2004/10/12

知識は信念

「知識は正当化された真なる信念である。」

この言葉の意味を僕はしばらく実感が出来なかった。この言葉は野中郁次郎氏が知識の定義として最初に掲げ ている言葉である。まず「正当化」「真なる信念」の意味が問題だったし、これらが哲学的思索を通じての解釈であれば、まずもって僕がする事は難解な哲学辞 書を紐解く事から始まる事になる。その過程を考えてもうんざりするし、またその事がこの言葉に対し思考を停止させていた大きな要因の一つである事は間違い なかった。

でも最近ふとした事でこの言葉の意味を実感する事が出来た。それはささいな母との口論からであった。内容はさておいてお互いに閉口し たのが二人が話す事は、お互いに意味は通じ、理解し合い、かつ認め合っているけど、お互いに自分の言う事の方がより良いと信じている事だった。この信じて いる根拠はお互いの経験から現実に学んだ事から来ているので埒もなかった。だから、どちらか片方の話す内容に統一する事はお互いが出来なかった。たいした 内容ではないけど、その件に関してはお互いに正しい(自分が正当化した)信念を持っていたという事だ。

僕もそうだけど、多くの人は現実を見 て自分の信念を正当化すると思う。例えば、自分の家から東京に行く場合。まず乗り物を決め、ルートを決め、時間を決め、使う金額を決め、もしくはその人に 付帯するその他の様々な条件を考え決めると思う。そして決めた事を現状をみて正当化する。仮にその決定事項に意見を言われたら多分抵抗するだろう、それで も意見の相違がある時は人それぞれの考えだからと納得するしかない時もあるだろう。

こういう口喧嘩は世の中いくらでもある。そして、僕は母とのささいな口論を通じて「知識は正当化された真なる信念である」事を実感したのであった。

では、知識はお互いに歩み寄る事は出来ないのであろうか?勿論そんな事はない。日常ではいくらでもお互いの知識を持ち寄り、さらに新しい知識を創造してい る。例えば、AさんとBさんのお互いのカレーの作り方の雑談からお互いに新しい工夫を加える事はあると思う。2チャンネルで話題になり書籍にもなった「電 車男」も同様だと思う。母との口論で歩み寄りが出来なかったのは最終的には意地の張り合いになったせいだと思う。

つまり、異なる知識が歩み寄り新しい知識になるためには、当事者同士の深い信頼関係と会話、そして共通した目的に向う気持ちが大事だと思う。

色々な事に信念を強く持っている人は、逆に強いがゆえに新しい考えを受け入れる事が出来ない事が多いように思える。それは結果として良い場合もあると思うけど、その逆も多いような気がする。
また、「知識が新たな知識を作る」考えには一つの素朴な疑問もあるのは事実だ。それは、その伝播による積み重ねでは小進化しか産まれないのではないのだろうか?って事。

知識については仕事で考える事が多い。この分野は全く初めてなので、このBlogを使い自分の考えを整理していきたいと思う。何でも良いので何かありましたら宜しくお願いいたします。

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