鎌倉の萩の寺として有名な宝戒寺には秘仏として歓喜天がまつられている。秘仏なので勿論一般公開はされていない、というか住職でさえ見たことはない のでは?と言うほどの秘仏だ。その秘仏である歓喜天をどうしてもみたいと思った時があった。それで毎週休みの時に宝戒寺に参拝をしたが、やはりそれは叶わ ぬ夢だった。それでは写真でもとネットで調べるが、もとより秘仏なので写真の掲載も見つけることが出来なかった。(というか無かった)
しかし偶然にも図書館で僕はそれを見た。館外不出の相当に古い本で、その本には鎌倉の全仏像がモノクロ写真で掲載されていた。そしてその中に宝戒寺 の歓喜天があった。正直言って期待していた。何しろ、日本最古の木造歓喜天で、これまた唯一の重要文化財指定でもあるのだ。期待しない方が無理というもの だろう。
でもそのモノクロ写真に写されていたのは、当たり前かもしれないが普通の歓喜天だった・・・つまり象(ヒンドゥー教のガネーシャという偉い神様)が2体(勿論男女)立って抱き合っている姿をイメージして欲しい。
そもそも歓喜天に不動明王とか梵天とか四天王の風格を求めるのは無理な話かもしれない。そもそも、それらの神様?達とは違うし・・・
宝戒寺の歓喜天は室町時代に造られたとなっている。仏師はこの仏様をどの様な気持ちで造ったのだろうか、勿論真面目な気持ちで造ったのには間違いないけど、何故かそれを想像するだけでも楽しい。
歓喜天の事について、知りたい方は是非とも次のサイトを見て欲しいと思う。僕にはこのサイト以上の事を書くことは出来ません。とても面白いのでお奨めします。
・仏像ネット
・インド神様図鑑
上記サイトを見るのが面倒だと言う方に要約を書きます。
ある時、シバ(ヒンドゥー教の神様)の奥さんがお風呂で身体を洗っていたら、垢から男の子が生まれた。凄い美少年で奥さんは喜び、自分のお風呂の番 をさせた。そこに旦那であるシバが戻ってきた。シバは見知らぬ美少年が奥さんのお風呂の前に立っているのに驚き首をはねてしまう。奥さんはそれに怒り夫婦 喧嘩になる。シバは謝り、次ぎに来た生き物の首を付けて生き返らせる事にした。次ぎに来た生き物は、運の悪い象だった。それで頭が象になった。
その頭が象の神様の名前はガネーシャという。仏教ではガネーシャと呼ばれずに、悪玉のビナーヤカと呼ばれる。ヒンドゥー教の神様を悪者にしてから仏教帰依 させる、布教の手法だ。ビナーヤカは悪行の限りを尽くす。そもそも複雑な精神の持ち主であるシバの子供だから、ビナーヤカも癖が強く性格も悪かった。それ を見かねた観音がビナーヤカに言う。
「SEXさせてあげるから、仏教に帰依しなさい」
ビナーヤカは元々好き者だから、返事は即「OK」。観音は女のビナーヤカ(つまり象です)に変身してSEXする。その時ビナーヤカは大歓喜を得る。それが歓喜天となる。
ちなみに、ビナーヤカは悪い男と書いたけど、それは仏教徒から見たときの話で、立場を変えれば強い神様だから守ってくれる力も強く良い神様となる。でも歓喜天の話だから、あくまで仏教の視点から書いた。
もう一つ思うことは、SEXと言っても現代でイメージする内容と神話でのイメージする内容は少し違うような気がする。神話(日本も含めて)でのSEXは産み出す事に何か神秘的な力をそこに見ていたように思える。
話を戻すと、歓喜天の「歓喜」とはSEXでの快楽(口で表現できないほどの、もの凄い快楽)の事だ。ついでにいうと「快楽」は(けらく)と読む。 「快楽」という言葉は、元々は仏教用語だっと思う。現在の「快楽(けらく)」の意味は「安楽」と言う意味で、つまりは煩悩から解放された状態の気持ちよさ を現している。
でも根拠はない僕の直感だけど、元々はSEX自体の喜びに快楽(けらく)としての悟りを見たのではないのだろうかと思う。仏教学者は言う、SEXは 年をとると出来なくなると・・・いつの時代の話をしているのだと僕は思う、寿命が延びたのはつい最近で、それまでの平均寿命は50才にもいってなかった。 つまり多くの男女は十分に死ぬまでSEXでの喜びを味わうことが出来たのではないかと想像する。
でも、ビナーヤカが得た大歓喜はとうてい人間では得られることが出来ないSEXの快楽だったのではなかったかとも思える。その快楽には悟りに通じる大歓喜があった。だからこそ、ビナーヤカと観音のSEXは1回で十分だったのかもしれない。
でも人間の場合はそうはいかない。快楽を求めると、そこには前の行為に飽き足らない人間の姿が見える。そして求め続ける姿には確かに煩悩に囚われる人の姿がそこにはあるような気がする。それは別に悪いことだとは思わないけど。
もともと仏教はヒンドゥー教の土地で産まれた宗教だから、その背景にヒンドゥー教の世界を包含していると考える。例えば輪廻とか解脱の考え方がそうだ。
ヒンドゥー教は一神教でもあり多神教でもあり、それを論理的に解決している宗教でもある。ヒンドゥー教で重要なシバ神は父娘相姦をしようとした父ブラフ マー(なんと仏教でいう梵天)を殺し、それが理由で修行の旅に出る。自らをリンガ(男根)と名乗り、インドでは男根の姿で崇拝されている。
男根には日本でも昔から魔を払う力があるとされてきた。伊勢神宮には昔男性の神様がいらしたが、女性の神様が来たのでその場所を明け渡し、自分は近 くの場所に移り住んだ。男性の神様の名前を「猿田彦」という。猿田彦は巨大な鼻を持ち、天孫降臨の際に道案内をした元々の土地の神様だった。巨大な鼻はす なわち男根を現す。
男根は強い力を持ち、魔を払うが女性自身には負けてしまう。天孫降臨で天照大神に伊勢神宮を譲ったとはいえ、女性の神様である天照大神に譲った事が何とも興味深い。
猿田彦の鼻はその後、道祖神として各地に散らばっていく。その後、地蔵信仰の隆盛と共に、道祖神はお地蔵様に姿を変える。でも形が変わっただけで、中身が 変わるわけではないと思う。勿論、亡くなった子供の死出の旅を案内する役目の地蔵信仰から作られたお地蔵様もとても多いのは事実だけど。
また、「古事記」での日本誕生の時、柱を男女二人の神様が回り、出会ったところでSEXをし子供として日本の島を産み落とすが、この柱も男根崇拝の現れだと思うのは考えすぎだろうか?
地面につき出すように立つ柱のイメージがその様に思える。その柱は、以後形をかえて、床柱、大黒柱、五重塔の心柱となっていく。床柱も大黒柱も日本の建築 において構造上必要な柱と思うが、僕はその立場で言ってはいない。柱に対する心理面からの立場で、背景に男根信仰が隠されいるように感じるのだ。
特に五重塔の心柱は、周りの建物と一切接続されていない。つまり心柱を覆い隠す為に五重塔の建築がなされた感じを受ける。書籍「五重塔はなぜ倒れな いのか」では心柱が構造上地震対策において重要な役目を果たしていることが明らかにされている。でもインド・中国の塔には心柱は存在しない。韓国では柱が 一本立っているだけである。僕には心柱は、古事記にでてくる柱と密接な関係があると思う。元々ある土地の男根崇拝と仏教の塔が合わさったのではないかと感 じる。法隆寺の心柱は掘っ立て式と呼ばれ、地面に柱を突き立てているが、江戸時代に建造された塔になると、心柱は五重塔の内部で吊られる形になる。その方 が木材の伸縮を考慮した場合有効だそうだ。でも何故か、前記のように考えている僕にとっては切り取られた男根をイメージしてしまう。
話がどんどんと脱線してしまう・・・これも僕の悪い癖だと思う。
僕は何を言いたいのか・・・つまりヒンドゥー教も仏教も日本の神教も、もともと性に関しては人間の自然な行為として、そこから逃げることなく、かつ大らかに解釈していたように思える。それが歓喜天のそもそもの誕生の理由のように思える。
無知な奴が何を言っていると思う方も非常に多いことだと思う。でもそう思う。
それが変わっていった理由として、仏教を国の統治する手段として導入した背景がそこにあると思う。または儒教の影響もあるかもしれないが、それも国 を統治する為の教えと言えば同一線上にある話だと思う。仏教が国を統治する手段として利用される際に、仏教のあり方が変質していくのは当然のことだと思 う。そして、それが歓喜天を秘仏になっていった理由のような気がする。
自分の事を言うと、氾濫する性の情報に対して、時折嫌悪感を持つことが多い。でもその嫌悪感が、人として本来持っている所から来るのか、後天的に作 られた所から来るのか、正直言って自分でもわからない。でも、宝戒寺の歓喜天の姿を求めて彷徨った僕は、その歓喜天が秘仏であることに安心した気持ちを 持ったのは事実である。そして、図書館で出会った歓喜天のモノクロ写真を見る時のドキドキ感と見終わったときの気持ちは、多分(一度も行ったことがないの で本当は何とも言えないけど)、どこかの秘宝館に入り出てきたときの気持ちに近いのではと想像したりもしている。
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