2005/02/14

しない善より、する偽善

「平和集会でみんなでイマジンを歌うとか、手をつないで輪になって祈るとか、もう鳥肌が立つほど苦手で拒絶反応で震えが出る。一種のアレルギーである。そこに自己投影して素直に祈れない。怖いのだ。自分のなかの最後の砦として守っているものが、形にされそうで、形骸化して、消えそうで、すごく恐ろしい。そんな感じだ。」(田口ランディ「きれいはきたない、きたないはきれい」から引用)
▼ランディさん不在の時(ブログ更新していない時)は、以前のランディさんの記事をそれとなく読むことにしている。「きれいはきたない、きたないはきれい」は2004年10月31日の記事。冒頭には「2ちゃんねる」での被災地支援キャンペーンのコピー「しない善より、する偽善」。このコピーは「2ちゃんねる」の枠を離れ社会に広まった印象を持っている。

▼「2ちゃんねる」に近づきもしない僕にとっては、このコピーが「2ちゃんねる」発祥である事をこの記事で知ったくらいだ。ランディさんは記事の中で、ヒューマニズムを「気持ち悪い。ひどくうさんくさく感じてしまう」と言っている。僕にとってもその気持ちは同じだ。

▼さらに僕は「偽善」という言葉にも胡散臭さを感じてしまう。「偽善」の「善」とは、多分一般定義された「善」なのだろう。そして僕は一般定義された「善」に対して胡散臭さをかんじてしまう。僕にとって「善」とは、人と社会に(出来るだけ)迷惑をかけないで自分に気持ちの良いことをする事となる。一種の開き直り的な解釈だ。個人によって「善」の内容は違ってくる事になる。

▼だから、「しない善より、する偽善」のコピーは秀逸だとは思うけど、なにかしら抵抗感も持ってしまう自分がそこにいる。

▼なにやら難しい奴と思われるかもしれないが、つまりは自分の好きなことをやれば良いと思うだけなのだ。ただ、社会に属している限り、自分以外の人にプレゼントをする気持ちは持たなくてはいけないとも思う。僕も色々な人に助けられ(勿論今でも)生きている。それのお返しをしなくてはいけないと思っている。そして自分の好きなことが、それに繋がれば幸いだろう。

▼ランディさんにとっては「心」と「情」もヒューマニズムと同様に言葉から魂が抜けてしまったらしい。でも僕にとっては両者ともまだ抜けてはいない。ただ、「心の時代」とか、「心」に何かを付け加えると途端にダメだ。

▼しかし、「言霊」と呼ばれた時代がかつてあったのがウソのようだ。人は言葉を「言葉」として受け取ってはいなかった。言葉の裏に潜む思いを受け取っていたのではなかったのだろうか。でも言葉が記号化され、テキスト化されていく過程の中で、僕らは言葉を失ったのかもしれない。ランディさんの記事を読んで漠然とそんなことを考える。

▼今は「物語の時代」と呼ばれて久しい。何事も「物語」として語られる。それは日本という国で、維新と敗戦の中で「物語」がなくなったことに対する反動なのかもしれない。ただ、「物語」も単に言葉の連なりとして構成されるのであれば、いずれ文脈全体の形骸化が始まるようにも思える。いや、それは既に始まっているのかもしれない。

▼確か沖縄へは「平和の祈り」の為に、ランディさんは行っていると思った。その「平和の祈り」ではブログ記事にあるような、拒絶反応が出なければ良いなと思う。少し気になる。

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