2004/11/21

「サービスを科学できるか」の記事を読んで

CNETジャパンに面白い記事が載っていた。面白いのは、詳細不明の内容なので読み手次第でいかようにも変化する話だと思うからだ。

まず記事では討論会の趣旨が不明だったが、IBMの研究施設に様々な研究者と企業幹部が集まり、サービスに関する幾つかのテーマで討論したらしい。その中で記事には2つの話題が載っていた。

一つめは、技術革新がいかにして優良なサービスを台無しにするかという話題。
この話題は以前からあった「局所最適化の全体不経済」の話だと思うが違うのだろうか。それを改めてIBMが主催する討論会で話題になるのは、何か今までとは違う提案でも為されるのでは、と少し期待して読むと例を1つあげただけで、話題はすぐに切り替わった。

あれれ・・・・・

次の話題は本記事のタイトルにもなっている「サービスに関する研究を「科学」とみるかどうか」だった。その記事には続けて、参加者がこの研究を 「サービスエンジニアリング」と呼ぶべきと提案し、別の研究者は今まで技術を使ってサービスの向上をはかっていたが人間自信の役割について理解をすべきだ と論じ、「一番難しいのは、人間を理解する事だと思う」で終わっている。

いやはや・・・・

この記事のライターにスキルが無いのか、本当に討論会がこのような内容だったのか、それとも僕がこの記事を理解するだけの知識をもっていないのか、読み終えてからしばらく考えてしまった。多分上記の3つとも言えることなのかもしれない。

「サービスを科学できるか」の質問には、「サービス」定義の共有理解と、その研究範囲を定める必要があるし、「科学」とは一体何を指すのかも不明瞭だ。
それに、今まで多くのサービスは広義の「科学」を直接・間接的に利用してきたのではないのだろうか。例えばフードサービスにおける開発は人の「味覚」に対する基礎研究が不可欠だろうし、携帯・家電製品などは認知科学より操作の仕方を決めてきている。
もしかすると、これは僕の想像だけど「科学」とは「脳科学」の事で、そこで研究した成果を、一般理論定義した「サービス」に適用する事の研究なのかもしれない。だとすると、その成果は個人的には興味がある。

ビジネスの流れを非常に大雑把に捉えると、当初地域社会の中で共同生活の1つの役割としてあり、自ずから生産される物は地域社会に生活する人にあわ せて作られていた。それが産業革命以後大量生産時代に入り対象とする顧客は集団として捉えれて、顧客が製品にあわせる事となった。IT時代になると、ネッ トを利用して個人の好みを蓄積し、売り方としては個人に対応する方向となり、製品に関しては少量多品種で対応するようになっていった様に思える。でもそれ らの流れもここに来て閉塞状態になりつつあるように思う。次の方向が見えなくなってきている様に思えるのだ。その状況下で、「人間」の「科学的」理解を 「サービス」に適用する事に、次の道を求めようとする気持ちは理解は出来る。

ただ、その方向は個々の企業が提示する結果、利用者の周囲に氾濫する同一機能の製品群を整理統合する事につながれば嬉しいと思っている。
(携帯電話にいくら機能が付いても、それらが不十分であれば、結局人は同一機能であるデジタルカメラ、携帯音楽プレイヤー、パソコンを持って行くことにな ると思う。その結果、ユーザの周りには同一機能製品ばかりになってしまう。せめて、充電器くらいは統一規格品にまとめてくれるだけでも嬉しい。)

ただ、この討論会は記事だけを見る限りにおいて、僕の想像を裏付ける内容は何もなかった。だから、その空白部分を補うために色々と空想し、それが僕にとってこの記事の面白さになっていったのだと思う。

一般的に言えば、こういう討論会を行う理由は3つあると思う。

1.討論することで新たな方向性を提示する本来の目的。
2.企業がこういう事を考えて行動しているという広告宣伝的なパフォーマンス。
3.討論会にユーザを加え議論することによる顧客の囲い込み。

この討論会がマスコミに対するパフォーマンスだけで終わって欲しくないと願う。

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