「戦いも、殺人も人間の性(さが)ではないはず。でも戦わなかった人々はみな、文字をもたず、その智恵はたたれてしまった。」
(田口ランディ「理由なんて・・・」から引用)▼人の争いの歴史は確かに「文字」に残された歴史からでしか検証できない。仮に縄文時代には戦いがなかったとした時に、その違いは一体何だろう。単純にみれば、その差を見比べれば明らかかもしれない。それはいみじくもランディさんが言われるとおりに、「文字」の有無のような気がする。
▼「文字」がどの様にして発生したのかは専門家でもないので正直わからないが、それは国家とか権力と無縁ではなかった様にも思える。人は何のために「文字」を造る必要があったのか。それは他者に命令もしくは、記録により権力基盤を盤石にする必要からの様に想像してしまう。どちらが先かと問われれば、同時のような気がしている。
▼僕は「文字」は常に権力と共にあったと思う。だからといって「文字」を無くすことは出来ない。逆に言えば、現在にとって「戦い」は人間にとって避けられないようにも思えてくる。「戦い」の元には「暴力」があると思うし、それは日常の中にも常に経験している「怒り」「悲しみ」という心の動きから発しているのであれば尚更そう考えてしまう。
▼時折何ともいえぬいらいらから衝動的な怒りを持ってしまうときがある。それは、普段では考えられない事からそうなる。勿論、自分でそれを押さえて人にはわからぬようにする。自分で言うのも何だが、他の人もそうなのではないだろうか。そこで押さえるのは、ランディさんの記事でいう「否定する理由」があるからだろう。
▼暴力は暴力を産むと良く聞く。例えば、宅間は子供の頃父親からDVを受けて育ったそうだ。今回の十七才の少年は一体どうだったのだろう。ただ、僕自身は父が3才の時に死んでいるので、当然にDVは一度もなく育ってきた。見知っている者から「穏やか」といわれる僕でも、前段の様な衝動的な怒りを持つときがあるのだ。これはどういう事なのだろうか。
▼社会における様々な事件は、自分を振り返る事を与えてくれているのかもしれない。人を識ると言うこと、社会を識ると言うこと。そうすれば、他人のことではあるが、自分の中に内在するものとして注意をすることが出来るし、そこから「否定する理由」を積み重ねることが出来る。そんな気がしている。
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