2005/02/12

建国記念日の翌日に思うこと

▼昨日は建国記念日で祝日だった。全国各地で色々な集会が行っていたらしい。僕はと言えばブログで遊んでいた。建国記念日という祝日は僕にとっては単なる1つの休みでしかない。僕のこの感覚ってどうなのと新聞各紙を読んで思う。

▼「奉祝」「反対」それぞれの立場で意見を述べる事は別に構わないし、大いにやるべきだと思う。でも僕にはどちらも何かしら違和感を感じてしまう。どちらかに決めなければいけないのだろうか。しかも今すぐに。これらの新聞記事を読むと、目の前に踏み絵を出されたような気がして、少し気分が鬱になる。

▼「国を愛する気持」を持つことは大切なことだと思う。事実として僕はこの国に生まれ、この国の言葉を話し、そして暮らしている。国が持つ権力の怖さも時として感じ、何かしら嫌な気分になることも多い。でも「国を愛する気持」は他国を尊敬する気持ちに通じるとも思っている。ただ声高に「愛国心」と叫ばなくても、この国の人は十分に日本を愛しているような気がしている。

▼愛し方は人によって違う、それが建国記念日に表に現れる。だから、「俺の愛し方が正しいんだ。」、「いや私の愛し方の方が良いに決まっている。」、等と主張しあっている様にも見える。でも正しい愛し方なんて本当にあるのだろうか。いくら十分に愛し育てたとしても、子供は親の想像を遙かに超えて成長するように思う。

▼この国に産まれた以上、僕はこの国の歴史を背負っている。そしてそれから逃れることは出来ない。それも紛れもない事実だ。例えば、憲法改正、天皇に関する事、韓国などの近隣諸国との関係、家族とか社会の事、等々あげればきりがない。そしてそれらには総て元がある。

▼1つ1つが見知らぬまま決着が付けられていくのは嫌だが、「すぐに決めましょう」のノリにも閉口する。それに、それらの問題に対し、決めつけというか、何か極論で割れているような気がしてくる。これでは現実的に解決していくとはとても思えない。

▼多分、僕が新聞紙上に登場する様々な主張に対し違和感を感じるのは、そこに「暮らし」のリアリティがないからだと何となくそう感じる。「暮らし」と乖離している中で、書物から受けた知識で議論しあう「愛し方」。これでは、間違いなくまっとうな子供が育つわけがない。

▼「じゃあ、どうすればいいのか具体的に示せ。」と言われてても実は困る。自分の考え方の基本は見えたとしても、それを両論を割って間に入り込む程の度胸も覇気もない。だったら日和見主義だと言われるかもしれないが、その時は「へへへ」と頭をかきながら笑うだけだ。それに日和見主義は別に悪くはないとさえ思っているから、じつはそう言われても苦にならないのもある。

▼しばらく回りの様子を見ながら過ごすこととしよう。なにやら訳のわからない文章になってしまった。本当は「平和への祈り」の為に、沖縄に行ったランディさんの事を書こうと思っていたのだ。この結末もまた僕らしい。

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