テレビ朝日系の人気アニメ「ドラえもん」で四半世紀にわたってドラえもんの声優を務めてきた大山のぶ代さんら主な声の出演者5人が来春、降板し、若手と交代することが21日明らかになった。(日本経済新聞から)
「ドラえもん」は大山のぶ代さんと言うくらい他の方は考えられない。既に25年もドラえもんの声をやられていたのかと思うと、ご苦労も多かったこと だと思う。ご苦労様と同時に思うことは後続の若手の方の大変さだ。イメージが固定されているので初めは色々と言われるとは思うけど、新たな「ドラえもん」 を創造する気持ちで、楽しく面白い番組を造っていって欲しいと思う。ちなみに、今度降板する5人の出演者とは、ドラえもん、のび太君、しずかちゃん、スネ 夫、ジャイアンの主要メンバー全員となる。
日本で多くの人から愛されている「ドラえもん」は「サザエさん」と並ぶ国民的漫画と言っても良いと思うが、米国ではいっさい放映されていないのは有名な話。
「自助努力」と「進歩」という米国的二大価値観から見れば、米国では子供に悪影響を与える漫画となるらしい。理由は主人公の「のび太君」が自助努力を行わ ず「ドラえもん」に助けられ、その結果「のび太君」は40巻以上の大長編にも関わらず一向に成長しないからだと言う。つまり「自助努力」しないで「進 歩」(成長)もしない姿を自分の子供には見せたくないと言う親の気持ちだ。しかも同じ展開が続く「マンネリズム」もある。
日本でも一時「ドラえもん」批判をする方もいたように思える。内容は概ね米国での評価内容と変わらなかったように思えた。それぞれの考えだから、別 に良いと思う。僕はこの場で「ドラえもん」批判をするつもりはまったくない。この日本で長期間支持を受けている漫画が米国で受け入れられない理由は、米国 と日本の文化的差異によるものだと考えているので、それを明らかにする方が僕にとっては面白いと思うのだ。しかし実際の所、僕が行うにはいろいろな面で能 力不足だ。だから以下に書く事は単なる個人的な感想に過ぎない。
確かに「自助努力」と「進歩」は大事なことだと思う。でも僕はそう言う目で「ドラえもん」を見ていなかった様に思う。逆に米国の評価から、ああ色々 な見方があるんだなぁと思ったのが本当のところだ。ではどんな風に「のび太君」を見ていたのかと言うと、「のび太君」の「優しさ」であり「友達思い」であ り「みんなが幸せになるように問題を何とか解決したいという気持ち」であり、それを叶える「行動力」だった。勉強も運動も苦手な普通の男の子で、米国の漫 画に出てくるヒーローではないけど、最終的には「のび太君」の優しさに強さを見ていたように思う。
「のび太君」は困った事があると「ドラえもん」に頼るとあるが、正確には頼るのは「ドラえもん」が持っている「道具」である。「ドラえもん」が差し 出す「道具」は単なる「道具」でしかない。人が目的を達成する為に、誰でもそこにある「道具」を使うと思う。「ドラえもん」が出す「道具」は現在我々が 使っている「道具」と本質的に同じ意味でしかないのだと思う。時折「のび太君」はその便利な「道具」の使い方を誤り、自分の身に降りかかり痛い目にあうこ ともある。それも僕の周りにある「道具」と何ら変わらない。考えてみれば、100年前の日本では考えられない夢のような「道具」を現在の僕は使っている。 100年前の人達が僕を見た時に「自助努力」が足りないと思うのだろうか。
「のび太君」が頼るのは「ドラえもん」の「道具」であると上記では書いたが、一番重要で大切なのは、友達としての「ドラえもん」とその仲間たちだ。 困難に向かう時に「道具」は重要だが、それ以前に気持ちがもっとも大切だと思う。そして傍には同じ気持ちの仲間がいる。それを頼ると僕の感覚では言わな い。
さらに書くと、「ドラえもん」の漫画の世界には不安はない、そこには信頼がある。そして競争もない、お互いの能力の違いを認め合っている。勿論主要キャラ クター全員天使のような清らかな存在ではない、欠点も多く持ち合わせている。そして米国のヒーロー漫画のような特別な能力を持っているわけでもない。
米国の映画は概ね「自助努力」による「成長(進歩)」物語で、最終的には「成功」というハッピーエンドで終わる。その姿はアメリカンドリームそのも のだと思う。つまり「自助努力」をして、その過程で「成長」する者は「成功」しなければならない。逆に成功した者は、それらの事を経て来た者達である、と 言うことになる。しかも米国では「自助努力」はこういう事だ、「進歩」とはこういうものだ、の強い認識を持っているように思えて仕方がない。パターンに反 するものは一切受け付けない、そんな印象も受ける。米国映画の功罪はその様なパターンを繰り返し他国の人達に刻み込んでいったことのように思える。
勿論誰でも大人になる過程で、努力をするし、色々な人との関わりにより様々な事を学んでいく。それらは何処の国の人達も同様だと思う。それらは当た り前の事だから、だれもあえてその事について声を大にして言うことはなかった。日本でも同様だと思う。それにそれらが全て結果として「成功」に結びつかな い事も知っている。
僕は冒頭に「自助努力」と「進歩」は大事な事だと思うと書いた。でもその価値だけで人に過当な要求するとなれば、それは非常に厳しい社会になるよう に思える。何の為に自助努力するのだろうか、それは勿論幸せになるためだろう。しかし、自助努力の目的が「勝つ事」であれば、当然に勝つための対象が必要 になってくる。それが自分自信であれば良いと思うが、他者であればそこに競争が生まれる事になる。競争により切磋琢磨としてよりよい状況をつくる方向であ ればよいと思う。でもその場合は根底に人に対する信頼が必要な気がする。また過当な競争は人に不安感を与えるように思う。不安は相互不信感に繋がって行く ように感じる。さらに勝ち負けが人生における重要な価値観になり、人生を「勝ち組」「負け組」の双方でみる結果になるように思える。
僕には「自助努力」と「進歩」で「成功」するイメージのアメリカンドリームの背景には、インディアンを駆逐(開拓という自助努力)し領土を広げてい き(進歩)富を手中(成功)にしたアメリカの姿がそこにあるように思えて仕方がない。そして「ドラえもん」は考えとしてその対極にある漫画だと思うのだ。 勿論これは僕の勝手な推測に過ぎない話ではあるけど。
マンネリズムは日本でもあまり良い言葉として使われていない。でもどういうわけか、日本のテレビで高視聴率を誇る番組の多くはマンネリズムと思われる番組が多い。例えば、「ドラえもん」「サザエさん」「水戸黄門」「大岡越前」「渡る世間は鬼ばかり」等々。
「マンネリズムのすすめ」と言う本がある。著者である丘沢静也さんは次のように語っている。
「競争社会に毒されているからですよ。差異とか新しさとかがないと、生き残れないとみんな思っている。他人を一歩でも出し抜こうとする社会では、マンネリズムは歓迎されない」
そして彼の著書では「一流でなくてはならない」「完全な選択をしなくてはならない」「友だちがいなくては人生をやっていけない」……そんな思い込みが、人生をいかに苦しいものにするか切々と説いている。
僕は思うのだけど、「ドラえもん」の世界と、マンネリズムの世界の両方とも日本人は好きなのではないのだろうか。しかし、日本はアメリカ流グローバ ル世界に組み込まれ、アメリカの価値観に縛られてもいる。その中でプライベートな時間にこれらの番組を見ることで安心することが出来る。逆に言えば、日本 人にあった文化がそこにはある様に思える。それは、過当な利益追求からくる競争とそこから芽生える相互不信感の世界でなく、相互依存の共生からくる信頼関 係の世界のような気がする。そしてそれはまさしく「ドラえもん」の世界だと思う。
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