2005/02/26

「ドリームタイム」を読み終えて

▼「ドリームタイム」を読み終えた。24日夜に読み始め、本から離れることができずに、そのまま読み続けた。とても面白かった。一気に読めてしまうと言うより、一気に読んでしまいたくなる魅力がそこにはあるように思った。それに僕にとっては、ランディさんの語り口は相性がよいのかもしれない。

▼短編集「ドリームタイム」には同名の小説はないが、小説の中に「ドリームタイム」が一回だけ使われている。
「真っ青な空の下で、芭蕉布の衣が風にはためく。どうやらドリームタイムに入ったようだ。現実がどんどん曖昧になっていく。もうすでに時間も空間もぐわんと揺れ始めていた。」(田口ランディ「ウタキの青い蝶」から引用)

▼実際面白いことに、ランディさんが意識しているのかわからないけど、小説の文中に使われる「ドリームタイム」の位置は、全体の短編集の中では、完全ではないがほぼ真ん中にある。まるで、「ドリームタイム」の文字印刷部分が本全体の重みをそこで受けているかのようだ。

▼作家は言語を道具として自分の世界を構築する。別に僕はここで記号論を言い出すつもりはないが、良く言われるように僕らは言葉の中にいて、言葉の外に出ることができないと思う。僕が思考するとき、無言語の時もあるが、人に伝えるときは言語で伝えるしかないからだ。その時日本語の言葉と文法の枠内で行う事になる。だから時として、伝えたい思いは一部消化不良の塊となって僕の中に残ることがある。

▼科学的でない事は十分にわかっているつもりだ。でも自分が言語の枠内でしか物事が見られないとしたとき、時として僕は言語の外に出たいと、強く願うときがあるのも事実だ。仮に枠を突き抜けたとき、僕は言葉にはならない「思い」となって漂うことになるような気がする。そこには神様がいるかもしれない、霊の姿も見えるかもしれない。その時、僕らの言葉で語れない「何か」は、一体僕らに何をどのように語りかけてくるのであろうか。

▼ランディさんは「ドリームタイム」の中で幾つものそうした思いを経験する。小説の中でランディさんは「言葉の内」にいる。そして「外」を垣間見る人と接触することで、「時間と空間がぐわんと揺れ」るのを感じるのだ。「外」を垣間見る人は、ランディさんの質問に対して正確には答えられない。それは言葉では語ることができないものだからだ。でもランディさんの感性はそれを一緒になって感じている。

▼ランディさんは「言葉」を道具として自由に駆使することができる。でも「ドリームタイム」の中では常に内から間接的にそれを示すしかできない。それでも、ランディさんの言葉は「外」に向かおうとしているかのように僕には感じてしまう。「ドリームタイム」は本当に面白い小説だ。多くの人に読んでもらいたい。そう思う。でも、もしかするとランディさんが書きたいことは違うのかもしれない、そんなことを自分勝手に想像する。

▼勿論僕の勝手な想像だ。ランディさんは小説中の「マナさん」、「ユイさん」、「山崎さん」、その他多くの「外」を垣間見た人の側から、本当は小説を書きたいんじゃないかと思ったのだ。でもそれを書こうとすると、言葉は道具ではなくなり、言葉自体の重みを感じてしまうんだろうな、などとも思ってしまう。そう思うと、ランディさんにとって言葉は仕事の道具として割り切れない何かがそこにあるようにも思えてくる。それは単にブログで感想を書く僕にはわからない何かだと思う。

▼「ドリームタイム」に集められた作品はどれも好きだ。特にどれが好きだとは言えない。作品の中で色々と考える事も多かった。これからこのブログで幾つか感想を載せたいと思う。そう思っていたら、ランディさんのブログで新作の「ひかりのメリーゴーラウンド」のゲラの第二校終了の記事が出ていた。今度は図書館から借りずに、書店で買ってみよう。そう思った。どうして?それはこの本を図書館に返すのが惜しくなってきたからです。

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