2004/10/24

たわいのない夢話


僕は高校の頃、絵にも描けない美しさを文章で表現できないものだろうかと考えた事がある。でも「絵にも描けない美しさ」を文章で表現すると、やはり「絵にも描けない美しさ」にしかなり得なかった。それば僕の語彙不足の問題でもあったかもしれない。もしくは、日本語には絵の美しさ、それを見て感動する人の心を書き表す為の語彙が不足しているのかもしれない。当時の僕は、それを自分の語彙不足とは一切思えなかった。言葉の、つまりは日本語の限界だと思ったのだ。

その思いは無学故の不遜な思いだった様に今では思える。では、今は成長しあのころに書けなかった「絵にも描けない美しさ」を表現できるかと問われれば、諸手を挙げて降参するしかない。いまだに状況はあの頃と何も変わってはいない。

1998年米国制作の「シティ・オブ・エンジェル」は好きな映画の一つだ。元はドイツ映画だったのをハリウッドでリメイクした作品で、主演はメグライアンとニコラス・ケイジ、二人とも好きな俳優だ。
そ の映画の中では小道具としてヘミングウェイの小説が使われている。天使役のニコラスケイジはヘミングウェイの小説、特に食事の味についての記述を好んで読 む、天使には味覚というものがないので彼はそれを知りたいと思うのだ。知りたいと思うきっかけは、一人の人間の女性を愛し始める事だった。
ある時人間になりすました天使であるニコラスケイジはメグライアンに近づき、市場で一緒に洋なしを買う。そしてその洋なしをメグライアンに食べてもらい、味を表現してもらう。
その時のメグライアンのセリフが大好きだ。洋なしの味を香りを含めて見事にしかも簡潔に言い表していた。

その映画の影響もあってか、それからの僕は美味しいと感じた時に、言葉でその味を表現しようと試みている。勿論その表現は、よくある料理漫画の表現のよう な安易で意味不明な言葉であってはいけない。それらは誰もがわかる言葉で、簡潔に美しくなければならない。難しそうに思えるかもしれないが、それは意外に 表現できるものだ。

でも条件がある。それは本当に美味しいと感じ、その味に感動を覚えなければ書く事は難しいという事である。それを翻って考えると、「絵にも描けない美しさ」は、その場にいてその美しさに感動を覚えれば、人はその美しさを書けるのではないかと思う様になった。

ま た映画の話をすると、「コンタクト」という映画があった。出演はジュディ・フォスター。彼女は宇宙人とのコンタクトを調査し続けている天文学者である。あ る時、待ち望んでいた宇宙人とのコンタクトをすることが出来た。宇宙人から送られてきたのは、何かの転送装置の設計図だった。そこで、その図面を元に装置 は作られた。色々な事があり、搭乗者は彼女に決まる。そして彼女は宇宙の深淵と遙かに美しい姿をかいま見る。その時の彼女のセリフは印象的だった。「学者 でなく詩人を連れてくるべきだった」

僕は密かに思っている事がある。もし全てを現す事が可能な真理があったとして、 仮にその一言を書く事が出来れば、それを読んだ人は何の迷いも苦痛もなく自分の人生を全うする事が出来る。人が書くという行為は、描く歌うと同様に自然な 行為だと思うし、何故それらが自然なのかは、そこに生きると同義の意味が隠されているからだと思う。そしてそれらを表現し続ける事で、もしかしたら長い間 に(本当に長い時間をかけて)人は、その真理を表現できるようになるのかもしれない。勿論夢話に限りなく近い話だとは思うけど。

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