▼僕は小説について、ある意味極論をもって見ていた所がある。その極論とは、小説は作家の人間性とは無縁であり作家を論じる時は作家の経歴ではなく創作した小説だけをもって論じるべきだ、という考えだ。この考えを延長すれば、作家が創作した小説は、作家の才能を媒体しているが、創作した本人でさえその意味を知ることはなく、その意味は読者である我々に委ねられている、と言う事にもつながってくる。
▼勿論、作家という人間が絡むから、いくら作家の才能を通して社会がその小説を書かせているにせよ、やはりフィルターとしての作家の考えがそこにあるのは間違いない。ただ作者によりバイアスした小説の世界を、読み手である僕が補正し、さらに自分の思考というバイアスから新たな世界を構築する事が出来ると信じていた。その結果、読み手である僕の中には作者が構築した小説を再構成した新たな小説の世界がそこにあり、人はその新たな小説をもって論じる事になる。だから、そこには作家の人間性が入り込む余地がない。
▼この考えに最近疑念を持っている。疑念を持ち始めたのは田口ランディさんのブログを読み始めた事と無縁ではない。ランディさんのブログで彼女の記事を読んで大いに共感した。その際に共感する内容が、以前から考えてきた事に対する共感なのか、ランディさんの記事によって始めて知り、それが以前からあたかも考えていたかのように錯覚しての共感なのか、実は自分でも区別が出来なかった。つまりは、前段の考えの前提にあるバイアスを補正する力、が僕のなかであてにならない事を感じたのだった。
▼自分の考えに近ければ近いほど、その傾向は強くなる。僕は今まで一つの幻想を抱いていたのかもしれない、それは自分の考えは自分で考え、他から情報操作を受けていないという幻想。その考えは、人はコミュニケーションの中で、現実を構築していくので、完全なオリジナリティといった物は存在しない、とは違う。コミュニケーションの中で確かに話題は変質し新たな価値をうむかもしれないが、僕が受けた印象は変質せずにそのまま受け入れてしまうと言う事なのだ。
▼僕自身が情報伝達のフィルターとして弱い部分があるとするならば、僕は逆に書き手を選ばなくてはいけない。書き手の考え方を知ることが重要になってくるのかもしれない。しかも、小説の場合は物語として作家の考えを伝達している。人は物語として受け入れると、そのまま深いところで受け入れてしまう傾向があるようにも思える。逆に言えば、作家という職業は社会に多大な影響をもっていることにもなる。それは、社会学者とか心理学者とかの比ではないかもしれない。まず読む人数がそれらとは比較にはならない。勿論マスメディアほどではないかもしれないが。
▼ただ、新聞・テレビ等のマスメディア程には、作家が創作する物は批判を受けないのも事実だ。単なる小説として受け取られているからだと思うが、その中にはたかが小説の気分もあるのかもしれない。ただ、現在においては小説の位置は、芸術性というよりはメディアとしての方が高いようにも感じる。
▼何を今更と思われる方もいるかもしれないが、これが僕の現状でもある。そしてメディアとしての小説の読み方を模索している。一つ思うことは、ランディさんの様に多くの作家達もブログで普段の自分の考えを出して欲しい。それがその作家の作品を読むか否かの判断にしたいと思う。ランディさん?勿論、小説読ませていただきます。
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