2004/11/30

Firefox1.0への移行


実は昨日、いつも使っているMSIEからFirefoxに切り替えようと試みた。

FirefoxもOperaも 以前からダウンロードはしていたので、いずれはメインに使いたいと思っていた。でも使えない理由は色々とあった。一番大きな理由は参照するサイトのデザイ ンが変わってしまうことだった。これは後から逆にMSIE側が特殊であることを知った。でもシェアの割合から、僕が参照する各サイトが概ねMSIE準拠に なっている以上、MSIEを変える事が出来なかった。それにMSIEが動作が重く、機能面で不足を感じようと、それなりに使うことが出来る。

でも実際にFirefoxを使うと、その動作の早いこと、タブブラウザーの便利さ等から使い続けたい気持ちがおこる。さらに最近頻繁にニュースとなるMSIEのセキュリティ上の脆弱性が、その気持ちを後押しする。

で もセキュリティに関しての意識が薄いと言われればそれまでのことだけど、ニュースで脆弱性を指摘されても、個人で使う場合「それが何?」と思ってしまうの も事実。過度にPCに導入しているウィルスチェックを信じているわけでもないけど、とりあえずインストールしているし、Windowsもアップデートは常 に最新にしている。
色々と言ったけど、結局の所、僕がFirefoxを使いたい気持ちは、ただ単に自分が新しい物好きであるのが一番の理由だと思う。

で は、早々に切り替えればと思うだろうけど、それがなかなか面倒なのだ。例えばこのブログをMSIEで参照するのと、Firefoxで参照するのとでは見栄 えが全く違う。MSIEに準拠(勿論当人は全くその事は意識していない。結果的にそうなっただけのこと)しているせいか、明らかにMSIEの方が見栄えが 良い。
だから、FirefoxとかOperaでも同様に見えるようにCSSを直さなくてはいけない。
またFirefoxではLOVELOGの編集機能を使うことが出来ない。これは「ひげの塩焼き」さんのブログで提供しいてるツールで解消は可能だけど。使い勝手が変わるのは事実。
つまり、簡単にブラウザーを切り替えるだけでなく、それなりに対応するための時間が必要と言うことなのだ。ただ単に新しいものを使ってみたいという動機だけでは、その手間のハードルは思った以上に高い。

そう思っていたらCNETで「フィンランド政府、IEの使用中止を勧告--MSのBofra対策急がれる」の記事を見つけた。これもFirefoxへの移行の後押しになるかと思い読んでみた。でも読んでみると思いは別の方に流れていってしまった。

「Bofra ワーム」は、MSIEのIFRAMEの脆弱性からバナー広告にいれられてヨーロッパ各地で猛威をふるっているウィルスだ。このバナー広告からサイトに入る とウィルスがPCにダウンロードされることになる。WindowsXPのSP2では影響を受けないとされているが、SP2への移行に躊躇する人も多いの で、結果的に瞬く間に広まってしまった。
イギリス政府は、MSIEから別のブラウザーに変更するか、SP2へのパッチを当てるかを行うようにと言っているらしい。
でもフィンランドの場合は選択肢としてSP2のパッチはなく、MSIEから別のブラウザーに移行しなさいと推奨している。

これらの事実は、僕の少ない知識でも以下のことが想像できる話だと思う。
・ウィルスの猛威はその国の国益に無視できないほど反する。
・フィンランドはOperaの製造元の国「ノルウェイ」と同じ経済圏であること。
・ヨーロッパ全体が米国のMS離れを指向している。

つ まり、ひとたびウィルスがでると、そのウィルスは情報を集めようとする円の中心に向かっていこうとする。その円の中心は、情報を集中管理しようとする側 (政府とか)なので、政府はウィルスに過敏に反応する。しかも、MSに依存する事は情報管理技術の一端を米国に依存することでもあるので、なるべくMSか ら離れていきたい。欧州にはOperaの様な優れたブラウザーもある。その結果、フィンランドのような対応が出てくる。表層だけ捉えると、僕はそんな印象 をもってしまったというわけだ。

ウィルスが誰が造り、何の目的で広めようとするのかについて、最近のニュースではあまり伝わらない。愉快犯が殆どだと思うが、中には政治的な意図を感じてしまうウィルスもあるのは事実。

話 を僕の方に戻すが、今のところFirefoxへの移行を視野において少ずつCSSを変更していくことにした。フィンランドのニュースも今のところ興味本位 の「ネタ」レベルでしか見ることが出来ない自分を感じてしまった。これって、後々手痛い「しっぺ」を食らうことになるのだろうか・・・・

2004/11/29

お客様が満足する・・・という口上

少し前に郵政公社とヤマト運輸のローソン争奪に伴う問題があった。この問題はヤマトの提訴として今でも続いているが、郵政公社がローソンとの宅配契 約初日に各TVで模様を放送していた。その時に郵政公社もヤマト運輸の実担当者が異口同音に同じ事を話していた。それは「サービスの品質を高め・・・お客 様が満足する・・・」という、今ではどの企業でも必ず前口上として枕詞化しているあの言葉だった。僕にとっては少し聞き飽きている言葉でもあるのだ が・・・

ビジネスで顧客満足の向上を常に図らないと、企業経営に影響が出ることは昔から誰でも知っている。しかし、ここ10年くらい前からそれが企業からの 声として出るようになった。それは勿論、不透明で先が見えないビジネスシーンの中で、顧客ロイヤリティを高める事で、優良固定客を確保する事が重要との認 識だからだが、きっかけとなったのは、ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズ共著の「ワンツーワン・マーケティング」の出版からではないかと思っている。1 対1のビジネスは勿論昔からあったが、それは地域社会の中でお互いが知人同士の状況下だけだったし、もしくは対面販売の場合でも一人一人の顧客の好みまで は知る事もなかった。この書で新しい考えとしては、1.顧客シェアの拡大 2.顧客ロイヤルティの向上である。簡単に言えばその企業に忠誠心を持つ顧客を 増やし、その顧客から出来るだけお金を取ろうという作戦となる。

以前からあるマス・マーケティングの場合は、市場シェアを重視していて、その中身である顧客1人1人の事はそれほど重要視していなかった。「ワン ツーワン・マーケティング」は従来と同じ市場を相手にし、しかも個々の顧客に対応して行くことであり、つまりIT技術を背景にしなければ成り立たないこと でもある。

この「ワンツーワン・マーケティング」から、色々な考えが浮上し、またIT技術とより具体的に結びつきシステム化されていった。主なものを幾つかあ げると、顧客ロイヤリティ向上の考えから「ブランド化」の手法、人の噂などを利用する手法、人の同意を求め好みの分野のDMなどを送る考え、eメールと Webの利用、お客様の対応窓口としてのコールセンターの増強、お客様の1人1人の履歴とそこから好みを分析する手法、等々とあげればきりがないほどであ る。これらの状況はいまだに続いていると思っても良いかもしれない。逆に言えば、これからの新しい仕方が見えていないと言うことでもある。強いて1つ言う と、環境問題からの考えがあるくらいかもしれない。

これらの仕方は高度にシステム化され、さらに企業においては売り場担当から経営層までマニュアル化された中で、お客に対応していると言っても過言で はないと思う。ブランドを持っている所は特に売り場の教育と徹底したマニュアル教育は行われているはずだ。そう、それはあたかも、マクドナルドの様に。

つまり、僕等は10年くらい前から、「サービスの品質を高め・・・お客様が満足する・・・」の口上を聞き続けていることになる。僕が聞き飽きたとい うのも理解して頂けるかと思うのだが、どうだろう。でも、今回のヤマト運輸と郵政公社の同一口上で1つ気になったことがあった。つまり「サービスの品質を 高め」とは一体なんだろう?「お客様が満足する」とは一体どういう事なのだろう?という素朴な疑問である。

あまりにもこれらの言葉は口上となりすぎていて形骸化しているように思われたのだ。
さらに言えば、業界毎に自分たちの仕事に対するポリシーの問題だと思うので、ポリシーがしっかりと末端まで浸透していれば、こういう口上も違った言葉になって現れると思う。

最初に僕の意見を言えば、「サービスの品質が高いか」を決めるのは顧客である僕等であり、企業側ではないと思う。企業はその為に多くのリサーチを繰 り広げ「概ね」こうではないだろうかと「推測」するしかない。その推測はリサーチ自体の検証によって成否が決まる事になるが、当たらないことも多いのでな いだろうか。

利用者である僕等が「サービス品質が高い」と思う場合、常に期待以上の成果があった場合だと思う。ほぼ期待通りであるのなら、そのサービスに対し何も感じない。それに、お客に対し気持ちよい環境を作る事は現代に置いては当たり前のこと。

今回の宅配便サービスで顧客が業者に望む最低限の期待は、正確にトラブルなく安価に送り届ける事である。期待以上としては、顧客窓口での素早い対 応。途中経過がネットか携帯などで参照可能。トラブル時の速やかな対応等々が必要になるってくるのでないだろうか。ただ、多くの宅配業者はこれらは既に 行っている事でもあると思う。つまりは、これらも現状では期待値の中に入っているのかもしれない。

今回の場合、TVでは郵政公社のある郵便局で、挨拶の訓練を行っている場面があった。それに郵政公社ではサービスのランク付けを行い、そのランクが 高い人しか宅配便の配達が出来ないそうである。正直言うと、その場面を見て、本来サービス業であるはずの郵便業務で一体今まで何をしてきたのだろうかと 思ってしまった。彼らには100年以上のサービスの実績があるはずなのにと思ってしまったのだ。確かに郵便物の場合、顧客に対面することなく当ては郵便ポ ストまでだったので経験がないといえばそれまでのことだが・・・。でもいまから初めて本当に大丈夫なのだろうか?
その点、ヤマト運輸の方は余裕さえ感じた。既にヤマト運輸の方はマニュアルを含め標準化されているのだろう。

さらに「顧客満足を高める」とは「受けるサービスに対し期待以上の成果を持続する」ことが必要だと思う。その場合、対応する個人とのコミュニケー ションがどれほどとれるかが大きな問題になる様な気がする。その為には、実際に集配する担当者だけでなく、窓口業務に携わる人、営業、技術、経営者層まで 含め仕事に対する一貫した共通のポリシーを持っている事が必要になってくると思う。また、実際に顧客の声が経営者層まで上がる仕組みと体制も必要だと思 う。

例えば家の場合、親戚が使う宅配業者がある程度決まっているので、同じ人が宅配物を届けてくれる。同じ人なので、そこから少しずつ深いコミュニケー ションが生まれ、それは信頼感につながっていく様に思う。以前は不在中の時に隣宅に預けられる事が多かったが、最近はほとんどなく電話一本で再度届けてく れるが、人間関係が出来ると自ら届けてくれるし、かつ品物についての心配りも違う様に感じる。

もしかすると、顧客満足を高める場合、今後はマニュアルによる取り替え可能なシステムとは逆行する手法が必要なのではないだろうかと、個人的には思ったりもしている。

最近、顧客満足向上から顧客ニーズの全方位的対応による新しいサービスが出ることが多い。つまりそこまで企業努力を行わなければならない時代になっ ているのだろう。その点から見ると、ヤマト運輸が新たに行う引き取りサービスは、コンビニエンスの手前で顧客を取る点と、お年寄りなどからのニーズに応え る良いサービスであるように思う。

ただ、顧客満足を高める、サービスの品質を高めることが、新サービス立ち上げに安易に結びつくことにより、顧客の混乱と料金の複雑化および高トラブ ルリスクにつながらなければ良いとは思っている。基本は新たなメニューではなく、顧客への誠意と心配りをどのくらい深くできているかだと思うからである。 それがきちんと出来ていれば、ポリシーも含め顧客は言われなくても理解してくれると思うので、口上を言う必要は全くないと思うのだがいかがだろうか。

追記:
・本当はヤマト運輸と郵政公社の事を書くつもりでいた。でもこの問題の本質が僕なりに見えなかったので、書くことが出来なかった。ちまたではヤマト運輸へ の応援が多いように思う。先だって見たアンケートでも、ヤマト運輸を応援するが、安い方を利用するという意見が多かった。でも実際は郵政公社の方は時とし て、以前の値上がりになる部分もあるそうだ。

ネットで調べると、郵政公社がどうだとか、ヤマト運輸がどうだとかの意見が殆どだった。でもそれらの意見はこの問題の本質とは直感的に思えなかった。

僕は法律上の事は疎いけど、まず素朴な疑問としてあったのは、何故「郵政公社」がヤマト運輸と同じ土俵でビジネスが出来るのかということだったし、 それに対する法律上の制約は設けなかったのだろうか?それに郵政事業の民営化への移行の中で、この問題は当然に議論されているべき話なのに、なぜヤマトは 今頃になって言うのだろうか?
ヤマト経営者層は当然に運輸系議員達へ圧力は行っていただろうし・・・

等々あげればきりがない、「良からぬ思いに」渦巻いてしかもそれが見えない状況下で、この件に関する事がかけなかった。

2004/11/27

地球上で一番セクシーな男

米国ピープル誌の毎年の恒例企画である「地球上で一番セクシーな男」に「ジュード・ロウ」が選ばれ た。この賞はピープル誌の編集者らによって選ばれ、故人は含まれないとのこと。タイトルを含め何事も順列を決めたがる米国ならではの賞だと思うが、本音の 部分では一種の「しゃれ」に近いものがあるのだと思う。ちなみに今までの受賞者をあげると、メル・ギブソン、ショーン・コネリー、デンゼル・ワシントン、 リチャード・ギア、ベン・アフレックス、そして去年はジョニー・デップと映画俳優が多い。

ジュード・ロウを意識したのは「ガタカ」からであった。それから「リプリー」も良かった。ジュード・ロウは美しい外見を持つと同時に、その他の多くの人気俳優と同じで才能も映画と演技に対する情熱も強く深い。

しかしこの賞の「地球上で一番」でというタイトルが凄い。「セクシー」というのは「美人」と同様に「他者」からの呼称だと思うので、人によってその 感覚は違うとは思うが、逆に興味があるのはこの賞を選考した編集者達である。編集者達の総意とは言え彼らの趣味がわかり、「しゃれ」として受け取らない限 り、ある意味気色が悪い(笑

現在は不透明性が増し、「セクシー」「美人」等の価値観も個人の感覚に委ねられていると思う。しかし、多分以前は「セクシー」「美人」等にも、時代により変化するとはいえ、その時代毎に共有する価値観があった様な気がする。

例えば男性の魅力は「力」という価値観が長く支配していたと思う。「力」ということは実際の腕力を意味する時代もあったし、最近では所謂「3 高」(学歴が高い、収入が高い、背が高い)というのもそれに該当する。いまだにそれを信奉する男性も多いかもしれない。例えば、失恋した時に真っ先に理由 として思い浮かぶ事は、この3つの内いずれかという方も多いのではないのだろうか。でも実際はこの3つの理由にではなく、相手とする異性とのコミュニケー ションがうまくいかなかっただけの事が多いと思うのだが。

僕は姉の影響で多くの少女漫画を見てきた。少女漫画の内容の移り変わりと、少年漫画の移り変わりの違いは全く違う様に思う。少年漫画は概ね努力と気 持ちで成長しライバルに勝つ事で異性を得るパターンが多いように思われ、それらは時代による変化は小さいように感じられる。しかし、少女漫画の方はいつの まにか、普段のままの自分が自然であるが故に好きな異性と恋愛するパターンに変わって来ている。
もともと、3高も女性がそれを望む事からステータスになっていったと僕は思ってもいる。それを望む女性とは、多くはそうなって欲しいと育てた息子の母親達 の事でもあるが。その母親達の時代の価値観で育てられた息子達は成長し気が付いたら、同世代の女性達にはその価値観はなくなっていた、そんな図式が(3高 だけでなく)今でもあるような気がしてならない。

何故そう思うかというと、僕は背が高い、周りの男性から良いなぁと言われる事がたまにある。そして、そう言う時の男性は概ね失恋状態にある時が多い。でも僕の経験から言わせてもらえば、当たり前だけど、背が高いことと女性からもてることとは一切関係がない(笑

ただ女性の方も多様化しているわけで、同じ価値観を持ち続けている人もいるだろうから、まぁ気にすることでもないのかもしれない。
それにこれからは男性も積極的に育児に参加する時代になっていくと思うので、母親の影響をうけて育った子供達が、今度は男性である父親の影響を受けて育つことになるのだから、思うに新しい時代がそこから作られていくような気がして良いことのように思える。

「地球上で一番」のしゃれなので、内容もしゃれてみた。え?しゃれてないですか・・・それは失礼しました。

●しゃれ【洒落】
〔その場の思いつきとして〕 類音の語に引っかけて、ちょっとした冗談や機知によってその場の雰囲気を和らげたり 盛り上げたり する言語遊戯。
(新明解国語辞典 第五版 (C) 三省堂より)

「SING A SONG」を聴いて

「SING A SONG ?NO MUSIC,NO LOVE LIFE?」を聞いて不覚にも涙を流してしまった。Coccoの曲を聴いてこんな事後に も先にもない。僕の気持ちが不安定だったこともあるかもしれない。それにこの曲はCoccoの曲の中でも最もチャーミングな曲の1つだし、およそ「泣く」 とは無関係な位置にあるのに。なんで僕はこんなに気持ちが揺さぶられたのだろう。

以前、このブログでこの曲の事を書いた。もともとこの曲は歌詞が英語だったのを、くるりの岸田さんが編曲し、Coccoが歌詞を日本語にして、タワーレコードの日本25周年記念テーマソングとして新発売した。
以前の記事の中で僕はこの曲を単純に和訳しただけの曲だろうと思ってた。だから拙い和訳を載せ、発売した時の実際の歌詞を較べるのも面白いと思っていた。これは一種の遊びだったし、僕はCoccoの歌詞が単純な訳でないだろうとも思ってもいた。
でもここまで違うとは思ってもいなかった・・・
僕 は今回の遊びで、当たり前の事を再び味わった、それは歌は詞だけでなく音も含めて総合的なものであるということ。僕が感動したのは岸田さんの編曲が素晴ら しかったかもしれない、それもあると思うが、編曲もこの曲を1つの方向に向かわせる要素に過ぎないと思う。そう言う当たり前の事を無視して、歌詞を独立さ せて考えていた僕は愚かだった。

絵本の付録CDを別として、この曲はタワーレコード限定発売という枠があるが、Coccoの久しぶりの新 曲と言っても良いと思う。その久しぶりの曲に「SING A SONG ?NO MUSIC,NO LOVE LIFE?」を選んだこと、そして Coccoでなく「こっこちゃんとしげるくん」とした事には意味があると思うが、それらはこの曲を聴けば一目瞭然ならぬ一聴瞭然だ。

僕はこの曲を聴いて大袈裟でなく、僕のある部分が「癒され」そして「救われた」様に感じた。「何を」癒され、「何に」救われたのか。その「何」を考える事が僕の感想となるのだろう。そしてそれが僕にとってのこの曲が総合的に向かっている方向でもあると思う。

こ の曲の全ての要素が総合的に向かっている方向は、全ての音楽がそうであるように、この曲を聴いた人が感じる様々な事で良いと思う。それに僕がここでこの曲 の感想を書くこと自体無意味だと思うほど、僕の思考は停止している。多分この曲を聴いて感じたことは、別の記事で表に現れるような感じがする。それまでは この曲にどっぷりと浸っていたい。

キャットウーマン


今日帰りに渋谷のタワーレコードによりCoccoのCDを購入した。実はまだ聞いていないので、この感想はまた載せようと思う。

帰りに映画館の前を通ったら「キャットウーマン」が最終日で、しかも20時からの開演がレイトショーという事で普通より500円安くなっていた。時間を見ると10分前だったので、帰宅の予定を変更して見ることにした。

映画館は凄くすいていた。僕を含めて全員でも10名はいなかったと思う。だからみんな自分が一番好きな場所に座る。この映画は、実は前評判がよくな かった。それがこの人数に反映しているのかもしれない。でも僕にとってはやはり主演のハル・ベリーにつきる。彼女が出ていなければ多分見ていないだろう。 X?MENでは単に美人でしかなかったけど、「チョコレート」の最後のシーンでの彼女は素晴らしかった。あの演技のために映画に登場する数多くの要素があ るのではと思わせた。
この映画に登場する要素とは、人種・死刑囚の妻・死刑執行人・息子の死・差別等々。
日本語での映画名は「チョコレート」だが原題は「MONSTER’S BALL」(怪物の舞踏会)と言うのだそうだ。
チョコレートでのSEXシーンは話題を呼んだ。二人がお互いの穴を埋めるためにSEXをする。でも二人の間に絆が出来るのは、レティシア(ハル・ベリー) の死刑囚の夫を執行したのがハンクであることを知る最後のシーンであったと思う。家の外で佇むハンクにレディシアは近寄り隣に座る。許すも許さないも彼女 の心にはなかったと思う。お互いの失った穴の深さをしり認め合う事が出来る。でも二人の先行きはようとして暗い。
そのハル・ベリーが出ている「キャットウーマン」だが、彼女が格好良かった。特に歩く姿が良い。他はあらすじを含め特に印象はなかったけど・・・それを見ただけで良しとしよう(笑

2004/11/25

小泉八雲雑感

以前このブログでも少し書いたが、二十代前半に九州までモータサイクルを使って旅行したことがある。 その時九州までのルートに日本海側を使ったが、それには幾つか理由がある。東京に生まれ住み、北陸山陰に縁者のいなかった僕にとって行く機会が将来にわた り数少ないことが予想される事、つまり滅多に行けないのならこの際行ってみようとの気持ちがまず最初。その次ぎに山陰には高校大学を含めて読んだ書籍から 受ける数多くのこだわりがあった事。そのこだわりの中に松江の小泉八雲がいた。

小泉八雲が松江に住んでいた1年と3ヶ月の短い間に書かれた中に「神々の国の首都」があり、僕はその中の松江の風景に憧れたのだった。
「松江の一日で最初に聞こえる物音は、緩やかで大きな脈拍が波打つように眠っている人の丁度耳の下からやってくる」
小泉八雲がこの時書いた松江の朝の状況は、勿論今では失われた風景でもある。しかしその風景は彼にとっても失われるに至った時間は短かった。
後日松江を再訪した小泉八雲は同じ風景、同じ友との交わりの中に少なからぬ違和感を感じている。その違和感は小泉八雲にとっては過去の印象が「知らなかった故の幻想」と捉え、「出雲再訪」の中で次のように書いた。
「やがて私は、人の幸せの大方(おおかた)は物の実体を知らぬ事にあるのではないかと考えはじめていた」
「幸せ」には個性があるので、人によって様々だと思う。小泉八雲が考えた「幸せ」に異論を言うつもりは僕には全くない。ただ僕にとっては、小泉八雲 は一人の旅人であり、旅人の目で「神々の中の首都」の松江を描いていた様な気がする。そして最初の印象は旅人としての彼の心象風景でもあった感を受ける。

「松江再訪」での小泉八雲は既に旅人ではない。実体を知り且つ急速な日本の西洋化に幻滅を感じた彼は、祖国に戻る気持ちもあるが、既に家庭と子供を持ち日本での生活を選ぶにいたる。その時点で彼の心は旅人のそれではなかったと思うのだ。

彼の言う「実体」とは一体なんだったのだろう。それは明治という急激な時代変化とは無縁ではないと思うが、やはり僕には「旅人」と旅を終えての「生活者」への意識変化のように思えて仕方がない。

「生活者」になれば、日本は神々の国ではなく、そこに住む人々も妖精ではなかった。彼が見る急激な日本の変化は、裏を返してみれば、彼の旅人だった頃の心 象風景への回帰を望む心の叫びだったように感じてしまう。だとすれば彼の希望は、根本に外的要因でなく内的要因があるので、時代の変化に関係なくかなえら れることはなかったように思うのだ。

僕の二十代のツーリングでは、宍道湖畔にたどり着いたのが真夜中だった。真夜中の静寂の中で僕は静かな湖のさざ波を聞いた。それもまた一人の旅人の 心情だったと思う。その時に地元のライダーと偶然に知り合いしばらく湖畔で話を交わした。主にモーターサイクル談義であったけど、最初に地元の見所として 紹介してくれた場所が「小泉八雲記念館」だった事を覚えている。今思い返せば、彼の中にも小泉八雲が書いた松江の美しさへの誇りがあったのかもしれない。

画像は小泉八雲とその家族。妻(節子)と長男(一雄)。今年は小泉八雲没後100年の年でもある。

2004/11/24

雑談雑談

最近はまっているブログが「実録鬼嫁日記
これは面白い(笑
こういう書き方ってオンラインゲーム日記の世界には良くある書き方だけど、それをリアルの世界で展開しているのがいい。書き手は男性で、なにか男の悲哀を感じてしまうのもいい。(自虐的?
それに本人も大いに楽しんでいるし。(さらに自虐的???
人によってはわざとらしさを感じてしまうかもしれないけど、僕はこういう日記好きです。
実は僕もオンラインゲームの日記を数ヶ月書いた。このブログを書き始めゲーム日記は現在休筆中。また書き始めようかな(笑

もう一つはまっているブログが、宮台さんのブログ。現在「社会学入門」をブログで連載してくれている。これってすごいと思う。現在積極的に読んでいる。1つ1つの言葉に含みがあり、詳細説明がない分は思考で補わなくてはいけない。それが面白い。

昨夜見たNHKの番組「ものしり一夜づけ」 はワインの特集だった。見た人も多いと思うけど、ワインは左脳を刺激するとの事だった。今まで、ワインを愛飲する人に味を表現する人がいて、どうも嘘っぽ くきいていたけど、あれは実際にそう感じてそれを言葉にしているらしい。しかし、ワインをある程度飲み続けないと、そうならないらしい。酒を殆ど飲まない 僕なので、この件に関しては「らしい」としか言いようがない。でも興味が出たのは事実。

同じくNHKの夜11時から平日毎日放映している連続ドラマ「アイ'ムホーム」。 内容は少々重たいけど、主人公役の時任三郎がその重たさを少し緩和している感じを受ける。原作は石坂啓さんの漫画。この漫画は読んでいるので、ある程度の すじは知っていたけど、ドラマ化するとは思わなかった。理由は、テーマが重たい、主人公が妻子に見る仮面の姿をどう表現するのかが難しい等々。
でも現代的なテーマなので、そのテーマを原作のイメージを残しながら、どう展開していくのかが楽しみでもある。

漫 画と言えば「ブレイブストーリー」の今後の展開が楽しみ、これは宮部みゆきさんの小説を小野洋一郎さんが漫画化したものだけど、原作をかなり脚色している ので別の物語の感じを受ける。現在第4巻目でこれから佳境にはいる。漫画をドラマ化するのも難しそうだけど、小説を漫画化するのも難しいかもしれない。
以前に夢枕獏さんの小説「神々の山嶺」を谷口ジローさ んが漫画化したけど、これは凄かった。夢枕獏さんが漫画にするなら谷口ジローさんと望んだと書いてあったが、確かにこれは正解だと思う。谷口ジローさんの 描く山には高さがある。これって本当に難しい。実際に山に行き写真を撮るとそれがわかる。写真で山の高さはなかなか出ない。

僕は海外ミス テリーが大好きで、そればかり読みあさった時期が長かった。ここ3年くらいは全く読まなくなってしまった。変わりに読み続けたのがいわゆるビジネス書。そ の中で一番刺激的だった本が「イノベーションのジレンマ」だった。その続編の訳本が今年にでた。続編が出るとは思わなかった(それほど完璧な世界だっ た・・・と思った)ので、うかつにも見逃していた。勿論読みます。
ちなみに一番好きな海外ミステリー作家はときかれたら、即「クレイグ・ライス」と答える。多分それだけで僕の趣味がわかってしまう?。

さらに実は、何故か「リンドバーグ」フェチでもありまして、彼の伝記とか評伝もので日本で発売されているのは殆ど読んでいる(と思う)。
リンドバーグと言っても、音楽でなく本人のこと。発端は、リンドバーグの墓ってハワイにあるけど、それを初めて知ったとき何故???って興味がわいてきた。しかも彼の墓だけらしい。墓碑にはなんて刻まれているかと言えば・・・内緒(笑
そ の興味から出発したけど、出版されている書籍は、だいたいが大西洋横断とその後のリンドバーグ事件が中心となっている。その後壮年となったときのリンド バーグについては多く語られていない。それが残念で仕方がない。僕は個人的に「リンドバーグの謎」を幾つか持っているけど、だれかすっきりさせてくれる人 出てこないかなぁっていつも思ってます。

しかし、好きなことばかり書いていると止まらなくなる。既に誰か僕を止めてぇーって感じだ。何故なら仕事中だし^^、思考整理のための気分転換で「手」だけで書いている感じに近い。
そう言えば「手」で書くと言う事で思い出したのが映画の・・・・・・

もうやめます(仕事仕事^^

スパム対応記録


最近僕が長く使ってきたプライベートメールアドレスを閉じ様かなと考えている。
それはスパム メールのせいだ。このメールアドレスを使い始めてから既に6年くらい経つと思う。DIONが始まった当初、まだ電話回線によるダイアルアップでの従量制課 金が主流だったとき、「ベツベツコース」というメニューがあった。入会登録料の500円さえ払えば後は完全従量制。つまり500円でメールアドレスと Web容量がもらえ、さらにサポートも受けられるという事になる。このサービスは早々に無くなってしまったけど、その時に僕は4つくらい加入した。しばら くほっておいたがADSLが出始めた時、それらのメールアドレスを使い始めた。その時に取得した4つのアドレスの振り分けは、二つは登録用、一つは会社向 けとして使い、残りの1つがプライベートアドレスという事になる。

スパムは二つの登録用メールアドレスに集中していたのは言うまでもないが、去年あたりからプライベートアドレスにも少しずつ来始めていた。最初の送 信先で見ると複数のメールアドレスの中の一つだった。それは複数の中から生きているメールアドレスがヒットできれば良いとの「下手な鉄砲数撃てば当たる」 戦法だったような感じを受ける。
でも無視できる量だったのでほっておいた。それが少しずつ増え、今では酷いありさまである。なぜプライベート用に スパムが来るようになったのか、実は理由がわからない。このメールアドレスは友人親戚間でしか使っていなかったのだ。正直言って今でもわからない。わから ない中で、現状に嫌気がさした僕はメールアドレスを閉じる事も考えるようになっていったのだった。

ただ、可能性の話をすれば二つほどあげられる。

一 つはスパイウェアの存在だ。スパイウェア検出ソフトは色々とあるけど、僕は少しスパイウェアの事を軽く見ていた。正体不明のサイトからのインストール要求 は許可しなかったし、不明なあて先のメールも空けたことは少ない。でもまるっきりゼロかといえばそういうわけでもない。そこで今年になってスパイウェア検 出を行ってみた。使ったのは「AD-AWARE」と「SpyBot」の二つ。両方とも無料のソフトだ。そしたら、想像以上に検出されたので驚いた。全部で 20個くらい検出されたと思う。その一個一個がどの様な動きをしているのか不明だが、僕の個人情報をどこかのサイトに送っていたことには間違いない。

二 つ目は、最初送られてきたスパムメールの中で「このメールを再度送って欲しくない人はこのメールアドレスに空のメールを返信してください」と書いてあった スパムにご丁寧に言われるまま返信を行った事だ。それも数回。国内から届く「無許可広告メール」には必ず決まったタイトルを付ける必要がある。それらの メールはまた望まない場合は送ってはいけない事が法律で決まっていると思った。でも相手はネットだから、国内ばかりとは限らない。実際のスパムは米国から と中国、韓国あたりのサイトから届くものが多い。ここで疑ったのは、この「空の返信要求メール」は逆に生きているメールを求めていたのではないかと言うこ とだ。

ここ1年くらいは僕はスパムメールとの戦いの日々でもあった。と言っても対応はそんな凄いことをやっていたわけではない。僕が相手にするスパムメールの特徴は以下の通りだった。

・英文メール(一部日本語メール)
・日本以外のネットから来る(これは概ねそう考えても良い)
・勿論登録アドレス以外の差出人(100%そうです)

こ れらの全てはプロバイダ側のSMTPサーバか自分のPCのメーラーのフィルタリングにより掴んで捨てる事が出来る。プロバイダ側での選択はオプションとし て別途料金がかかる可能性があるので、基本としてメーラー側で対応を取ることにした。それに日本以外からの受け取りたい英文メールもあるので、一括した選 択は難しい。なので最初は件数も少ないこともあり、1つ1つ差出人を掴んで捨てるようにしたが、これはきりがなくすぐにあきらめた。

次ぎ に、メーラーのフィルタリングの処理順位を考え、必要なメールのみ受け取り、後は全部捨てる設定にした。これの設定には結構時間がかかったけど、有効で あった。でもPCトラブルで一度初期設定するときに、その設定も一緒に消してしまい、再設定する元気が僕にはなかった。続けて使ったのがフリーソフトとし てスパムを除去してくれる「雪風」というソフトだった。これは完璧ではなかったけど概ねスパムを除去してくれた。でも「雪風」を抜けてくるスパムも多く なって、収支がつかなくなり今回に至っているわけだ。

スパムメール対策として色々なソフトが出ている。一度は購入しようと考えたこともあるが、使い勝手と結果が見えないこともあり、購入までには至っていない。

最 近スパムメールの事が色々と話題を呼んでいる。CNETでは米国で「合法的なスパムメール」が急増しているそうだ。合法的なスパムメールとは宗教をテーマ にした販売促進メールらしい。宗教がテーマなので各種対応ソフトでもチェックに引っかからないらしい。本当に色々なことを考える人もいると思う。

で もネットが社会インフラとして整備してきている以上、スパムメールは無視できない状況になってきているのは間違いないと思う。最近の情報では、スパムメー ルの発信元としては米国(42.5%)、韓国(約19%)や中国(約11%)らしい。ただし、スパムにホスティングされたウェブサイトは中国が一番多いと のこと。欧州諸国が少ないのは理由があるからなのだろうか。いずれにせよこのままではメールに対する信頼性がなくなるのは必定だとおもう。現在色々な所で スパムに対する対応を技術的に解決する方法を検討しているらしい。でも当然に僕がメールを閉じるまでには間に合わないようだ。

追記:まだ PCのメールアドレスは他に逃げる事ができるので良いと思う(例えばWebメールとか)。厄介なのはやはり携帯のメールアドレスのスパム対応だろう。携帯 メールアドレスも僕は2回変えている。1回はスパムが多かったため、これはauの大きな問題にもなった。もう一つは不当請求の要求からだった。不当請求の 為に電話番号まで変えることになった。皆さんも気をつけてください。

スパム対策サイト
グッバイ・スパム ?迷惑メール撃退法?
もうこれを読む元気もない・・・・

2004/11/23

ドラえもん、声優降板に思うこと

テレビ朝日系の人気アニメ「ドラえもん」で四半世紀にわたってドラえもんの声優を務めてきた大山のぶ代さんら主な声の出演者5人が来春、降板し、若手と交代することが21日明らかになった。(日本経済新聞から)

「ドラえもん」は大山のぶ代さんと言うくらい他の方は考えられない。既に25年もドラえもんの声をやられていたのかと思うと、ご苦労も多かったこと だと思う。ご苦労様と同時に思うことは後続の若手の方の大変さだ。イメージが固定されているので初めは色々と言われるとは思うけど、新たな「ドラえもん」 を創造する気持ちで、楽しく面白い番組を造っていって欲しいと思う。ちなみに、今度降板する5人の出演者とは、ドラえもん、のび太君、しずかちゃん、スネ 夫、ジャイアンの主要メンバー全員となる。

日本で多くの人から愛されている「ドラえもん」は「サザエさん」と並ぶ国民的漫画と言っても良いと思うが、米国ではいっさい放映されていないのは有名な話。
「自助努力」と「進歩」という米国的二大価値観から見れば、米国では子供に悪影響を与える漫画となるらしい。理由は主人公の「のび太君」が自助努力を行わ ず「ドラえもん」に助けられ、その結果「のび太君」は40巻以上の大長編にも関わらず一向に成長しないからだと言う。つまり「自助努力」しないで「進 歩」(成長)もしない姿を自分の子供には見せたくないと言う親の気持ちだ。しかも同じ展開が続く「マンネリズム」もある。

日本でも一時「ドラえもん」批判をする方もいたように思える。内容は概ね米国での評価内容と変わらなかったように思えた。それぞれの考えだから、別 に良いと思う。僕はこの場で「ドラえもん」批判をするつもりはまったくない。この日本で長期間支持を受けている漫画が米国で受け入れられない理由は、米国 と日本の文化的差異によるものだと考えているので、それを明らかにする方が僕にとっては面白いと思うのだ。しかし実際の所、僕が行うにはいろいろな面で能 力不足だ。だから以下に書く事は単なる個人的な感想に過ぎない。

確かに「自助努力」と「進歩」は大事なことだと思う。でも僕はそう言う目で「ドラえもん」を見ていなかった様に思う。逆に米国の評価から、ああ色々 な見方があるんだなぁと思ったのが本当のところだ。ではどんな風に「のび太君」を見ていたのかと言うと、「のび太君」の「優しさ」であり「友達思い」であ り「みんなが幸せになるように問題を何とか解決したいという気持ち」であり、それを叶える「行動力」だった。勉強も運動も苦手な普通の男の子で、米国の漫 画に出てくるヒーローではないけど、最終的には「のび太君」の優しさに強さを見ていたように思う。

「のび太君」は困った事があると「ドラえもん」に頼るとあるが、正確には頼るのは「ドラえもん」が持っている「道具」である。「ドラえもん」が差し 出す「道具」は単なる「道具」でしかない。人が目的を達成する為に、誰でもそこにある「道具」を使うと思う。「ドラえもん」が出す「道具」は現在我々が 使っている「道具」と本質的に同じ意味でしかないのだと思う。時折「のび太君」はその便利な「道具」の使い方を誤り、自分の身に降りかかり痛い目にあうこ ともある。それも僕の周りにある「道具」と何ら変わらない。考えてみれば、100年前の日本では考えられない夢のような「道具」を現在の僕は使っている。 100年前の人達が僕を見た時に「自助努力」が足りないと思うのだろうか。

「のび太君」が頼るのは「ドラえもん」の「道具」であると上記では書いたが、一番重要で大切なのは、友達としての「ドラえもん」とその仲間たちだ。 困難に向かう時に「道具」は重要だが、それ以前に気持ちがもっとも大切だと思う。そして傍には同じ気持ちの仲間がいる。それを頼ると僕の感覚では言わな い。
さらに書くと、「ドラえもん」の漫画の世界には不安はない、そこには信頼がある。そして競争もない、お互いの能力の違いを認め合っている。勿論主要キャラ クター全員天使のような清らかな存在ではない、欠点も多く持ち合わせている。そして米国のヒーロー漫画のような特別な能力を持っているわけでもない。

米国の映画は概ね「自助努力」による「成長(進歩)」物語で、最終的には「成功」というハッピーエンドで終わる。その姿はアメリカンドリームそのも のだと思う。つまり「自助努力」をして、その過程で「成長」する者は「成功」しなければならない。逆に成功した者は、それらの事を経て来た者達である、と 言うことになる。しかも米国では「自助努力」はこういう事だ、「進歩」とはこういうものだ、の強い認識を持っているように思えて仕方がない。パターンに反 するものは一切受け付けない、そんな印象も受ける。米国映画の功罪はその様なパターンを繰り返し他国の人達に刻み込んでいったことのように思える。

勿論誰でも大人になる過程で、努力をするし、色々な人との関わりにより様々な事を学んでいく。それらは何処の国の人達も同様だと思う。それらは当た り前の事だから、だれもあえてその事について声を大にして言うことはなかった。日本でも同様だと思う。それにそれらが全て結果として「成功」に結びつかな い事も知っている。

僕は冒頭に「自助努力」と「進歩」は大事な事だと思うと書いた。でもその価値だけで人に過当な要求するとなれば、それは非常に厳しい社会になるよう に思える。何の為に自助努力するのだろうか、それは勿論幸せになるためだろう。しかし、自助努力の目的が「勝つ事」であれば、当然に勝つための対象が必要 になってくる。それが自分自信であれば良いと思うが、他者であればそこに競争が生まれる事になる。競争により切磋琢磨としてよりよい状況をつくる方向であ ればよいと思う。でもその場合は根底に人に対する信頼が必要な気がする。また過当な競争は人に不安感を与えるように思う。不安は相互不信感に繋がって行く ように感じる。さらに勝ち負けが人生における重要な価値観になり、人生を「勝ち組」「負け組」の双方でみる結果になるように思える。

僕には「自助努力」と「進歩」で「成功」するイメージのアメリカンドリームの背景には、インディアンを駆逐(開拓という自助努力)し領土を広げてい き(進歩)富を手中(成功)にしたアメリカの姿がそこにあるように思えて仕方がない。そして「ドラえもん」は考えとしてその対極にある漫画だと思うのだ。 勿論これは僕の勝手な推測に過ぎない話ではあるけど。

マンネリズムは日本でもあまり良い言葉として使われていない。でもどういうわけか、日本のテレビで高視聴率を誇る番組の多くはマンネリズムと思われる番組が多い。例えば、「ドラえもん」「サザエさん」「水戸黄門」「大岡越前」「渡る世間は鬼ばかり」等々。

「マンネリズムのすすめ」と言う本がある。著者である丘沢静也さんは次のように語っている。
「競争社会に毒されているからですよ。差異とか新しさとかがないと、生き残れないとみんな思っている。他人を一歩でも出し抜こうとする社会では、マンネリズムは歓迎されない」
そして彼の著書では「一流でなくてはならない」「完全な選択をしなくてはならない」「友だちがいなくては人生をやっていけない」……そんな思い込みが、人生をいかに苦しいものにするか切々と説いている。

僕は思うのだけど、「ドラえもん」の世界と、マンネリズムの世界の両方とも日本人は好きなのではないのだろうか。しかし、日本はアメリカ流グローバ ル世界に組み込まれ、アメリカの価値観に縛られてもいる。その中でプライベートな時間にこれらの番組を見ることで安心することが出来る。逆に言えば、日本 人にあった文化がそこにはある様に思える。それは、過当な利益追求からくる競争とそこから芽生える相互不信感の世界でなく、相互依存の共生からくる信頼関 係の世界のような気がする。そしてそれはまさしく「ドラえもん」の世界だと思う。

2004/11/21

月でなくチアダンス見学

天体望遠鏡を持って公園に出かけた。表に出て雲が多いのに気がついた。ただ、雲間から少し月がのぞくかもしれないと思い、しばらく公園を歩き続けた。

その公園は総合運動場で体育館もあり、そこが明かりがついていて、時折声援も聞こえてきた。何事が行われているのかと、興味を持った僕は体育館に 入った。たまたま近くで空いていた場所が裏口だった。もし正面から入っていたら、入場料2500円だったたらしいけど、既に終わりの方だったのでそのまま 入れたかもしれない。

すると、中にいたのは殆ど全員女子高校生だった。しかも一様に厚化粧、同じ髪型、同じ衣装のいでたち。
(おおお、なんだこれはぁぁぁ)
舞台では・・・チアダンス
(うわぁぁ・・・でも面白い!!)

受付でちらしをもらったら、第四回全国チアダンス選手権の予選だとのこと。この予選で勝ち抜いたチームが本戦に出場できるらしく、みんな一所懸命に 頑張ってる姿に目を奪われる。あとで、結果発表の時、本戦出場に選ばれたチームの喜びの雌叫び??が凄かった。色で言うのなら本当に「黄色」って感じ。っ て本来の目的も忘れて最後まで見てしまった。
天体望遠鏡を持った僕が、月でなく、チアダンスを見る事になった話。ちなみに月よりは面白かったかもしれません^^

ついでにチアダンス関係のサイト(笑
日本チアダンス協会公式サイト

「サービスを科学できるか」の記事を読んで

CNETジャパンに面白い記事が載っていた。面白いのは、詳細不明の内容なので読み手次第でいかようにも変化する話だと思うからだ。

まず記事では討論会の趣旨が不明だったが、IBMの研究施設に様々な研究者と企業幹部が集まり、サービスに関する幾つかのテーマで討論したらしい。その中で記事には2つの話題が載っていた。

一つめは、技術革新がいかにして優良なサービスを台無しにするかという話題。
この話題は以前からあった「局所最適化の全体不経済」の話だと思うが違うのだろうか。それを改めてIBMが主催する討論会で話題になるのは、何か今までとは違う提案でも為されるのでは、と少し期待して読むと例を1つあげただけで、話題はすぐに切り替わった。

あれれ・・・・・

次の話題は本記事のタイトルにもなっている「サービスに関する研究を「科学」とみるかどうか」だった。その記事には続けて、参加者がこの研究を 「サービスエンジニアリング」と呼ぶべきと提案し、別の研究者は今まで技術を使ってサービスの向上をはかっていたが人間自信の役割について理解をすべきだ と論じ、「一番難しいのは、人間を理解する事だと思う」で終わっている。

いやはや・・・・

この記事のライターにスキルが無いのか、本当に討論会がこのような内容だったのか、それとも僕がこの記事を理解するだけの知識をもっていないのか、読み終えてからしばらく考えてしまった。多分上記の3つとも言えることなのかもしれない。

「サービスを科学できるか」の質問には、「サービス」定義の共有理解と、その研究範囲を定める必要があるし、「科学」とは一体何を指すのかも不明瞭だ。
それに、今まで多くのサービスは広義の「科学」を直接・間接的に利用してきたのではないのだろうか。例えばフードサービスにおける開発は人の「味覚」に対する基礎研究が不可欠だろうし、携帯・家電製品などは認知科学より操作の仕方を決めてきている。
もしかすると、これは僕の想像だけど「科学」とは「脳科学」の事で、そこで研究した成果を、一般理論定義した「サービス」に適用する事の研究なのかもしれない。だとすると、その成果は個人的には興味がある。

ビジネスの流れを非常に大雑把に捉えると、当初地域社会の中で共同生活の1つの役割としてあり、自ずから生産される物は地域社会に生活する人にあわ せて作られていた。それが産業革命以後大量生産時代に入り対象とする顧客は集団として捉えれて、顧客が製品にあわせる事となった。IT時代になると、ネッ トを利用して個人の好みを蓄積し、売り方としては個人に対応する方向となり、製品に関しては少量多品種で対応するようになっていった様に思える。でもそれ らの流れもここに来て閉塞状態になりつつあるように思う。次の方向が見えなくなってきている様に思えるのだ。その状況下で、「人間」の「科学的」理解を 「サービス」に適用する事に、次の道を求めようとする気持ちは理解は出来る。

ただ、その方向は個々の企業が提示する結果、利用者の周囲に氾濫する同一機能の製品群を整理統合する事につながれば嬉しいと思っている。
(携帯電話にいくら機能が付いても、それらが不十分であれば、結局人は同一機能であるデジタルカメラ、携帯音楽プレイヤー、パソコンを持って行くことにな ると思う。その結果、ユーザの周りには同一機能製品ばかりになってしまう。せめて、充電器くらいは統一規格品にまとめてくれるだけでも嬉しい。)

ただ、この討論会は記事だけを見る限りにおいて、僕の想像を裏付ける内容は何もなかった。だから、その空白部分を補うために色々と空想し、それが僕にとってこの記事の面白さになっていったのだと思う。

一般的に言えば、こういう討論会を行う理由は3つあると思う。

1.討論することで新たな方向性を提示する本来の目的。
2.企業がこういう事を考えて行動しているという広告宣伝的なパフォーマンス。
3.討論会にユーザを加え議論することによる顧客の囲い込み。

この討論会がマスコミに対するパフォーマンスだけで終わって欲しくないと願う。

2004/11/20

天体望遠鏡が届く


DIONの月月倶楽部で申し込んでいたら、天体望遠鏡が当たったらしく、今日届いた。
結構ネットの懸賞って当たりやすいのかな?
そう言えば今までに何回か当たっている。
天体望遠鏡といっても勿論本格的な物では全くない。遊び程度。でも嬉しい。早速月でも見に行こうかな。

水辺月夜の歌

口語体で新しい詩の境地を開いた萩原朔太郎は佐藤春夫の詩を評して現代的でないと言う。それに答えての春夫の言葉が、この二人の会話を文学史の中で 忘れられないものにしている。つまり、春夫は自らの詩を伝統に繋がるもの、和漢朗詠集と琴唄と藤村詩集とは僕の伝統だと答えている。萩原朔太郎は晩年に悩んだすえ文語の詩に回帰する。そして佐藤春夫は死ぬまで文語を捨てる事はなかった。

当然に僕は文語体の文章を知らない。それは言葉は生活に根付いているものだと思うからだ。文語体は平安時代の口語体が固定して明治維新まで繋がって いる言葉だと聞いた事がある。だとすると文語体は千年の間、さまざまな形で工夫が施されてきたことになる。繋がっている言葉とは、生活で普通に使われてい る言葉の事だ。生活感がない言葉で書かれている言葉は実感できないと思う。つまり言葉もやはり時代を写し取る鏡なのかもしれない。してみると、日本では平 安以降約一千年間、基本的には変わらぬ日常があったのかもしれない。いやいやそうでは無かったと考える。文語体がその時々の時代の変化に耐えうる言葉だっ たように思えるのだ。

生活に密接でない文語体の文章には実感ができないと書いたが、やはりそれにも例外はある。例えば島村藤村、北原白秋、佐藤春夫の一連の詩は、時とし て愛唱歌となり、人によっては自然に口ずさむ事もあるだろう。それらは歌になる事で忘れられない詩になったとも言える。それに詩に関しては文語体のほうが 何故かわかりやすい様に思える時もある。多分現代詩の場合、詩人達は色々なものを求め、そして詩に組み込み過ぎるからではないかと、素人ながら思う。それ に較べ以前の詩は単純で、例えば恋歌の場合、ただ人を恋いうる詩であったように思える。さすれば、前記の詩人達の心持を現代で真に継承したのは、アーティ ストと自らを呼ぶミュージシャン達なのかもしれない。

たまに映画で詩を朗吟する場面が出てくるときがある。映画で朗吟する詩は、演じる役所の社会で尊敬を受ける詩人が殆どのような気がした。また、朗吟 する詩を何を選ぶかで、その人の思想から性格まであらわしているようにも思える。それを考えると、日本の歴史で最も知られている朗吟は織田信長が桶狭間の 合戦に赴く時に「敦盛」の一節かもしれない。

「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

この詩は織田信長の人生観を現しているように思える。実際は「敦盛」は多くの武将が好んだらしいが、織田信長だからこそと思わせる内容が、この詩を して後世に伝えられたのだと思う。転じて現代の日本で朗吟する詩は一体何になるのだろうか。詩の選択には朗吟する状況にあわせる必要があるが、いかなる状 況を見ても僕には少しも思いつかない。佐藤春夫の詩は朗吟に耐えられる言葉の強さがある様に思えるが、如何にせん、僕が彼の詩で良いと思うのは恋歌ばかり である。


せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞしむ
もののあはれを知るゆゑに
水の光りぞなげかるる
身をうたかたとおもふとも
うたかたならじわが思ひ
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに


僕は文語体詩を懐かしく思い、無くなったものに対し美しく賛美しているのだろうか?それはないと思う。何故なら僕は文語体を知らないし生活の中で 使った事もないので、実際の所、美しいかどうかも不明である。だから僕には無くなったものに対する感傷はほとんどない。ただ、明治になり日本が無くしたも のと得たものを知りたいと思う気持ちが、この話題につながっている。そしてそれは明治から現代に続く道程でも同じ事が言える。かつ個々のプラスとマイナス の総計で理解できる範疇ではないように思えて仕方がない。

文語体から口語体に変わった一番の理由は、文語体が不便だったかららしい。でも現代でも、時折言葉を無くす状況に多く見舞われる。それは多分に自分 自身の語彙不足が原因だと思うが、単語自体に社会が持っている共通認識が崩れている事もあるように思える。だからその様な状況のときは言葉が冗長になり、 簡潔にはならず、そこから誤解を生じる事も多いように思える。

また別の角度で見ても、世代別に、「単語」とか「ことわざ」「慣用語」の内容は、それの正誤とは別に、日常会話の中で使われ方が違ってきている。今後ますますその傾向が強まり、大人達は子供達と会話をあわせるために、今まで使ってきた言葉を使わない傾向になると思える。しかし大人達にとってそれらの 言葉は、生活に根付いた言葉ではないので、そこに混乱が生じているように感じる。言葉が生活に根付いている限り、時代と共に変化する事は当然だとは思う が、その変化はネット、携帯電話などのコミュニケーションの輪が広がることで加速的な状況になっている印象がある。

言葉を便利にするために文語体から口語体に統一し、さらに新かなでやさしくなり、ネット等でコミュニケーションの輪が広がる中で、言葉が喪失の方向に向かっている事に皮肉を感じるとしたら、それは僕の認識不足なのだろうか。

追記:
・読み返してみると、内容にまとまりがない感を受ける。何気なく書き始めたけど、何か地雷を踏んだような気になっている。また時期をみて書いてみようと思う。
・実は朗吟の連想から最初に思い出した詩は、西脇順三郎だったが、続けて思い出したのはバイロンだった。「口づけ」という詩で、短いけど情熱的で若さがある。少し恥ずかしいけど載せる。

A long long kiss
A youth of kiss
and love
(長き長き口づけ、若き日の口づけ、そして愛)

2004/11/19

NASAの写真


NASAの宇宙から見た日本の写真を時折眺める。
特に地球が文字通りに球体と感じられる写真が好きだ。ただ単に日本を写した写真だと普段見る地図とそんなに変わらない感じがするからだ。

地図と変わらないと言う感じが我ながら面白い。地球をモデリングしている方は地図だから、逆の感覚が正しいのに。でも実感しているのは地図と同じという方だ。

地球が球体である事を実感したのは、学生時代に船で旅行した時だった。それまでは勿論常識として知ってはいたけど実感はしたことがなかった。海原の 中で四方八方陸地は全く見えない。その時に水平線が丸みを帯びている事で地球は丸いんだなぁと感じ。目的地が陸地でなく山から先に見えたことでさらに実感 したと言うわけだ。

「実感する」とは意識の働きだが、それはあくまで主観的な現象だと思う。だから人により実感する内容と程度は違ってくる。また「実感する」為には、 はじめ記憶が必要だと思う。何もない状態から人は「実感する」ことは出来ないのではないかと思うのだ。特に記憶の中では経験とか体験に基づくものが強い様 に思える。それは何もない所から創造するかのように見える芸術家においても同様と思うが、どうだろう。
例えば、宮沢賢治が岩手県に見いだした「イーハトーブ」は、彼の記憶とそこからの想像とで形作られ、心象イメージとして彼はその世界を実感することが出来たのではないかと思う。

僕の仕事では「モデリング」という言葉が頻繁に出てくる。モデリングとは「現実を捨象し、対象の本質を表現する手段のこと」でその手法は数多くあ る。ただ、色々な手法も結局の所、個人の主観的な実感を客観的な現象に変換する作業のような気がする。つまり実感の共有化を行う感じに近い。人は実感した ことについては、経験として信念を持つ様に思う。

とここまで書いて、自分で実感と知識を同列に置いて考えている事に気がついた。ある意味似ているのかもしれない、そんな感じがした。

そ ういえば、以前に小学生の何割かが天動説である事を驚く新聞記事があったが、読んだ時に何を新聞は言いたいのか理解できなかった。地動説より天動説の方が 地上で星を見る場合、自然に実感する事だと思うし、いずれは知る事だと思う。逆に僕が驚いたのは、それを全国紙の一面トップ扱いした新聞社の感覚の方だっ た。時に三位一体政策論議が為されている中での、一面トップの扱いに何らかの意図を感じた。

2004/11/18

ボーダフォンの音楽ダウンロードサービス

ボーダフォンは米国時間10日、世界13カ国で3Gサービスの提供を開始した。3Gサービスの中には 音楽のダウンロードサービスも含まれている。現在日本での展開は未定だが、ターゲットとする国の中に日本がはいっているので、いずれサービスが開始する可 能性は高いと考える。(関連記事)

このブログではKDDIの「着うたフル」の事を何回か書いているので、ボーダフォンが提供する音楽ダウンロードサービスについても考えてみたいと思う。

ボー ダフォンとKDDIの音楽ダウンロードサービスの違いを、3G対応携帯端末の機能で見てみると、その考え方が違うことがわかる。日本でもボーダフォンの 3Gサービス対応の携帯端末は各種発表されているが、音楽ダウンロードサービスが行っていない事もあり、英国ボーダフォンで発売した「SONY Ericsson V800」で行う。

「SONY Ericsson V800」(以下V800)は日本で発売予定の「802SE」と姿はほぼ同じだ。機能面でも音楽関係をのぞき同等と見て良い。
ボー ダフォンが提供する音楽ダウンロードサービスのコーディックの詳細は掴んではいないが、V800の端末機能ではMP3(可能なレートは不明)コーディック での音楽を聞くことが可能となっている。また日本でもそうだが、ボーダフォン3G携帯はUSBでPCとの連携が可能のため、MP3でPCに録音した曲を携 帯端末に移動することは可能と思われる。

この点についてCーNETでも「価格のほうは1曲あたり1.5ポンド(約300円)となるが、ユーザーが自らの所有するMP3ファイルをUSBやBluetooth経由で携帯電話機に取り込むこともできるようになる」と伝えている。

では携帯で購入した音楽をPCに移動する事は可能だろうか?その点についての詳細は著作権保護の仕組みが不明なので、現時点では僕にはわからないが、おそら く難しいと思われる。携帯端末を使って購入した音楽は、その端末でしか聴けないと考えた方が現状では妥当と思われる。ただ、PCからの音楽転送は可能なの で、PCからネット購入し著作権保護されていない曲であれば(つまり自分で購入・レンタルしたCDをMP3に変換した曲)、携帯に転送し聴くことが出来る ので、KDDIの「着うたフル」よりはユーザよりのサービスと考えて良いと思う。

ただ、携帯端末自体が内蔵しているメモリは16MBと少 なく、外部メモリ(V800の場合メモリースティクDuoPro)をいれて最大で1Gとなるが、1Gの外部メモリカードは高額のため一般的には約 250MB程度と考えられる。つまり多くの利用者は出かける時に音楽を入れ直す必要が出てくると思う。

その点についても、CーNETでは 「ハードディスク内蔵型の3G携帯電話がおそらく1年以内に登場すれば」と前置きして、iPodに較べ「ボーダフォンは一気に優位に立つことになる」と 言っている。つまり、PCとの連携が出来るので、容量さえ増えれば、単独で好きな時と場所で音楽をダウンロードできる携帯の方が有利だと言うことなのだろ う。

本当にそうなのだろうか?現時点でその結論は尚早だと思う。それは「1曲の購入単価が高い」の一言で十分だと思う。それに欧州と言っ ても多くの国があり、そこには言語と文化も自ずから違う。音楽はその文化に根付いている部分が多いと思うので、ダウンロード販売する曲の内容も検索などの インターフェースも自ずから違ってくると思う。それでいて、米国の音楽を主にすればiPodを中心とした音楽ダウンロードサービスと競合することになり、 価格での優位性を持つことが難しい。つまり、ボーダフォンは音楽販売サイトのシステム構築から壁にぶつかるのではないかと想像する。また各国毎にその国の 音楽業界と交渉を行う事になる。多分日本の状況と大差ないと考えられるので、音楽業界の意識が変わらない限り、iPod並の価格は難しいようにも思える。

とどのつまり、機械とか技術の問題ではなく、音楽業界の考え方と文化の問題なのだろうと思う。それでもKDDIの「着うたフル」より、出発点としてはだいぶ正解に近いようには思える。後はボーダフォンのこのサービスにかけるリーダシップ次第かもしれない。

個人的には、MSのWMP10と連携することが出来れば、それだけでも幾分前記の問題が緩和され、非常におもしろい展開を迎えることが出来ると思うのだが・・・

ところで、日本のボーダフォンがこのサービスを発表しないのは、やはりKDDI「着うたフル」の様子を見ているからだろうか?

画像はV800のアクセサリーでBluetoothでのハンドフリーヘッドフォン

イラク過激派 人質のNGO女性?殺害

イラクで過激派の人質になったマーガレット・ハッサンさん(59)が殺され、その殺害ビデオをアラビア語衛星テレビ「アルジャジーラ」が入手したらしい。不確かな情報であることは間違いないが、僕の中で香田さんの事件が蘇る。(関連記事

も し事実であれば、その過激派はイラク国籍のイラクの人のために30年働いてきた女性を殺したことになる。その過激派にとって、国籍もその人の主張も無関係 らしい、問題は人種のみと言うことなのかもしれない。イラクではマーガレット・ハッサンさんと同様に結婚等で後からイラク国籍を取得した人も多いと思うの で、衝撃を受けている方も多いのではないだろうか。また、過激派の内容は知らないので何とも言えないが、イラク国籍の彼女を殺すとき躊躇することはなかっ たのだろうか?

結婚して30年イラクで生活してきた彼女の誘拐に対し、英国での反応はどうだったのだろうかと気になる。イラク国内では、それでなくても多くの人が殺されている現状なので、彼女の事を意識する事は薄かったのではと想像する、だからこそ英国国民の反応が気になる。

ただしこの記事も現状では不確かなのは事実だ。以前からそうであったように、ニュース記事はそこに何らかの意図が隠されている場合が多いと思う。
マーガレット・ハッサンさんの死が事実であれば、本当に痛ましい事だと思う。それと同時に死者10万人とも言われているイラクでの民間人一人一人の命が自然にクローズアップされてくる。それらの方々は日本では名前も伝わらない。

2004/11/17

他のブログ提供サイトを少しだけ見て思うこと

LOVELOGで提供しているデザイン、もっと数多く欲しいと思いませんか?他のブログ提供サイトをみると結構デザインが良くてしかも量も多い。目移りがしてしまいます。例えばgooブログの デザインは結構僕好みの物が多いような気がします。特に植物シリーズが良いかなって思っています。それに、gooブログの場合、テキストは無制限で同じだ けど、画像が30MBまで良いそうです。しかも無料。LOVELOGの大元のLivedoorもデザインの種類が多いし、最近日本語版が出た Bloggerも気になります。

それで引っ越しも良いかなと思い、幾つか調べてみました。サービスレベルは勿論LOVELOGが基本です。その時に気がついたのは利用規約の違いで す。サービスと同様にそれも様々でした。少しだけ見た限りでは、良いと思うところは利用規約に不満がありました。特に無料系ブログに多いような気がしま す。何を言っているかというと、例えばgooブログの利用規約の著作権の項目はこうなっています。

「会 員は、本サイト及び当社が単独で若しくは第三者と共同で運営するその他のWEBサイトの運営の目的に限り、当社に対して対価の請求をすることなく、以下に 定める権利を当社に対して許諾することを予め承諾します。なお、当該権利許諾は、会員が本サービスを利用する資格を喪失した後においても、有効に存続する ものとします。 (以下略)」

つまり、gooブログで書いた事は勝手にgooと関連企業が使う事が出来て、それに対して書いた人は著作権を行使できなくて、かつそれはgooをやめた後でも存続するって事でしょうか。これって凄い話だと思うのですけど・・・

Livedoorも最近著作権の項目について、gooと同様に改訂したらしいです。
まぁ、気にしない人は別に良いのですけど、読んでしまうと、いくらデザインが良くても引いてしまいます。

ちなみにLOVELOGではこうなっています。
「当社は、本サービスの広告・宣伝及び利用促進の目的に限り、利用者が本サービスを使用して作成した情報を、当社が管理・運営するホームページ又はその他の媒体に掲載するために利用できるものとし、利用者は、かかる当社による利用を承諾するものとします」

こ の条文だけなので、gooよりはましな気がします。本当は「当該利用者との協議の上」の一文が欲しいところです。LOVELOGの場合、DION利用料金 に含まれるサービスであると僕は思っているので、仮にこの条文の改定があるときはクレームものかなと思ってたりしています(笑
ところで、当社というのはKDDI本体だけですよね・・・

そういえば、ブログの老舗である「はてな」では登録の際に「住所」も入力しなければなりません。一体住所を何に使うのか疑問を持ってしまいます。不必要な情報の取得は法律で禁じられているのではと思うのですけど、その点はどうなのでしょう?

も う一つ気になったのは、あるブログ(DIONではありません)のコメントを読もうと思ったら、そのブログ提供サービスに登録しないと読めないとの画面が出 たことです。企業がユーザの囲い込みを行うことは理解できるけど、インターネットでそれをするとは、ネットの本質を理解していないのではって思ってしまい ました。勿論、コメントを書かれた人がそれを望んでいるのなら話は違いますけど。

そうやって少しだけでも見ていくと、やはりしばらくはLOVELOGかなと思った次第です。

追記:後からLivedoorの著作権問題がかなり他のブログで話題になっていることを知った。いやはや我ながら情報取得が遅い^^(今に始まったことではないけど)
上記の記事はあくまで、そういう事が行われている事を知らずに書いています。あくまで契約を気にする気持ちが出発点ですので、Livedoorの話とは別の話としてお読みください。
(2004/11/17)

イブラヒムおじさんとコーランの花たち


「モータサイクルダイアリーズ」を見に行ったときに予告編で紹介していた映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」が気になっている映画の1つ。オマーシャリフ主演と言うだけで食指が動いてしまう。「オーシャン・オブ・ファイヤー」で久しぶりに姿を見た時は、もうそれだけで嬉しく、あの映画の評価が僕の中でかなり上がった。

「アラビアのロレンス」「ドクトルジバコ」と色々な名作に出ているけど、僕にとってはやはり「ドクトルジバコ」が一番かも。勿論DVDでしか見てないけど、東洋的で精悍な顔つきで目が印象的だった。
「オーシャン・オブ・ファイヤー」では最初わからなくて(ううう、情けない・・・)、部族長の役だったけど、渋くて良い役者だなぁとおもって見てたら、中盤くらいでもしかしてと思い、後半になってやっと気がついた(我ながら鈍い)。

こ の映画はオマーシャリフが脚本を見て、イブラヒムの役は自分しかないと思ったとどこかで聞いた。予告編で、少年モモがイブラヒムの店の商品を盗もうとした 時に見つかった時に、イブラヒムがモモに言う言葉が「盗むときはわしの店だけにしなさい」(不確かだけど、おおむねこんな感じです。)それだけで、良い印 象を持ってしまう。

オマーシャリフも今年で72才。でも昔の雰囲気をそのまま持っている感じがして凄いと思う。勿論役者は役だけではその 人の事はわからないけど、きっと自分の人生を自然に歩んできたんだろうなって思う。こんなに気に入っている俳優なのに、僕にとっては初めての映画館でのオ マーシャリフになるだけに映画がとても楽しみ。

11月20日から恵比寿ガーデンシネマで上映します。

2004/11/16

「モーターサイクルダイアリーズ」を見て「旅」を考える

この記事は「モータサイクルダイアリーズ」を見た感想でも、チェ・ゲバラの紹介でもありません。映画 をみて「旅」の事を考えた「試案」と思ってください。映画の感想とチェ・ゲバラの事を期待して読んだらきっとがっかりするでしょう。「試案」ですから内容 は不十分です。それを覚悟してくれる優しい人はどうぞ^^ちなみに、映画の感想は「素晴らしい」の一言です。
「旅行計画:4ヶ月で8000km走る。方法:いきあたりばったり。目的:本でしか知らない南米大陸の探検。移動手段:怪力号。1939年式のノートン500だ。」

別に大志があるわけでもない二人の若者が無計画な旅に出る。何処にでもある風景だと思う。僕もこの二人と同じ時期にモーターサイクルで旅に出た事が ある。僕の場合は日本国内だけど、東京から縦断して新潟に、そこから日本海沿いに九州長崎まで行き、帰りは福岡から船で神戸経由で東京に戻ってきた。延べ 日数約2週間。映画と同じように無計画。泊まりは野宿。長崎は友人の家に着いた時、友人は夜逃げをする前日という状況で、おかげで僕はその手伝いまでさせ られた。でもその話は今回では余計な話。

旅の移動手段を何にするかは結構重要な話だと思う。二人は旅の前半モータサイクルを使った。その理由は自動車を使うほどのお金がな かったのかもしれない、もしくは南米の悪路で取り回しが聞くモータサイクルを選択したのかもしれない。でもいずれにせよ、旅の道具としてモータサイクルは 適切なような気がする。

僕にとって旅の感覚で大事なことは「もっと遠くに」という気持ちだ。家から出て遙か遠くに来たと感じる事が旅の感覚だと思う。それは 心で感じることだから、実際の距離の問題ではない様に思える。人生が旅だと良く聞くけど、それはその気持ちが同じだからかもしれない。そして遙か遠くに来 たという感覚は、移動する過程で過ぎ去る土地の空気に触れる事と無縁ではないように感じる。空気に触れるとは、自分が慣れ親しんだ土地とは違う感覚を味わ う事で、それは過ぎ去る景観の違い、家々の違い、そして土地の人々との会話で味わう事など、旅人が感じる総体として心に伝わる様に思う。だから、移動手段 としては徒歩、自転車、そしてモーターサイクルの順番で人は旅を感じる様に思える。モータサイクルが適切だと思うのは、乗り物(飛行機・船・自動車)の中 では比較的その空気を感じることが出来ると思うからだ。勿論徒歩には敵わないとは思うけど。
「お母さん、ブエノスアイレスを出て、惨めな生活とも退屈な講義ともお別れです。」
旅は人を開放的にする。それは「遠くに来た」という感情と無縁ではないように思える。自分の生活空間の引力から脱した時に開放感を味 わうと思うのだ。モータサイクルのタンデムシートに乗ったゲバラは両手を鳥のように水平にのばすシーンがあるけど、それはその開放感を良く現していると思 う。開放的になると人は生活する場所では考えられない行動を行うときがある。映画の中に出てくる逸話は、貧乏旅行での知恵を見せているが、その知恵が出る 背景に旅の開放感は無関係ではないように感じる。

ただ、ゲバラは旅の前半は自分の生活を引きずっていて開放的にはなり得なかった。それは彼の性格に依るところが大きいけど、僕にとっ ては2つの理由も幾分あるように思える。1つは恋人への気持ち。もう一つは彼の持病である喘息。彼女への気持ちは、具体的には彼女から預かった15ドルが それを現している。アルベルトがその15ドルに気がつき、そのお金を使わせようと色々な事を言うが、その都度チェ・ゲバラは頑なに拒否する。その時にアル ベルトが言う言葉「お前はあの女に骨抜きにされているんだ」は、旅に出て既に開放的になったアルベルトが、未だに生活を引きずっているゲバラに対して言う いらだちの言葉のように聞こえる。それがなくなるのは、彼女からの別れの手紙(だと思う)を受け取ってからだ。一日海を見てゲバラは彼女を失った世界を受 け入れる。

開放的になると言うことは、心の状態が様々な外的変化を受け入れやすくなっている様にも思える。考え過ぎかもしれないが、彼女との別れから、ゲバラは旅の様々な出会いに自分の心をより開いていった様に感じる。

旅人は旅人である限り傍観者の立場になる。旅人は移動する者である。移動する限り、その旅の過程での出来事は傍観者の立場にならざるを得ない。

ただ、ゲバラは自分が傍観者であり続ける事は出来ないと感じている。そう感じたのは、砂漠で出会ったインディオの夫婦との出会いからだった。仕事を求めて 放浪する夫婦は、旅が目的の旅を理解する事が出来ない。ゲバラにとってインディオの夫婦が自分に向けられる目は厳しく感じたことだろう。その時、ゲバラは 自分が、インディオの夫婦を取り巻く世相に対し、傍観している姿に恥ずかしさを覚えたように思える。傍観者であれば、全体を見つめ客観的に世相を批判する 事は出来るかもしれない。でも傍観者である限り、苦しんでいる人達が自分の姿に共感を持つ事は難しいだろう。だから、それ以降彼は旅人であることを意識的 にやめようとする。僕にとって彼女から預かった15ドルをそのインディオの夫婦に渡す事は、ゲバラがその夫婦側に入る事を象徴しているように思えるのだ。

それ以降彼は旅人でありながら、積極的に人の中に入っていく。それでも傍観者の立場であることには変わりはなかった。その立場が大き く変わるのはハンセン病診療所に着いてからだと思う。「モータサイクルダイアリーズ」での旅の終わりはベネズエラのカラカスではないと思う。二人の旅の終 わりはこのハンセン病診療所のように感じる。彼らはいずれこの診療所からいなくなる人ではあるが、それを考える事なく二人はここに止まって働く。その時既 に二人は傍観者ではない。それが象徴的に現されているのが、ゲバラが診療所で迎える誕生日に河を泳ぐシーンだと思う。若さ故の情熱と言えばそれまでだが、 僕にはゲバラが自分の命を省みず、傍観者であることをやめ、積極的に彼らの中に入る姿がそこにあるように思える。だからこそ、ハンセン病患者達はゲバラを こころから受け入れたと思うのだ。

原作ではこの河を泳ぐシーンはない。これは映画のハイライトとして脚本家が創作した逸話である。でも後日「チェ」と親しみを込めて呼ばれるゲバラの事を知っている僕には、この逸話が不自然に思えない。

旅には必ず出発点があり終着点もある。仮に旅をし続ける人がいたとしても、僕には必ず旅の終わりは、その人にも訪れると思っている。 例えその終着点が次の旅の出発点になったとしても、やはり旅は「何処から何処へ」があるのだと思う。でもこれは旅だけではないのかもしれない、ゲバラに とってこの旅は、彼の人生においてチェ・ゲバラになる為の出発点だったのかもしれない。

同様に思う事は、現代の僕等は一体何処から何処に向かっていくのだろうかと言うことだ。できれば僕等の旅が次の世代の幸福に続く事が出来ればと願う。でもその為には、旅の途中でも立ち止まって考える必要があるのかもしれない。そんな気がする。

追記:
・歩くという事は色々なことを考える事が出来る様な気がする。モーターサイクルが壊れ、二人の旅が徒歩に変わってからの旅の内容は、モータサークルの時と較べ思索的になっていった感じを受ける。(2004/11/16)

・香田さんの事を考えた。彼も同様にイラクの探検旅行だった。そしてその旅は映画のゲバラのように自分探しの旅でもあった。彼が戻っていたら、お父 様が言われたように、人類の平和のために活躍した人になっていたかもしれない。僕は、映画で同感する事が、実社会では批判される事に不思議を覚えてしま う。(2004/11/16)

・旅に出ると、何でも見てみようやってみようと、好奇心が旺盛になる様な気がする。好奇心は悪いことではないけど、そればかりで終始すると「旅」の 深さを味わうことが出来ないように思える。「旅」の深さとは、自分を異なる環境に身を置いて振り返る事で得られる様な気がする。結局は自分を探すことが 「旅」の1つの姿かもしれない。映画のゲバラの場合、好奇心だけではなかった様に思える。彼はいつも旅の途中で「手紙を書く」ことで立ち止まり、振り返 り、そして考えていたと思う。 (2004/11/16)

2004/11/15

周期表の覚え方サイト

新元素発見の時に、色々なサイトを見て回っていた時に見つけたサイト。
サイト名もずばり「周期表の覚え方
副題が「高校生必見 ただし、18才未満お断り」

懐かしさもあってか、すごく面白い。なにか刺激的な方が覚えやすい様な感じがした。
「水兵さんのリーベは僕のフラフです。寝ながら交わる尻にプスっとくる。あーカイカイ
少し乳房をくるんで、満遍なく平行に、どうもあえがり。ぜーぜー汗 びっしょり、苦労するわい。
じきに女房もテクニシャン、そこは流浪のパラダイス、銀座の角のインバンヤ済んだら全て用心せよ。煙管くさい婆・・・」
これは横の覚え方として載っていた一例。中国地方の某有名高校で使われていたらしい。

ブログ「科学随想録」でも面白く色々な覚え方が載っていた。特に数の数え方で小数点の数え方は始めて知った。ちなみに以下の通り。

割・分・厘・毫・絲・忽・微・繊・沙・塵・埃・渺・漠・模糊・逡巡・須臾・瞬息・弾指・殺那・六徳・虚・空・清・浄

でもこれって実際に使っている人いるのかな?

「東京都迷惑防止条例」再改正の動き

「東京都迷惑防止条例」がさらに改正の方向で警視庁が動いているようです。記事によると、「客引きらが、たむろするだけで規制対象とするなど異例の厳しい 内容」となっています。「客引き」は店との関連が必要なく、警察の判断で「客引き」らとなります。その上で、「警視庁は改正条例の実効性を担保するため、 違反行為については懲役刑や罰金などを設け、厳罰化する方針」との事なので、繁華街(例えば渋谷)で友達と立ち止まって話をするだけでも、警察の判断で逮 捕される可能性があるわけです。(新聞記事はここ

たむろ自体を禁止する事は自由を制限する事でもあり、規制すること自体、重大な憲法違反ではないのでしょうか?しかも、何をもって「たむろ」とするのかについても警察の判断となります。しかもこの条例には人権尊重のための濫用禁止規定すらないのです。

今回の改正は事前に都民約2600名にアンケートを取り、9割以上の方が賛成した事により提出するとの事ですが、アンケートの質問自体に誘導がなかったのか気になります。(勿論、約2600名の方の抽出方法も含めてですが・・・)
例えば「悪質な歌舞伎町の客引き行為が迷惑に感じるか」の質問だけをされた時、多くの人はその文面だけ捉え、「迷惑だ」に投票する様に思えます。(今回の改正の元になった、「繁華街における迷惑行為対策についての報告書」)

それから、複数ピンクチラシを所持しているだけでも逮捕の可能性があります。これはピンクちらし配布の禁止からです。勿論ピンクチラシを配布しているかどうかも警察の判断になります。

今後この件で論議が出ると思いますが、都民の一人として出来るだけ注目していこうと考えています。

2004/11/14

山下さんの「ウェブログの心理学」を読んで

専修大学の山下清美さんの「ウェブログの心理学」(2004年7月19日)を最近読んだ。この資料の目的は山下さんの研究紹介と今後の展望を書かれ ているので、特にこれといった内容はない。ただ、心理学の立場からのウェブログ研究は例が少ないこともあり、少し個人的に注目している。

今回遅ればせながら読んでみて、研究紹介資料とはいえ研究の進め方と今後の展望の中で幾つか気になる点があったので、簡単に記したいと思う。

1.ウェブ日記からウェブログへの変遷において、ウェブ日記が何故日本に登場し流行したかの考察が少ないように感じた。その考察があって、その後のウェブログの流入による新規利用者とウェブ日記からの転入の違いが見えてくるように思える。

2. 基本的に本資料ではウェブ日記とウェブログを同等に扱っている。しかし、ウェブログには人間指向と情報指向の2つの指向があることもあげられている。ウェ ブログはウェブ日記に較べるとコミュニケーション機能が多い中で情報指向性はどの様な意味を持つのか踏み込んだ解釈を期待したい。本資料ではウェブ日記に も各種ツールを使うことでウェブログと同等の機能を持つことが示唆されてはいるが、殆どの利用者は与えられている機能の中での利用と考えられるので、機能 面からは同等とは言い難いと思われる。

3.情報指向性の踏み込んだ解釈としては、今後の展開の中に一語書かれている「知識創発」のツールとしての研究がそれに該当すると思われるが、それ がウェブ日記等の4つのカテゴリのどれに属するのか少し不明瞭でもあるように思える。個人的な意見では日記の4つのカテゴリ分けに「知識創発」は縦横とも その中間に属するように思えるがどうだろうか。

4.日記療法に関して言えば、最近英国の心理学会で逆の報告もされていると聞いている。その点における立場の明確化も今後行って欲しいと思う。

いずれにせよ、今回紹介内容に較べ、思いつくまま書かれたとの事だが、今後の展開内容には多くの興味が持てる項目があるので、研究成果がどの様な形になるか今のところ不明ではあるが、今後も注目していきたいと思っている。

多 分上記の資料のようにグルーピングされることに抵抗をもたれる方も多いとは思う。実は僕もその中の一人でもある。それにグルーピングされ解釈される事に何 の意味があるのかと思われる方もいると思う。僕は心理学者でもないので、それに対する回答は持ってないが、メディア面とビジネス面にそれらの成果が利用さ れているのは確かだと思っている。個人的には、その成果からより優れたウェブログの機能もしくは利便性の高いマンマシンインターフェースが導かれることを 期待している。

今回参照した資料は山下さんのサイトから得ることが出来る。

「隠し剣 鬼の爪」の感想にならない感想

「隠し剣 鬼の爪」を見に行きました。実を言うと映画のことを今まで多く書いているけど、感想を述べ るのは正直苦手です。何故かというと、見る映画が全て好きになってしまい、あまり批評が出来ないからです。勿論、批評をするために映画を見るのは本末転倒 だと思うけど、僕の場合、大抵感想は「面白かった」「良かった」で終始してしまう。これも大いに考え物だと思うのです。人に言わせると幸せな観客、映画監 督が最もメディアにインタビューさせたい客となるそうです・・・(笑

その例にもれず「隠し剣 鬼の爪」も良かったです(笑
これから見る人もいると思うので、ネタばらしはやめにします。でもすじに関係ないところの話を幾つかします。

僕 がこの映画を観る前に一番気になったのは「鬼の爪」ってどんな剣法?って事でした。何故隠し剣なのか?何故限られた弟子にだけ相伝するのか?何故果たし合 いの時には使えない剣なのか?それが見終わった時にはわかって良かったです。もうこれだけでもこの映画を見て良かったと思いました。それから、主人公にだ け「隠し剣 鬼の爪」を相伝した理由も、彼が正直で誠実だからこそなんだろうなぁって思いました。それも「鬼の爪」ならではの理由ではないかなと思いま す。だから、この映画は男女二人を軸に描かれていますが、タイトルに偽りはないと言うのが正直な感想でした。

江戸時代の人達の恋愛感情は あんな感じなのでしょうか?が次ぎに思った事です。とにかく男女の恋愛は受け身過ぎるような気がしました。男は嫁を迎えるのは良いとして、女性は結婚に対 して完全に受け身だったのですかね。あの映画を女性が見てどの様に感じたのか話を聞いてみたいと思いました。勿論映画の感想に関して、女性との性差はない のかもしれませんけど、男性社会の中で生きてきた女性からみると、あの映画はどの様に映るのかが、見終わった時に少し気になりました。そして、もしかする とこの映画を良い映画と評する男女の割合は、圧倒的に男性の方が高いのでは・・・などと考えてしまいました。
何処がと言われると困ります。第一映 画の時代は江戸時代ですし。でもそう言う視点で、もう一度あの映画を考えると、現代に何を言いたいのか正直わからなくなってしまいました。何か、考えよう によっては「らしさ」を強要されている感じもして、少しずつ評価が下がる感じもします。それは視点の問題かと思えば良いのでしょうけど。

映画が始まる前に、いつもの事ながら多くの予告編がありました。その中で幾つか見たいなぁって思わせる映画もありましたけど、それ以上に僕が面白いと思った のは、映画の広告って一種のプロバカンダ広告だと思うのです。予告編に使われている手法ってそんな感じがします。うまく心理学を使っていると思うし。でも 一度に多くのプロバカンダと思わせる映像(予告編)を見せられると、逆に冷めてしまうものですね。見せて効果がでるプロバカンダって量も関係するのではと 思いました。

以前に「エマ」の内容をブログで書きました。書いた時点では、日本のメイドの事なんて少しも頭に入っていませんでした。でも この映画は、ある意味「エマ」ですよね。侍と下働きの女性の話なんですから。そして「昔の日本にも、同じ国に2つの国があったんだなぁ」って思いました。 そこから転じて、1つの国に複数の国がある事って、その複数分の差別があるって事なんですよね。そんな単純な事に気がつきました。

映画の話に戻りますけど、主人公の剣術の先生役(田中 泯)って、「たそがれ清兵衛」にもでていたけど、格好いいなぁって思いました。ということで、画像は田中 泯です。

とりあえずそんな感じです。

2004/11/13

超重元素合成その後


11月8日のブログ「超重元素合成」の記事の中で幾つかの「知りたい点」(以下)を書いた。

・元素合成を行う理由。
・行う事によるメリット
・結果的にでる利権の問題
まだ途中で中身は薄いが少し書きたいと思う。

ちなみに理研ニュース11月号に113番元素発見の詳細が掲載されている。

この件で図書館から元素の本を借りて読んだが、意外に面白かった。読んだ本は朝倉書店出版の「元素の辞典」で1994年初版だった。辞典なので各元 素毎に性質だとか用途だとかが詳しく載っている。同じ出版元から出している書籍に「「元素発見の歴史1?3」があるが、それは図書館には置いてなかった。 ただ、この辞典にも多少は歴史が書いてあったのでそれなりには知ることができた。

・「元素合成を行う理由」について
超重元素と呼ばれる、93番のネプツニウムより原子番号が大きい元素(重たい元素)は、、不安定ですぐに別の元素に崩壊してしまうので、自然界には存在しない。つまり人工的に合成するしか発見はできない。

なぜ人工的に作られるのに発見と呼ばれているのかは、これは僕の想像だが、「自然界に存在しない」と言う事は「自然界に一度も生成されたことがない」とは違うと思う。例えば、恒星の爆発、星系同士の衝突等で瞬間的に生成される可能性もあるのではと思う。

「周期表」に対する貢献
「周期表」は人類にとって大いなる知識だと思う。今までの元素発見には、多くの人が力を注いできている。それに少しでも貢献したい科学者の気持ちがあるように思える。

元素の存在限界を知る事への過程
「周期表」は宇宙の素材表だと僕は素人ながら捉えている。元素の存在限界はどこにあるのかを知ることは、逆にいえば宇宙の事を知る手がかりに繋がるのではと思う。

安定した島の発見
現代物理学の理論では重たい元素の中には、安定な特定の島(元素)が存在しうるとなっていて、それに相当する元素は近所の元素より不安定ではないらしい。 より安定する超重元素が発見されれば、その元素の性質を含め調査が可能になるかもしれない。そしてその元素が新たな物質として未来に利用される可能性 (夢)も出てくる。ただし、その元素は番号からみると114、120台、160台とか・・・

今回発見された元素の利用
今回発見された113番目の元素は非常に不安定な為、その元素の性質の調査は現状では殆ど難しい。観察のレベルとなるので、実質的には研究用のみの利用(次の元素の発見)となるのだと思う。

僕にとって、元素合成を行う理由は、人の特徴だからとしか言いようがない気がする。未知なる物を追い求める内なる欲求。それが一番大きいのかもしれない。

・「元素合成するメリット」
周期表に日本から命名された元素が載ることは大きい。なぜなら周期表は、都度書き直されながらも、人間の営みの中で残され続けるものであるからだ。これに名前が載る事だけでも、素直に理研の研究者に拍手を送りたいと思う。

現代では元素合成を行うにはそれなりの複雑で高価な装置の開発が必要になる。その装置の開発からの応用技術が商業に転用されるかもしれない。

理化学研究所は文部科学省の所管の独立行政法人なので民間の研究所よりはメリットおよび利権などを意識して研究を行わなくてよい環境にあると思う。だから、僕の最後の知りたいこと「利権」については愚問だったのかもしれない。

・今回気になった点
「元素の辞典」では99番元素と100番元素の発見エピソードは以下のように書かれている。
「初の熱核兵器Mike実験は、1952年11月1日エニウエトック環礁で行われた。Mikeは爆弾と言うよりその一歩手前の爆発装置というもので(以下略)」
この実験で99番元素と100番元素が発見されるのだが・・・

この話は世界で最初の水爆実験の話だと思う。なんという無邪気な表現なんだろうと思ってしまった。これらエニウエトック環礁とビキニ環礁などの相次 ぐアメリカの水爆実験と、原爆実験により島が地球上から亡くなり、日本には死の灰の雨が降り注ぎ、日本の漁船は被爆もしている。当然にその地域の生態系も 大きく変わったことだろう。勿論、科学者達は東西冷戦の中の核開発競争に便乗したに過ぎないが、科学者としてもう少し幅広い視点を持ち合わせて欲しいと 思った。例えば、晩年のアインシュタインの様に。

しかも、この水爆実験で発見された99番元素の名前はアインシュタインから取られた名前とは皮肉が効きすぎている。

画像は「周期表」、「周期表」は元素の周期律がわかりやすいように配列された表である。さまざまな周期表があるが、長周期型周期表が現在もっとも広く利用されている。

2004/11/12

うん、犬も悪くないなぁ^^


ブイヨンって可愛い^^
実は最近ブイヨンにはまっている。
(ブイヨンがいる場所はここ
有名サイトですけど「ほぼ日刊糸井新聞」は面白いです。
(はじめてブイヨンのサイトに行く場合はここから入ると良いと思います^^)

寒くなると、ジュニアもレオも僕の布団の上で寝る。中においでと言って一度は入ってくるけど、僕の寝相が良いせいか、すぐにでてしまう。出るとき冷気が布団の中に入る。こんな時、全く猫って奴はと思う。

そう言えば、犬は子供の時に飼っていたらしい。
実は全く覚えていないけど、ちゃんと写真に僕と一緒で写っている。でも父が出張でいないときに、母が散歩に連れて行き、そのまま行方不明になってしまった。
母は元来動物は苦手だから、付近を探すなんて面倒なことはしなくて、すぐに家に戻ってくるでしょ、と軽い気持ちで家に帰ってしまった。
家に戻る犬は、そりゃテレビで見るけど、あの犬はそれが出来なかったらしく・・・そのまま行方不明・・・
母は姉と僕の世話で手一杯で(そう本人は言っているけど、僕は信じていない・・・)それっきりだったそうだ。それっきり家では犬は一度も飼っていない(怖い話だ)。
小学校の時、友人宅で犬を飼っていた。友人は凄い短気な奴で、家で叱られるといつもその気持ちを犬にぶつけていた。首輪をもってぐるぐる回すのだ。
見ている僕の方も気持ちが悪くなるくらいに・・・
それを見て小学校の時の僕は「犬にはなりたくない」と思ったことを今でもはっきりと覚えている。

今から考えると、とんでもない話かもしれないけど、犬にだってやはり受難の時代はあったのだと思う。
画像はブイヨンのサイトから持ってきてしまった。ダウンロードの所だから、ここで使っても問題ないよね・・・(さぁ

2004/11/11

感動携帯? 勘当携帯?

auの着うたフルの価格が発表当時(10月13日)に既にある程度出ていることを今頃になって知った。今までに本ブログで2回「着うたフル」の事を書いているが、再度この価格設定を踏まえて書くことにした。

発表では「アーティスト公式サウンドフルの場合で315円など数百円」との事。Appleで展開している音楽配信サービスとは違い、価格は一律では ないという事だのだろう。315円という価格は最大値であることを願いたいが、いかんせん既に米国等でサービスしている、100円感覚の価格設定に比べる と割高の感は免れない。

ただ、日本でネットを使っての音楽配信サービスは概ね1曲250円くらいなので、実際にはその価格帯で落ち着く様な気がする。

正 直言って音楽配信サービスは(この価格帯であれば)日本で大きく広まることはないだろう、と言うのが率直な気持ちである。勿論一部のニーズは満足すること になるとは思うが、レンタルCD業界に脅威を与えるほどのサービスにはなり得ない感じがする。ましてや、以前にも書いたがiPodの変わりにはなり得ない と思う。

しかし、11月下旬サービス開始の割には価格帯の発表が(明確ではないが)早いように思える。価格は営業施策上重要な項目である ため、日本では通常最後に決まることが多い。勿論競合相手を牽制する事から相当事前に発表する事もあり得るが、着うたフルの場合牽制する相手は特に見あた らない、また、この価格では牽制にもならない。何故だろうと自問することもなく、僕には1つの推測がある。これはau主導のサービスに見えるが、実態は音 楽業界が主導のサービスだという事である。特に楽曲の価格面については、リーダシップを持っていたのは終始音楽業界側だったのではないかと想像する。

そう考える様になった根拠は以下の通り。

1.KDDI 側にとって本サービスは技術的に「着うた」の延長線上に位置づけられているので、サービスサーバは基本的に流用が可能。また維持費用はサーバ台数の検討が 必要だが、実態ベースでは「着うた」の維持の範疇に含める事とが可能である。窓口対応などの人的費用は「着うた」の延長で対応可能。つまり、KDDI側で は、この件に対応する事は携帯端末対応、CD購入等の物品販売対応、音楽サイトの構築くらいで、開発期間は短く、開発維持コストは安いと思われる。

2.楽曲の価格は殆ど音楽業界に支払う著作権料。

3. 本音ベースで言えば、KDDI側は音楽が売れようが売れまいが問題ではない。KDDI側が気にする事は、他携帯各社に対する携帯機能およびサービスの差別 化だと思う。特に本サービスはダブル定額サービス利用者が主たる対象者でもあり、KDDI側にとっては音楽が売れても売れなくても、顧客から料金を徴収で きる。

4.上記3では、音楽が売れる事に興味がないと書いてしまったが、勿論売れて欲しいと思うし、それなりの営業努力は行うはずだ。そ の結果、KDDI側は音楽業界と深い繋がりが持て、今後の展開に有利になると思われる(他の携帯会社が始めた時、デファクトスタンダードの扱いになり、 サービスが先行しやすくなる)。

5.本サービスにより、auに対する周知度が高まる。また音楽を全面に押し出したイメージ広告によりauの好感度があがり、結果的に端末シェアの増大につながる。それは「着うたフル」機能を持たない端末まで波及効果が得られ、その面からもKDDI側は利益を得る。
6.音楽業界から見ると、権益を守る為に音楽配信の媒体を1つでも押さえておく必要がある。KDDIは「着うた」でのラジオ局との折衝により、通信会社の枠を超えるような交渉は行わない印象が他業界にあるため、今後の事を考えて交渉しやすい相手と思われている。

つまり、今回の「着うたフル」の楽曲の価格設定で、KDDI側が一番に考える事はユーザの事ではなく、音楽業界との繋がりだと思う。その結果が、料金の設定提示の早さであり、「着うたフル」の機能面の現れだと思う。(PCとの連携が出来ない、コーディックは一律など)

ビ ジネスモデル的には「着うた」と同様のFM放送から楽曲購入の流れに、今回はCD購入を加えることになる。CD販売は通信会社としては初めての試みだが、 実態ベースでは委託になると想像する。詳細はわからないが、技術的にはWebサービスを使っての流れと考えて良いと思う。

「着うたフル」 は、新規携帯の多くの機能を利用でき、ネットを使っての音楽購入を違和感なく使うことが出来、音楽を頻繁に聴く、新しい物好きの人が対象で、それなりに少 ないがいると思うから(何か自分の事を言っているように思えてきた^^)、それなりに売れるとは思う。勿論、それなりに・・・・

でも、と思う。
確かにKDDIは「着うた」では大きな成功を得た。でも、これはあくまで個人的意見だけど、「着うた」と「着うたフル」は確かに技術面とビジネスモデルとし ては同等だと思うが、サービスとしてみると明らかに違うと思う。「着うた」は「着メロ」と同系列ではあるが、それは着信音のカスタマイズ化の位置づけであ り、携帯の個性化へのニーズから現れたサービスの様に思える。
しかし、「着うたフル」は明らかに着信音ではない。勿論着信音として利用できるが、それは「副」の機能だと思う。第一、人は「着うた」をイヤホンで聴き続けるであろうか?そんな人は少ないと思う。(いないとは言わないけど・・・)
「着うたフル」は正真正銘の音楽配信サービスである。でも今までの発表を見る限りでは、サービスも同一線上に見ているように思えてしかたがない。

企業が1つのサービスで大成功すると、逆にその事がネックになり思考が停止することがある。この場合、顧客ニーズをリサーチしていても、結果は前回の成功をおさめたサービスの視点で物事を見ているので、分析を見誤る傾向があるようにも思える。
勿 論、「着うたフル」のサービスはイノベーションではない。でも今回、KDDIは従来の音楽配信サービスを変革できる千載一遇のチャンスを得たはずだった。 できれば、現在の日本の音楽配信サービスを変革する意気込みで、このサービスを立ち上げて欲しかった。これが、僕の正直な気持ちである。それにより、 KDDIは想像以上の有形無形の利益を得ることが出来る。勿論、利用者においても同様だったと思う。
これでは、KDDIの前身であるDDI子会社であったポケットのエッジ音楽配信サービスとなんら変わりはない様に思えてくる。

上記のように、少し失望感を持って記事を書いているが、それでもKDDIは通信会社という官僚体質企業から抜け出る事が出来る会社だと、期待しているからで もある。今からでも決して遅くはない、携帯電話会社が始めて得られた千載一遇のチャンスを生かして、あっと驚く展開を期待している。このままの何もしない で、感動携帯が利用者にそっぽを向かれる勘当携帯になる前に。

2004/11/10

ブログを始めてから1ヶ月半たって思うこと

2004年9月27日にWeblog(以下ブログ)を始めてから約1ヶ月半経ったことになります。このMEMOと題するブログを始める時に、僕は以下のことを書きました。

「世の中に何かを伝える物が何もない自分にとって、Blogを始めると言ってもそんなに大層な事は出来ない。ただそんな自分でも続ける事によって、自分の何かが見えて来るに違いない、そんな気持ちから始めていきたいと思う。」

「自分の事を知りたい気持ちから書いていこう」という気持ちから始めたので、ブログの名前も、「本稿」の意味でなく「覚え書き」の意味である 「MEMO」を使いました。それは、今後色々と考えていく時に考えも変わるかもしれないけど、まずは今の考えを記録しておく気持ちからです。勿論ブログと して発表した以上、自分の書いたものに対して責任を持つ必要があると思っています。「MEMO」だからと逃げるつもりは全くないのですけど、自分にとって は当初の気持ちから、その様な位置づけのタイトルとしました。

初めは、自分が勤める会社の業務の事を考える内容に終始しようかなと考えたのですが、逆にそれは未だに実現していません。(拙いさわり程度の内容でしたら「知識は信念」というタイトルで掲載しています)

1ヶ月半経って思うことは、自分が書くと言うことよりも、人のブログを見て色々と勉強になった場合が多かったと言う事です。人が特定の組織もしくは 業界で働くと言うことは大なり小なり世界が限定されてしまう傾向にあると思います。勿論そうではいけないとは思いますが、より専門性を求められるとなおさ らその傾向が強くなるような感じを受けています。その例にもれず、自分のことを振り返ると、自分もそうである様に思えます。

自分でブログを始めることにより、人のブログを読む機会が増え、良い意味での刺激になった様に思えます。そして、多くの人のブログで意見を読み、い ままで考えもいなかった事を知り、その考えを自分なりに整理し付け加え、さらにその考えを元に他の意見を読み・・・というふうに「考え」を循環して進めて いく事が楽しくもありました。

ナレッジで言うと、「知識」を共有し、他の「知識」とぶつけることで新たな「知識」を創り出していく過程を自分の中で実践できた様な印象です。勿論、内容はたいしたことではないのですけど・・・・

新たな考えの中で、1つ具体的な例をだすとイラク問題についてです。
多分ブログを始めていなければ、僕にとってイラク問題は新聞の1つのネタにしか過ぎなかったのではないかと思っています。つまり新聞・テレビを見て同情す るけど、それ以上の思考は進めなかった様に思えます。同じく人質事件についても同様です。今回自分の気持ちが、あの事件で揺れに揺れた事は実は意外でし た。イラク問題については、未だ自分の中で靄となっている部分もありますが、今まで考えなかったことから見るとだいぶ違うように思えてきます。

今まで書いたものを読み返してみると、どちらかというと好奇心で書いた物が目立ちます。それはそれで良いのかもしれませんが、自分にとっては、それ だけで終始してしまうと火事場の野次馬と何ら変わりはないと思っています。興味をもち掘り下げる事には少し長い時間が必要だと思います。その為、今後もこ の場を借りて、同じ話題を何回か繰り返して進めて行ければと思っています。

また僕はブログを始めたばかりなので、今後このブログのスタイルも変わっていくと思います。とりあえず変化の第一歩として、次ぎの2つを徐々に始め ていきたいと思っています。一つめはモブログ(写真)を別のブロブに移動します。二つめは、自分の名前(リアル)の掲示です。僕の名前を掲示したからと 言って、他の人から見ると「Amehare」と同様に1つの記号としての他、何の意味もない事だと思います。これは自分に対する事としてやるつもりです。

世の中の事を含めわからない事が多いので、結果として今後も拙い考えを載せていくことになるとは思いますが、このささやかなブログを続けていきたいと思っています。

2004/11/09

Coccoの新譜

今日CoccoのCDが届いた。絵本「南の島の恋の歌」を購入すると買うことが出来るシングルCDを 申し込んでいたのだ。シングルCDの中には2曲(ガーネット/セレストブルー)入っている。久しぶりのCoccoの新曲と言うだけで嬉しい。それに、 「ガーネット」って名曲?って感じがするくらい好きになった。

Coccoのアルバム3枚目から聞き始めた僕は遅れてきたファンと言っても良いと思う。
でも遅れた分だけ、人より「はまる」のも強かった感じがする。それこそ四六時中聞き続けた。そのころの僕は大袈裟でなくCoccoの曲しか聴いていなかっ た。実は正直言うとCoccoのアルバムは1枚目から買っていた。でもさわりだけ聞いて、僕の趣味に合わないと、全て聞くことなくラックの中に放り込んで いた。そのころの僕は、どういうわけかニール・ヤングにはまっていた。そして彼の初期の音楽から購入、もしくはレンタルして聞き続けていた。誰でもそうか もしれないが、僕も一度聞いた音楽に少しでも心が揺さぶられないと聞き続けることが出来ない。でも心はとてもやっかいで、すぐに変わるものだ。誰かが猿の 喉のごとし、と言っていたけど本当にそうだと思う。多分、初めてCoccoの曲を聴いた時、僕の心の状態では受け付けることが出来なかったのだろう。今と なっては、その時の気持ちは想像する事もできないけど。

Coccoはそれから、突然の活動中止宣言、そして沖縄に戻っていく。戻ってからのCoccoの消息は、しばらくの間知ることが出来なかった。その 中でも僕は歌を聴き続けながらCoccoの事を考えていた。僕は歌うことが好きな彼女は、歌をやめることが出来ないと思っていた。いずれCoccoの歌に 再会できると信じていたし、彼女の詞にあるせっぱ詰まった感じが、沖縄に戻る事でどの様に変化していくのか想像もしていた。次第にそれは、僕の中である程 度固まって行ったように思える。僕にとって、そこには大きな変化がなくてはいけなかった。そう言う気持ちで、今回届いた彼女の新曲を聴いた。

でも久しぶりに聞く彼女の歌は、僕が想像していたのとは違っていた。Coccoは当たり前だけどCoccoであった。逆にそれは僕にとっては大きな 驚きでもあった。だから以前のCoccoのままの歌が、逆に新鮮に聞こえたのだった。今回の2曲の詞は多少穏やかになった印象は受けるけど、やはりそれは Coccoの延長線上での穏やかさだと思った。

Coccoは多分聴く側の事は考えていないと思う。あくまで自分のイメージを追い求めているように感じる。そしてそれがCoccoがCoccoであ り続けた1つの理由であったように思える。多分彼女は未だに彼女の中の「沖縄」を追い求めているに違いないと感じた。現実の沖縄と彼女の中の「沖縄」との ギャップは、そんなに簡単に埋まることではなかったという事なのかもしれない。逆に言えばCoccoはCoccoのまま進化していくのだと思った。そして それは僕にとって、とても嬉しい事であることは間違いない。

Coccoの活動中止宣言は今から考えると、ファンである僕の立場からみても正しかったと思っている。これは想像だけど、あのまま彼女の「嫌い」な「本土」にいたら、僕は今回Coccoのままの曲を聴くことが出来なかったと思う。
沖縄に戻ったCoccoは絵本制作と沖縄の浜辺のゴミを無くす運動を繰り広げたりと行動の幅を広げてきた。またタワーレコード日本25周年記念として、く るりのプロデュースで新譜が出ることが決まっている。沖縄を活動の中心にCoccoの歌が少しずつ聴くことが出来る様になってきたと思う。この「思う」に は、そうなって欲しいという願いが、だいぶ入っているのは確かだけど・・・。

「甘いおやつ」さんのWeblog

香田さんへの哀悼の気持ちを伝える「甘いおやつ」さんの言葉です。是非とも紹介したくなりました。

「甘いおやつ」さんの言葉

そして、「甘いおやつ」さんがその文章を書くきっかけになった絵も紹介します。

DoXさんの絵

2004/11/08

超重元素合成に成功

今までに確認されているどの元素よりも重い原子番号113の元素合成に、理化学研究所などのチームが成功した。元素の発見・合成はこれまで外国勢の独断場だっただけに、日本初の超重元素合成は「オリンピックの金メダル以上の価値がある」(理研)成果。
(産経新聞 2004/11/8朝刊より抜粋)

この記事を読んだ時、理研の研究者の御苦労が実を結んだ事に拍手を送りたいと思ったのは事実。
ただ、如何せんそれが何?という気持ちも恥ずかしながらあったのも事実だ。科学に疎いと言われればそれまでだけど(でも一応理科系なんですけど・・・)何か具体的にピンとこない話であった。

産経新聞の科学欄に掲載されていたこの記事は、紙面のほとんどを使って紹介していたが、その内容は実験内容と成功の素晴らしさを喧伝するだけに止 まっていたのもあり、それが一体どの様に大変な事かがいまいち理解できなかったのが大きい。その記事から見えるのは、実験の仕方の他、この分野ではアメリ カ・ロシア・ドイツの独断場であった事、新元素に対して命名権が与えられる事、中学の教科書に周期表の復活につながればいいと研究者が期待している事、だ けだった。

これはあくまで素人想像だが、新元素の発見は応用技術として、新素材、新エネルギー、もしくは他の分野での基礎技術として繋 がっていくのかもしれない。今後の利用における可能性を含めて、現在各国が、新元素の合成にある程度の力を注いでいる理由を書いて欲しかった。書く事で、 科学が好きな子供達に夢を与え、その分野の次につながるように思えたのだ。

書いて欲しかったのにはもう一つ理由がある。それは、人は、人 が行う多くの行動(例えば政治・経済・文化等の活動)について、早い段階で知り、概ねその内容を理解する事ができると思う。勿論、その理解はそれぞれの立 場で変わるが、その行動に対しそれぞれの立場で、時には応援し、時には批判し、時には傍観する。そしてそれらの幾つかが、よい意味でのチェック機能になっ ている事も多い様に思える。

でも上記のような基礎科学の話になると、これは想像だが、恐らく興味を持つ事さえ、政治などに比べても、人数 は少なくなるのでないかと思う。しかし、科学の発展が、時として知らぬ間にわれわれの生活に大きな影響を与えていく事は事実だと思うし、それがよい面に向 かえば幸いだが、全てがよい結果にならない事も我々はすでに知っている。基礎科学の研究より応用の段階でチェックをすればよいと言われるかもしれないが、 早いうちに警鐘があげる事ができれば、それにこした事はないと思う。

クローン技術、遺伝子工学、原子力、医療技術及び薬品などは既に社会的に認知され大いに議論されている。僕はその他の基礎技術に関しても同様に行ったほうが良いのではないかと思っている。まずは情報の開示だと思うがどうだろうか?

勿論、今回の成果に対して言っているのではなく、今回の事で素人ながら拙い考えだが、自分なりに気になった。

追記:
人 工的につくられた元素に発見との言葉に違和感があった。元素レベルであれば人工的に合成可能であれば、自然界にも存在する可能性はあるという事で、「発 見」という言葉を使ったのだと思うが少し気になった。その点も書いて欲しかった。さらに、各国が元素合成研究を行う事が、将来どの様な利権を期待している のか気になったのもある。しかし、何も書いていない以上、気になる事は自分で調べるしかないのかもしれない。

2004/11/07

歓喜天

鎌倉の萩の寺として有名な宝戒寺には秘仏として歓喜天がまつられている。秘仏なので勿論一般公開はされていない、というか住職でさえ見たことはない のでは?と言うほどの秘仏だ。その秘仏である歓喜天をどうしてもみたいと思った時があった。それで毎週休みの時に宝戒寺に参拝をしたが、やはりそれは叶わ ぬ夢だった。それでは写真でもとネットで調べるが、もとより秘仏なので写真の掲載も見つけることが出来なかった。(というか無かった)

しかし偶然にも図書館で僕はそれを見た。館外不出の相当に古い本で、その本には鎌倉の全仏像がモノクロ写真で掲載されていた。そしてその中に宝戒寺 の歓喜天があった。正直言って期待していた。何しろ、日本最古の木造歓喜天で、これまた唯一の重要文化財指定でもあるのだ。期待しない方が無理というもの だろう。
でもそのモノクロ写真に写されていたのは、当たり前かもしれないが普通の歓喜天だった・・・つまり象(ヒンドゥー教のガネーシャという偉い神様)が2体(勿論男女)立って抱き合っている姿をイメージして欲しい。

そもそも歓喜天に不動明王とか梵天とか四天王の風格を求めるのは無理な話かもしれない。そもそも、それらの神様?達とは違うし・・・
宝戒寺の歓喜天は室町時代に造られたとなっている。仏師はこの仏様をどの様な気持ちで造ったのだろうか、勿論真面目な気持ちで造ったのには間違いないけど、何故かそれを想像するだけでも楽しい。

歓喜天の事について、知りたい方は是非とも次のサイトを見て欲しいと思う。僕にはこのサイト以上の事を書くことは出来ません。とても面白いのでお奨めします。
仏像ネット
・インド神様図鑑

上記サイトを見るのが面倒だと言う方に要約を書きます。

ある時、シバ(ヒンドゥー教の神様)の奥さんがお風呂で身体を洗っていたら、垢から男の子が生まれた。凄い美少年で奥さんは喜び、自分のお風呂の番 をさせた。そこに旦那であるシバが戻ってきた。シバは見知らぬ美少年が奥さんのお風呂の前に立っているのに驚き首をはねてしまう。奥さんはそれに怒り夫婦 喧嘩になる。シバは謝り、次ぎに来た生き物の首を付けて生き返らせる事にした。次ぎに来た生き物は、運の悪い象だった。それで頭が象になった。

その頭が象の神様の名前はガネーシャという。仏教ではガネーシャと呼ばれずに、悪玉のビナーヤカと呼ばれる。ヒンドゥー教の神様を悪者にしてから仏教帰依 させる、布教の手法だ。ビナーヤカは悪行の限りを尽くす。そもそも複雑な精神の持ち主であるシバの子供だから、ビナーヤカも癖が強く性格も悪かった。それ を見かねた観音がビナーヤカに言う。
「SEXさせてあげるから、仏教に帰依しなさい」

ビナーヤカは元々好き者だから、返事は即「OK」。観音は女のビナーヤカ(つまり象です)に変身してSEXする。その時ビナーヤカは大歓喜を得る。それが歓喜天となる。
ちなみに、ビナーヤカは悪い男と書いたけど、それは仏教徒から見たときの話で、立場を変えれば強い神様だから守ってくれる力も強く良い神様となる。でも歓喜天の話だから、あくまで仏教の視点から書いた。

もう一つ思うことは、SEXと言っても現代でイメージする内容と神話でのイメージする内容は少し違うような気がする。神話(日本も含めて)でのSEXは産み出す事に何か神秘的な力をそこに見ていたように思える。

話を戻すと、歓喜天の「歓喜」とはSEXでの快楽(口で表現できないほどの、もの凄い快楽)の事だ。ついでにいうと「快楽」は(けらく)と読む。 「快楽」という言葉は、元々は仏教用語だっと思う。現在の「快楽(けらく)」の意味は「安楽」と言う意味で、つまりは煩悩から解放された状態の気持ちよさ を現している。

でも根拠はない僕の直感だけど、元々はSEX自体の喜びに快楽(けらく)としての悟りを見たのではないのだろうかと思う。仏教学者は言う、SEXは 年をとると出来なくなると・・・いつの時代の話をしているのだと僕は思う、寿命が延びたのはつい最近で、それまでの平均寿命は50才にもいってなかった。 つまり多くの男女は十分に死ぬまでSEXでの喜びを味わうことが出来たのではないかと想像する。

でも、ビナーヤカが得た大歓喜はとうてい人間では得られることが出来ないSEXの快楽だったのではなかったかとも思える。その快楽には悟りに通じる大歓喜があった。だからこそ、ビナーヤカと観音のSEXは1回で十分だったのかもしれない。

でも人間の場合はそうはいかない。快楽を求めると、そこには前の行為に飽き足らない人間の姿が見える。そして求め続ける姿には確かに煩悩に囚われる人の姿がそこにはあるような気がする。それは別に悪いことだとは思わないけど。
もともと仏教はヒンドゥー教の土地で産まれた宗教だから、その背景にヒンドゥー教の世界を包含していると考える。例えば輪廻とか解脱の考え方がそうだ。

ヒンドゥー教は一神教でもあり多神教でもあり、それを論理的に解決している宗教でもある。ヒンドゥー教で重要なシバ神は父娘相姦をしようとした父ブラフ マー(なんと仏教でいう梵天)を殺し、それが理由で修行の旅に出る。自らをリンガ(男根)と名乗り、インドでは男根の姿で崇拝されている。

男根には日本でも昔から魔を払う力があるとされてきた。伊勢神宮には昔男性の神様がいらしたが、女性の神様が来たのでその場所を明け渡し、自分は近 くの場所に移り住んだ。男性の神様の名前を「猿田彦」という。猿田彦は巨大な鼻を持ち、天孫降臨の際に道案内をした元々の土地の神様だった。巨大な鼻はす なわち男根を現す。

男根は強い力を持ち、魔を払うが女性自身には負けてしまう。天孫降臨で天照大神に伊勢神宮を譲ったとはいえ、女性の神様である天照大神に譲った事が何とも興味深い。
猿田彦の鼻はその後、道祖神として各地に散らばっていく。その後、地蔵信仰の隆盛と共に、道祖神はお地蔵様に姿を変える。でも形が変わっただけで、中身が 変わるわけではないと思う。勿論、亡くなった子供の死出の旅を案内する役目の地蔵信仰から作られたお地蔵様もとても多いのは事実だけど。

また、「古事記」での日本誕生の時、柱を男女二人の神様が回り、出会ったところでSEXをし子供として日本の島を産み落とすが、この柱も男根崇拝の現れだと思うのは考えすぎだろうか?
地面につき出すように立つ柱のイメージがその様に思える。その柱は、以後形をかえて、床柱、大黒柱、五重塔の心柱となっていく。床柱も大黒柱も日本の建築 において構造上必要な柱と思うが、僕はその立場で言ってはいない。柱に対する心理面からの立場で、背景に男根信仰が隠されいるように感じるのだ。

特に五重塔の心柱は、周りの建物と一切接続されていない。つまり心柱を覆い隠す為に五重塔の建築がなされた感じを受ける。書籍「五重塔はなぜ倒れな いのか」では心柱が構造上地震対策において重要な役目を果たしていることが明らかにされている。でもインド・中国の塔には心柱は存在しない。韓国では柱が 一本立っているだけである。僕には心柱は、古事記にでてくる柱と密接な関係があると思う。元々ある土地の男根崇拝と仏教の塔が合わさったのではないかと感 じる。法隆寺の心柱は掘っ立て式と呼ばれ、地面に柱を突き立てているが、江戸時代に建造された塔になると、心柱は五重塔の内部で吊られる形になる。その方 が木材の伸縮を考慮した場合有効だそうだ。でも何故か、前記のように考えている僕にとっては切り取られた男根をイメージしてしまう。

話がどんどんと脱線してしまう・・・これも僕の悪い癖だと思う。
僕は何を言いたいのか・・・つまりヒンドゥー教も仏教も日本の神教も、もともと性に関しては人間の自然な行為として、そこから逃げることなく、かつ大らかに解釈していたように思える。それが歓喜天のそもそもの誕生の理由のように思える。
無知な奴が何を言っていると思う方も非常に多いことだと思う。でもそう思う。

それが変わっていった理由として、仏教を国の統治する手段として導入した背景がそこにあると思う。または儒教の影響もあるかもしれないが、それも国 を統治する為の教えと言えば同一線上にある話だと思う。仏教が国を統治する手段として利用される際に、仏教のあり方が変質していくのは当然のことだと思 う。そして、それが歓喜天を秘仏になっていった理由のような気がする。

自分の事を言うと、氾濫する性の情報に対して、時折嫌悪感を持つことが多い。でもその嫌悪感が、人として本来持っている所から来るのか、後天的に作 られた所から来るのか、正直言って自分でもわからない。でも、宝戒寺の歓喜天の姿を求めて彷徨った僕は、その歓喜天が秘仏であることに安心した気持ちを 持ったのは事実である。そして、図書館で出会った歓喜天のモノクロ写真を見る時のドキドキ感と見終わったときの気持ちは、多分(一度も行ったことがないの で本当は何とも言えないけど)、どこかの秘宝館に入り出てきたときの気持ちに近いのではと想像したりもしている。

2004/11/06

忘れられない詩


以前「現代教養文庫」という文庫があった。名前は凄いけど、結構面白い品揃えで、生来すこしずれていた僕としては気に入っていた文庫だった。残念な ことに平成14年に倒産した。でも教養文庫を復刊して欲しいと望む声って結構あるんじゃないかな?少なくとも僕はその一人だ。再度手に入れたい一冊の本が 「現代教養文庫」の中にあるので特にそう思う。

その一冊のタイトルは忘れてしまった。内容は「夭逝」した若い詩人達の解説と詩を集めた本だった。その中で特に気になっている詩人は二人いる。勿論、名前も忘れてしまっているけど・・・

一人は自由が丘学園の生徒で感性豊かな、書いた詩の内容も覚えていないのだけど、感性豊かな詩であった印象をもって覚えていた。

もう一人は、詩の断片だけ覚えている。住所が羅列している詩だった。その羅列の狭間に時折手紙の言葉が挿入されている。手紙の内容の片方は女性で在日韓国人。もう片方は日本人男性。その男の方から女性に出す手紙と返事のやりとりの詩なのだ。

手紙のやりとりは、男性の内容は書かれていなくて、住所だけ書いてある。女性からの返事は、短いけど限りなく優しい。手紙は時折宛名不明での返送があり、また宛先の住所も頻繁に変わる。月日も一緒に記載されているので、その間隔が短く住所が変わっていくのがわかる。そして手紙は届くことが無くなる。

僕が書くと詩のイメージが逆に損なわれると思う。また、長い詩のような印象を持たれるかもしれない。でもいまだに心に残る良い詩だった。

そ の男女の関係が何だったのかはわからないけど、男はいつも彼女のことを気にして心配し、女は優しくそれに応えていた。お互いにとって、とても大事な人間関 係の様に思えた。 住所と住所の空白はその女性のつらい生活が想像できる。そして度重なる転居は何かから逃げるようだった。そして消える・・・・

詩人が何をこの詩に残したかったのかはわからないけど、今となっては名前も知らない、しかも廃刊になった文庫の(そのうえ人気も無かった本)中に載っていた詩が、僕は忘れることの出来ない。

追記:現在以下のサイトで何冊かの現代教養文庫を電子本として購入することが出来る。「妖精の誕生 フェアリー神話学」「海の奇談」などを購入することが出来る。また、NTTドコモのPCサイト本屋「M-stage book」では「現代教養文庫」を電子化して復刻を計画しているらしい。


M-stage book
電子書店パピレス

画像は今年バイクで行った上高地の写真です。これも忘れられない風景。

ロシア京都議定書を批准


ロシア大統領府は5日、地球温暖化の防止を目指す京都議定書の批准案にプーチン大統領が署名したと発表した。これでロシアのきょう批准手続きは完了し、京都議定書は来年2月上旬にも発効する見通しとなった。 (NIKKEI-NETより


ロシアが京都議定書の批准に決定したのは喜ばしいことだ。米国が議定書から離脱しているので、ロシアの批准決定が発効の条件だったからだ。

と ころで京都議定書は地球温暖化防止の取り組みとして温室効果ガス(GHG)の削減を具体的な数値で約束として取り交わしたものであるが、削減義務があるの は先進国だけとなっている。途上国には削減義務はなく、それを不服とした米国が議定書から離脱した。途上国の中で温室効果ガスを最も多く出す国は中国で、 先進国も含めても米国に次ぐ2位となっている。ただし国民一人あたりにすれば、日本は中国の3倍はある。

米国が途上国(特に中国)の削減 義務がないことに異論を唱える気持ちはわからなくもないが、世界最大の温室効果ガス産出国が議定書から離脱したことは残念な事だと思う。米国の離脱で議定 書の効果を疑問視する声もある、しかしだからといって何もしないよりは遙かによいと思う。それに今回は第一次(2008?2012)なので、2012年以 降に途上国を含めての協議に米国も交え、京都議定書より優れた防止策を発効して欲しいと願う。

京都議定書には「京都メカニズム」 と呼ばれる仕組みがある。つまり各国間で温室効果ガス削減量をやりとりすることが出来る仕組みだ。この考え方は非常に有効だと思う。また中国を含む途上国 の参加を先送りにした事も議定書の批准には現実的な対応だったと考える。これらで京都議定書は、米国が離脱したけど発効が可能となった。それにしても議定 書批准の事を見ても、つくづく国際政治とは難しいと思う。総論では、全ての国の人達は地球温暖化対策はやるべきと考えているに違いないというのに。

「見えない経済の三層構造」という考え方がある。経済を「成熟した経済」「発展途上の経済」「生存ぎりぎりの経済」の三つに分け、それぞれの今後の方向を示唆する考え方だ。
「成熟した経済」は主に先進国の姿であり、大量生産と大量消費社会を前提とし、購買力も高い約10億人の人がそれに該当する。
「発展途上の経済」は途上国の事であり、急速な工業化と都市化が進む中、生活に基本的なニーズは満たされているものの最低限の購買力しかもたない約20億人がそれに該当する。
「生存ぎりぎりの経済」とは基本的なインフラが整備されてなく、その日の生存にさえ脅かされる約30億人の人がそれに該当する。

こ の「見えない経済の三層構造」を温室効果ガス削減に置き換えて考えてみると、「成熟した経済」では大量の原料とエネルギーを必要とし、それの廃棄物も膨大 となる。従来のビジネスモデルによる経済となるので、新技術もしくは技術の改良等の現行の考え方の延長線上で削減は出来ると考える。

「発展 途上の経済」は「成熟した経済」をモデリングしてそれを継承している。しかしながら、「発展途上の経済」が「成熟した経済」と同様になった場合、地球の環 境は即座に破壊されてしまうだろう。でも彼らは地球環境の破壊は勿論望んでいないが、成熟した経済は当然に望み、それに向かって速い動きで変化している。 多分、そこに必要なのは全く新しいビジネスモデルだと思う。

新しいビジネスモデルに間違いなく言えることは「成熟した経済」のモデリングは 通用しないと言うことだと思う。ただ、途上国を含めて納得できるモデルを作ることは本当に難しいことだろう。最近そのモデルとして、トリプルベースライン というフレームワークが知られているが、途上国も含めて有効であるかは未知数だ。ただ、グローバル企業が途上国で行うことについては効果は大きいと思う。

「生存ぎりぎりの経済」は環境問題を意識することなく基本的なインフラを含め充足していくべきだろう。

発 展途上の経済の中で、特に注目すべき国は中国とインドの2カ国だと思う。この2カ国は2012年までには温室効果ガスの排出は相当な量にまで行っているは ずだ。そして、それらの多くは先進国相手のビジネスの為の排出だと想像できる。日本は環境に対する技術力が高い国でもある。まずは議定書でも有効な「ク リーン開発メカニズム」での効果を期待できると思う。

関連サイト

平成16年度 環境白書
環境省公式サイト

蛇足:トリプルベースラインを基にしたビジネスモデルについては個人的興味から何回かMEMOにするつもりです。

ちなみに対象となっている温室効果ガスとは、二酸化炭素、亜酸化窒素、代替フラン3種の計6種のことを言う。
画像は地球環境問題の関連性について(平成13年度 環境白書より)

2004/11/05

個人?ユニット?

米国大統領選挙はブッシュ氏の再選で幕を閉じた。

なんともはや不思議な結果である。不思議というのは僕が反ブッシュだからと言うわけではなく、単なるTV等で受ける印象・・「みんなブッシュ嫌いではなかったの?」から来ているに過ぎない。

日本でもブッシュ嫌いが多かったように思える(まぁいくら日本の多くの人がブッシュ嫌いと言っても大統領選には影響が出ないとは思うけど)。

日本でブッシュ嫌いと言っている理由の多くはイラク問題だと思う。他にはマイケル・ムーアの「華氏911」の影響も大きいかもしれない。

僕 はどうもユニット単位で考えることが苦手な方だと思う。どうしても個人のレベルで物事を見てしまう傾向にある。そうなることで見えることも見えないことも 出てくる。でもどういう訳か今回の米国大統領選に関しては、自分がユニット単位で職種としての大統領を見ていることに気がついた。でも逆にこの件について は周りは個人レベルで見ているように思える。

僕にとっては大統領と言う職業を選ぶことは、個人から米国というユニットに収まることを意味している。何が言いたいかと言えば、誰がなっても米国は米国でしょうと言うことだ。それともこれは認識不足なのだろうか・・・多分そうかもしれない。

マ イケル・ムーアの「華氏911」はまだ観てはいないけど、「ボーリング・フォ・コロンバイン」は映画館も含めてビデオでも何回かみたことがある。とても良 い映画だと思う。僕にとって秀逸だったのは、チャールスヘストンを虐めたことでもなく、米国銃犯罪の根底には「不安」と「疑心暗鬼」があり、それを操る大 資本をスポンサーバックにしたマスコミの姿を描き出しているからだ。でも、あの映画はドキュメントではないと思う。事実を元にして、マイケル・ムーアが自 分の言いたいことを明確にするために映像を編集・再構成している。アカデミー賞でもドキュメント部門での候補作では無かった。同様に「華氏911」でも同 じ手法を取り入れていると思う。映像というのは編集によって、物事を正にも邪にもすることが出来ると思う。よって、あそこに描かれているブッシュ大統領の 姿は書籍とかサイトで知っているけど、僕はあまり信じてはいない。

蛇足だけど、俳優としてのチャールス・ヘストンは大好きだ。それはあのよ うに描かれていても変わらない。マイケル・ムーアは米国銃社会の象徴として彼を虐めたけど、逆にあれは僕から言わせると文字通り「蛇足」だと思う。彼は単 に米国憲法を遵守しているだけなのだ。彼が謝れば、マイケル・ムーアは米国銃社会を変革できると思ったのだろうか?間違いなくそんなことは思ってないはず だ。

物事は時としてユニット単位、時として個人と使い分けて見なければわからなくなる事が多いと思う。そして、最初の出発点(ユニットか個人か)を誤れば結果は全く違った物になっていく。

例えば、今回の香田さんの事件だけど、色々な小道具が使われていた。小道具というのは星条旗とかビデオとかで、あと彼らの声明文の中にも言葉として使われている。それらの小道具は、人から見ると多くのユニットのイメージを喚起させられる。

で もそれらの小道具を全て取り外すと見えてくるのは、犯人達一人一人の自分勝手で臆病で考えが狭い人の姿だと思う。もし本気で自衛隊を撤退させたいのなら、 端的に全員で玉砕覚悟の突撃を行えばいい。それで日本の世論は大きく動揺するはずだ。でも彼らにはそれも出来ないと思う。なぜなら昔から人殺しは自分の命 だけは大事にするからである。


追記:

考えてみれば僕等が受け取る米国の情報は東西海岸からの発信が多いような気がする。西海岸は昔から日本との関係はあったし、東海岸は政治・経済の中心の都 市がある。同じ米国でも中西部からの情報は少ないかもしれない。そして東西海岸のマスコミは反ブッシュだった。日本のメディアは米国と言っても東西海岸か ら発信される情報に影響を受けている傾向があるような気がする。僕は大統領選の選挙人獲得州の色分けを見ていたらそんな風に感じた。

誰だって自分の考えを決めるときには情報が必要だ。そしてその情報をどこから入手するか、もしくはどの情報を信じるかで、その人の考えは決まるように思えるので、あながち間違えてもいないかもしれない。(2004/11/6)

2004/11/04

11月2日の「産経抄」について

11月2日の産経新聞コラム「産経抄」に書かれていたイラク人質事件の内容を読んで、自分に強い拒否反応を感じた。それはどこから来るのか、少し考えてみた。

産経抄の内容をまとめると次のようになる。
1.殺害犯グループはイラクに流入する外国人テロリストであり、目的は混乱を作り自己の存在を政治的に主張すること。
2.今回、上記の様な武装勢力との取引はどだい無理。
3.香田さんを美化する論調が目立つ、が戒めと反省が必要なのは、日本人の国際的無知と非常識

その上で、香田さんのご家族のメッセージを誉め、この春の人質事件の家族との差が天地ほどあると言っている。

僕はイラクの人達と今回の犯人達を同一に見てはいない。それに今回の無惨な事件がおきても、多くの人達は、自衛隊派遣問題議論は別にして、イラクに平和と安定を望んでいるし、日本に出来うる貢献をしなくてはならないと、考えていると思う。

上記1と2の内容から、産経抄では犯人グループの目的は日本人を殺すことであって、どんな取引も無駄との意見をもっているようだ。そうかもしれない、でもそ れと政府の対応の是非を論じることは次元が違う話だと思う。僕は産経抄が言う所の「一人の国民の命を救えなかった」事に対して不満を政府に投げかけている のではない。危険地帯に行くと言う事は、リスクを自分に背負い込む事だと考える。今回香田さんがどこまで自分のリスクを考えていたのかは不明だが、それとは関係なく国は邦人保護を行う義務を負っているのだと思う。

つまり、政府の義務である「邦人保護」をきちんと遂行していたかの疑問を提示しているのだ。今回について、政府が具体的に何を行ったのか明らかにしていない事が、一人の国民である僕に疑問と不安を抱かせている。そしてそれは多くの国民の問題でもあると考えている。

そして、今回問題としているのは、事件が明らかになったときの小泉首相の第一声であり、米軍べったりの探索と遺体の誤認騒ぎである。
同様に無惨に殺された韓国人の方の場合、犯行声明の後に遺体が発見されている。今回は遺体が先に発見された。その点について、以下の見方(全て中日新聞からの抜粋)がある。



「日本政府が同日朝、別の遺体をもとに「香田さんとみられる遺体発見」の情報を流したことを受け、犯行グループが“罠(わな)”が仕組まれていると勘違いして殺害時期を早めたとの指摘が出されている」
「さ らに、犯行グループの誤解を解くこともできず、人質を死亡させた日本側の「失敗」について教授は「最大のミスは小泉首相が犯した。フランスは自国民が人質 となった時、外相らをエジプト、ヨルダンなど中東諸国に派遣し交渉させた。しかし、小泉首相は熟慮せず、すぐに挑発的な声明を出してしまった」(バグダッ ド大のアブダルジャバル・アハメド教授コメント)


上記のコメントでわかる事は、香田さん殺害時期が早められた事、その理由として遺体の誤認と小泉首相の挑発的コメントが大きい、と言うのである。

産経抄に言わせれば、香田さんの死は確定済みなので、早いも遅いもないのかもしれない。でも僕はそうは考えていない。未来には何が起きるかわからないのであ る。脱出した人質もいると聞いているし、そのわずか2-3日の間で状況も変わるかもしれない。それが産経抄のいう所の武装勢力であったとしてもだ。1日で も生存期間が長ければ、蜘蛛の糸ほどの可能性でも起きるかもしれないのだ。自らその糸を断ち切る事はなんとしても避けたかったと言う事が、今回の対応への 疑問となって出ているのである。最大限の努力をした結果であり、それを国民にきちんと伝えられれば納得もいくだろう。

また、上記の様な政府の義務をきちんと遂行しているかをチェックする事が、マスコミを含むジャーナリスト達の使命だと思うのであるが、産経抄にとってはその様に考えてはいないのであろうか?

産経抄の要点3番目について、この認識は僕にとっては逆である。ネットなどで交わされる香田さんへの意見は、産経抄が言うところの「戒め」が殆どだと思う。 それが時として中傷に変わるときもあるが、今回の香田さんの行動に対しては不可解とのコメントが体勢を占めていたのが現実だと認識している。

だからこそ、香田さんご家族の息子に対する弁護に、親としての情愛を感じ、心が痛むのである。だから、この点についての産経抄の認識は不適切だと思う。それに、あくまでも憎むべきは、無関係な民間人の首を無惨にも切断した犯人グループである。

さらに、春のご家族の発言は、人質が犯人から言わされた言葉を親として伝えているに過ぎない。家族にとっては、自分たちではどうしようもない事なのである。その中で、子供を守るために、子供が言わされた言葉にすがるのは親の情だと思う。

産経抄はよく、「公」と「私」にけじめを持つ事を述べるが、上記の様な人質の親の心情に対しても、それを要求するのであろうか?要求する立場では無いと思うが違うのだろうか?

今回、僕も香田さんのご両親のメッセージを読んで胸が痛んだ。本音の部分での気持ちは自衛隊撤退の要望であったと思う。でもそれは言えなかったのではないか?

前回と違い、連帯する家族はなかったし、前回一部マスコミに当該家族は激しく叩かれているのも知っている。息子に対する非難も多いのもわかっていた。その上でのあのメッセージだと思う。頼りは政府だけという時に、どの様なメッセージを書けばよいと言うのだろう。
勿論、あのメッセージに書かれている事が本音ではないと否定しているのでは毛頭ない。書かれている内容はご家族の、嘘偽りない、1つの本音だと思う。でもも う1つの本音が隠されている。そして、その本音を出さなかったのは、産経抄の言うところの「公」の態度ではなく、無力感と孤独感を感じている1家族の必死 の対応以外何もないと思っている。

そう言う気持ちであのメッセージを振り返ると、日本は、(弱い立場に立っている)個人が思っている事も言えない国になってしまったのだろうかと思ってしまう。何も新聞を含むマスコミだけが言論の自由を有しているのではない。

ここまで書いて、今回の産経抄に対する僕の拒否反応がどこから来るのかが見えてきた。
まず、命の重さに対する恐れを感じさせない点、政府の行動をチェックすることなく被害者の行動を戒めることで終わりにしようとする姿勢、そしてご家族の心情 を理解する事なく自分の意見を推し進めようとする態度、これらの全てが僕にとって生理的に嫌悪感を持たせているのに気がついた。

補足:実は僕は長い期間、そして今も産経新聞の読者である。特に辛口の産経抄コラムは大好きだ。それは今回の事で大きく変わることは無いとは思うが、前回の春の時と同様に、非常に残念でたまらない。

2004/11/03

西脇順三郎の「旅人かえらず」


いまさら西脇順三郎の事を書きたいと思うなんて、僕の頭はどうかしてしまったのだろうか、没後22年 を迎えるこの詩人の事を思い出すとは。いや、思い出すというのは適切ではないかもしれない、彼の詩集は僕の傍らにずっとあったのだから。しかし、旬の話題 でない事は確かだと思う。でもこのMEMOに元々旬の話題なんて求めてもいないから、気にするのはやめよう。

西脇順三郎を知り得たのは、高校の図書室の本を全て読破しようとの無茶苦茶な野望に一瞬の間取り憑かれたせいだった。勿論それは一瞬の野望だった。 でもその時に無作為で取り出した本の中に西脇がいた。そしてすぐに僕は西脇の虜になった。特に詩集「旅人かえらず」にまいってしまった。だから、僕にとっ て西脇を語るときは「あむばるわりあ」「近代の寓話」「第三の神話」「失われた時」等ではなく、あくまでも「旅人かえらず」なのだ。

「旅人かえらず」は西脇の詩集の中でも比較的入りやすい。西脇というとシュールレアリスムとなるが、アンドレ・ブルトンが提唱した「シュールレアリスム宣言」での「精神の全的解放と合理的なものへの反逆」は確かに西脇の詩の中にはあるように思える。

また、西脇の詩は難解だとよく聞く。だいぶ前の話だけど、西脇の詩の注釈本を書いた人がいたそうで、その方は毎日のように西脇の自宅に行き、1つ1 つ確認しながら苦労して完成させたと聞いたことがある。それほどに西脇の詩は謎が多く、時には暗号的と思えてしまう程だ。そして、多くの詩人達は自作の詩 について語らないと同様に、西脇は自分の詩を語らない。ただ、詩論については述べている。

西脇の詩論で有名な言葉がある「詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である」。西脇にとって詩作とは、神様に対峙する時の人間の矮小さに腹を立てる事らしい。そして、先ほどの言葉に続く言葉が「詩を論ずるは危険である。もうすでに断崖より落ちてしまった。」となる。

日本の詩歌は、自然を自分という媒体で再構成する事を主に育ってきたように思える。そして、そこには伝えるべき他者がいる。他者に伝えることは、自然の美しさではなく、その時の自分の気持ちであったと思う。しかし、西脇の詩の難解さを思うと、彼の詩には伝えるべき相手がいないように思えてくる。別の 言い方をすれば、西脇は読者を想定していない。不在なのである。それは先ほどの彼の詩論の言葉を見てもそう思えてくる。では彼は一体誰のために、何のために詩作を続けたのだろう。

ある哲学者が芸術について面白いことを言っている。「芸術家が鑑賞者を想定して作品を作ると道を誤る。なぜなら芸術は人間一般の肉体的本質と精神的 本質を前提にしているからだ。だから、詩は読者に向けてなく、音楽は聴衆に向けてなく、絵画は鑑賞者に向けてはいない。詩は言葉自身が持つ究極の目的であ る、純粋言語に戻ろうとする努力の一旦である。」と何か訳のわからない話である。でもその意味を西脇はわかりやすく、「神様に対峙する時に感じる矮小さに 腹が立つ」と表現しているようにも感じる。

「旅人かえらず」に話を戻す。この詩集にはタイトルの「旅人かえらず」の詩はない。あるのは一連の番号でくくられた詩である。よって連作詩と見るこ とも出来るし、長大な詩と見ることも出来る。僕は後者のイメージがある。つまり、一冊全てで一個の詩という見方だ。タイトルの「旅人かえらず」の意味につ いて、人はただ消える事を示していると思う。そしてタイトル通りに詩人は色々な場所を旅する。この詩の冒頭部分を載せる。


旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考えよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考える水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思いを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望はうつつ
そう言うはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃


端的に人の命が有限であり、消え去るのみである事を表現していると思う。人は「岩間からしみ出た水霊」であり、ひからびる事になる。僕はこの冒頭の詩の部分で、転調する部分「ああかけすが鳴いてやかましい」と最後の「浮雲の影に水草ののびる頃」が好きだ。
「かけすが鳴いて」考えが散漫し、いらいらしている作者がいる。また幻影の河童は「浮雲の影に水草ののびる頃」に遊びに出てきて「花をかざした幻影の人」の事を語り、旅人であり水霊でもある人を惑わす。

西脇は多摩川の川辺を、彼の教え子でもある詩人滝口修造と散歩をよくしたそうだ。この「旅人かえらず」には多摩川と世田谷の風景が随所に出てくる。もしかするとこの「水」のイメージも多摩川を散歩して出たのかもしれないと思えてくる。

しかし、ノーベル文学賞候補にまでなった、偉大な詩人をよく語ると我ながら思ってしまった・・・でも今後も、他のMEMOの時でも、イメージするこの詩の断片を書いていこうと思ってたりもしている。

画像は詩人の絵です。西脇順三郎は最初の詩集出版の後、10年間、詩作をやめ絵を描き続けていた。

この絵のその時代の絵ではなくその後の作品
『北海道の旅』 1950年代 油彩

2004/11/02

フィリップ・グラス

「めぐりあう時間たち」を知ることによりフィリップグラスを知り得たことは僕にとってはとても大きい。「めぐりあう時間たち」を筆頭に、数多くのグラスの音楽を聴いている。

僕にとって幸いなことに、最近(多分映画の影響だと思うけど)、グラスの曲が初期のものを含めてCDが多く売り出されたことだ。しかも比較的安い(アルバム1枚が1500から1800円くらい)。

最初、渋谷のタワーレコードでグラスのCDがどこにあるのか探すのに苦労した。初めから係の人に聞けば問題はなかったのだけど、始めて聴いた曲が映画音楽なので、イージーリスニングか、ポップ音楽のコーナーだと思いこんでいたからだ。探しても見つからなかったので、係の人に聞いたらクラシックの現代 音楽コーナーだとのこと。クラシック扱いになっているのに驚いた。でも今では彼の経歴を含めて知っているので、それが自然だと思っている。

渋谷タワーレコードの現代音楽コーナーの隣には、バッハコーナーが置かれていたのには、なにか面白さを感じた。それと同時に、「めぐりあう時間たち」の原作者マイケル・カニンガムの話を思い出した。

彼に言わせると、仮に宇宙人がいて、その宇宙人に地球人の事を理解してもらう為には、小説ではなく、絵画でもなく、音楽が最適だと言っていた。しかも彼は音楽の中でもバッハを差し出すと言っていた。このコメントに僕は素直に同意をする。

勿論カニンガムはグラスの曲も好きで、本の執筆中は音楽を聴きながら行うとの事だが、その音楽の中にグラスの曲も入っていると言っていた。
グラスの曲を聴いてみると、彼の意見はお世辞でも何でもなく実際の話だと実感する。つまり、グラスの曲にはなにかしらイメージを喚起させる力がある と思うのだ。身体ではなく心が動く音楽、その心は安定の方向でなく何かを生み出す方向に動いている。一言で言えばそんな感じがする。

今日グラスのCDを3枚買ってきた。「コヤニスカッティ」「ポワカッティ」「ナコイカッツィ」のカッティ3部作と呼ばれるグラスの代表的な映画音楽 だ。ちなみに全てアメリカ先住民ホピ族の言葉で、コヤニスカッティは「バランスを失った世界」、ポワカッティは「自己の繁栄のために他人の生命力を食い物 にする生き方」、ナコイカッツィは「お互いに殺し合う生活」の意味とのこと。この三作はゴッドフリー・レッジョ監督の映画で、かなりの話題を呼んだらし い。でも僕はまだ観てはいない。

音楽だけでも、イメージが溢れていて凄いと思うのに、それに映像が加わった時を考えると、正直言って受ける影響が怖い。それが観るのをためらわせている。
僕にとってグラスは好みに合うが、嫌な人も多いような気がする。音楽は嗜好性があるので、どの音楽に対しても、人によって好みが別れるところとは思うが、グラスの場合特にその傾向があるような気がする。それだけ個性が強い音楽だと思う。
今日行き帰りに「ナコイカッツィ」を聞き続けた。特に好みは2曲目「Primacy of number」テンポの良い曲だ。何かが疾走している様をイメージできる。ヨーヨーマのチェロも素晴らしい。

良い音楽は時代を超える力があるから、そこに古いも新しいもないと思う。グラスを知ったのは人から見ると、今更と言われるかもしれないが、バッハ だって現代の人は全員後から聞いているのだ。古い新しいを接頭語に付ける音楽は多分そこまでの音楽だと言うことになる。まぁ、それはそれで時代を現してい ると言えばそれまでの話だけど。

警察の事情調書


今朝、**警察署から電話があった。盗難にあったバイクの事情調書を取りたいと言うのだ。
勿論任意ではあるけど、バイクの状態が気になった僕は**警察署に行ってきた。

出てきたのは50代くらいの、髪に白髪が半分くらい埋まっているメガネをかけた男性だった。
顔には刑事特有の厳しい表情で眉間に皺を寄せてはいるが、笑うと子供っぽい表情になり、妙に安心感を抱かせる。口調は穏やかと言うより、どことなく急いていて、それでいて苛つかせるわけでもなく、子供っぽい急かしと言うのが僕の印象だった。

待ち合わせの時間は、午後の12時頃だったけど、出るのが遅くなり、途中で電話をして1時に変えてもらった。受付には、少し年配の男性が座ってい て、まずは入館バッチをもらう。もらう際には、何も記帳はせずに、ただ盗難バイクの調書作成のために来たと告げるだけで済んでしまった。後から思うと、セ キュリティ上これで大丈夫なのか?と思ったけど、今回の来署の場合は手間がかからなくて良いと思った。
3階の盗難課の組織盗難係に行く。そして冒頭に述べた刑事が出てくるのだが、名刺をもらうと係長となっていた。

実は調書作成には少なからず時間がかかる。その手間を惜しんで、事前に電話で警察の方と話していた。だから、調書作成と言っても、既に来る前に作ら れていて、電話で話した内容通りかの確認だけすればよい。今回の場合、細かなところで何点か修正があったが、僕の話した内容と相違はなかった。

その点を確認した後に、彼は少し沈んだ顔をして話した。これからバイクを見てもらいますけど、解体されていますので、ご覧になるとショックを受けると思います・・・。

正直言って、その気遣いは僕には無用だった。愛着があるからと言っても、バラバラになっているのは機械で道具なのだ。機械であれば、また組み直せばいい。問題は、その組み直す費用をどうやって捻出するかだ・・・

そのまま二人でエレベーターで地下に下りる。大きな木造コンテナが2つおいてあった。そしてそのコンテナの中に、バラバラになった僕のオートバイがそこにあった。

窃盗犯は解体して輸出し、先の国で又組み立てる。だから、盗難バイクといえども、丁寧に扱っている。1つ1つの部品は傷を付けないように丁寧に梱包され、また無くさないように番号も振られていた。

一目見て僕は解体されていても自分のバイクであることがわかった。と同時に、先ほどの思いとは裏腹に、少し心が痛んだ。

そして、調書に自分のバイクであることを確認した事実を記載するためにポラロイドで写真を撮られた。その写真を添付することの承認を取るときに見たけど、少し複雑な表情を浮かべている僕がそこにはいた。

立件することは非常に手間がかかるんですと、彼は僕に言ったけど、それが法治国家というものだろう。警察も国家を運営する側だけど、手間がかかる事は悪いことではないと僕は思う。

今回の盗難では3台のバイクが見つかったと、以前に僕は書いたけど、再度聞いてみると24台とのことだった。そのうちの3台が立件のための証拠品扱いになり、その1台が僕のバイクだったのだ。
では残りの21台と僕のバイクを含む証拠品の3台の違いは何だったのか。素朴な疑問として彼に聞いてみた。すると、逮捕の時に犯人達と一緒にあったバイクがその3台で、現行犯的な扱いになるために立件しやすいからだったと答えてくれた。

なるほど、素朴な疑問も答えを聞くと、大抵は当たり前のような内容なんだなと思う。問題は証拠品扱いのため、容疑者グループの立件が出来た後だと返却は可能だとのことだった。そして前回と同様に明確な返却日は教えてくれなかった。

実は交通違反をのぞき、大学の時に何回か任意出頭を求められ、その都度拒否をし続けたことがある。大した内容ではないけど、対応する警察官の態度に いらだったのが拒否の理由だった。でも、今回の場合は被害者の立場と言うこともあったと思うけど、嫌な思いは一切することはなかった。

写真は初期のヴィンセント。美しいバイクだと思う。

原卓也氏の訃報

今回の一連の不幸な出来事で、原卓也氏が29日に亡くなられた事を知ったのが今日(31日)であった。これで、江川卓氏と二人のロシア文学者が亡くなられたことになる。

ロシア文学は、日本文学で言えば太宰治と同様に青春期に一度は通る熱病みたいなイメージが僕にはある。ご多分にもれずに僕もロシア文学にはまった時 期があった。その時にお世話になったのが、江川卓氏と29日に心不全で亡くなられた原卓也氏(74才)であった。主に江川卓氏はドストエフスキー、原卓也 氏がトルストイを訳されていたように思ったけど、新聞記事を読むと、原卓也氏は「静かなるドン」とチェーホフも訳されていたとのこと、今更ながらロシア文 学に多大な貢献をされた方だと思った。

僕の場合、主にドストエフスキー中心だったので、トルストイは「アンナカレリーナ」くらいしか読んではいない。「戦争と平和」は長大すぎて、読むよりは映画の方を堪能した。
ただ、「戦争と平和の」にクラウゼウィッツが登場し「戦争論」批判を行うくだりがあるが、その部分だけは拾い読みをした。クラウゼウィッツは戦争を政治の 手段と解釈し、何名の犠牲で政治決着するかの予想をナポレオンとの戦いの前に行う。それとなく聞いてしまう主要登場人物の一人アンドレイは、命を軽んじる クラウゼウィッツの言葉に怒りを覚える。そのシーンは映画でも再現されているけど、トルストイらしい「戦争論」批判だと思う。

「戦争と平和」の映画は、ロシア版と米国版の両方とも見た。米国版はどちらかというとオードリィー見たさが中心だった。やはりロシア版の方が原作に 忠実に描かれているようだ。ロシア版は原作と同様に長大な映画だけど、生身の人間が戦いの部分も含め演技しているので、CGを使いすぎる現在の映画に比べ て、小手先でない説得力があるように感じる。

江川卓氏の訳本では「ドクトルジバゴ」もあるが、それは以前から読もうと思い購入したけど、まだ読み始めてもいない。やはりドクトルジバゴも映画を 先だった。素晴らしい映画だと今でも思っている。特にジバコとララの逃亡生活中に、短い期間一緒に生活したときに、ジバコはララのために一晩かかって詩を 書く。愛に満ちあふれたその詩を書くシーンが大好きだ。

つまり僕にとっては、この二人の名前はロシア文学に繋がり、それは学生時代の思い出にも繋がっている。原さん、そして江川さん、本当に大切な思い出をいただき、ありがとうございました。

2004/11/01

江川紹子さんのコラム

江川紹子さんのコラム「それでも、命は命だ」のコラムを読み、今回のイラク人質について色々なことを教わった。

江川さんは、まず香田証生さんの行動に理解に苦しむとしながらも、「それでも、命は命だ」として「本人に落ち度が認められるようなケースであっても、政府には邦人保護の義務があり、命を救うために全力を尽くす責任がある」と明言されている。

僕もそのとおりだと思う。香田さんがイラクを含む中東情勢に対し一般的な知識がなかったことは事実だと思う。これはかなり強引な想像だが、ニュー ジーランドに行かれたのが今年の初めだったので、今年の春に起きた人質事件の詳細を含む状況が認識されていなかったのではと思う。
ただし、理解に苦しむ行動に出たとしても、政府には邦人保護の義務を負っているのは事実なのには変わりはない。

さらに江川さんは、今回の一連の状況の中で以下の点をあげている。
・米軍の香田さん探索のやるきのなさ
・日本政府の情報収集力の弱さ
さらに小泉首相の第一声が「自衛隊は撤退しない」だったことにより、テログループと交渉する接点をなくしてしまった事もあげている。

この首相発言の問題は、発言当初より何名かの意見として出ていた。僕の友人も同様のことを言っていたし、僕も友人の意見に同意した。どの国の交渉人 は犯人との信頼関係をまず構築すべく努力する。信頼関係がなければ最悪の結果になってしまう。実際には撤退は無理だと思うが、言葉を濁して相手からの線を 切らずにおく事は大事なことだと思う。相手はそのような連中じゃないとの意見もあるとは思うが、最初から断ち切るよりはましだと考える。

米軍のやる気のなさを想像できるのは、一連の香田さん遺体発見の誤認からであり、日本政府が米軍べったりの情報収集と探索の仕方に情報収集力の弱さ を見ている。香田さんの足取りは政府でなくジャーナリスト達が収集してきた情報であり、政府はその点においても後手後手となっていた点も上げられている。 また、米軍ははじめから遺体を探していたのではと思わせる印象も受ける。誤認から受ける印象はきわめて悪い。
上記の説明を読むと、そこからイメージされてくるのは、米軍と日本政府のやる気のなさである。米軍の場合は、同盟国とはいえ他国の民間人を、自分の 危険を顧みずに熱心に探索する気持ちを持たないのは自然かもしれない。江川さんも、その点を言っているが、さらに言うのが日本政府の米軍に対する覇気のな さである。誤認の時などに政府は米軍に対し邦人保護と探索の強い意志を見せるべきだった。それを行ったかどうかは実際は不明だが、それまでの日本政府の対 応から、そうしなかった事は想像できる。
それでは何故日本政府は強い邦人保護の姿勢を見せなかったのだろうか。それについては江川さんは、日本国内の香田さんに対する世論の盛り上がりにか けている点を上げていた。勿論それは今年の春からの一連の人質事件と比べての話だろう。折も悪く、日本国内は新潟県中越地震に目が向かっていた。特に香田 さんの事件がわかったときは、土砂に巻き込まれた親子3人の救出に対し、多くの人は祈るような気持ちでTVを見続けていた時でもある。
さらに香田さんが、イラク情勢に予備知識もないままの入国から人質事件の流れに、批判が湧き上がった事もあげられている。(江川さんが特に指摘したのがネット掲示板での書き込み内容だった)
世論が新潟県中越地震に向かい、香田さんにたいしては批判が多かった事が、政府が強い邦人保護の意思を見せなかった一つの要因でもあると言っている。僕もこの意見に同感する。
江川さんは、今回の米軍の対応について、政府は毅然として抗議すべきとの意見を持っている。
確かにこの状況のままでは、邦人の命は軽く扱われるに違いない。共にテロに戦うのではなかったのだろうか、今回のアメリカの行動は同盟国のそれではなかったと考えてしまう。
そして何よりも、今回の政府の対応(前回もそうだったが)が何を行ったのか全く見えてこない。人を派遣するのは良いが、派遣された人の、そして国内での政府の詳細な行動の提示を望む。
今回の江川さんのコラムは同感する部分がとても多くあった。そして何よりも、政府の対応を今後も厳しく見て要望することが、ひいては自分を守る事につながるとの基本的な考えを再度確認したと言ってもいい。
今回多くの新聞は香田さんの事をコラムで取り上げている。その中で一番失望したのは、産経新聞だった。「自己責任」の一言で片付けている。その一言 で終わる問題ではないと思う。それともステレオタイプにすべてのイラク人質問題は民間の自己責任で片付けるつもりなのだろうか?少なくともジャーナリスト の態度ではないように思えた。
よくある例えだが、夜の道は危険だと言われている場所に女性が一人で歩いていて暴行を受けたときに、自己責任だからと一言で片つけるのであろうか?憎むべ きは犯人だが、何故犯人がそういう行動に出たかの内部要因と外部要因を深く掘り下げ、その上で問題点と対応方法に論じるのがジャーナリズムの姿だと思う。 もし産経新聞が、問題はすべて語りつくされていると判断した上での、一言であれば何故いまだに色々な意見が出てくるのだろう。