるハンバーガー最初の伝来の地であること、ハンバーガの歴史は新しく1950年頃ということ、ここ数年九州では「佐世保バーガー」が大ブームになっている事だった。

「佐世保バーガー」とひとくくりにしているが、実際には佐世保には数多くのバーガー屋があり、その店独自の味を出しているとの事だった。店ごとにこだわりがあるが、共通していることは「とことん手作り」ということらしい。さらに記事では佐世保っ子は「マヨラー」で、各バーガー屋さんは秘伝のマヨネーズをもっているとの事だった。そして記事は「佐世保バーガー」はスローフードとして日常に溶け込んでいると締めくくっている。

僕にとってハンバーガーは、マックであり、モスであり、フレッシュネスバーガーであり、ケンタッキーであり・・・・と沢山あるが、共通することはファーストフードとしての食品と思っている。その中でも「モスバーガー」「フレッシュネスバーガー」はパティやバンズに工夫をこらし、使われる具の生産者にもこだわりがある様に見えるが、やはりファーストフードだと僕は思う。

「スローフード」は1986年にイタリアにて提唱された。ローマにマクドナルドのイタリア1号店が開店した時に、ファーストフードに対する言葉として産まれたと聞いている。つまりはマクドナルドに象徴されるアメリカングローバリズムに対抗する考え方と行動が「スローフード」という事になる。サイト「ニッポン東京スローフード協会」によれば、スローフードの考え方は以下のようになる。

「食を通じてバイオダイバーシティ(生物多様性)を守ることを唱えています。ファストフードに代表される大量生産の画一的な味に対抗し、世界各地の環境・文化に則した多彩な食を守り発展させていけば、それが結果として人にとって居心地のいい世界を造ることになる、と考えます。」

確かに「佐世保バーガー」は「スローフード」なのだと思う。一時マクドナルドが佐世保に進出したが撤退したことがあったらしい。佐世保の人たちの面目躍如と言ったところかもしれない。

今では街のコンビニで「行列の出る店の*****」「シェフ*******のリゾット」等として、名店もしくは一流シェフの味を簡単に食べることができる。店と人のブランド化なのだと思う。手軽に美味しい物を食べれられるのは悪いことではない。多分それらの商品は、ほかの同等のものよりは割高になっていると思うが売れている事だろう。でも逆にブランドが傷ついているのも事実のような気がする。

たとえば、今までは特定の店に行き、その中でも有名シェフが作る料理メニューを注文しなければ食べることができなかった。それが街のコンビニで手軽に味わう事ができる状況になったとき、その店の常連たち(ロイヤル)はどう思うのだろうか。その店の潜在顧客が顧客に昇格するのと、常連たちが普通の顧客に戻る率を考えたとき、正確な統計値はないが、個人的な感想を言えば常連が離れる方が高いように思える。簡単に常連たちの気持ちを代弁すれば、面倒な事をしなくても手軽に食べられるものだったのか、今までの苦労は一体なんだったのだろう・・・、そんな気持ちを持つのでないだろうか。

ブランドは、企業の商品が持つ付加価値(しかも顧客が育てる)である。一番問題なのは企業が努力しなければブランドは形成されないが、望んでも得られるものではないということだ。しかもブランドが傷つくのは「雪印問題」を例に挙げるまでもなく簡単なことだ。

「佐世保バーガー」が各店舗の「こだわり」と、育ててきた味を大事に守る事で、「ファーストフード」でない「スローフード」としてのハンバーガーが、「佐世保バーガー」をブランド化している重要な要素である事は間違いないと思う。逆に言えば、各店舗が持っている「こだわり」の範囲を超える、店舗数拡大を行ったとき、多分「佐世保バーガー」は「スローフード」でなく「ファーストフード」に堕ち、結果的にブランドを傷つける結果になるように思える。

もうひとつの心配は、「佐世保バーガー」が商標登録されていないと思われる事により、他のチェーン系バーガー店が「佐世保バーガー」と銘打って売り出すことだ。その結果、実際には一言で語れない「佐世保バーガー」のイメージが一つに固定化されることにより、やはり結果的によい方向には流れない気がする。

既に東京にも「佐世保バーガー」が食べれる店ができたそうだ。記事によれば、オーナーは佐世保市出身。修行した佐世保の老舗バーガー店から材料を仕入れ、焼き方も伝授された方法を守るとの事。既に3店舗オープンしているそうだ。美味しいに違いないが、徐々に「スローフード」から「ファーストフード」になっていくように思えるのは僕だけだろうか。やはり「佐世保バーガー」は佐世保に行って食べてみたいと思う。

中国で日本のリンゴが売れている

20050105457842db.JPG日本のリンゴが中国の富裕層に売れているらしい。リンゴは平安時代に中国から渡ってきた果物で、最初は小粒の野生種だった。江戸時代にはりんご園ができ、広く栽培もされるようになった。明治になりアメリカから大型のリンゴ品種が入り、絶え間ない品種改良の結果、今では日本のリンゴは、世界一値段が高く世界一美味しい「味の芸術品」と呼ばれるようになった。

その日本のリンゴが中国の富裕層に人気が高まり売れている。値段は中国産の10倍以上の価格だが、それでも年々輸出量は伸びていると聞いている。
(具体的に言えば、ふじ1個が360円前後らしい)

元々日本にくる留学生の間で、日本の米とリンゴは、デジタルカメラとMDプレイヤーと並ぶ代表的なお土産だった。特にお米はお土産にするととても喜ばれる。農作物における日本の品種改良の積み重ねは、他国では一朝一夕には真似出来ない状況のようだ。

中国で日本のリンゴが売れている理由として大きいのは、まず品質が高いこと、糖度が計測してあり、糖度のばらつきが少ないこと、等があげられている。中国の方は果物に甘みを求める傾向があるとのこと。

しかしやはり一番大きい事は、中国の富裕層が自国の農作物に対する不信感の表れからだと思う。中国では大量の農薬を使用する。それに較べると日本のリンゴは安全だというのだ。中国では日本のリンゴはブランド化し始めていると言うことだろうか。

一時期日本でも中国の農薬の多さが問題になったことがあった。でも考えてみると、中国の人口は約13億人であり、いくら国面積が広いと言っても、食物を育てるのに適している場所が限られている以上、国民を飢えさせない為には、農薬の使用は現状では致し方ない部分もあるのかもしれない。ただその結果、富裕層とその他の層の食糧事情に大きな差が出ているのは間違いない話だと思う。貧しい人達は大量の農薬によって育てられた食物を食べることになる。

逆に日本でのリンゴの消費量は年々下がっているらしい。確かにリンゴは日本でも高い。しかも他の果物に較べて大きく、個食の時代では1人1個を食べるのは難しい。しかも他の果物に較べ、食べるのに手数がかかることもネックになっている。

ただ、食品栄養学的に言えば、リンゴは「カリウム、カルシウム、食物繊維、ビタミンC、有機酸が豊富に含まれ、高血圧や動脈硬化の予防に役立ち、また、アメリカの研究者グループからはガンの抑制効果があることも発表されています。コレステロールや血糖値を下げ、中性脂肪を減らす働きもあり、現代人の健康増進にはぴったりの果物(平成14年11月7日神奈川新聞掲載)」といえる。

健康食品として見たときに、かなり優れた果物であることは間違いない。

僕は父の実家が青森と言うこともあり、幼い頃から果物と言えばリンゴだった。逆にバナナとかイチゴ・メロン・梨・ブドウに憧れる結果になってしまった。日本にはリンゴ以外にも多くの果物があり、どれも総て品質が高い物ばかりだ。日本の農業は外国からの安い食品に押され気味ではあるが、この際中国の富裕層と駐在日系向けに輸出に目を向けるのも良いかもしれない。中国・台湾は日本に近いため鮮度も落ちずに輸出可能である事だし。

ただ、その結果日本では安い外国産、中国富裕層などでは品質が良く美味しい日本産の果物を食べる棲み分けになったとしたら、笑えぬ話になるとは思うが・・・

日韓相互意識調査アンケートの意味のなさ

「FNN(フジニュースネットワーク)と韓国のテレビ局、韓国文化放送(MBC)が日韓両国民を対象に実施した合同世論調査で、日本では韓国をパートナーとみる人が多いのに対し、韓国では日本をライバル視していることが分かった。(中略)
日本側の56・1%は韓国をパートナーだとし、ライバルとみているのは23・2%にとどまっている。これとは対照的に韓国側では、日本をパートナーとみる人は29・2%にすぎず、62・9%がライバルだとしている。(中略)
調査は、日本側では昨年十二月二十五、二十六の両日に成人男女二千人を対象に、また韓国側では同月二十二、二十三の両日、千人を対象にそれぞれ電話で実施した。」(産気新聞から抜粋

また意味のない調査を新聞社は行っている・・・

この調査は「今年は一九六五年の日韓国交正常化から四十周年にあたり、両国は相互理解を深めるため」、まずはお互いの国に対しての意識調査が目的だと思う。
それはそれで行う意味はあるのかもしれない。勿論、その意識調査の結果により何らかの対応の検討(例えば、文化交流として産経新聞社がイベントを企画する際の参考資料にするとか)が行われる事が前提だが。
ただ新聞の記事として載せるためだけに、この調査が行われたとしたら、それは全く無意味だろう。

以下に本調査の疑問点を記す。

・日韓とも有効回答は何件ずつであろうか。
・サンプリング方法はどの様な方式をとったのであろうか。世代と地域と性別など日韓は全く同じ母集団でのサンプリングを行ったのであろうか。例えば韓国側が若い世代、日本側が主婦(「冬のソナタ」ファン層)に偏る傾向がおきないように配慮する等。
・日本二千件、韓国一千件と違う理由は。
・日韓それぞれの電話アンケートの実施時間帯は。日中であれば社会人はアンケートに参加しないことになる。

電話でのアンケートを行う場合、RDDシステムによりランダムに電話をかけて、繋がった人にアンケートを行う。ただし、電話によるアンケートは断られる場合も多い。
また一般に緊急時を除き、電話でのアンケートは行わないのが通例となっている。何故なら、電話アンケートは信頼性が欠けるからだ。

それに、国毎に比較する場合、質問内容は当然として、サンプリングも両者全く同様にしなければ比較は出来ないはずである。今回の電話による日韓意識調査は、新聞記事だけを読めばひどい調査内容としか思えない。しかも、その内容で両国の比較を行っているのであるから、これは一体何を目的にしているのかと、逆に穿った見方をしてしまう。

もしこの調査に何らかの目的があり、アンケートの正当性を持たせるのであれば、記事においてもアンケートの仕方についてきちんと細かく内容を記載して欲しいと思う。

2005/01/04

「産経抄」の石井英夫氏に

20050104171db674.jpg35年間毎日「産経抄」を執筆されたコラムニスト石井英夫氏が昨年12月28日をもって他の方に交代した。「コラムには毒がなければならない」と語ったのは、石井さんだったのか、山本夏彦さんだったのか忘れてしまったが、石井さんも、コラムの師である山本さんにも、書くコラムには確かに毒があった。

最後の「産経抄」には密かに「毒」を盛ることを常としてきたとも言っていたので、少なくとも僕にとっては、石井さんの思うつぼだったのだろう。

「産経抄」は毎日の楽しみの1つだった。一時発言が過激であると、少し敬遠した時期もあったが、それでもやはり気になるコラムであり続けた。

新聞を選ぶとき、僕はコラムで選ぶ。コラムでの主張がその新聞の考えを端的に示していると思うからだ。そう言った意味では「産経抄」は、そのまま「産経新聞」の顔であり声でもあった。

「産経抄」で今年沸き上がった議論に「自己責任」があった。今年1月1日の産経新聞の特集に恒例の「産経抄で見る今年の一年」が掲載されていたが、その中でも「自己責任」のコラムが載り、石井さんは最後まで自説を変えてはいなかった。

「自己責任」に対する考え方もそうだが、その他の考えも僕とは違う点が多々あった。逆にだからこそ僕は「産経抄」を読み続けたのだと思っている。心地よく響くコラムはコラムではないと僕も思うからだ。

考えが違うと言っても、それでも石井さんのコラムには頷く時もあった。そして辛口といわれたコラムにも、石井さんの優しさがその中には沢山あった。
「人間の心と魂は別だと思う。江藤さんの心は「慶子夫人」の後を追って死んだが、魂は「昭和」に殉じて憤死した。」(1999年7月23日)
「江藤淳は形骸に過ぎず」の遺書を残して、亡き妻の後追い自殺をした江藤淳氏を偲んでの産経抄の一節。「心と魂は別だと思う。」のひと言が奥深い。未だに僕には、その違いがわからないが、石井さんには、江藤淳氏の二重の苦の内容が十分にわかっていたのだと思う。

石井さんのコラムでは「コブシ」の花の話題が毎年恒例だった。また山本夏彦氏の話題も時折でた。山本夏彦氏のコラムで以前に笑ってしまった一文で、「バカが100人集まれば100倍バカ」というのがある。石井さんの場合はそこまでは言わないが、確かに「文章の書き方」については山本夏彦氏の後継の印象を受ける。

石井さんがコラムニストとして常に心がけていたのが、「平易でない名文はない、難しい文章はつまり悪文なのである」だろう。それに続くコラムがある。
「平易で、しかも味のある文章はどうしたら書けるのか。これは天下の難題だが、実は折から山本夏彦氏の近著「完本文語文」が答えてくれる。『文はあまりすらすら読まれると忘れられる。所々むずかしい漢字をころがしてつまづいてもらう必要がある』。なるほどそれが骨子であるらしい。(中略)日本人はすでに文語文を捨て、いま口語文もおぼつかなくなった。滅びるべき言葉が滅びるのは仕方ないが、滅びなくてもいいのに滅んでゆく言い回しを山本さんは強く愛惜している」(2000年6月16日)
日本語の美しさに石井さんは求めていたようにも思う。それは気障な文章でなく、雑学を披露する事でもなく、あくまで内容は今の社会であり、そして誰もが同じように理解出来る平易さだったように思う。

「産経抄」の執筆をやめても、石井さんはたぶんコラムニストとして文筆活動は続けられると思うし、そうあって欲しいと願う。本当に今までご苦労様でした。そしてさらなる活動を期待しています。

最後の石井さんの「産経抄」を下記に残します。

***********************
ことしを象徴する漢字は『災』だったが、年が押し詰まったところで地球的な“大災”が発生した。スマトラ島沖巨大地震の大津波では、万を超える人びとが波にさらわれた。日本人ツアー客にも多数の犠牲者がでているという。

▼被害の広がりが気になるところだが、きょう二十八日は「仕事(御用)納め」。歳時記に「古筆も洗ひて御用納かな」(瓜青)の句がでていた。ところでもう一つ納めるものがある。小欄・産経抄も本日をもって筆者交代いたします。それが何と三十五年間も長居をしてしまっていた。

▼日ごろ愛唱する言葉に「花は愛惜(あいじゃく)に散る」と。道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のなかの詩句だが、ナニあの難解膨大な書物を読み通したのではない。教えられて聞きかじった言葉で、何事も惜しまれているうちに散れという戒めだったが、つい忘れていた。

▼某夜、酒席で作曲家の船村徹さんから「お前さんの産経抄には毒がある」といわれたことがある。「ただし毒にも薬にもならぬコラムはコラムじゃない」とも。それを聞いてにんまりした。なぜなら、ひそかに耳かき一ぱいほどの毒を盛ることを常としてきたからだった。

▼「戦争に大義は無用である」「(従軍)慰安婦は国家の下半身だった」「反戦平和ほどうさん臭いものはない」「学校教育に強制は不可欠である」「日の丸・君が代のどこが悪い?」などなどと。とにかく時流に逆らうことばかり書き続けてきた。

▼そういうへそ曲がりで時代遅れの小欄にとっては、年貢の納め時がきたというべきかもしれない。晩唐の詩人・杜牧の一節に「長空 碧(みどり)杳杳(ようよう)たり/万古 一飛鳥」と。担当は石井英夫でした。ありがとうございました。明日から小欄は新しい視点と切り口で再生いたします。

(2004年12月28日 産経抄から)

スマトラ沖地震 インド洋大津波関連MEMO

スマトラ沖地震 インド洋大津波関連のMEMOです。特にブログとして僕の意見はありません。

「死者・不明者十数万、被災者100万人という数字は人を圧倒して、その人命への想像力や他人の苦しみに共感する力すらマヒさせてしまう▲亡くなったひとりひとりにかけがえのない人生、愛、そして夢があったことを思えば、その万分の一も伝えられぬ言葉の無力ももどかしい。」(毎日新聞 余録から)

人は数の大きさに鈍感になってしまうのだろうか。余録の思いは僕の思いに近い。新潟県中越地震での被災者の苦しみは実感できた。そこには1人1人の顔があったし、失われた生活も想像できた。
しかしそれに較べ、インド洋大津波の場合は単なるデータとして数を受け取っている自分がいる。

以下に掲載しているのは、忘備禄としての新聞記事の抜粋です。記事の抜き取り掲載以外は何もありません。

「米地質調査所によると、M8.9の地震はスマトラ島西方で26日午前8時(日本時間午前10時)ごろ観測。震源の深さは約10キロ。その後も同島北方のインド洋アンダマン諸島などを震源とするM5?7級の地震が続発した。M8.9は1900年以降で5番目の強さ。最大は60年チリ地震のM9.5。」(産経新聞から)

後に米地質調査所はM9.0に訂正した。M9・0は一九〇〇年以来発生した世界の大地震の中でも四番目の強さ。しかし、問題は強さが何番かではなく、犠牲者と被災者の人の多さだろう。何故こんなにも多くの方が犠牲になられたのかを考える必要が、残された者達の1つの使命かもしれない。

ちなみに、「津波による死者が一万人を超えたのは世界の観測史上、三十メートル以上の大津波が日本の三陸海岸を襲い、約二万二千人の被害が出た一八九六(明治二十九)年の「明治三陸地震」以来。」(産気新聞から)

「28日付香港各紙によると、スマトラ沖地震で、日本でも人気になった映画「HERO(英雄)」などで知られる中国出身の映画俳優、李連傑(ジェット・リー)さんが足に軽傷を負った。」(産経新聞から)

有名人の場合、名前と顔が見える事により気持ちが入る。リーさんは危なかった。それと同時に、リーさんを通じて、津波の恐ろしさが伝わってくる。しかし、こういう事で感じるのは僕の感性の鈍さなのだろうか。

ロイター通信によると、米地質調査所は28日、スマトラ沖地震により海底プレートが最大で約30メートルずれ、スマトラ島近くの小さな島が移動したとの観測結果を明らかにした。

「ブッシュ米大統領は29日、スマトラ沖地震の大津波について初めてコメントし「自分の理解を超える損害だ。われわれはこの破壊を乗り越えていく」と述べ、被災国と連帯して救援・復興活動を進める決意を強調。日米、インド、オーストラリアの4カ国で救援・復興活動を調整する「コア(中核)グループ」を立ち上げる考えを表明、国際社会に参加、協力を呼び掛けた。」(産経新聞から)

米国だけでなく、多くの国々が支援と援助を行う旨の宣言があった。イギリス、ドイツなどの欧州諸国。中国、韓国のアジア諸国。政治を持ち込まないで支援と援助を行って欲しいと願う。ブッシュ米国大統領はインドネシア等のイスラム諸国での被害拡大に懸念を持っているとの報道もあった。

2005年の新年では各国が津波犠牲者に対し黙祷を捧げた。

「世界保健機関(WHO)のナバロ事務局長代表(危機対応担当)は1日、スマトラ沖地震による津波の被災地スリランカ、インドなどで「下痢など感染症例の報告が増えている」と述べ、感染症の進行が始まっていることを明らかにした。」(産気新聞から)

邦人犠牲者21人、行方不明11人

「ゾウが津波を事前察知、観光客の命救う?。スマトラ沖地震の津波が起きた昨年12月26日、被災地になったタイ南部の海岸にいた観光用のゾウが、津波の来襲する前に近くの丘に向け“疾走”、背中に乗せていた外国人観光客約10人の命を救っていたことが2日、分かった。」(産経新聞から)

当時その観光地には3800人の観光客がいたが、ゾウで助かった人の他は全員津波にのみ込まれたとのこと。ゾウが事前に危機を察知したのかは僕にはわからないが、この10名はこの体験を語り続けることだろう。

「村が次々と一瞬で消滅 アンダマン・ニコバル両諸島。
左手を骨折し、胸にも痛々しい傷が残る少年、シブクマル君(15)は、ニコバル諸島にあるカールニコバル島の海岸から約30メートル離れた自宅でちょうど目覚めたころ、津波に襲われた。遠くで強い風の吹くような音が聞こえ、高さ約6メートルはある巨大な波に押し流された。家の屋根などにぶつかって負傷。一緒にいた両親の行方は分からない。

 シブクマル君が入院する政府系病院には、流されて体中に傷を負ったり、下痢やマラリアを発症したりした乳児十数人も入院している。

 高熱と下痢に苦しむ1歳6カ月の男児をあやしていた母親、マハラクスミさん(25)は、アンダマン諸島南端の小アンダマン島で地震を感じた。誰かが「水が襲ってくる」と叫ぶ声を聞き、片手で男児を抱き、ほかの子供2人の手をつないで逃げた。

 カールニコバル島のカマルモーセス君(12)は海岸から約1キロ離れた自宅から逃げる途中、高さ約10メートルの津波に襲われた。津波が引くと同時に地面にたたきつけられ、左足を骨折した。恐怖を忘れられないのか不安そうにベッドに身を横たえていた。」(産経新聞より)

「スマトラ沖地震の津波による行方不明者を探す肉親らに、英政府をかたった偽の「死亡確認」通知の電子メールが相次ぎ送付され、ロンドン警視庁は1日、悪質ないたずらとして捜査を始めた。」(産経新聞から)

新潟県中越地震でも「おれおれ詐欺」があったが、日本だけではないようだ。何を目的にこのような事をするのか理解に苦しむ。

「会議はインドネシアのハッサン外相が「国際社会の人道的結束」に基づき東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、米国、中国、韓国などによる首脳会議の開催を呼び掛けた。政府は当初、町村信孝外相の派遣を検討したが、インドネシア側から小泉首相サイドに強い出席要請があり、深刻な被害状況などを考慮し首相自ら出席することにした。

 日本はタイ、インドネシア、スリランカ、モルディブの4カ国に国際緊急援助隊を派遣済みで、タイを除く3カ国への無償資金協力などの支援を進めている。会合では各国への財政支援措置や感染症の拡大防止の協力態勢などが話し合われる。未整備のインド洋での津波発生に対する早期警報システムの構築も議題になる見込みだ。(共同)」(産経新聞から)

「死者総数は14万5000人に インド洋大津波

 ロイター通信の3日までの集計によると、大津波を伴ったスマトラ沖地震による死者は、インド洋の沿岸各国で計14万4887人となった。最大の被災国は、震源に近いアチェ州のあるインドネシアで、犠牲者の6割以上を占めている。

 各国別の死者数は、インドネシア9万4081人、スリランカ3万196人、インド1万5160人、タイ5104人、マレーシア74人、モルディブ74人、ミャンマー59人、バングラデシュ2人、東アフリカ(ケニア、ソマリアなど)137人。(共同)」(産経新聞から)

「昨年12月26六日のスマトラ沖地震の津波で多くの村が被災したインド領アンダマン諸島で、津波の当日に生まれ、多くの人々の助けで生き延びた男児に、両親が「ツナミ」と名付けた。ロイター通信が伝えた。父は「この名前は誰もがすぐに覚え、忘れないだろう」と話した。」(産経新聞から)

医者から示唆されたらしく、両親とも気に入ったと記事にあった。

2005/01/03

ウィスキー マッカラン

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ウィスキーを飲むのは年に2-3回くらい。そのうちの一回は正月。みんなが集まり酒を飲む。ウィスキー購入は僕の担当で、昨年は「グレンモーレッジ」を持って行き評判が良かった。
今年は「マッカラン ディスティラーズチョイス」を持って行く。渋谷の酒屋に買いに行ったとき、マッカランの棚に「お知らせ」の紙が貼ってあった。
それによると、マッカランは在庫分がなくなれば、総てボトルも度数も変わるらしい。売り切れ必至とのこと。
実はまだマッカランは飲んだことがなく、噂では素晴らしいと聞いていた。この「お知らせ」を読み、これは一度飲んでみるべきと購入したが、これが噂通りに美味しかった。

「ハロッズの「ウイスキー読本」では「シングルモルトのロールスロイス」とまで讃えられている現代シングルモルトの最高峰です。」(サントリーから

「ザ・マッカラン ディスティラーズチョイス」は、他のマッカランがどちらかと言えば赤みがある琥珀色だが、それより色が少し薄い明るい琥珀色の酒で、シェリー樽で貯蔵熟成された事により、フルーティーな香りが心地よい。そしてとても飲みやすかった。

ウィスキーはそんなに飲まない僕でも、ゆっくりとだけど、何杯も飲んでしまった。
つまみは、意外にシーフードに合うと思った。あとで、「ディスティラーズチョイス(distíller's Choice)」とはマッカラン蒸留酒製造業者自身が選んで瓶詰めした、日本市場限定ウィスキーだとわかった。多分魚が好きな日本人の好みに合わせてチョイスしたのだろう。だからかと妙に納得してしまった。自分用に買っても良いかなと思わせるスコッチであると思う。

マッカランのサイトはここ

2005/01/01

雑文 「12」にまつわる事から干支に続く話

hououあけましておめでとうございます。

昔から妙に数字に対するこだわりがあった。特に僕が12月産まれと言うこともあり、「12」という数字にこだわりをもっていた。今の言葉を使えば「数オタク」と言うのかもしれない。以下に「12」に関するオタクとしての妄想を少し書く。
 

「12」を使っているものは意外に多い。思いつくまま列挙すると。
1年の月数、1日の時間数は12時間かける2、十干十二支、キリストの使徒は12人、十二単(ひとえ)、ローマ最古の法典は12表法、聖徳太子が作ったと言われる日本最古の冠位制度は冠位十二階、古代の日本政府が発行した銅銭の総称を皇朝十二銭、星座占いの元になったのは黄道十二宮、薬師如来を護るのが十二神将、仏教の教えである十二因縁、人の身体の中にも十二指腸がある。

何故人は「12」を多く使うのだろう?これらは総て偶然の産物なのかもしれない。でも僕はそうは考えていない。それぞれに何らかの繋がりがあるように思えて仕方がない。人には昔から特定の数を神聖な物として考えてきた。勿論これは総ての地域の人に当てはまる事ではないが、古代のある地域の人は「3」を最も神聖な数として扱った。理由は奇数は半分に割り切れず、必ず1余る。昔の人はその「1」に神が宿ると考えたらしい。「3」は「1」を除き奇数の中で最小の数である。そこから「3」が特別な数として扱われたらしい。「12」が「3」と同等の神聖さを古代の人が感じていたとは思えないが、特別な数字だと思っていたのではないかと、僕は思っている。

「12」の中で一番古いものはやはり「暦」としての12ヶ月だと思う。暦が最初に作られたのはメソポタミア文明の太陰暦となっている。太陰暦は月の満ち欠けを日付にあわせる暦なので、1ヶ月は30日となる。1年が何故12ヶ月なのかは、1年の長さを自然発生的に365日と知っていた事から、これも単純に30日で割ることで、そうなっていった様に思える。

1年を365日と自然にわかる事は、例えばエジプト文明を考えると理解しやすいように思う。エジプトではナイルの氾濫から次のナイルの氾濫まで日数を数えると約365日だった。農耕は暦と天文の知識を必要とする。つまり、ある日を特定する状況を定点と決め、次に全く同じ状況になる時までの日数を数えれば、自ずから1年の日数がわかる。

1年が12ヶ月であることが、「12」を意識した最初だったように思う。またこれも想像だが、1日を12に分けたのも、1年を12ヶ月で分けた事により、「時」のサイクルとして12に分ける考えが、そこに芽生えたからではないかと考えている。

ちなみに、メソポタミア文明では「60進数」が使われた。これは現在の1時間が60分であるとして今でも使われているが、「60」の理由はわからないが、僕は何故かそこにも「12」の影を見てしまっている。

話を「12」に戻すと、1年は繰り返しとしての1つのサイクルでもある。ある点から始まり、またその点に戻る運動は、1つのサークル(円)を作ることでもある。そのサークルを12分割する考えが、1年を12ヶ月に分割する事から始まった様に思えてくる。

例えば「黄道12宮」の事を言えば、最初に星座があったのでなく、12分割が最初にあって、あとから星座と関連つけられたのではと、僕は思っている。

「黄道12宮」は、春分点からはじまり、黄道にそって東まわりに、白羊宮(おひつじ座)、金牛宮(おうし座)、双子宮(ふたご座)、巨蟹宮(かに座)、獅子宮(しし座)、処女宮(おとめ座)、天秤宮(てんびん座)、天蠍宮(さそり座)、人馬宮(いて座)、魔羯宮(やぎ座)、宝瓶宮(みずがめ座)、双魚宮(うお座)と並んでいる。

「黄道12宮」は既に紀元前2000年頃にメソポタミア文明で作られたとなっている。12分割の考えは、メソポタミアを通じて世界中に広まった。ただし、ギリシャ、エジプト、そして中国と、伝わる場所によりシンボルは変わっていった。

中国にも12分割が伝わり十二支となっていく。十二支は十干十二支として、元々中国の思想としてあった陰陽五行説の十干と結びついた考えとなる。

十干と十二支はいわば「記号」としての文字の集まりとなっている。
十干は甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)。
十二支は子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)。

シンボルとして、上記の文字が選ばれた理由と、配列順の理由は不明らしい。十干と十二支は元来は別の物だった。十干は陰陽五行説からきている。十二支は、そもそも年月日時間と方位に関する事に使われていたらしい。そこからも、12分割が「時」を中心に使われていったのがわかる。

学生の頃、十二支と動物たち(十二支獣)の関係を調べたことがあった。図書館を使って探求する事はとても楽しかった。十二支の「記号」としての漢字と動物達は後から関係づけられている。その動物たちが選ばれた理由が知りたかった。調べていく内に、仏教の経典に12匹の動物が釈迦の教えを順番に受けた話を見つけた。

その経典によれば、12の島にそれぞれ一種類の動物が住んでいた。ある時釈迦の説法があるので、まずネズミの島からネズミたちが、次ぎに牛の島から牛たちが、と言う風に順番に別々に説法を聞きに行ったという。くしくも、その教典に書かれた動物と、説法を聞きに行った順番は十二支の順番と重なった。この教典を偶然に見つけたときは本当に嬉しかったが、今では十二支の動物たちが確定した後に書かれた教典の様に思っている。

実際は十二支に選ばれた十二支獣の理由もわかっていないそうである。ただ、一部の意見としては、「黄道十二宮」も多くの獣を使われていることから、12分割の考え方と同様に、十二支獣との関連性も指摘する声があるらしい。

薬師如来を護る「十二神将」の1人1人には十二支獣と関連づけられている。関連づけが元々なのか後なのかはわからないが、仏教が中国に伝来してからの後付が正しいのではないだろうか。ただ何故12人なのかの理由は、十二支と同じ理由に思える。その理由は、薬師如来を中心とした全方位の方角を十二神将は現しているように思えるからだ。そして、方角も中国では12分割されている。

繰り返すが、時を現すサークル(円)を12分割する考えがあると思う。サークル(円)は1つの完全な形を表しているとも言える。12はそこから「完全」「完成した1つの世界」を現す数字として、伝わっていった様に思う。方角の12分割が後から中国で含まれたのは、方角もサークルの1つと考えられたからだと思っている。

「12」という数字が、完全を表す数字と仮定するのなら、色々な事項が12分割されているのも、何となく見えてくる。例えば、仏教の十二因縁もその影響を受けているのかもしれない。さらに、キリストの12使徒も、実際に12人だったのかは別として、キリストの「完全」をイメージする事から12人必要だったのかもしれない。例えば薬師如来の十二神将の様に。

キリストの使徒が12人であることと、薬師如来の護衛が12人であることは、僕にとっては、そこから繋がってくる。キリストの場合13番目の男ユダは、その意味からすれば、「完全」を崩す男として象徴的な気さえする。

冒頭にも話したが、これらの意見は僕の想像の産物でしかない。今まで上記の内容中心に「数」にまつわる書籍を探してきたが、合致する内容のものには遭遇したことがない。

今年は干支で言えば酉年となる。総務省は2005年1月1日現在の推計人口を発表した。それによると、今年の干支である酉年生まれの年男・年女は計943万人(男性457万人、女性486万人)。 総人口(1億2759万人)に占める割合は7・4%との事。

昨年の漢字は「災」だった。今年は「災」に見舞われた多くの人が、不死鳥の鳥の如く「災」からあらたな姿で蘇って欲しいと強く願う。