Coccoのアルバム3枚目から聞き始めた僕は遅れてきたファンと言っても良いと思う。
でも遅れた分だけ、人より「はまる」のも強かった感じがする。それこそ四六時中聞き続けた。そのころの僕は大袈裟でなくCoccoの曲しか聴いていなかっ た。実は正直言うとCoccoのアルバムは1枚目から買っていた。でもさわりだけ聞いて、僕の趣味に合わないと、全て聞くことなくラックの中に放り込んで いた。そのころの僕は、どういうわけかニール・ヤングにはまっていた。そして彼の初期の音楽から購入、もしくはレンタルして聞き続けていた。誰でもそうか もしれないが、僕も一度聞いた音楽に少しでも心が揺さぶられないと聞き続けることが出来ない。でも心はとてもやっかいで、すぐに変わるものだ。誰かが猿の 喉のごとし、と言っていたけど本当にそうだと思う。多分、初めてCoccoの曲を聴いた時、僕の心の状態では受け付けることが出来なかったのだろう。今と なっては、その時の気持ちは想像する事もできないけど。
Coccoはそれから、突然の活動中止宣言、そして沖縄に戻っていく。戻ってからのCoccoの消息は、しばらくの間知ることが出来なかった。その 中でも僕は歌を聴き続けながらCoccoの事を考えていた。僕は歌うことが好きな彼女は、歌をやめることが出来ないと思っていた。いずれCoccoの歌に 再会できると信じていたし、彼女の詞にあるせっぱ詰まった感じが、沖縄に戻る事でどの様に変化していくのか想像もしていた。次第にそれは、僕の中である程 度固まって行ったように思える。僕にとって、そこには大きな変化がなくてはいけなかった。そう言う気持ちで、今回届いた彼女の新曲を聴いた。
でも久しぶりに聞く彼女の歌は、僕が想像していたのとは違っていた。Coccoは当たり前だけどCoccoであった。逆にそれは僕にとっては大きな 驚きでもあった。だから以前のCoccoのままの歌が、逆に新鮮に聞こえたのだった。今回の2曲の詞は多少穏やかになった印象は受けるけど、やはりそれは Coccoの延長線上での穏やかさだと思った。
Coccoは多分聴く側の事は考えていないと思う。あくまで自分のイメージを追い求めているように感じる。そしてそれがCoccoがCoccoであ り続けた1つの理由であったように思える。多分彼女は未だに彼女の中の「沖縄」を追い求めているに違いないと感じた。現実の沖縄と彼女の中の「沖縄」との ギャップは、そんなに簡単に埋まることではなかったという事なのかもしれない。逆に言えばCoccoはCoccoのまま進化していくのだと思った。そして それは僕にとって、とても嬉しい事であることは間違いない。
Coccoの活動中止宣言は今から考えると、ファンである僕の立場からみても正しかったと思っている。これは想像だけど、あのまま彼女の「嫌い」な「本土」にいたら、僕は今回Coccoのままの曲を聴くことが出来なかったと思う。
沖縄に戻ったCoccoは絵本制作と沖縄の浜辺のゴミを無くす運動を繰り広げたりと行動の幅を広げてきた。またタワーレコード日本25周年記念として、く るりのプロデュースで新譜が出ることが決まっている。沖縄を活動の中心にCoccoの歌が少しずつ聴くことが出来る様になってきたと思う。この「思う」に は、そうなって欲しいという願いが、だいぶ入っているのは確かだけど・・・。
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