2005/02/12

小説を読む力

「うーん。みんなすごい仕事をしているなあ。いい作品を読むと、元気になる。小説はすばらしい。私は小説が好きだ。だから作家になったのだ。」
(田口ランディ「沖縄へ・・・」から引用)

▼ランディさんの小説感想を読んでいたら、何故か仕事の事を思い出した。僕も仕事で人の企画書を読み、「これはすごい」とか「この感性が、別の角度の切り口を与えている」とか「深く調査を行っている、こういう見方もあるのか」等々と驚くことがしばしばあり、その事を思い出したのだ。

▼企画書にも物語というか、ストーリーが必要だ。そのストーリーにはきちんとした裏付けの調査が伴う。そしてその事を社会状況を加味して、読む人に納得させなくてはならない。

▼でも僕が言いたいことは、企画書が小説と似ていると言うことではなく、ランディさんが同業者の小説を誉める姿に、自分の仕事での姿を重ねてしまったことだ。勿論、企画書と小説は全く違う。だから、重なったことに自分自身少しとまどう気持ちもある。

▼多分、ランディさんが作家で同業者の小説を読み、仕事の感覚でその小説を誉めているからの様に思う。つまり、ランディさんは書き手の立ち位置で、読者となっている。僕はその様な立場で小説を読んだことはないから、誉める姿に仕事をイメージしたのかもしれない。

▼僕の学生時代は小説中心の生活だった。休みなしに取り憑かれたように小説を読んだ。それは、社会人になってからも同様だった。でもここ10年以上は小説はあまり読まない。最近読んだ小説はマイケル・カニングガムの「めぐりあう時間たち」しかない。その代わりに小説以外の書籍はよく読む。今読んでいるのは、レヴィ・ストロースの「野生の思考」で、これも小説ではない。

▼何故僕は小説を読まなくなってしまったのだろう。
「なにかこう自分を文字の世界にずぶずぶ沈ませていく、力のようなものが必要だ。」
ランディさんの言うとおりに、この力がなくなってしまったのだろうか。そんなことを考えてみた。

▼今でも覚えているのは、今から10年以上前に、日本の小説をさして僕は「面白くない」「もう読みたくない」と決めてしまったことだった。日本の小説に、僕にとってのリアリティを感じることがなくなってしまったと、その時は実感していた。それからは、数人の作家を除き殆ど日本の小説は読まなくなった。

▼「面白くない」と宣言を下したのは、今から考えると、それは小説のせいだけではないのは間違いない。確かに、自分からエネルギーを使って埋没する事に疲れた部分もあるとは思う。でも正直言えば、僕にもよくわからない。僕は何故小説を読めなくなったのだろう。

▼人は24時間の間に色々なことをする。眠り、食事を摂り、仕事をし、乗り物に乗り、テレビを見て、酒を飲み、ゲームをして、PCを触る。与えられた24時間をどの様に配分するかは、個人によって様々だ。本を読むと言うことは、結局その時間配分の1つになってしまっている。ただ、書籍は携帯性に優れているから、乗り物に乗った時は同時に読書は可能になる。

▼多くの人は、そうやって読書をするように思う。ただ、その時に読む本が小説かどうかはわからない。つまりは、小説を読むことの可能性は現在では少ない様に思える。特に平日で仕事の帰りに読む本は、小説と言ってもエンターティメント系が多いのではないだろうか。それはランディさんの言うところの、力をそれほど必要とせずに読める書籍でもある。

▼でも、そうやって自分が小説が読めなくなった理由を一般化するのは、問題を不明瞭にしてしまう。ランディさんが定義した小説を読む力について、自分の個人的な問題として少し考えてみたいと思う。

▼ランディさんの新刊本の案内は、まだ図書館から届いていない。待ち遠しい、でもその前に積んでる本を片づけておかなくては。

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