「私がハマっている日常というのも、実は実在するものというよりは、私の中のバーチャルな感覚に過ぎないのかもしれない。つまり、どういう時空に住みたいかは、私が選択可能であり、ここしかない……などと思う必要はないのだ。」
(田口ランディ「爆発する時間」から引用)
▼小学生の時、周囲の大人達に言われた事が、無限の可能性があり何にでもなれると言うことだった。でも子供の僕は、彼らの言っている意味が全くわからなかった。小学生には彼らなりの社会がある。教室での友人との人間関係、先生との関係、聞いても全くわからない勉強、遊び友達との喧嘩、見たい番組を見させてくれない母親への不満、欲しい物を如何に買うかの算段、嫌いなおかずをどうやって始末するかの思案・・・等々。
▼無限の可能性があると言うことは、無限の選択肢もあると言うことなのだろう。でも誰も具体的に無限の選択肢を教えてくれなかったし、万が一教えてもらったにせよ、小学生の僕にとっては実感できる内容ではなかった様に思える。小学生は小学生なりに自分の社会を一所懸命に生きていた。つまりは大人になった今とそんなに変わらない。
▼彫刻家の故平櫛田中が百才になった時に言った言葉、「70、80は、はな垂れ小僧」。
平櫛さんにとってみれば、70才とか80才でも子供と同じように無限の可能性があると言うことなのかもしれない。
▼人は、子供とか大人に関係なく、常に可能性は無限なのかもしれない。でもその可能性を大人になるに従い、選択不能として考えなくなっていく様な気がする。子供の時は、選択肢が沢山あることにわからず、大人になったら選択肢に自ら蓋をする。結果的に、この点でも子供の時分と僕は何も変わっていない。
▼今の僕が宇宙飛行士になりたいと思っても無理なことはわかっている。でも、宇宙飛行士が宇宙に行きたいことであれば、もしかすると行けるかもしれない。また、宇宙飛行士になりたい夢を、別の形で叶える事が出来るかもしれない。嫌々、77才で再び宇宙に行ったジョン・H・グレンさんの事を考えれば、本当に宇宙飛行士にもなれるかもしれない。
▼勿論、宇宙飛行士は例えでしかない。問題は、何故今の僕が様々なことに、自ら選択肢を塞いでしまうかと言うことだ。ランディさんは「時空」も選択可能だと言っている。それは頭では僕も理解可能だ。でも「いいなぁ」と思うことを、「なりたい」に変換し、さらに「なるんだ」という信念へと換えることに、とてつもないエネルギーが必要な事も見えてしまう。
▼要するに僕はそのエネルギーを使う事が面倒で、それなりに過ごしてきた様に思う。それに、そのエネルギーを使って換えたときに、待っているのは、やはり普段の「暮らし」があるのだという諦観がそこにあるのも事実だ。これでは結局悪循環になってしまう。
▼今の自分に特段の不満があるわけでもない。自然な成り行きで過ごしてきたと言えば、聞こえは良いが、それしか言いようがない。でもその中で、子供の時から諦めてきたものが少なからずあるのも事実だ。そして今後の事を思うと、出来れば選択の結果として決めていければと思う。つまりは、いっぺんに換えようとするから莫大なエネルギーを必要とし、気後れしてしまうのだと思う。
▼現在ある僕の姿が、自分が選択をしてきた結果である事を認識することから始まるのだと思う。そして、今の姿は明日に向かう過程であることも自覚しなくてはならないのだろう。何かまとまりがない話になってしまったが、これが今の現状だから致し方ない。
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