「どういう他人になるかでしかない。圧倒的大多数が、当事者にとって他人なのだ。怖いのは世間の目という他人になること。 だったら、ただの他人、フラットな他人をめざすほうが私はいいな。」
(田口ランディ「他人という、わきまえ」から引用)
▼ランディさんは「フラットな他人」を目指すのか。僕は一体何を目指そう・・・。確かに「自分の生活を見失うしなったり」、「博愛主義のおせっかいになったり」、「声だけ大きい評論家」、「傲慢な裁判官」になるのも嫌だけど、時として「フラットな他人」にもなり得ない。
▼それは僕が少なくとも1つのシステム構築を担った意識があるからだろう。だからフラットにはなり得ない。システムを造るのは、なにも政治家だけでなく、役人だけでもなく、評論家でも学者だけでもない、普通の市民も一緒になってシステムを造っていくのだ。
▼無論1人だけの力でシステムが出来るわけがない。色々な出来事が僕らに影響を与え、社会を良くしたい気持ちで様々な意見をいう。でもそれらの意見を利用する輩がたくさん居る。彼らは手ぐすね引いて、自分たちのやりたい事の理由付けを探している。気が付くと何もかもが整備されているというわけだ。
▼考え過ぎなのだろうか。時としてそういう風に思うときもある。ランディさんのブログ記事「他人という、わきまえ」は、勿論社会システムを主に書いた記事ではないのはわかる。でも最近のランディさんの記事は、ここ何日か社会システムについて書かれている。今回もその延長のような印象を受ける。そして、僕はシステムについて考えている。
▼少し前の話、マクドナルドの事を素晴らしいと思った。世界中のマクドナルドは何処でも同じメニューで同じ味を提供しいている。これってなかなか出来ない事だ。人に依らず、同じ品質を提供している。日本も見習わなければと多くの人が思ったと思う。
▼でも今では誰もそんなこと思わない。ただ、みんながそう思い、それに習えと日本中で努力した結果、今ではどこでも大体がマクドナルド化している。そこでは、人の個性は関係がない。今ではマクドナルドのハンバーガーを口に頬張りながら、アメリカングローバリズムを否定している。
▼僕もあの時に、マニュアル化を推進した1人なのは間違いない。それが一体どういう意味を持っていたのかなんて、あの時は知りもしなかった。ただ、そうやった方が良いとみんなが思っていた。
▼ランディさんのいう「わきまえ」は、先々僕らが苦労するはめになる新たなシステムを造らないようにの願いが根底に在るような気がする。そして、色々な出来事に対して、結論を出すのが早すぎる社会に不安を覚えているような気がしている。
▼特に人の死に対して、僕らは冷静ではいられなくなる。それは当たり前の感情だと思う。ただ、ネットを流れる情報で、頭が肥大する傾向があるかもしれないが、逆に自分の気持ちのやり場をそこに求めている部分もあるような気がしている。
▼ランディさんのブログ記事「寒い」の中にある文章。
「改善されるべき制度やシ社会ステムには、改善しろと書き、子供には安心しなさいと伝えよう。」
事件の当事者でない時、フラットな他人の行動とはそう言うものなんだろう。僕も十分に納得する。
▼でもやはりシステムに関してであれば、時としてフラットになり得ないかもしれない。よくわからないけど、何となくそんな風に思う。
▼でも今回のランディさんのブログでひとつ気がついたことがある。それはランディさんは、ブログにトラックバックしている記事を読んでいるのかもしれないと言うことだった。この記事は、コメントとしてトラックバックしている僕らへの回答なのかもしれない。そんな気もしている。
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