2005/02/04

地球上を巡る「思い」

「電話の濃い思いを受け取った人は、中和させるためにさらに電話する。こうして、どんどん伝言ゲームのように、思いは拡散していく。人に伝播するほど、恨みも憎しみも悲しみも薄くなるのだろうか」(田口ランディ「電話日」から引用)
▼本当に電話は集中する。昨夜の家がそうだった。それこそ矢継ぎ早に電話がなった。父の法要のこと、友人の近況報告、旅行の話、甥からの「今度遊びに行くよ」報告、等々。それを受け取るのは僕だけではないが、あの電話の呼び鈴だけでも気持ちがそわそわする時がある。

▼無論いつも電話の音に「そわそわ」するわけではなく、僕の心が妙に落ち着かないときに、電話の音に少し過敏に反応してしまうようだ。全く気にしない人もいるのかもしれないが、僕の場合そう言うときが月に1-2回はある様な気がする。そして、そう言う状態にいる日に限って、電話日になる様な気がする。実際はその逆だとは思うけど、そう思ってしまう。

▼電話に出てしまうと、どうってことがない。問題は「電話の音」なのかもしれない。そう思って、何度か音を換えてみた。今の音はビバルディの「春」、好きな音楽だ。でも「春」でさえ、やはり「そわそわ」は変わらない。

▼つまりは、音の問題ではなく「電話」そのものなのだ。電話は、かけてくる人の思いを相手に(つまりは僕に)伝えようとする。「そわそわ」するときの僕は、今日は家で落ち着いていたいと思う。ビバルディの「春」は、そんな僕のささやかな願いを、揺さぶる音として意識してしまう。

▼相手からの「思い」を受け取った僕は、自分の「憂さを晴らす」為に、誰かに受け取った「思い」を伝えることになる。

▼ランディさんの言うとおりだ。「思い」は確かに伝播すると想う。でも、その思いは薄まることはない様にも思える。「思い」は人を経由する毎に変換され、別な「思い」として増幅される場合もある。薄まらずに変質していく「思い」、それが電話線に乗って世界中を巡るような気がする。

▼以前に米国の学者が、見知らぬ国の見知らぬ人から何人で自分に繋がるかを試した。確か7人か8人くらいで、自分に繋がったそうだ。それを聞いたTVが実際に番組で実験をしたところ、果たしてその学者と同様の結果を得た。

▼つまりは、アフリカの行ったことのない国の、全く見知らぬ夫婦のいさかいで発した「思い」が、巡り巡って僕の所に変質した「思い」となって伝わったのかもしれない。ランディさんのブログ記事を読んで、そんな荒唐無稽な思いに馳せてしまった。

▼そう考えると「電話日」は、1つの良い結果として、世界中の個人の「憂さを晴らしている」事になる。伝播する「思い」の終端が何処にあるのか、僕には計り知れない。でももしかすると終端なんて何処にもないのかもしれない。一カ所に「思い」が蓄積されていくよりは、永遠に地球上をめぐっていて欲しいとも思う。

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