2005/02/28

トヨタ ビックエア

テレビ朝日系列で28日0時25分から放送していた「トヨタ ビックエアー」を観てしまった。実はあらかじめ見ようと思って観たわけではない。少し遅かったけど風呂に入ってから寝ようと思ったのだ。少しお湯を熱くしようと火を入れて、待ち時間にテレビをつけていたら放送していた。

実際に開催したのは2月19日だったらしい。場所は北海道札幌 真駒内オープンスタジアム、競技種目はストレートジャンプといって、スキーのジャンプ台を小さくした感じの競技場を使い、スノーボードで滑走し、ジャンプして空中で様々な姿(技)を見せる。点数はその技を点数化して勝負を決める。つまり、難易度の高い技をきれいに決めれば点数が高くなるということだ。

これが面白かった。僕はスノーボードは一切やったことがない。面白そうだなぁとは思うが、やる機会も、自分からやろうとする意思もない。そんな僕でも面白いと思った。海外からと日本から参加者16名で繰り広げる戦いは、一言で言えばエンターティメントそのものだった。

一人一人の演技はそれぞれに個性があった。でもスノボーの世界に疎い僕は選手名を覚えられない。それでなくても人の名前を覚えるのは苦手だし、それが外国の人であればなおさらだ。その中でも、イエロー・エッテラというの欧州の若者のことが特に印象深く、名前も含め覚えている。金髪、あどけなさが残る顔立ちは十分に少年の顔だ。

16人でまず予選みたいな事をする。そして上位8人が決勝ラウンドに進む。エッテラは決勝ラウンドに進んだときは、大体真ん中くらいの順位だった。決勝ラウンドはトーナメント方式で、二人ずつ戦い点数が高いほうが勝ち進む。エッテラは最初の決勝トーナメントで、大会で誰も演技した事のない技を見せる。それはまっすぐにスピードをあげて滑走し、ジャンプ台で後方に二回転して着地するという荒業だった。でもかれは失敗する。点数は悲惨な点数だ。

エッテラと戦う若者はオーストラリアの人だったと思う。同じく金髪で、やんちゃ坊主の雰囲気の男の子。彼はエッテラの大技を背後で見ていて、しかもそれを失敗しているのも知っている。安全に演技すれば勝つのはわかっていたと思う。でも彼もエッテラほどではないが、荒業を披露する。それは高くそして回転を加えた技だった。そして彼も失敗する。続けて二回目もエッテラは同じ大技に挑む。しかいここでも彼は失敗する。相手方のやんちゃ坊主風のオーストラリア人は、本当に今度こそ安全に演技すれば勝つことができる。でも彼も大技を試みて、そして失敗する。エッテラが勝ち、次の試合に進む。

オーストラリアのやんちゃ坊主は、多分エッテラの技をみて、また多くの観客達がエッテラの技に歓声を上げている声を聞いて、安全策に行くなんて気持ちは一切なかった様に思う。彼らにとって大事だったのは、勝つことではなく、自分の最高の技を観客に見せ喜んでもらう事だったと思う。そうしてそれをする事が自分も楽しむ事に繋がっていく。みていてそんな気がした。

エッテラは準決勝に進む。相手は今まで最高点を獲得したフランスの男の子。フランススノーボード界の至宝といわれて、確かな技を格好良く演技することができる。エッテラはそこでも一回目は大技を試みる。そして失敗。次にフランスの男の子は、難易度の高い技を確実に美しく決め、なんと今までにない最高点をたたき出す。あとがなくなるエッテラ。

二回目。最初に飛ぶフランスの至宝。またもや高得点。その演技に声援を送る観客。そしてエッテラの番がくる。観客達もエッテラが再度大技に挑戦するのがわかっている。そして期待している。その期待にこたえるかのように、エッテラが滑り出す。一瞬の静寂。
3回目で彼は見事に成功する。それからの観客達の叫び。本人も飛び上がって喜びを表現する。得点は今までにない最高得点。

優勝決定戦も素晴らしい試合だった。でも大技を成功させたエッテラはそこでも技を決める。そして優勝。面白かった。最後まで見てしまった。楽しむ事ってこう言う事なんだと、教えてくれたような気がした。楽しむ事の前に勝ち負けは、なんか矮小な感じも受けた。そして、彼らはお金まで払って見に来てくれた観客のことも忘れていなかった。良い演技、最高の演技を追及していた。一所懸命だった。それがTVを通じてみている僕にも伝わった。

スノーボードの事を何も知らない僕の文章で、どこまでこの楽しさが伝わるかわからない。多分、こういう男の子達が残る限り、スノーボードは廃る事はないのだとおもう。そんな気もした。

2005/02/27

僕も水星人

「六占星術における自分の星を計算できるサイトがあって、試してみたら、私も水星人だった。水星人のマイナス……らしい。」
(田口ランディ「私は水星人」から引用)

▼結構占いって好きだ。昔一時タロット占いとか興味があって覚えたりした。それで遊びで友人を占ったりしてみたが、そう言う才能がないみたいで、「当たらぬのも八卦」の方が多かったようだ。

▼それに初詣の時は必ず「おみくじ」を引くし、星座占いも必ずではないけど、たまたま雑誌に載っていれば読んでしまう。
たいてい「おみくじ」に書かれている言葉は、人が読んだとき思い当たることだ。例えば「待ち人来たる」と書いてある場合、たいていの人には思い当たる人がいるのでないだろうか。

▼だからといって、それをデタラメとは思わない。つまり答えは常にその人の心にあると言うことだと思う。占いは、その心を後押ししたり、迷っている気持ちを定めたりしてくれる。自分で決める事ができる時は占いなんて気にしないから、気にするときは選択内容が等しいときか微妙の時なので、やはりそれなりに効用はあると思ってる。

▼ランディさんのブログで知り、僕も調べてみた。そしたらなんと、ランディさんと全く同じだった。つまり水星人のマイナス・・・。
これって楽で良い、つまりランディさんのブログの記事がそのまま参考になるって事だ。ふむふむ・・・。

▼参考になると思ったけど、やはり占いは自分で読んで感じなくてはいけないみたいです。こういう事でも他力本願はいけない。いやはや。

▼「六占星術における自分の星を計算できるサイト」はここです。

2005/02/26

「ドリームタイム」を読み終えて

▼「ドリームタイム」を読み終えた。24日夜に読み始め、本から離れることができずに、そのまま読み続けた。とても面白かった。一気に読めてしまうと言うより、一気に読んでしまいたくなる魅力がそこにはあるように思った。それに僕にとっては、ランディさんの語り口は相性がよいのかもしれない。

▼短編集「ドリームタイム」には同名の小説はないが、小説の中に「ドリームタイム」が一回だけ使われている。
「真っ青な空の下で、芭蕉布の衣が風にはためく。どうやらドリームタイムに入ったようだ。現実がどんどん曖昧になっていく。もうすでに時間も空間もぐわんと揺れ始めていた。」(田口ランディ「ウタキの青い蝶」から引用)

▼実際面白いことに、ランディさんが意識しているのかわからないけど、小説の文中に使われる「ドリームタイム」の位置は、全体の短編集の中では、完全ではないがほぼ真ん中にある。まるで、「ドリームタイム」の文字印刷部分が本全体の重みをそこで受けているかのようだ。

▼作家は言語を道具として自分の世界を構築する。別に僕はここで記号論を言い出すつもりはないが、良く言われるように僕らは言葉の中にいて、言葉の外に出ることができないと思う。僕が思考するとき、無言語の時もあるが、人に伝えるときは言語で伝えるしかないからだ。その時日本語の言葉と文法の枠内で行う事になる。だから時として、伝えたい思いは一部消化不良の塊となって僕の中に残ることがある。

▼科学的でない事は十分にわかっているつもりだ。でも自分が言語の枠内でしか物事が見られないとしたとき、時として僕は言語の外に出たいと、強く願うときがあるのも事実だ。仮に枠を突き抜けたとき、僕は言葉にはならない「思い」となって漂うことになるような気がする。そこには神様がいるかもしれない、霊の姿も見えるかもしれない。その時、僕らの言葉で語れない「何か」は、一体僕らに何をどのように語りかけてくるのであろうか。

▼ランディさんは「ドリームタイム」の中で幾つものそうした思いを経験する。小説の中でランディさんは「言葉の内」にいる。そして「外」を垣間見る人と接触することで、「時間と空間がぐわんと揺れ」るのを感じるのだ。「外」を垣間見る人は、ランディさんの質問に対して正確には答えられない。それは言葉では語ることができないものだからだ。でもランディさんの感性はそれを一緒になって感じている。

▼ランディさんは「言葉」を道具として自由に駆使することができる。でも「ドリームタイム」の中では常に内から間接的にそれを示すしかできない。それでも、ランディさんの言葉は「外」に向かおうとしているかのように僕には感じてしまう。「ドリームタイム」は本当に面白い小説だ。多くの人に読んでもらいたい。そう思う。でも、もしかするとランディさんが書きたいことは違うのかもしれない、そんなことを自分勝手に想像する。

▼勿論僕の勝手な想像だ。ランディさんは小説中の「マナさん」、「ユイさん」、「山崎さん」、その他多くの「外」を垣間見た人の側から、本当は小説を書きたいんじゃないかと思ったのだ。でもそれを書こうとすると、言葉は道具ではなくなり、言葉自体の重みを感じてしまうんだろうな、などとも思ってしまう。そう思うと、ランディさんにとって言葉は仕事の道具として割り切れない何かがそこにあるようにも思えてくる。それは単にブログで感想を書く僕にはわからない何かだと思う。

▼「ドリームタイム」に集められた作品はどれも好きだ。特にどれが好きだとは言えない。作品の中で色々と考える事も多かった。これからこのブログで幾つか感想を載せたいと思う。そう思っていたら、ランディさんのブログで新作の「ひかりのメリーゴーラウンド」のゲラの第二校終了の記事が出ていた。今度は図書館から借りずに、書店で買ってみよう。そう思った。どうして?それはこの本を図書館に返すのが惜しくなってきたからです。

2005/02/25

「ドリームタイム」読み始める

▼ランディさんの書籍「ドリームタイム」を読み始めた。図書館に予約していたのだけど、僕より先に予約者がいたので少し待った。発売前から予約していたので、図書館での新刊本としては今までになく早く読むことができる。今の時点で「ドリームタイム」の予約待ち人数はどのくらいなのだろう。多分20人以上はいると思う。そんなことを想像し、少し自己満足に浸る。

▼僕にとって初めてのランディさんの小説だ。実は凄く期待している。そしてその期待は裏切られることはないだろう。理由はランディさんの文章が好きだと言うこと、これにつきる。僕にとっては、はずれることのない宝くじみたいなものだ。図書館で書籍を受け取る段階から既にわくわくドキドキしている。

▼手にした「ドリームタイム」をみてまず思ったのは、装丁が綺麗だって事。薄いブルーに白い雲の模様。このブルーの色合いがとても綺麗なのだ。って・・・じっくり見て気が付いた、この白い雲って核爆発のキノコ雲ではないか。うぬ。でもこの装丁の理由は小説を読み始めてからすぐに氷解した。

▼帰宅途中の「モスバーガー」でコーヒーを飲みながら、早速読み始める。「ドリームタイム」は全13編の短編小説集だ。続けざまに初めから4編の小説を読む。読みやすいし、とにかく面白い。それに最初の数編はブログのランディさんそのものではないか。ブログで馴染んだランディさんの語りが、小説になっている感じに近い。これが第一印象。最初としては、まずまずの出だしだと思う。

▼小説っていいなぁ、ランディさんのブログでの口癖が僕にも伝わる。実は僕にとって久しぶりの小説でもある。こんなにも小説って楽しかったっけ。本当にランディさんの小説の中にずぶずぶ沈んでいく自分がわかる。ああ、あと9編で読み終えてしまうのか、早く読み終えたら再読してしまおうか、そんなことも考えている。

▼ブログでのランディさん、小説でのランディさん、実は僕には区別が付かない。「全て私なのよ」とランディさんが傍にいたら言うのかもしれない。そういえば、久しぶりにランディさんのブログに記事が掲載していた。1週間の北海道旅行から戻ってきたのだ。記事の中に、何故自分はブログを書くのかの自問にこう答えている。

▼「実は、私は生きています……という、そういう手触りだけを、伝えたいがためにこんなにまわりっくどく書いているんじゃないか……と思った。」
(田口ランディ 「大雪」から引用)
もしかするとこれはブログだけではないのかもしれない。小説もランディさんにとっては同様なのかもしれない。そんなことを思った。この自答は素朴だけど本質的だ。

▼ランディさんはよく多様性の事を記事に書く。読み終えていない「ドリームタイム」も短編小説に仕立てたのは多様性の1つの表現かもしれない。その中には、いつもの語りの様々なランディさんがいる。それらの1つ1つのランディさんが、生きている、存在していると伝えたいのかもしれない。その中には理解できない話もあるかもしれない。でもそこに在るのだ。「理解しなくても良いから、在るのを認めてよ」そんなふうに言っている様にも思った。

2005/02/24

恋人の携帯、盗み見たことってあります?

「携帯といえば、いまや「プライバシーの固まり」。電話帳を見れば持ち主の交友関係が分かるし、メールを読めばその人の生活が相当分かってしまう。」
(IT?Mediaから「恋人の携帯、盗み見たことってあります?」引用)

以前、友人の女性が旦那のPCメールを盗み読みしたら、浮気の内容のメールを見つけ、かなりショックを受けた話を聞いた事がある。勿論その女性は旦那の行動に疑問を持ったからPCメールを覗いたわけで、疑いがなければ気にもしなかっただろう。PCの場合、立ち上げるときにパスワードでもしておけばよいと思ったが、友人の旦那は奥さんがPCには疎いと思い安心していたらしい。

携帯の時代になっても、男女の仲は基本的に有史以来そんなに変わりはないかもしれない。つまりは疑惑をもたれたら、持った方はますます膨らみ、何らかの行動をとらなければ自分の気持ちが収まらないと言うことだ。例えば、デート中に度々メールの着信音が聞こえたり、ちょいと手洗いに行って戻ってきたときに相手が電話をしているのを見かけたり、さらに戻ってきた自分を見て即時に電話を切ったりすると、これはもう疑惑の種を蒔いたのと同じ事だろう。

記事によれば、相手の携帯を盗み見するのは、全体で約28%。そのうち男女別は男性18%、女性38%。まぁ、大体が盗み見しても、友人の女性のケースの方が希で、殆どは何の問題がないことの方が多いとは思う。
「思ったほど自分の亭主(恋人、奥さん、なんでも入れて下さい)はもてはせず。」の例えは現代でも通用するような気がする。

でも何故男女間はそういう疑惑の思いを持ってしまうのだろう。こういう問いをしても、回答はそれこそ人の数ほど出てくるのかもしれない。そういえば最近読んだ本「街場の現代思想」(内田樹)に面白いことが書いてあった。
「男女関係においては、相手のふるまいに、何となく違和感をもたらすような変化を感じた場合に、それをとりあえず「愛情が失われつつある予兆」と解釈しておくことの方が、おそらく人間にとって「自然」なのである。私たちは愛については、何がおきても穏やかな気持ちでいることより、ささいなきっかけで絶望することの方を好む。」
(「街場の現代思想」内田樹 P174から引用)
つまりは「誰にとっても、愛の終わりは構造的に不可避」だと内田樹さんは言っている。もしかすると、携帯の盗み見はその始まりなのかもしれない。でも内田樹さんの文章はさらに続く。内田樹さんの名誉のためにも続けて引用する。
「私たちが破局に向かって加速しているとき、実は私たちは思考の自由も想像力も奪われ、そう「妄想」する事を強いられているのである。愛において自由であろうと望むのなら、私たちがなすすべきことはとりあえず1つしかない。それは愛する人の「よくわからない言動」に安易な解釈をあてはめないことである。「私にはこの人はよくわからない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。」
(「街場の現代思想」内田樹 P176から引用)
内田さんの文章にある「諦念」が難しい。涼しい諦念を持っている人は、多分携帯を盗み見しないような気がする。僕自身も盗み見は一度もしたことがないけど、それは諦念ではなく、自分の仕事が通信分野で「通信の秘密」を教育されているからに過ぎない。いわば、身体がそういうふうに染みついているだけの話だ。見ようとする人の気持ちも、興味ないという人の気持ちもよくわかってしまう。簡単に言えば善い悪いの単純な問題では当然にない。

しかも「構造的に不可避」であるのなら、疑惑を持つ前に「諦念」の状態にある事が必要となる。でも「諦念」って個人的な感想を言えば、夫婦歴数十年のカップルで成し遂げる事ができる大事業のようなものだろう。それを若い男女に求めるのは難しいかもしれない。仮に得られたとしても、様々な恋の経験がそこには必要な気がする。

そういえば以前、別の友人に「貴女にとって愛って何?」って聞いたことがある。
老婆心ながら言い訳をすると、随分と不躾な質問のように聞こえるかもしれないが、勿論この質問に至る背景があり、それはこの場の趣旨ではないので省いているだけなので、あしからず。その時にその女性は即座にこう答えた。
「相手に何も求めないことです。」
その答えを聞いて、僕は全てが腑に落ちた事を、今でもこの言葉と共に覚えている。勿論、僕の質問に対する正解などない。それぞれに思っていることが正解だと思う。でも、その言葉は内田さんの言うところの「諦念」に近い様に思える。

なにやら携帯の盗み見から、全然違うところに話が来てしまった。だいたい「盗み見る」という表現が良くない。まずは疑念を持ってしまったら、相手に自分の気持ちをぶつけることから始まるような気がする。そしてその時の相手の言葉を信じるのだ。そう言うことを何回か繰り返すことで、もしかしたら、内田さんの言うところの「諦念」に少しでも近づけられるような気もする。信じられないときは・・・その先は僕にはわからない。

2005/02/23

バーガーバー 、「バーガーボーイ」に改名

2005022373bda6d5.jpg「公募で名前が決まった長崎県佐世保市名物・ハンバーガーのイメージキャラクター「バーガーバー」が、東京進出に当たって「バーガーボーイ」に改名されることになった。」
毎日新聞から引用

どうでも良いことなのだけど、どうでも良いことが自分の趣味に合っていると何か書きたくなる。それが未だ食べることが叶わぬ佐世保バーガーであれば尚更だ。

確かに「バーガーボーイ」の方が東京出身の僕としてはわかりやすい。でも「バーガーバー」は公募で決まり、且つ地元である佐世保の言い回しを名前にしたと聞いた。つまりこの名前は二重の意味で佐世保の人にとっては親和性が高いと云うことになる。

この名前を選択決定した理由は、つまりは今後も「佐世保バーガー」が佐世保の地域と一緒に育っていく気持ちの表れだと思う。それがナムコの次のひと言で変わるなんて・・・

「東京じゃ「バーガー婆」に聞こえますから」

最初この記事を読んだとき、「これって冗談?」と思った。「バーガーバー」が「バーガー婆」と佐世保では聞こえず、東京では聞こえる違いも面白いと思ったが(ただし、僕は「婆」と聞こえなかったマイノリティですけど・・・)、「東京の聞こえる」を「ナムコ」が代表しているとも思わなかった。

つまり、「みんなで決めたこと」(公募)が企業(ナムコ)と権威者(キャラクター原案のやなせさん)の言葉で覆される。これって今の社会ではどこでもありそうなことだ。うーん、この件では色々なことが書けそうで困る。

困るのは「ネタ」として「佐世保バーガー」を扱ってしまうことが本意ではないからだ(ってこうやって記事にしているけど・・・)。だからこの話はここら辺で止める。ただ、名前を変更する理由は「佐世保バーガー」が商業目的で全国展開することの意思表示であることは誰でもわかる。ただ、それが以前の記事でも書いたが、彼ら「作り手」の能力を超えない程度であることを今更ながら祈るしかない。

勿論、僕の意見などそれこそ「どうでも良いこと」なのは十分にわかっている。
画像は在りし日の「バーガーバー」君です。

2005/02/22

今年のスギ花粉

NHKのニュースで今年のスギ花粉状況について話していた。今年のスギ花粉は、昨年が丘陵レベルであればエベレストに相当するそうだ。解説者の例えが具体的で面白かった。でも毎年花粉に悩む方であれば、そうはいっていられないだろう。例年辛い日々を過ごしているのに、それが今年は次元が違うと云われれば、想像することさえ不可能かもしれない。

しかも、明日春一番が吹くことから、花粉の飛散は明日(23日)の昼頃から始まるらしい。
「明日の朝までだったら、予防は間に合います。」と語っていたが、何をどうすればよいのか、僕には皆目見当がつかない。

それに今年の量がそんなに多いのであれば、今春から花粉症を発病する方も多いことだろう。僕にもその恐れは十分にある。実は数年前に花粉症になったことがあるが、その年だけの症状だった。
人に聞いたら、「花粉症になれば、それは体質だからもう元には戻らない。」らしいから、多分その時は違ったのかもしれない。でもその年は本当に辛かった。だから、今年の花粉は僕にとっても少し怖い。

最近街を歩いているとマスクをしている方をよく見かける。花粉症の予防としてはマスクが一番現実的なのだろうか。そう言えば「N95に適合しているマスクを選ぶべき」とか人から聞いたりする。N95とは0.3ミクロン以上の空気中の微粒子を95%以上カットするらしいので、やはりマスクをするとしないとでは雲泥の差があるのだろう。逆に言えば、花粉症になる前からマスクをした方が予防効果としてはあると言う事かもしれない。
でも予報官が言うには明日の昼までだから、やはり花粉症にとどまらず、何事も一歩出遅れる僕らしい状況となっているのも間違いない。

いざというときの花粉症サイト
花粉症ナビ

2005/02/21

性体験の比率は携帯電話を持っている方が高く、家族との会話が少ないほど高い?

「性体験の比率は携帯電話を持っている方が高く、家族との会話が少ないほど高い――。全国高等学校PTA連合会(事務局・東京、会員約250万人)と京都大学の木原雅子助教授が全国の高校生を対象に行った生活・意識調査で、高校生の日常生活と性体験の関係が浮かび上がった。」(読売新聞から引用

この調査の目的は「有効な性教育のあり方と性感染症の予防の手立てを探る」ため、「性体験の背景にある社会環境の変化や意識」を探ったと新聞では報道している。つまり、最終的な目的は「性感染症の感染拡大の制御」となるのであろうか。それであれば有効なのかもしれない。

でも「~を探る」為に「~を探る」と二層構えになっているのが、少し面白い。僕は調査の専門家ではないが、こういうものなのだろうか?例えば、「新商品開発の企画を探るために、現代若者の行動を探る」とは企業ではしない。「探る」事が調査であれば、それは一回で十分だと思うし、前者の「探る」事には後者の意味も含まれているとも思う。(単に読売新聞記者の文章が下手な事による誤解の可能性はあるけど・・・)

仮に今回の調査がバイアスのない結果だったとして(本記事だけでは全く不明、正直言えばバイアスされている可能性はあると思っている。)、関係性で得られた制御情報が、次のレイアにどの様に使われるのだろう。その点において興味がある。

回りくどい言い方はやめよう。僕が懸念しているのは本記事に書かれている以下の様な単純の構図のことだ。
「青少年の性感染症の拡大は防ぎたい」→「性体験の割合を減らそう」→「携帯電話の所持率と性体験の関係性がある」→「携帯電話を持たせるのは止めよう」
つまり制御要素として「携帯電話の所持率」を持ってくると言うことだ。しかも意図として青少年の性行動の制御が見え隠れする。

本年(2005年)4月から東京都で施行を目指している「淫行(いんこう)処罰規定」にあるように、現在社会の動きは「性行動の低年齢化への歯止め」にある。その中で、「携帯電話の所持率」が浮上するとなれば、それは一種の犯人捜し的な状況を呈し、社会全体が益々閉塞感が出てくるような気がしてしょうがない。

勿論、そんなことは調査側においては意図として持っていないかもしれない。でも本記事を読む事で、特に親であれば、子供に携帯電話を持たせるののに躊躇する方も出てくるような気がする。

「淫行(いんこう)処罰規定」の是非については、ここで個人意見を言うつもりはない。青少年の性行動は自己決定権を持っているとは思うが、性への自由な試行錯誤を様々な大人達から守る必要はあるのかもしれない。ただ、17才同士の性行動は許されて、17才と18才の性行動を罰則する意味が何処にあるのかが個人的にはよくわからないのは事実だ。しかし、法令として一定の線引きをせざるを得ない部分においては致し方ない様にも思える。

僕は、青少年の性感染症が拡大し、妊娠中絶が増えることを賛成している訳では絶対にない。ただ、それらを防止するのであれば、規制による隔離ではなく、別の手段はなかったのだろうか等と考えてしまう。今回の目的が別の手段での制御を行うことであれば、冒頭に言ったように調査は有効な気がするが、それは調査における各要素の洗い出しとその関係性で作られる構造モデルが事例に適用出来るかどうかで決まるのであって、単にひとつの調査項目がそう見えるかで決めるべきではないと思う。

しかし、それがこの様に新聞紙上に掲載することで、記者のバイアスがそこに入り、調査側の意図とは違う流れに組み込まれてしまう様に思えて少し気になった。読売新聞はいったいどのような意図でこの記事を掲載したのだろう。それがこの記事を読んで一番気になった。

2005/02/20

KDDI光プラスの販促DMが届いた

一昨日KDDIから「KDDI光プラス」への加入促進DMが届いた。KDDI光プラスで提供しているサービスは電話・ネット・TVの3つで、基本サービスとしてはネットサービスとなる。簡単に言えばKDDIのFTTHサービスと言うことだ。

その加入促進DMをみて、随分とFTTHも安くなったと思った。
それにADSLと違いNTT局と自宅との距離とかノイズの影響を受けないのが良い。しばし考える。問題はそれでも月額利用料が高くなる分との兼ね合いだろう。
で、結局時期尚早と見送ることにした。それでもいずれはFTTHに切り替えたいとは思っている。(たぶん・・・)

見送ったのは、使っているPC自体が廃棄までは行かないけど、それでも十分に古いことが最大の理由。速度は上りも下りも速い事にこしたことはない。でもそれらの性能が現行のPCで十分に生かせるかが疑問だったのだ。
(つまりはFTTHにしたときに、TVとか見たくなるでしょ。でも今のPCではTVはちょいと難しい気がするんです。)
それに、速い速度を経験しなければ、ブラウザでネットを回覧し、たまにブログを書くくらいの頻度であれば、現行でも十分満足している。(したいと思ってる。)

しかしこうやって、見送った理由をあれこれと述べている気持ちが、今の自分の気持ちを表しているなぁ(笑)

ついでに未練がましくDIONの光プラスのサイトを見た。そしたら、多分販促DMにも書かれていたかもしれないが、1Gbpsの新タイプのFTTHをKDDIが対応しているのに気がつく。
以前はFTTHは最大100Mbpsだった。しかし、ADSLのさらなる技術革新により、FTTHの速度は優位にたてなくなっていった。
そこで「GEーPON」「BーPON」というギガビットイーサネット対応の光ファイバーを使った公衆回線網で1Gbpsを実現する技術が確立された。
ただ公衆回線網が1Gbpsだが、自宅内は100Mbpsのまま。これはメディアコンバータの性能によるところが大きいのかもしれない(わからないけど・・・)。

FTTHのシステムには大きく分けて2種類ある。
1つは通信事業者側と自宅をポイントツーポイントで結ぶ方法。もう一つは自宅と通信事業者の間にスプリッターを設け、1本の光ファイバーを複数の光ファイバーに分岐させる方法で、通称PONと呼ばれている。(わからないけど・・・)

「GEーPON」とはつまり。ギガビットイーサーネットのPONと言うことになる。
一本の光ファイバーを複数に分岐する事を考えれば、自宅で使う場合は分岐する数分で割っただけしか速度が出ないことになると思うが、その点はトラフィック量により変わるらしいので実際は違うらしい。(わからないけど・・・)

話は変わるけど、KDDIの光プラスのTVって要するに「VOD」ですよね。でも見ることが出来るコンテンツ類って、結局は他の事業者がやっているものと大差内容に思うのだけど、あれって差別化するのって色々と難しいと思う。
コンテンツ配給会社も1つに限定するメリットがなければしないと思うし、そうすると価格が高くなるし。しかも、再放送番組を使う場合、著作権などの問題も絡みそうだし(わからないけど・・・)。

でもどこかでキラーコンテンツか新たなサービスを考えないと、通信事業者が提供する放送事業は「絵に描いた餅」になってしまいそうな気がする。
新たなサービスで利益を得られる期間って現在ではどんどんと短くなっていくとは思うけど、それでも先にシェアを取れるのが強み。(わからないけど・・・)

通信事業者って設備重視で技術先行が優先ってイメージがあるけど、これからは何か変えていかないと、単にインフラ提供会社に落ち着いてしまうような気がします。まぁ多くの人にとっては何も困らないけど。(これはわかる)

2005/02/19

情報資本主義

「情報過多の社会では、ドライで利己的なくらいでちょうどよく、愛想がよくて奉仕的な人はぼろぼろになってしまうのではないか。そういうなかで、さらに加速度的に情報資本主義が進むと、もう適応不可能になる人たちが続出し、現実適応のために乖離したり、ひきこもったり、多重人格化したりしていくのではないだろうか。」(田口ランディ「情報資本主義について」から引用)
▼「情報資本主義」とは「貨幣」の変わりに「情報」を運用することで利潤を産み出すと言うことなのだろうか。でも「利潤」を生み出すほどの「情報」ってどういうものなんだろう。多分、ネット・新聞・雑誌などから得る情報でないのは確かだろう。これらの情報は既に誰かが知っていてそれを入力していることが前提だからだ。入力していなければ僕はそれを得ることが出来ない。

▼つまり、そうやって知ることが出来た情報は、ある意味使い古された情報と言うことが出来る。そう言う情報から利潤を見いだすことが出来るとは思えない。多分、利潤を産み出す情報って、出来るだけ発生元に近い所で入手しなくてはならない様な気がする。もしくは、発生元から最初に教えてもらう必要がある。

▼ゲイツが言っていたことだけど、彼の場合、最新情報は誰かが必ず教えてくれるそうだ。だから自分からリサーチする必要がないと言っていた。そういうのを聞くと、情報資本家とはそういう人達のことを言うのだろうと思う。自らネットを調べて情報を得ること自体、既に情報資本主義の中ではルンペンみたいな者かもしれない。

▼それに、情報富豪は情報を持っていることを人には見せないとも思う。情報に価値があるのは、価値を持っている期間だけとなるし、その価値が一番高いときに利用する事になると思うから、わざわざ自分が情報を持っていると人には間違いなく言わない。そんなことを人に話したら、情報の価値が薄まるというものだ。

▼これも想像だけど、情報富豪にとって情報が氾濫して、そこに埋没してしまう事なんてあり得ないようにも思う。だって彼らは情報によって利潤を得ているのだから、逆にどんな情報が利潤を産むかを知っているだろうし、その情報に関してのみ気にしていればいいわけだから、情報の量はある程度限定されるように思う。

▼「貨幣」は交換、即ちコミュニケーションの道具としてみたときに、その意味は「情報」も同じだと思う。だから、情報富豪は自らコミュニケーションを働きかけないし、必要な情報が何かを知っているから、不必要なコミュニケーションは時間の無駄と考えているような気がする。ランディさんの言うところのライブドアの堀江社長の話は、そう言う意味で情報富豪の資質をきちんと持っているようにも思える。

▼でもここでいう情報って具体的に何だろう。それがよくわからない。利潤を産み出す情報で想像するのは、株価を左右する企業情報、新たなビジネスチャンスを掴むための最新技術動向、新たな製品を考える際の市場動向、官僚・企業の人事情報・・・等々。でもこれらって今までもそうだった様な気がする。それとも、こう考えること自体「情報資本主義」から見ると既に前近代的な輩と言うことになるのだろうか。

▼僕にとっては情報の種類は1つじゃないと思う。そして「情報資本主義」の情報富豪達の情報はその中の1つではないかと思う。コミュニケーションの過程の中で、情報は変質し、全く別の価値を生み出す場合だってあると思う。つまりは、情報富豪達にとっては価値のない情報でも、コミュニケーションの中で無価値が有価値に変わることは間違いなくある。

▼利潤を産み出す情報は、鮮度が保たれている中で交換される情報と、コミュニケーションの中で価値が新たに創造された情報、の2種類あるような気がしている。それであれば、「情報資本主義」に乗り遅れそうな前近代的な人達(つまり僕です)の戦術は自ずから決まってくる。それは、大いにコミュニケーションしよう、と言うことだ。それこそ、近くの酒場でビールでも飲みながら、同席する人達とたわいのない会話を楽しむのだ。その中から新しい発想が浮かぶかもしれない。

▼勿論、この戦術は、情報を得ようと思ったり、新たな価値を創造しようと考えてコミュニケーションしてはいけない。そんなことを考えても情報は逃げていくだけだ。情報は利潤を得るために求めると、逆に得られないものだとも思う。徹底した「情報資本主義」で情報貧民にならないためには、情報を追い求めないことの様な気がする。

▼このパラドックスの中では、徹底すればするほど情報貧民はいなくなるのではないかな。だって情報富豪は自らを富豪とは見せないだろうし、見せなければ誰も富豪と自分との差異を意識しなくてすむし、さらに意識しなければ自分を情報貧民と認識しなくてもすむし。そのうえ、情報を得ようとすれば逃げるのであれば、情報を求めなくなる方向に流れるかもしれない。なにか「情報資本主義」を徹底することで行き着く先は、その社会の自己崩壊のような気がして、そんな社会を本当にライブドアの堀江さんが作ろうとしているのか、少し疑問がわいてきた。

▼まぁ僕が考えたことだから、間違いは沢山あると思うけど・・・鈍いものだから、ランディさんほど気にしていないだけなんです。

2005/02/18

サザエさんとサーバ型放送

『「サザエさん」の視聴率が上がると、株式市場が低迷する--。大和総研が、国民的人気アニメの視聴率と株式市場との意外な連動性を示すこんなリポートをまとめた』
CNET JAPANより引用

「サザエさん」というと最初に思い出すのが「サザエさん症候群」だ。日曜日の夕方の丁度「サザエさん」が始まるその時間に、明日の月曜日から始まる仕事を思い憂鬱になる現象をそう称していた。同じ時間帯にある番組はそれこそ沢山あるけど、その中で特に「サザエさん」が選ばれたのは、勿論視聴率の高さといえる。

今回の調査もそんな視聴率の高さが大和総研の目にとまったのだろう。例えば、誰も「サザエさん」と同一時間帯に放映しているBS1番組「週間 経済羅針盤」の視聴率と較べたり何かしない。

そう考えると、「症候群」とか「株式市場低迷」にリンクして考えられてしまう「サザエさん」は偉大な漫画である事を証明していることになる。勿論それは視聴率というものがあっての話と言うことになるが。それに「サザエさん」の視聴率が高いのは、番組編成で日曜の夕食時間帯に持ってきた功績が大だと思う。仮に月曜日の夜10時から始まれば、誰も「サザエさん」でなく「SMAP×SMAP」の方を見ると思うのだ。(そんな時間帯に「サザエさん」を移す事自体、仮定にもならないですね・・・すみません)

テレビというものは、与えられているものをただ僕らは黙って観ている。黙ってと言うのはテレビ局に対して言っている。
人によっては、「アナウンサーのネクタイが気にくわない」とか「カツオの言っていることは差別的で教育上悪い」などと、テレビ局に文句を言っている人もいるかもしれないが、番組編成については与えられるだけだと思う。

人によってテレビの欠点は、上記の様に片方向でしかないと事だと言っている。だから、これからのメディアは視聴者と双方向で無ければならないなどと高説を述べて、地上波デジタル放送では何か装置を使えば簡単な意思表示が出来る様になった。(持っていないので、わかりません・・)
ただそれでも、地上波デジタル放送もやはり、放送局が決めた編成と内容でもって僕らは番組を観ているのには変わりがない。

このことに対し僕は異議を申し立てるつもりは全くない。逆にこれは楽である。つまらなければ観なければいい。もしくは「つまらない番組を放送しやがって」などとテレビに向かってくだを巻けばいい。誰も傷つかないし、「アホ番組」を「アホ番組」として観ることが出来た自分に対し自己満足も得られる。

それが、先々崩れることになる。「サーバー型放送」がその始まりとなると思う。サーバー型放送については少し前の記事にも触れたけど、つまりは一旦大容量のハードディスクに番組データ(メタデータ)を転送し、後から自分の好きな番組を好きな時間に見る事が出来る放送のことだ。この放送が主流になれば、視聴率という魔物に縛られることは無くなる。

つまりは「サザエさん症候群」も「サザエさんのみんなが見れば株式市場が低迷する」などの調査自体も意味が為さなくなる。 そうなったら、大和総研さんも研究対象が1つ無くなるのだから、少し困るかもしれない・・・

「サーバー型放送」と現在売れている「ハードディスクレコーダー」との違いは何?と聞かれたら、見る側からしてみれば同じものと答えるしかない。
ただ、新聞に掲載している番組表が無くなり、見る人は自分で番組編成を考えることになっていく。

「ハードディスクレコーダー」の場合は、とりあえず好きな番組を、その時間帯にいないから、もしくは繰り返し見たいから、等で録画するのだと思う。
「サーバー型放送」の場合、利用者から言えば「その時間帯にいないから、とりあえず一週間分のNHKとフジテレビ全番組を録画しておきましょう」のイメージに近い。

とりあえず録画したけど、勿論全ての番組なんか見ていられない。人間には1日24時間しか与えられていないのだ。それに会社にも行かなくてはいけないし、食事も眠らなくてはいけない。だから、録画した番組の中で優先順位を付け、高い方から見ていくことになる。見る時間は勿論放映したリアルタイムではないから、視聴率はその時点で意味をなさない。

でもこれって、慣れないと見る側には(特に僕には)すこし辛い。今まで与えられていた番組を、食事の合間に「くだらないこと放送するな」などと、日頃の憂さをはき出す手段に使っている輩としては、自分で優先順位を付けて番組編成をして・・・などと膨大な番組データの中から考えること自体、想像するだけで億劫でもある。

それに、作る側にしても大変なのではないだろうか。今までだと、これは早朝に放映する番組だからと、なんとなく朝の清々しさを画面に出そうと配慮していたものが無意味になってしまう。
それに、番組に対し優先順位が付けられると言うことは、そこに厳しい競争原理が働くから、番組制作もさらに厳しくなるような気がする。
さらに、一部受けする番組も特化してさらにとんがった内容の番組になっていくかもしれない。

いずれにせよ、その時の状況を想像するだけで、何かしら少し疲れる。
でも多分、こういう僕の様な輩の為に、しばらくの間は従来の放送も残っていくのも間違いはない。何故なら、災害時などの緊急対応のためには、現行の仕組みは間違いなく必要だと思うからだ。

そう考えると、「サーバー型放送」について、それほど過敏になる必要もないのかもしれない。物事はなだらかに(それだって江戸時代に較べれば、光速並みのはやさかもしれないが)変わっていくのだと思う。勿論、新技術を使う者と、旧技術のまま過ごす者とでは、そこに自ずから何か見えない線が出るかもしれないが、それもいずれの時代にも起こっていたことだから甘受しなくてはならないのかもしれない。

2005/02/17

変わらないもの

「ネットの世界をぐるぐる回って、いろんな事を読んで、そして、ああ、しんどいなあ……と思って外に出て、近所の酒場でビールを飲んだり、行きつけのそば屋のおばさんと世間話をしたり、そういう事でかなりほっとする。現実は小さい。狭くて小さい現実にほっとする。」
(田口ランディ「情報資本主義について」から引用)

▼正直言ってしまえば、ライブドア堀江社長には全く個人的興味が持てない。勝手にやればと突き放して見てしまう。でもランディさんにとっては少し違うのかもしれない。恐らくランディさんは僕より多くの人間に興味を持ってしまうのだろう。興味の対象として堀江社長という人間を捉(とら)えた時、一抹の不安を覚えたのではないだろうか。僕が人間に興味を覚える時、知らないうちに、まず範囲を限定してしてしまう。そしてその範囲に堀江社長は入らない。

▼僕はなぜ堀江社長に興味が持ないのだろう。実はこの視点でランディさんの記事を読んだ。ランディさんが見ているものは、堀江社長という人間をフィルターにして、そこから眺めている人達かもしれない。つまり、ランディさんの言うところの情報資本主義に適用した人間たちを見ているような気がする。多分僕はそういう人達に興味が持てないのかもしれない。

▼堀江社長が言う言葉は、現在明らかな最新技術動向を基に語っている。でもただそれだけの様な気がする。彼の話の中にはビジョンがないと僕は思う。企業ビジョンは確かにあるだろう。でもそこに人々の「暮らし」とか「人間の営み」とかがどう変わるべきかの視点がないように思うのだ。だから、彼の言葉に僕はリアリティを感じられない。

▼ネット家電が社会を変えるかどうかは僕にはわからない。でも過去に起こり、今後も起こるだろう技術革新により人間の社会は変わっていくものだと思う。今からたった100年前と現代ではまるで違うはずだ。それがこれから100年(もしくは10年)経ったとして、今と同じとは思えない。

▼物事が何が変わったか、もしくは何が変わるかの視点で捉えると、変化は時として辛い。でも100年の間でも変わらないものが、僕はあるような気がしている。それが何なのか、正直言えば答えられない。でも古典落語に笑い泣き、明治の小説にリアリティを感じる事があるのだから、それは確かにあるような気がする。

▼それは、朝に親から起こされ暖かいみそ汁の一杯から、どこそこの漬け物が美味しいとの話から、「ちゃんとかんで食べなさい」との親の小言から、眠たい目をこすりながら通勤通学する事から、等々あげればきりがないほどの、人が生活する営みの中で些細な出来事の数々の集積になるのかもしれない。それを何と言うのだろうか。「暮らし」とでも言うのかもしれない。

▼いくらネット家電が出現したとしても、それが社会の監視とか統制に使われない限り、洗濯板での洗い物が電気洗濯機に変わった程度の違いだろう。勿論それだって社会を変える力を持っていた。あくまで想像だけど、フェミニズムの拡大にこれら電気家電が果たした役割は大きかったに違いないと密かに思っている。だからといって「暮らし」の本質が変わったとも思えない。

▼確かに現代は置き換え可能で合意不能な複雑な社会になっている。それにますます個人が扱う情報は巨大化するのは間違いない。また社会は思う以上に脆弱かもしれない、ころっと変わる可能性もある。でもそれは1人の人が強引に変える事が出来るとも思えない。なんというか僕にとって社会が変わるのはそう言う力ではない様に思えるのだ。

▼技術者もしくは学者は、新しい技術が開発すると社会が変わると言う。でもそれによって「人の営み」の何が変わるかの視点で語る人を僕は知らない。技術は一体何のためにあるのだろう。ふとそんな事を考える。ランディさんは作家だから、社会を背景にして、人の営みがどう変わったのかを物語で伝える事が出来る。逆に僕はそこに期待してしまう。

▼堀江社長のインタビュー記事?面白くなさそうだから僕は読みません(笑

The Day After Trinity

trinity昨日のCD-ROM整理にはひとつの目的があった。
それは同じくCD-ROMソフト「The Day After Trinity」(日本語タイトル「ヒロシマ・ナガサキの前に」)を探すことだった。このソフトも購入したのは古いが、MACとWINのハイブリット仕様だった事もあり、現在のWIN環境でも動くかもしれないと思ったからだ。しかし昨日は見つけることができなかった。今度の土日にでも再度探す予定。


「The Day After Trinity」は1980年の米国映画。探したソフトでは、公開した映画全編とその脚本、及び映画に載せる事ができなったインタビュー記事などが、映像を鑑賞しながら読むことができる。

製作販売は「VOYAGER」。この会社は電子出版関連のソフトウェア開発と販売の歴史は古く、現在でも青空文庫に簡単にアクセスし本のように読むことができるソフト「azur(アジュール)」、個人で電子本を作成するソフト「T-TIME」等を提供しいているのでご存知の方も多いと思う。

「T-TIME」以前は「エキスパンドブック日本語版」を中心に個人の電子本製作に力を注いでいた。この「エキスパンド日本語版」の最初のバージョンはMAC専用でハイパーカードのアプリとして開発した。この「The Day After Trinity」もエキスパンドブック形式の作品となっている。かつ音と映像はアップル社のクイックタイム2.1(勿論古いバージョン)が使われる。

エキスパンドブックを見るためのソフトは今でも「VOYAGER」のサイトで手に入る。実は古いクイックタイムの動作保障が一番気になっている。なぜなら、古いバージョンのクイックタイムは、現行の最新バージョンでは実質的に上位互換になっていないように思えるからだ。MAC用はそんなことはないと思うが、明らかにWIN版のクイックタイムはバージョン2を境に違うと思う。

僕の予想では、CD-ROMに内蔵している古いクイックタイムをそのままインストールすることになる感じがして少し怖い。つまりクイックタイムは二つのバージョンが同じPCに在ることになり、動作が不安定になる可能性が高くなるような気がしている。悪い予感が当たらなければ良いが、多分こういったことはあたる・・・・

映画「The Day After Trinity」を見られた方も多いと思う。オッペンハイマーの伝記を中心にした原子爆弾の開発記録映画だ。ちなみに「Trinity」とは世界最初の核爆発実験に使用した原子爆弾のコード名のこと。

最近オッペンハイマーのことが気になっている。科学者として技術開発の責任はあるのだろうか、という古くからの命題を考えていて、彼のことを知りたいと思ったからだ。
この「科学者」は「技術者」でも「専門家」でも良いが、例えば仮に、システム開発者が政府等のスポンサーから命じられるまま画期的な監視システムを構築し、そのシステムによって監視社会が成立した時、開発した開発者に責任はあるのか、といった問題に通じる。

世の中には多くの評論家たちがいて、マスコミなどで社会システムについて論じているが、彼らがいくら論じたとしても人に直接影響が出ることは少ない様に思う。ただ、僕らに見知らぬ所で開発されている新技術、新発見などは、時として僕らの生命と暮らしに影響を与える。

先日、「ロバート・オッペンハイマー―愚者としての科学者」(著者 藤永 茂)を図書館から借りて読んだ。この書については別途このブログに紹介と感想を載せるつもり。

オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれている。彼の事は、科学者の道義的責任の話題になれば、ゲーテのファーストのような扱われ方をしてきた。確かに記録として残っている彼の言動を見れば、そのような解釈も取ることは可能だろう。しかし、この本にも書いているが、彼を悪者にすることで誰が得をするのかと考えていくとき、見方は違った様相を呈することになっていく。その点がこの本の面白いところだった。

追記:VOYAGERのサイトを調べたら、今でもこの作品は売っていた。しかも、Windows98とクイックタイム3以上の対応を行ったとの事・・・興味のある方はここで紹介しています。

2005/02/16

否定する理由

「戦いも、殺人も人間の性(さが)ではないはず。でも戦わなかった人々はみな、文字をもたず、その智恵はたたれてしまった。」
(田口ランディ「理由なんて・・・」から引用)
▼人の争いの歴史は確かに「文字」に残された歴史からでしか検証できない。仮に縄文時代には戦いがなかったとした時に、その違いは一体何だろう。単純にみれば、その差を見比べれば明らかかもしれない。それはいみじくもランディさんが言われるとおりに、「文字」の有無のような気がする。

▼「文字」がどの様にして発生したのかは専門家でもないので正直わからないが、それは国家とか権力と無縁ではなかった様にも思える。人は何のために「文字」を造る必要があったのか。それは他者に命令もしくは、記録により権力基盤を盤石にする必要からの様に想像してしまう。どちらが先かと問われれば、同時のような気がしている。

▼僕は「文字」は常に権力と共にあったと思う。だからといって「文字」を無くすことは出来ない。逆に言えば、現在にとって「戦い」は人間にとって避けられないようにも思えてくる。「戦い」の元には「暴力」があると思うし、それは日常の中にも常に経験している「怒り」「悲しみ」という心の動きから発しているのであれば尚更そう考えてしまう。

▼時折何ともいえぬいらいらから衝動的な怒りを持ってしまうときがある。それは、普段では考えられない事からそうなる。勿論、自分でそれを押さえて人にはわからぬようにする。自分で言うのも何だが、他の人もそうなのではないだろうか。そこで押さえるのは、ランディさんの記事でいう「否定する理由」があるからだろう。

▼暴力は暴力を産むと良く聞く。例えば、宅間は子供の頃父親からDVを受けて育ったそうだ。今回の十七才の少年は一体どうだったのだろう。ただ、僕自身は父が3才の時に死んでいるので、当然にDVは一度もなく育ってきた。見知っている者から「穏やか」といわれる僕でも、前段の様な衝動的な怒りを持つときがあるのだ。これはどういう事なのだろうか。

▼社会における様々な事件は、自分を振り返る事を与えてくれているのかもしれない。人を識ると言うこと、社会を識ると言うこと。そうすれば、他人のことではあるが、自分の中に内在するものとして注意をすることが出来るし、そこから「否定する理由」を積み重ねることが出来る。そんな気がしている。

I PHOTOGRAPH TO REMEMBER

20050216bc3bc578.JPG「I PHOTOGRAPH TO REMEMBER」という作品がある。僕はこの作品を1991年頃に購入した。媒体はCD-ROMで、作者は写真家のPEDRO MEYER。彼の父親が老いて病気になりそして死んでいく。その様を彼は写真に撮り続け1つの作品にした。写真は全てモノクロで、彼の静かなナレーションがそれに重なる。音楽はピアノソロ。写真とナレーションとのマッチングが素晴らしい。時に烈しく、時には静かに、作品を見る者の心を揺さぶる。

モノクロ写真、ナレーションそしてピアノソロ。それだけの構成でも素晴らしい作品が造れることに、初め観たときはとても驚いたし、逆にだからこそ新鮮な感動を受けたのを記憶している。

実は、昨日溜まったCD-ROMの整理をしていたら、この作品が見つかり、出来ればもう一度見たいと試みた。でも購入したCD-ROMはMAC専用。古いMACを物置から取り出そうかなとも考えたが、かなりの年数ほっておいたので動く事自体難しそうだとあきらめた。

そこでPEDRO MEYERのことをネットで調べたところ、驚いたことに、「I PHOTOGRAPH TO REMEMBER」をネットで公開していた。しかもCD?ROMと内容は全く同じ。時間にして約35分くらいの作品だが、興味があれば観られる事を薦めます。(ただ、少し重いかも)

作品を鑑賞し感動したことを友人に告げたが、周りの友人達はなかなか理解をしてくれなかった。まずは親の死というテーマが全面に出て、そこに生理的な抵抗があったようだった。

ただ、MEYER自身は商業目的にこの作品を造ったのでないことは、観賞すれば一目瞭然に理解できる。うまく言えないが、そこには、人が存在する重み、生きるという事、そして生活の営みが、親への愛情と共に表現されているように思う。だから僕にとってはこの作品は親の「死」を見詰めながら、逆に「生」を描いている様に思えた。

購入した当時、写真に少し興味を持っていた僕は、このタイトルにも惹かれた。写真を撮る1つの意味がそこには確かにある。

音楽担当のManuel Rochaは2001年8月から2002年4月まで日本に滞在していた。彼の日本での印象はネットで観ることが出来る。「OFFBEAT JAPAN」と題したネット展示には、幾つもの音が写真と共に紹介している。また、彼の作品はそこで幾つかダウンロードも出来る。

その中の「semi no koe」を早速聞いた。彼の音は僕を限りなく不安にさせる。しかし、その音は使われている楽器は違うが、紛れもなく「I PHOTOGRAPH TO REMEMBER」でのピアノの旋律に近い様に思えた。

2005/02/15

作家の人となりは気にするべきか

▼僕は小説について、ある意味極論をもって見ていた所がある。その極論とは、小説は作家の人間性とは無縁であり作家を論じる時は作家の経歴ではなく創作した小説だけをもって論じるべきだ、という考えだ。この考えを延長すれば、作家が創作した小説は、作家の才能を媒体しているが、創作した本人でさえその意味を知ることはなく、その意味は読者である我々に委ねられている、と言う事にもつながってくる。

▼勿論、作家という人間が絡むから、いくら作家の才能を通して社会がその小説を書かせているにせよ、やはりフィルターとしての作家の考えがそこにあるのは間違いない。ただ作者によりバイアスした小説の世界を、読み手である僕が補正し、さらに自分の思考というバイアスから新たな世界を構築する事が出来ると信じていた。その結果、読み手である僕の中には作者が構築した小説を再構成した新たな小説の世界がそこにあり、人はその新たな小説をもって論じる事になる。だから、そこには作家の人間性が入り込む余地がない。

▼この考えに最近疑念を持っている。疑念を持ち始めたのは田口ランディさんのブログを読み始めた事と無縁ではない。ランディさんのブログで彼女の記事を読んで大いに共感した。その際に共感する内容が、以前から考えてきた事に対する共感なのか、ランディさんの記事によって始めて知り、それが以前からあたかも考えていたかのように錯覚しての共感なのか、実は自分でも区別が出来なかった。つまりは、前段の考えの前提にあるバイアスを補正する力、が僕のなかであてにならない事を感じたのだった。

▼自分の考えに近ければ近いほど、その傾向は強くなる。僕は今まで一つの幻想を抱いていたのかもしれない、それは自分の考えは自分で考え、他から情報操作を受けていないという幻想。その考えは、人はコミュニケーションの中で、現実を構築していくので、完全なオリジナリティといった物は存在しない、とは違う。コミュニケーションの中で確かに話題は変質し新たな価値をうむかもしれないが、僕が受けた印象は変質せずにそのまま受け入れてしまうと言う事なのだ。

▼僕自身が情報伝達のフィルターとして弱い部分があるとするならば、僕は逆に書き手を選ばなくてはいけない。書き手の考え方を知ることが重要になってくるのかもしれない。しかも、小説の場合は物語として作家の考えを伝達している。人は物語として受け入れると、そのまま深いところで受け入れてしまう傾向があるようにも思える。逆に言えば、作家という職業は社会に多大な影響をもっていることにもなる。それは、社会学者とか心理学者とかの比ではないかもしれない。まず読む人数がそれらとは比較にはならない。勿論マスメディアほどではないかもしれないが。

▼ただ、新聞・テレビ等のマスメディア程には、作家が創作する物は批判を受けないのも事実だ。単なる小説として受け取られているからだと思うが、その中にはたかが小説の気分もあるのかもしれない。ただ、現在においては小説の位置は、芸術性というよりはメディアとしての方が高いようにも感じる。

▼何を今更と思われる方もいるかもしれないが、これが僕の現状でもある。そしてメディアとしての小説の読み方を模索している。一つ思うことは、ランディさんの様に多くの作家達もブログで普段の自分の考えを出して欲しい。それがその作家の作品を読むか否かの判断にしたいと思う。ランディさん?勿論、小説読ませていただきます。

小学校乱入事件に思うこと

「14日午後3時ごろ、大阪府寝屋川市初町の市立中央小学校(坂根博一校長、児童601人)に刃物を持った若い男が侵入し、職員室などで教職員の男女3人の背中などを刺した」(朝日新聞から

大阪府寝屋川市の市立中央小学校で、授業中に起きた教職員ら3名の殺傷事件に驚いた。犯人は近くに住む17歳の少年で、子の学校の卒業生だったとのこと。これでまた学校の安全管理問題が浮上するかと思うと、すこし気分が暗くなる。

少年の目的が「学校襲撃」か「特定する人への攻撃」かは未だ不明だが、「学校襲撃」の印象を僕は持ってはいない。「学校襲撃」であれば、夜密かに忍び込み放火をすればよい。新聞紙上での少年の行動をみれば、学校ではなく「誰」かを何らかの「動機」をもって攻撃しようとした感じを受けてしまう。

気分がすこし暗くなるのは、学校の「安全管理問題」としてこの事件が取り扱われる印象を持っているからだ。仮に学校が完全に外部者が侵入できない仕組みを持っていたとする。そうしたときに、少年の犯罪はなかったのだろうかと考えたとき、多分犯行現場が学校から「学校の外」になっただけで、やはり犯罪は起きたのではないだろうか、という思いがあるからだ。

つまり「学校の内」で起きた犯罪を、「学校の安全管理問題」で対応しても、「学校の外」で起きるだけで、僕にとっては何も変わらない。変わるのは多分学校関係者だけなのかもしれない。

小学校高学年時代、用務員の方が野球好きで、同じく野球好きの子供達を集め放課後に野球の練習をしていたので、それに参加した。もしくは土日などは校庭開放日と言い、校庭で自由に遊ぶことが出来た。クラブ活動も含め、学校は勉強以外に置いても、同級生が集まり遊ぶ、身近な存在でもあった。

「学校の安全管理」を強化するという事は、行き着けばそれらの事項をなくす方向に繋がるような気がしてならない。
授業中は校門は施錠し閉ざされ、遠隔操作されるカメラで学校の外と内を監視し、門番は武器を携帯し許可された人だけが中にはいることが出来る。勿論許可された人は武器を携帯しているか事前にチェックを受けることになるだろう。授業後は即時集団下校を行う。当然にクラブ活動等なくなる。

そう言う学校になることを誰が望んでいるのだろうか?僕らが「学校の安全管理」を声高に叫ぶと言うことは、そういう学校を実現することに繋がるような気がしている。そして犯罪は「学校の外」で起きるのだ。

子供達の下校が早くなることは、暮らしにも影響を与えるかもしれない。共稼ぎの家庭も多いと思う、そういう低学年の子供達は多分地区の児童館とか図書館に集まることになるだろう。そして今度はその児童館・図書館の安全管理が問題となっていく・・・

このブログでの記事は、「学校での安全管理」だけを問題にすることは少し違うのではないかと思っている事を書きたかっただけなのだ。問題解決をこの場で提言できるほどの力もアイデアも今の僕は持ってはいない。ただ、そうやって監視社会を徐々に構築していく様な気がして少し怖い。

2005/02/14

しない善より、する偽善

「平和集会でみんなでイマジンを歌うとか、手をつないで輪になって祈るとか、もう鳥肌が立つほど苦手で拒絶反応で震えが出る。一種のアレルギーである。そこに自己投影して素直に祈れない。怖いのだ。自分のなかの最後の砦として守っているものが、形にされそうで、形骸化して、消えそうで、すごく恐ろしい。そんな感じだ。」(田口ランディ「きれいはきたない、きたないはきれい」から引用)
▼ランディさん不在の時(ブログ更新していない時)は、以前のランディさんの記事をそれとなく読むことにしている。「きれいはきたない、きたないはきれい」は2004年10月31日の記事。冒頭には「2ちゃんねる」での被災地支援キャンペーンのコピー「しない善より、する偽善」。このコピーは「2ちゃんねる」の枠を離れ社会に広まった印象を持っている。

▼「2ちゃんねる」に近づきもしない僕にとっては、このコピーが「2ちゃんねる」発祥である事をこの記事で知ったくらいだ。ランディさんは記事の中で、ヒューマニズムを「気持ち悪い。ひどくうさんくさく感じてしまう」と言っている。僕にとってもその気持ちは同じだ。

▼さらに僕は「偽善」という言葉にも胡散臭さを感じてしまう。「偽善」の「善」とは、多分一般定義された「善」なのだろう。そして僕は一般定義された「善」に対して胡散臭さをかんじてしまう。僕にとって「善」とは、人と社会に(出来るだけ)迷惑をかけないで自分に気持ちの良いことをする事となる。一種の開き直り的な解釈だ。個人によって「善」の内容は違ってくる事になる。

▼だから、「しない善より、する偽善」のコピーは秀逸だとは思うけど、なにかしら抵抗感も持ってしまう自分がそこにいる。

▼なにやら難しい奴と思われるかもしれないが、つまりは自分の好きなことをやれば良いと思うだけなのだ。ただ、社会に属している限り、自分以外の人にプレゼントをする気持ちは持たなくてはいけないとも思う。僕も色々な人に助けられ(勿論今でも)生きている。それのお返しをしなくてはいけないと思っている。そして自分の好きなことが、それに繋がれば幸いだろう。

▼ランディさんにとっては「心」と「情」もヒューマニズムと同様に言葉から魂が抜けてしまったらしい。でも僕にとっては両者ともまだ抜けてはいない。ただ、「心の時代」とか、「心」に何かを付け加えると途端にダメだ。

▼しかし、「言霊」と呼ばれた時代がかつてあったのがウソのようだ。人は言葉を「言葉」として受け取ってはいなかった。言葉の裏に潜む思いを受け取っていたのではなかったのだろうか。でも言葉が記号化され、テキスト化されていく過程の中で、僕らは言葉を失ったのかもしれない。ランディさんの記事を読んで漠然とそんなことを考える。

▼今は「物語の時代」と呼ばれて久しい。何事も「物語」として語られる。それは日本という国で、維新と敗戦の中で「物語」がなくなったことに対する反動なのかもしれない。ただ、「物語」も単に言葉の連なりとして構成されるのであれば、いずれ文脈全体の形骸化が始まるようにも思える。いや、それは既に始まっているのかもしれない。

▼確か沖縄へは「平和の祈り」の為に、ランディさんは行っていると思った。その「平和の祈り」ではブログ記事にあるような、拒絶反応が出なければ良いなと思う。少し気になる。

RSSリーダーとサーバー型放送

RSSリーダーを使っている方も多いと思う。僕も色々なリーダーを試したが、今では「RSSバー For Sleipnir」で落ち着いている。RSSバーはブラウザーの左側のエクスプローラーバーの部分にRSSリーダーで取得した内容が表示するのでとても便利だ。なおIE向けも用意されているので、IE利用者はそちらを使う事になる。

このRSSバーの初期状態では、既に色々なニュースが表示されるようになっている。それを全て消去し、自分のお気に入りのブログだけ取得するようにしている。その数はだいたい15個くらい。20個くらいは大丈夫とは思うが、それ以上であっても読むことは難しい。調べるときはRSS検索サイトか、グーグルを使えば良いと思っているから、逆にRSSバーに登録するブログは少なくても構わないと思っている。

グーグルのようなキーワードでの検索と、サイト単位でのRSSリーダーの2つを利用することでブログの利便性はかなり上がった様に思う。
この2つのツールを考えると、今後のサービスにおいて重要な意味を持っている様な気がしている。僕がここでいう「今後のサービス」とは「サーバー型放送」の事だ。

「サーバー型放送」は昨年夏頃に少し話題を呼んだ、放送業界が通信との融合を目指した回答の1つだと思う。番組を「メタデータ」として、家庭に設置しているハードディスクレコーダ(HDR)に一旦録画し、後から好きなときに再生するサービスなので、当然にハードディスクの容量が問題となる。

ハードディスクの容量は年々大容量低価格化しているが、サーバー型放送のためには最低でも5TB(テラバイト、約5000GB)くらいは必要な気がしている。その中に入る番組は放送局10社分の1週間全てとなる。聞くところによれば、その規模のハードディスクは2007年には1万円クラスで購入可能だそうだ。

その膨大な番組の中から、自分が観たい番組を探すために必要な機能が「検索」となる。「メタデータ」の中に埋め込まれたキーワードを検索することになるとは思うが、その検索機能の能力が「サーバー型放送」の魅力に影響を与えることになるのは間違いないように思う。検索結果はダイジェスト版による試聴が可能になればさらに利便性が増すだろう。

多分、グーグルのようなキーワードによる検索の他、RSSリーダーのようなツールも必要になるような気がしている。それは好きな特定の番組を集め再構成し、自分専用の番組表を作ってくれるような機能を持っていると嬉しい。

「サーバー型放送」は放送サービスとしては全く新しい姿であることは間違いない。しかもこのサービスは、通信と放送という、曖昧模糊とした線引きを、あわせて明確にする動きと同時に展開している。それは今まで「放送」「通信」と縦割りだったサービスを、「インフラ」「コンテンツ」等と水平分割する考えとなる。

実際に水平分割するためには、数多くの障壁が存在するだろう。今のところ考えが表明された段階なので、今後も現実に即して大きく展開が変わる可能性があるように思う。今後の動きに注目していきたい。

ただ、ネットと言い、放送と言い、現在は情報の氾濫と言いながら、その傾向は増加する一方だと思う。情報リテラシーが重要と言っても、それ以前に消化出来る情報量には限度がある。人間はこの中でどの様に変化していくのだろう。何が変わり、何が変わらないのだろう。実は新たなサービスより、そちらの方に興味を強く持ってしまう。 おおよその予想は、ネットでの状況を見れば、ある程度つくかもしれない。ただそれが広範囲になっていく事で、社会と暮らしに与える影響はまだ未知数のような気がする。

さらにこの問題でこれからも考えていきたい。

2005/02/13

映画「なごり雪」

「なごり雪」と言えばイルカが歌うフォークの名曲として知られる。作詞作曲は伊勢正三さん、もと「かぐや姫」の一員でもある。元々この曲は「かぐや姫」のアルバムに入っていた曲らしい。

その「なごり雪」をイメージした映画を借りてみた。監督が大林宣彦さんである事も、この映画を観る動機の1つ。見終わった感想は、皮肉でも何でもなく「本当に良かった」のひと言。いつもの事ながら、映画感想の語彙不足に我ながら驚く。

この映画は、大分県臼杵(うすき)が舞台になっている。あとから聞いたら、「なごり雪」の歌ではなく、大分県臼杵ありきで映画の企画が始まったらしい。映画の設定では、28年前の高校時代と現在の物語を、主人公である梶村祐作(三浦友和さん)のナレーションと共に進行している。

映画では昔の場面を撮影するときにCGを使ったり、セットを組んだりと苦労するが、臼杵を舞台にしたこの映画では、過去を表現するために使ったのは2つだけとのことだった。

1つはカメラのレンズを28年前の物に変えた事。もう一つはセリフを28年前の映画で使われた表現で行った事。舞台である臼杵は28年前と何も変わっていないので、撮影後にCGで余計な物を消す作業も必要なかったと聞いた。

後で監督自身が言っている事だが、臼杵で映画を撮りたいと臼杵市長にお願いしたところ、少し苦い顔をされ大林監督に言ったそうだ。

「映画の舞台になると観光客が臼杵に来て変わってしまうかもしれません」

市長にとって「町おこし」という考えはない。古い街並みをメンテナンスで保存し続ける事、昔ながらの「暮らし」を営むこと。28年前と何ら変わらない街並みは「暮らし」を中心に町のあり方を考えた結果、そこにあり続けた様に思った。

高度成長時代、臼杵にセメント工場の誘致が計画されたときがあった。その時は、臼杵が変わる事に反対する住民運動が行われたらしい。その時代、周囲からは臼杵は何も無い町と言われ続けた。今もその状況は全く変わらない。でも今の価値観では、臼杵は何もない町ではなく、何でもある町に変わっている。

「静かな夜がある」、「夜空に美しい星々がある」、「夜の闇がある」、「郷愁に訴える古里のぬくもりがある」
映画の中に紹介していた「臼杵の石仏火まつり」のなんと幻想的なことか。その幻想は夜の闇があってこそ成り立つ物だと思う。

映画の感想は人それぞれだと思うが、僕はこの臼杵市長の考えが映画の中心に流れているように思う。高度成長時代に都会で慌ただしく過ごす主人公と、臼杵の土地で暮らす親友と主人公を恋した女性。映画の中で、荒城の月の舞台となった城跡で親友が言う言葉がある。

「俺は祐作のように高く伸ばすことは出来ないが、地表に大きく強く根を張って生きたい。」

「個性」「豊かさ」の1つの考え方がそこにはあるような気がする。

再び「小説を読む力」

▼当たり前の事だけど、小説は事実を書いているわけではない。いわば虚構の世界だ。現実に暮らしている作家を媒介にして、小説という虚構の世界を構築している。虚構であれば、小説の題材若しくは設定は何であってもかまわないかもしれない。だから僕は小説のジャンルに余り意味はないと思っている。読書は虚構の後ろにある、作家が描(えが)きたい「何か」を感じる事のような気がする。

▼その「何か」は、作家自身も知らないかもしれない。僕にとって小説は、作家の才能を通して時代が書かせると思っている。書いた本人が一番知っていると言うのは、僕にとっては幻想にすぎない。

▼ランディさんが言った言葉、「自分を文字の世界にずぶずぶ沈ませていく、力のようなものが必要だ」に少しこだわっている。そして、今のところ僕は自分の中に相反する2つの答えを持っている。

▼1つは、小説を読むには力は必要ない、といったランディさんに反する考えだ。力が必要とするのは、小説を書く作家だという考えにもつながる。つまり、作家の筆力が大事で、筆力がある作家の小説は、読み手の力に関係なく虚構の世界に引きずり込まれる。それこそ有無をいわさずに・・・

▼2つ目は、小説は書き手と読み手のコミュニケーションでもあるので、読み手にも最低限のコミュニケーション能力が必要だという考えだ。コミュニケーションを行う場合、片方に意志がなければ関係を構築する事ができない。作家が小説を書くには、当然に筆力は必要と思う。ランディさんの言葉はそれを前提として、お互いに良いコミュニケーションを図ろうと言っているのかもしれない。

▼この2つの考え方は、書き手と読み手の線上にある力点を何処(どこ)に置くかの違いだろう。読み手の立場から言えば、力点は真ん中から書き手側の間にあると思う。勿論(もちろん)力点の位置は個人差があるに違いないが、読み手1人に力を要求する小説は間違いなく存在しない。逆もまた真(しん)なりかもしれないが・・・

▼僕なりに、浅いが「小説を読む力」について、少しずつ理解しようと試みている。その中で最近思うことは、現代において、書き手と読み手の間に断絶があるかもしれないと言うことだ。そしてランディさんには、それがないように思う。多分ランディさんが書き手となるまでの時間があり、その時間で得た「暮らし」の感覚が溝を埋めているように感じる。

▼さてさて、ランディさんの「平和への祈り」の講演は無事終了したのだろうか。帰ってからのブログ記事が楽しみだ。

2005/02/12

1セグメント放送、アンケート調査

「携帯電話での1セグメント放送視聴に対して、過半数の人は魅力を「感じない」と考えていることがわかった。特に、女性の関心度が低いようだ」
ITMediaから引用

地上デジタル放送は放送のデジタル革命と呼ばれた。革命にも色々と在る。1日で様相が変わる物があれば、変化に数年かかる物もある。要はきっかけだと思うが、地上デジタル放送が真に革命となるには、いましばらく時間がかかりそうだ。

僕らの暮らしは新しい技術によって、どう変わっていくのだろう。暮らしが変わると、僕らの考え方も変わっていくのだろうか。勿論、この場合の「新しい技術」とは、地上デジタル放送の事だが、実はそうでなくても何でも良い。

1セグ放送も携帯サービスにおいては、革命になり得るかもしれない。実はそう思っている。ただ、新しい技術だけでは革命なんて起こるはずもない。問題はそれをどの様にサービス化するかと言うことだ。

最初の携帯電話は音声通話しか出来なかった。外で電話が使えるだけでも十分だったし、それだけでも相当にインパクトがあった。その時、誰もメールとかカメラとか、ましてやカード、ラジオ、携帯音楽プレイヤーなどを携帯機能として追加するなんてイメージできなかったはずだ。

今ではメールが使えない携帯端末が売れるとは思えない。1セグ放送も同様のような気がしている。

今回の調査はインターネットで実施したらしい。ただ、2002年に会場集合調査方法で同様のアンケートを実施したところ、「携帯端末でのTV視聴意向度は86.6%で、放送と連動したインタラクティブサービスの利用意向度は81.7%と共に8割を超えた」となった結果もある。(ITmedia
要するに、コンテンツが鍵を握っていると言うことなのだろう。

ただ、この新技術が各携帯事業者にとってもメリットが出せるサービスでなければ、サービス展開は難しいかもしれない。新しい技術のサービスは携帯事業者にとって考えるポイント以下の3点だと思う。

1)他事業者への差別化
2)通信と融合する新サービスの展開
3)放送に通信側の要望がどのくらい組み込まれるか

勿論、利用者・放送・通信の3者にメリットのあるサービスを考えることが、ひいては差別化に繋がるのは言うまでもない。

建国記念日の翌日に思うこと

▼昨日は建国記念日で祝日だった。全国各地で色々な集会が行っていたらしい。僕はと言えばブログで遊んでいた。建国記念日という祝日は僕にとっては単なる1つの休みでしかない。僕のこの感覚ってどうなのと新聞各紙を読んで思う。

▼「奉祝」「反対」それぞれの立場で意見を述べる事は別に構わないし、大いにやるべきだと思う。でも僕にはどちらも何かしら違和感を感じてしまう。どちらかに決めなければいけないのだろうか。しかも今すぐに。これらの新聞記事を読むと、目の前に踏み絵を出されたような気がして、少し気分が鬱になる。

▼「国を愛する気持」を持つことは大切なことだと思う。事実として僕はこの国に生まれ、この国の言葉を話し、そして暮らしている。国が持つ権力の怖さも時として感じ、何かしら嫌な気分になることも多い。でも「国を愛する気持」は他国を尊敬する気持ちに通じるとも思っている。ただ声高に「愛国心」と叫ばなくても、この国の人は十分に日本を愛しているような気がしている。

▼愛し方は人によって違う、それが建国記念日に表に現れる。だから、「俺の愛し方が正しいんだ。」、「いや私の愛し方の方が良いに決まっている。」、等と主張しあっている様にも見える。でも正しい愛し方なんて本当にあるのだろうか。いくら十分に愛し育てたとしても、子供は親の想像を遙かに超えて成長するように思う。

▼この国に産まれた以上、僕はこの国の歴史を背負っている。そしてそれから逃れることは出来ない。それも紛れもない事実だ。例えば、憲法改正、天皇に関する事、韓国などの近隣諸国との関係、家族とか社会の事、等々あげればきりがない。そしてそれらには総て元がある。

▼1つ1つが見知らぬまま決着が付けられていくのは嫌だが、「すぐに決めましょう」のノリにも閉口する。それに、それらの問題に対し、決めつけというか、何か極論で割れているような気がしてくる。これでは現実的に解決していくとはとても思えない。

▼多分、僕が新聞紙上に登場する様々な主張に対し違和感を感じるのは、そこに「暮らし」のリアリティがないからだと何となくそう感じる。「暮らし」と乖離している中で、書物から受けた知識で議論しあう「愛し方」。これでは、間違いなくまっとうな子供が育つわけがない。

▼「じゃあ、どうすればいいのか具体的に示せ。」と言われてても実は困る。自分の考え方の基本は見えたとしても、それを両論を割って間に入り込む程の度胸も覇気もない。だったら日和見主義だと言われるかもしれないが、その時は「へへへ」と頭をかきながら笑うだけだ。それに日和見主義は別に悪くはないとさえ思っているから、じつはそう言われても苦にならないのもある。

▼しばらく回りの様子を見ながら過ごすこととしよう。なにやら訳のわからない文章になってしまった。本当は「平和への祈り」の為に、沖縄に行ったランディさんの事を書こうと思っていたのだ。この結末もまた僕らしい。

小説を読む力

「うーん。みんなすごい仕事をしているなあ。いい作品を読むと、元気になる。小説はすばらしい。私は小説が好きだ。だから作家になったのだ。」
(田口ランディ「沖縄へ・・・」から引用)

▼ランディさんの小説感想を読んでいたら、何故か仕事の事を思い出した。僕も仕事で人の企画書を読み、「これはすごい」とか「この感性が、別の角度の切り口を与えている」とか「深く調査を行っている、こういう見方もあるのか」等々と驚くことがしばしばあり、その事を思い出したのだ。

▼企画書にも物語というか、ストーリーが必要だ。そのストーリーにはきちんとした裏付けの調査が伴う。そしてその事を社会状況を加味して、読む人に納得させなくてはならない。

▼でも僕が言いたいことは、企画書が小説と似ていると言うことではなく、ランディさんが同業者の小説を誉める姿に、自分の仕事での姿を重ねてしまったことだ。勿論、企画書と小説は全く違う。だから、重なったことに自分自身少しとまどう気持ちもある。

▼多分、ランディさんが作家で同業者の小説を読み、仕事の感覚でその小説を誉めているからの様に思う。つまり、ランディさんは書き手の立ち位置で、読者となっている。僕はその様な立場で小説を読んだことはないから、誉める姿に仕事をイメージしたのかもしれない。

▼僕の学生時代は小説中心の生活だった。休みなしに取り憑かれたように小説を読んだ。それは、社会人になってからも同様だった。でもここ10年以上は小説はあまり読まない。最近読んだ小説はマイケル・カニングガムの「めぐりあう時間たち」しかない。その代わりに小説以外の書籍はよく読む。今読んでいるのは、レヴィ・ストロースの「野生の思考」で、これも小説ではない。

▼何故僕は小説を読まなくなってしまったのだろう。
「なにかこう自分を文字の世界にずぶずぶ沈ませていく、力のようなものが必要だ。」
ランディさんの言うとおりに、この力がなくなってしまったのだろうか。そんなことを考えてみた。

▼今でも覚えているのは、今から10年以上前に、日本の小説をさして僕は「面白くない」「もう読みたくない」と決めてしまったことだった。日本の小説に、僕にとってのリアリティを感じることがなくなってしまったと、その時は実感していた。それからは、数人の作家を除き殆ど日本の小説は読まなくなった。

▼「面白くない」と宣言を下したのは、今から考えると、それは小説のせいだけではないのは間違いない。確かに、自分からエネルギーを使って埋没する事に疲れた部分もあるとは思う。でも正直言えば、僕にもよくわからない。僕は何故小説を読めなくなったのだろう。

▼人は24時間の間に色々なことをする。眠り、食事を摂り、仕事をし、乗り物に乗り、テレビを見て、酒を飲み、ゲームをして、PCを触る。与えられた24時間をどの様に配分するかは、個人によって様々だ。本を読むと言うことは、結局その時間配分の1つになってしまっている。ただ、書籍は携帯性に優れているから、乗り物に乗った時は同時に読書は可能になる。

▼多くの人は、そうやって読書をするように思う。ただ、その時に読む本が小説かどうかはわからない。つまりは、小説を読むことの可能性は現在では少ない様に思える。特に平日で仕事の帰りに読む本は、小説と言ってもエンターティメント系が多いのではないだろうか。それはランディさんの言うところの、力をそれほど必要とせずに読める書籍でもある。

▼でも、そうやって自分が小説が読めなくなった理由を一般化するのは、問題を不明瞭にしてしまう。ランディさんが定義した小説を読む力について、自分の個人的な問題として少し考えてみたいと思う。

▼ランディさんの新刊本の案内は、まだ図書館から届いていない。待ち遠しい、でもその前に積んでる本を片づけておかなくては。

2005/02/11

図書館からメールが届いた

▼図書館からメールが届いた。本の返却期限が過ぎているというのだ。そこには期限が過ぎた4冊の本が並んでいる。借りる期限は2週間。最初は2週間もあると思うけど、きてしまうと結構短い。しかもその中の何冊かは未だに読んでいない。図書館に問い合わせると、既に予約が入っているとのこと。後に続く人がいるから早々に返却しなければと少し焦る。

▼本を読む時間があっても、落ち着いて読む気持ちになれない。でも読む気持ちだけは十分にある。言っていることが矛盾しているかもしれないが、実際にそんな感じに近い。

▼読む時間が減ったのは、ブログで記事を書いている時間が増えたのと無縁ではないように思う。誰かの言葉だったか忘れたけど、最近の出版分野における不況の一因として、誰もがみんな本を書く側になろうとして、読む側が少なくなったのだそうだ。今の僕の状況はそれに近い様な気がする。

▼でもやはり才能があり、内容のある本を書ける人は、どんどんと前に進んでいって欲しい。生涯一読者の僕としては、その方が嬉しいというものだ。

▼ランディさんが作家になってから5年が過ぎたとのこと。実はもっと作家生活が長いと思っていた。作家になる前となった後では生活の変化はかなりの物だったに違いない。ランディさん自身はちっとも変わらないと思うけど、回りが変わった、もしくは変わったように見えたと思う。

▼作家は自分の考えていることを、世の中に公表する手段を得たと言うことだ。逆に何よりも職業として品質が要求される事にもなる。それは自分のブログで何かを書くのとは次元が違うと思う。品質を求められるのは、それぞれの仕事でも同じだと思うが、作家は書く内容にそれを期待されている。

▼以前は、会社員と作家、教授、弁護士などの職業は並列に並べることがなかった。今でも多少その気配は残ってはいるが、それでも昔に較べると殆どないに等しい。いつから同じになったのだろう。誰でも地位とかクラスとかレベルとかの高低を言わなくなった。言われなくなったのは、そんなに昔のことではない様に思う。

▼それは良い面も悪い面もあるかもしれない。まずは所謂知識人と言われる人達の言葉をみんな信じなくなったと言うこと。彼らにしてみれば、言ったところで何も変わらない、もしくは言うべき言葉が見つからない。
その代わりに、これからの進むべき方向は、各人がそれぞれの立場で考えなくてはいけなくなった。

▼そうなると各人が状況に応じて、その場の最適主義で決断し行動する事になっていく。うまく動くこともあるかもしれないが、長い目で見れば失敗することも多い。

▼そういえば、ランディさんの記事の中で、システムは人じゃないから責任を追求できないとNGOの方が言っていたとの記事があった。今から思うと、それはシステムの問題じゃなく、システムをどの様に造ってきたのかの過程の問題のような気もしてくる。

▼でも社会システムに責任が持てないのに、市民1人1人の自己責任を求められる社会ってどこかやはり変な気がする。別に自己責任を回避するつもりはないけど、やっぱし変だと思う。

バッドな日

▼ランディさんのブログを毎日読んでいる。ほぼ習慣化しているかもしれない。でも毎日読んでいると変な感覚に囚われる。その感覚は、動物園で虎とかライオンとかクマ等の動物を観察している感覚に近いかもしれない。時にランディさんの記事「バッドな日」を読んだときにそんな気持ちになった。

▼でもこれってランディさんに対して、もの凄く失礼なことなんだよなぁ。だから勿論この記事はトラバはしない。でも考えてみれば、ランディさんは自分の思いを晴らすために、書き続けているのかもしれない。だから「バッドな日」のような記事も書けてしまう。

▼勿論、悪い意味で言っているわけではない。何しろ僕はファンなのだから、ランディさんのやることは殆ど総て好意的に見てしまうのだ。逆に僕には間違いなく書けない記事だと思う。じゃあ、僕には「バッドな日」の記事のような時がないかと言えば、全くそんなことはないわけで、ただその事を書けないだけだ。

▼別に格好を付けているわけでも何でもない。それに、どんな記事でも読めば、在る程度のことを人は読み取ってしまう。実際に顔をあわせれば、隠してもその人の気持ちが伝わるのと同じだ。勿論顔を合わせる程ではないけど、少しはわかってしまう。

▼どこかのブログで、1つのブログにトラバをし続けるのはネットストーカーみたいなだと書いているのを読んだ。それはそのブログを書いている人自身に対して言っている内容だったけど、そんな風に考える人もいるんだなぁ、と妙に感心した。

▼でも僕が思うに、ストーカーとはちょっとは違う。多分ストーカーになり得るトラバというのは、それだけで書くのに凄いパワーを必要とする様な気がする。自分の欲望をトラバするブログに対して果たそうとするのだから、これってある意味凄い。今までにそういうトラバって見たこともない。よく聞くのは、スパムトラバとかスパムコメントくらいの物。

▼勿論実際のストーカーを認めているわけでは決してない。あくまで、ブログにおいてストーカー行為はあり得るのかという話にしか過ぎない。よく「荒れた」と聞くが、実際にブログのコメントで荒れた現場も見たことがある。あれはやる方は一種の「お祭り」としてやっていた印象を受ける。被害に遭われた方は大変だと思うが、ネットストーカーとは少し違うような気がする。うーん、やはりよくわからない・・・

▼まぁ、理解できないくらいが丁度良いのかもしれない。

調査が多すぎる

今に始まったことではないけど、それでも特に最近調査が多いような気がする。街に出ればアンケート調査員に呼び止められる。新聞を見れば、一週間に数回は何らかの調査結果の文字が踊っている。ネットを見ても同様だ。

何でこんなにアンケート調査をするのだろう。実施する側は何らかの意味を感じてやっているのだとは思うが。それにしても多すぎる。そしていずれの場合も、結果に対する分析と称して、どこぞの教授が登場し権威付けを行う。

今度は「ネット調査と面接調査、大半で結果異なる」(ITMedia)との記事があった。これって、今までの調査自体が無意味だって事なのか・・・?
そうだとすれば少し笑える。しかし、こんな調査でも分析をする人はいるようで、ネット調査と面談調査の母体の違いを述べていた。

ネット調査の場合、「仕事や家庭を含めて充実感が低く、多くの側面で不公平感が強いほか、職業能力に自信がない人が多いという結果」だそうだ。僕は調査とかアンケートの類は、求められても殆どやらないが、ネット調査の場合、上記で述べている結果以前にアンケートに答える動機はオファーを求めてであるのは間違いない。誰が真面目に答えるのだろう。やる人は、とりあえず提出することだけで、真面目に質問も読んでいないのではないだろうか。

面談調査の場合、インタビュー効果が出ることは常識で、それによる結果の偏りは避けられないと思う。

これら両者を比較検討して何の意味があるのだろう。有意義な調査は勿論あると思う。でも最近の調査は概ね無意味だし、偏りが出やすいその場しのぎの調査が多いように思う。

人って、気分はころころ変わる。もしかすると、同じ母体であっても、ネット調査と面談調査では結果が違うかもしれない。そうだったら面白い。

この調査の結論は「ネット調査を面接型の代用としてそのまま使うのは不適切」との事。そんなこと初めからわかっているでしょ!って言いたくなる。でもこの調査にも何人かが絡んでいるんだよなぁ。その人達には、心の底からお疲れ様でしたと伝えたい。

海の底

青空に一本の白い線。見ればそこに「ひこうき」が飛んでいた。
雲1つない青空だ。冬の空は薄く、昼過ぎとはいえ、少し灰色が入っている。
そこには、まるで海面を走るボートのような航跡。
一瞬不思議な感覚に囚われる。
そうなのだ、僕は海の底で貝のように、殻を少し開けて、隙間から海面を見上げる。そこには一本の航跡がある。
僕はさらに目を凝らして眺める。「ひこうき」と僕との距離が縮まる。
写真を撮ろう。そう思った。
でもそう言うときに限ってカメラがない。
日曜の公園は人が多く、家族連れの晴れやかな笑い声が響く。気が付けば見上げているのは僕だけのようだ。
「ひこうき」は既に遙かに過ぎ去っている。
突然に航跡に向かって祈りたい衝動に駆られる。それは一瞬夜空の流れ星と同じ感覚になったのかもしれない。
そんな自分の姿に、どこかの海の底で貝達が航跡をみて祈りを捧げている姿を想像し、少しだけ笑う。

NTTドコモ「N900iL」

最近携帯端末の話題が多い。今回はNTTドコモ「N900iL」について書きたいと思う。実はこの製品はコンシューマ向けではなく法人向けの製品だ。昨年の11月中旬に販売を開始しているので、既に会社で使われている方もいるかもしれない。本製品には今後コンシューマ向けに展開されるであろう技術が使われていると思うことから個人的に少し興味を持っている。

使われている技術は、802.11b/VoIPで、屋内ではIP電話として使うことが出来る。802.11bはご存じの通りに無線LANの規格でもある。無線LANのアクセスポイントはSIPサーバー経由でネット、もしくは公衆網にアクセスすることになる。

携帯端末に802.11b等の無線LANの規格を実装することの意味は、まさにここにあると思う。またこの携帯端末ではインスタントメッセージ(IM)の送受信も出来る。勿論IMのプレゼンス機能も当然に装備している。

プレゼンス機能とは、IMを立ち上げたときに、IMが立ち上がっている登録者にその事を告げたり、現在の自分の状況を通知する事が出来る機能だ。具体的に言えば、「会議中」とか「取り込み中」とかの状況を相手に知らせる事になる。この携帯を持っていれば、社内にいるときは一目で現在の状況がわかることになる。

現在企業の内線は徐々に携帯端末化しているように思う。それは、オフィス自体が特定の机を持たずに、適時空いている場所を机にする「ロケーションフリー」に向かっている事と無縁ではない。だから、今後は所在地まで明示されることになっていくように思う。この「N900iL」はまだそこまでの機能は持ってはいない。

この製品をコンシューマー向けとして考えた場合、環境面で幾つかの問題があると思う。
1つは、公衆無線LAN環境は拡充しているが、本携帯機能を生かすサービスおよび設備が整っていないこと。もう一つは、新しい技術を装備しているとはいえ、長い目で見れば、携帯に実装する技術としては主流ではないと思われる点だ。

ただ仮に、コンシューマー向けとして売り出した場合、新たなネットビジネスが創出する可能性は高いとも思う。そしてそれは、今後の携帯ビジネスにおいて重要な知識になるようにも思えてくる。そう言う意味では、法人向けとしてのみ展開することは少し残念でもある。

2005/02/10

au携帯「A5509T」

A5509T東芝から発売するau携帯「A5509T」は、携帯端末機能の今後の方向性を示していると思う。勿論それは1つの方向性に過ぎないが、ニーズは間違いなくあるように思える。


先輩の娘さんが高校生になり、携帯を持たせた。娘さんが持つまでに色々なことがあったらしく、その顛末を聞いた。夫妻とも携帯については全く知らず、夫の方は会社から支給されている携帯を使い、奥さんの方は今までに使ったことがない、そんな一家の話だ。

最初、娘さんの言うことに疑念を持ちながら、反論することが出来ず、auの「ダブル定額」を通話込みの完全定額だと誤解し、最新機種を与えたらしく、請求が来てビックリ。請求書には数万円の表示が・・・先輩は最初冗談だと思ったとの事だった。

早速先輩は携帯の事を勉強し、携帯料金の内容を知り、即刻解約。年間割引の違約金を払い、学割サービスがきくau携帯に変更しました。少し前の話ですが、今だったら僕は間違いなく「A5509T」を薦める。

「A5509T」の3つのモードがこの携帯端末の特徴を現していると思う。3つのモードの中で「スマートモード」は個人の状況にあわせてのインターフェースの設定が出来ることなので、これは他社携帯にもあると思う。

やはり、この携帯を購入選択する事の最大のポイントは、「制限モード」と「セキュリティモード」だろう。内容に興味のある方は東芝サイトを見て欲しいと思うが、上記の家族以外にも、この2つのモードは色々と使えそうな気がしている。

デザイン的には普通の携帯だが、色がポップで良いと思う。僕が今使っているA1402Sは薄型デザインで選び、自分としては満足しているが、勿論改善して欲しい箇所もあるのは事実。ただ、今までデザイン重視だった携帯選びの中で、機能面で興味を持てる携帯が「A5509T」だと思う。

うーん、物欲がふつふつと・・・・

遅れてきたランディさんファンとして思うこと

▼遅れてきたランディさんのファンとして、今更ながら彼女の以前の記事を読み始めている。このブログの前にはメルマガがあったようだ。ブログ記事を全部読んだら、今度はそっちも読んでみようと思う。

▼2004年の9月の記事で、石の話と虫にまつわる話が気に入った。凄く面白い。人間には不思議なことを考えるんだなぁって思う。考える側から言えば、それは実感しているのだから理屈じゃないと言われそうだ。僕にはよくわからないけど、ただ人間には時々不思議なことが起きるということはわかるような気がする。

▼脳科学がいくら発達して、総てが脳とか神経伝達のなせる技となったとしても、それで不思議が解明される訳ではなく、不思議は不思議として残るのだろう。石だって、細かく元素くらいまで砕けば、人間とそんなに変わりはない。その人は元素のレベルで語り合えるのかもしれない。

▼人間の頭の中に生息する虫の話。これにも興味をもった。そうなのかもしれないと、徐々に納得するランディさんの姿が面白い。僕も身近に虫に詳しい人がいれば、多分納得してしまうだろう。僕にもそういう話を受け入れられる物を持っていると思う。でもその話を聞いても、自信を持って人には言えないだろうなぁ。それって、記事を読んだ後で思うと少し寂しい。

▼その他にランディさんの以前の記事を読んで思ったことは、今のランディさんの事だった。今のランディさんって何か怒っている。それが一体何なのかわからないけど、そんな印象をもった。勿論、自分の勝手な憶測だ。

▼それを考えると、最近ランディさんが云った言葉「フラットな他人」とは、ランディさん自身に対して言っているような気がしてきた。

2005/02/09

システムは頑固者

「でも、やっぱり、システムを動かしているのは人間なのだから。システムの背後にいる人間に向かって、ばかやろー、と言い続けても私はそんなにむなしくない。」
(田口ランディ「システムに道を説く」から引用)

▼システムを造ったのも人間、運用するのも人間、その通りだと思う。それにシステム自体が人間にとって新しい考えのようにも思える。ただ人って、システムの中では与えられた役割の中で動いてしまう様な気もする。

▼システムは頑固だと思う。何故ならシステムは幾つもの信念で造られているからだ。人間でも強い信念を持っている人は、時として素晴らしいリーダーシップを発揮する時もあるけど、信念が原因で回りの変化が見えなくなってしまうときもある。

▼信念を強く持っている人に「ばかやろう」と言ってみても、埒もいかない。その人の信念を揺らがす事が、多分一番効果がある様に思う。信念は経験で強まるような気がする。だとすれば、その経験の元をたどって、違う経験を再度体験させればいいのかもしれない。

▼僕にとって、システムを変えると言うことは、そう言う手順が必要な気がする。

▼実を言うと僕も高校の時に1つ悟ったことがある。それは「人間が行う総ての行動は人間的である」という定義だった。高校時代は僕にとって一番賢かったときだから、今でもこの定義を僕は信奉している。でもその時は、システムなんて言葉は身近ではなかった。

▼身近になったのは、ここ20年くらいの話だ。それからは、システムという見方で物事を見るようになった。この見方は便利だったし、逆に色々な新たな姿を見せてくれた。でも逆に人間が見えなくなったのも事実だ。

▼それはシステムによって人間が隠れたと言うより、人間がいなくなったという方が実感しやすい。在るのはシステムだけ・・・。でもこういう見方って、何かが変だとも思う。

▼だから、NGOの方がランディさんに言った意味が、僕には何となくわかる。ただ少しだけ違うのは、言うべき相手かもしれない。システムは頑固だから、直接言うのでなく、システムの回りにいて、まだ見えている人間に対して言うべきだと思う。そうすればまだ虚しく感じないのかもしれない。

▼別に根拠がある訳じゃないけど、そんな気がしている。

フラットな他人

「どういう他人になるかでしかない。圧倒的大多数が、当事者にとって他人なのだ。怖いのは世間の目という他人になること。 だったら、ただの他人、フラットな他人をめざすほうが私はいいな。」
(田口ランディ「他人という、わきまえ」から引用)

▼ランディさんは「フラットな他人」を目指すのか。僕は一体何を目指そう・・・。確かに「自分の生活を見失うしなったり」、「博愛主義のおせっかいになったり」、「声だけ大きい評論家」、「傲慢な裁判官」になるのも嫌だけど、時として「フラットな他人」にもなり得ない。

▼それは僕が少なくとも1つのシステム構築を担った意識があるからだろう。だからフラットにはなり得ない。システムを造るのは、なにも政治家だけでなく、役人だけでもなく、評論家でも学者だけでもない、普通の市民も一緒になってシステムを造っていくのだ。

▼無論1人だけの力でシステムが出来るわけがない。色々な出来事が僕らに影響を与え、社会を良くしたい気持ちで様々な意見をいう。でもそれらの意見を利用する輩がたくさん居る。彼らは手ぐすね引いて、自分たちのやりたい事の理由付けを探している。気が付くと何もかもが整備されているというわけだ。

▼考え過ぎなのだろうか。時としてそういう風に思うときもある。ランディさんのブログ記事「他人という、わきまえ」は、勿論社会システムを主に書いた記事ではないのはわかる。でも最近のランディさんの記事は、ここ何日か社会システムについて書かれている。今回もその延長のような印象を受ける。そして、僕はシステムについて考えている。

▼少し前の話、マクドナルドの事を素晴らしいと思った。世界中のマクドナルドは何処でも同じメニューで同じ味を提供しいている。これってなかなか出来ない事だ。人に依らず、同じ品質を提供している。日本も見習わなければと多くの人が思ったと思う。

▼でも今では誰もそんなこと思わない。ただ、みんながそう思い、それに習えと日本中で努力した結果、今ではどこでも大体がマクドナルド化している。そこでは、人の個性は関係がない。今ではマクドナルドのハンバーガーを口に頬張りながら、アメリカングローバリズムを否定している。

▼僕もあの時に、マニュアル化を推進した1人なのは間違いない。それが一体どういう意味を持っていたのかなんて、あの時は知りもしなかった。ただ、そうやった方が良いとみんなが思っていた。

▼ランディさんのいう「わきまえ」は、先々僕らが苦労するはめになる新たなシステムを造らないようにの願いが根底に在るような気がする。そして、色々な出来事に対して、結論を出すのが早すぎる社会に不安を覚えているような気がしている。

▼特に人の死に対して、僕らは冷静ではいられなくなる。それは当たり前の感情だと思う。ただ、ネットを流れる情報で、頭が肥大する傾向があるかもしれないが、逆に自分の気持ちのやり場をそこに求めている部分もあるような気がしている。

▼ランディさんのブログ記事「寒い」の中にある文章。
「改善されるべき制度やシ社会ステムには、改善しろと書き、子供には安心しなさいと伝えよう。」
事件の当事者でない時、フラットな他人の行動とはそう言うものなんだろう。僕も十分に納得する。

▼でもやはりシステムに関してであれば、時としてフラットになり得ないかもしれない。よくわからないけど、何となくそんな風に思う。

▼でも今回のランディさんのブログでひとつ気がついたことがある。それはランディさんは、ブログにトラックバックしている記事を読んでいるのかもしれないと言うことだった。この記事は、コメントとしてトラックバックしている僕らへの回答なのかもしれない。そんな気もしている。

2005/02/08

このブログでの記事の書き方

「記事の書き方」とタイトルにつけましたけど、少し不適切です。僕がブログの書き方はこうすべきだなんて、するつもりも意見もありません。これは自分のブログの書き方を少し変えたことを備忘録として残す事を目的にしています。

ほぼ一日一件のブログ記事を書いています。どうも学生時代に染み付いた癖とか、ビジネス文書で叩き込まれたパターンが僕にはあるようで、それがこのブログ記事にも色濃く出ています。

具体的には、「起承転結」を出すこと、自分の意見は正確にきっちりと答えること、どんな意見にも自分の意見を出すこと、自分にはわからないことは書かないこと、等等です。

でもそれらの呪縛からできるだけ離れようかなと思っています。結論なんか出さなくてもいいんですよね。一日一回、色々なことに結論を出すなんて少し馬鹿げています。世の中の色々な問題は、時間を必要とするものがたくさんあるような気がしています。ビジネスではないのだから、即答はできるだけ控えたいです。

それに色々な出来事に対し、批判的な見方もできるだけやめたいと思っています。批判的よりも、どちらかといえば後に続くことができる意見を出せればと思います。

わからない事も、わからないからこそブログに書いていきたいと思います。今はわからなくても、そのうちにわかるかもしれません。もしくは意見が変わるかもしれません。それに、わかっていると思っていることのほうが、自分にとっては危険だと思っています。

時折、断定調の文章を書いてしまうこともあるかもしれません。でもその場合は、概ねカテゴリはビジネス内容記事の場合が多いと思います。ビジネス案件は、全てと言う訳ではありませんが、即決と自分の意見をきっちり言う事が多いような気がしているからです。

携帯2社に割り当て決定 ソフトバンクを認可せず

「総務省は8日、ソフトバンクが求めていた携帯電話向けの800メガヘルツ帯の周波数を、既存のNTTドコモとKDDIの2社に割り当てると正式に発表した。同周波数帯でのソフトバンクの免許申請を退け、認可しない。」(産経新聞から引用

やはりというか、結局ソフトバンクには割り当てはありませんでした。800メガヘルツ帯は設備費用が安くすることと、電波のつながりがよいため、ソフトバンクにとっては、割り当ては携帯ビジネスに参入する上で必須でした。

でも何か今回の一連の出来事って、よくわかりません。総務省にとっては手順を尽くしたといえるのでしょうか。情報通信審議会の答申が発端の今回の帯域整理についても、通信事業各社を巻き込んだのだから、もう少し議論をし続けてもよかったのではと思ってしまいます。何か総務省はあわてているような印象を持ちました。

人々の携帯事業者への希望は、やはりもっと安い利用料ということになります。当初、総務省は単純な割り当てのつもりだったのかもしれません。総務省にとって見れば、こんなに関心が出るとも思わなかったのではないでしょうか。ソフトバンクの登場で、携帯に対する人々の気持ちが浮き彫りになった気もします。

従来の携帯事業者たちが、どこまでそれに応える事ができるのか少し不安ですが・・・

「総務省はソフトバンクの800メガヘルツ帯での参入を認めないことを決めており、今回の結果について「ソフトバンクが一方的な意見広告を各新聞などに載せた結果、偏った内容になった。現状を分かっていない意見が多数を占めた」としている。」
(同じく産経新聞から)

今回の割り当て検討会では、ソフトバンクも新規参入事業者として、意見を述べています。その際に、総務省側から、ソフトバンクの意見が偏っている旨のコメントはなされていなかったようにも思えます。

僕としては、ソフトバンクと総務省とで、徹底的に議論をしてほしかったです。それを客観的に是非を投じれば、また違う形になったのではないかと思います。

関連情報
ITmedia「800MHz帯はソフトバンクに割り当てられず

「恋人」雇えば親も安心?

「中国で、9日の春節(旧正月)に合わせた大型休暇に里帰りする際、異性を「恋人」として雇う若者が相次ぎ、議論を呼んでいる。」
産経新聞から引用

へぇーという感じです。こういうのって、漫画とかドラマのパターンだと思ってました。つまり現実にありそうだけど、実際になさそうというイメージかな。日本ではこういうアルバイトって実際にありえるのかな?とも考えました。

中国では「愛情の商品化」と批判を受けているというけど、批判以前になにかかわいい印象を持ってしまいます。でも何回も続けることができない技のような気がします。毎回帰省のたびに違う人を連れてきたら、逆の意味で親に心配をかけてしまいそうです。

あ、そうか、毎回同じ人を雇えばいいんですね。あっせん業者まで登場するとは、さすが中国の方は商魂が逞しいとも思ってしまいました。

ランディさんのブログ記事「寒い」

田口ランディさんの「寒い」を読む。ランディさんにとってこの文章は誤解を与えるかもしれない。そんな気がしている。

▼まず、つかまり立ちをした11ヶ月の子供を自分勝手に殺害した加害者に責任があるのは自明なのが前提だと思う。その上で、他の幻聴を聞こえる方々が同様な目で見られることを懸念している。
「繰り返し事件がテレビや新聞で報道されると、あたかも幻聴が聞こえる人がすべて危険であるような、そんな雰囲気が生まれてくる……、かもしれない。」

▼さらに、社会システム上に何らかの問題が在ったとすれば、それも改善していかなければならないと言っているのだと思う。

▼犯人が一番許せないのは事実だけど、憎む気持ちが他に向けられない事、そして憎む気持ちが改善すべき問題を見えなくしてしまう事をランディさんは恐れている。僕はランディさんの記事をそういう風に読んだ。

▼しかも、ランディさんのブログ記事「寒い」の本文に「寒い」という言葉は1つも出てこない。ランディさんは何を持って「寒い」と言っているのだろう。実は僕にはよくわからない。

▼犯人の行為とその時の心情の事だろうか。コメントを出さない厚生施設の事だろうか。世の中がランディさんの懸念する方向に向かうかもしれないという恐れからだろうか。踏みつぶされるかもしれない名もない個人の事だろうか。それとも、近くて遠いこの出来事の中でも暮らしていかなければならない自分の事なのだろうか。

▼では一体僕はどうなのだろう。正直言えば、犯人の行為に憎しみを持った。ご両親のことを考え悲しくなった。そしてそこで僕の思考は停止したままだった。でも犯人への憎しみが他の人にいくことはなかった。また、ランディさんのブログを読むまでは、誰も知らないところで踏みつぶされる人を想像することも出来なかった。

▼でも、ランディさんのブログを読んで考えたときに、少しずつ「寒さ」に同調する自分がいるのも事実だった。僕の場合感じる「寒さ」は、犯人の行為に対することから、自分が「近くて遠いこと」と身を半歩外に出て眺める姿勢までの、その範囲にある総てをひっくるめた感覚に近かった。

▼だったらどうすれば良いのかなんて、僕には今のところわからない。それだけがわかる。

2005/02/07

伊勢旅行のスナップ4枚

思い立って伊勢に行ってきた。風が強く寒かったが、天気が良く、清々しい旅行を味わった。夫婦岩では波が高く、波しぶきが通路にかかる。でも夫婦岩ではイメージとして静かな波は似合わない。そんな風に思う。
夫婦岩の優しい言葉の響きに似合わず、厳しい自然環境の中でじっくりと佇む姿をそこに見た。でもそれが夫婦と言う事なのかもしれない。

夫婦岩

伊勢のメインストリートにある赤福本店。伊勢の銘菓と言えば「赤福」。ここで食べる赤福はさらに美味しい。
でもこの店の前で、女子高校生達が、赤福の餡は手で延ばしているから少し不潔かも、という話を聞いて彼女たちの意見に違和感を少し持った。おにぎりにせよ、江戸前の寿司にせよ、人の手が入るからこそ、おいしさが伝わるように思う。

赤福

伊勢神宮で、青空と木々。清生とした空気の中、木々の枝振りが青空に向かって伸びる姿が印象的だった。内宮近くの神楽殿前での一枚。

伊勢

旅の終わりの締めくくりはこれ。赤福ぜんざい。注文してからお餅ちを焼く。焼けるまで少し待つが、これもまた良い。
甘みは見た目ほどではない。甘辛両党に産んでくれた親に感謝する。

ぜんざい

シッピングニュース

「「津波が来るよ!」と、叫んで右往左往しているうちに、家の二階部分がゆっくりと流され始めた。すると兄は外に出て、家に縄をくくりつけて、ひたひたと水に浮いている家を引っ張り始めた。」(田口ランディ「津波の夢」から引用)
▼ランディさんのお兄さんが津波から家を守ろうとする姿に、僕は映画「シッピングニュース」を思い出した。映画の中で主人公の先祖は住み慣れた島を離れ、凍った海を家ごと移動する。家は縄でくくりつけられ、それを一族全員十数名で引っ張って移動していくのだ。映画の中で特に幻想的で印象的な場面だった。

▼住み慣れた島を離れるのは、土地が貧しくそこで生活することが出来なくなったからだ。しかも海が凍るほどの厳寒の中の話なので、状況も環境もランディさんの夢とは全く違う。でも、家を縄でくくりつける所作が同じ事で、僕はこの夢と映画を結びつけたのかもしれない。

▼ランディさんのお兄さんは「シッピングニュース」の主人公クオイルの様な人だったのかもしれない。僕のイメージはそこに繋がっていく。クオイルは劣等感が強く、うだつが上がらない中年の男だ。しかも浮気者の妻に先立たれ、残された二人の幼い娘と共に、クオイルの先祖が住んだ土地で人生をやり直そうとする。そこで地元の新聞社に勤めシッピングニュースを書き、新しい恋も知って、彼自身を取り戻していく。

▼勿論僕はランディさんのブログで、お兄さんが亡くなられていることを知っている。でも生きている者と死んだ者の区別は一体何処にあるのだろう。ランディさんの言葉を借りれば、「肉体的な兄は死んでいるのに、兄は私の夢の中でこの十年の間ずっと、啓示を与え続けている」のだ。あちら側でお兄さんがクオイルの様な生活をしているかもしれないと、僕が勝手なイメージを持ったとしても許して欲しいと願う。

▼その中でお兄さんは、時折ランディさんに向かってシッピングニュースを書き送っている様な気がする。ランディさん宛に送っているので、恐らくその他の方には伝わらない話なのだろう。でも間違いなくランディさんには伝わっているような気がしてる。

▼「シッピングニュース」は舞台となった土地、カナダのニューファンドランド島がまるで生きているかのように描写されていた。厳しい自然、漁業の不振から寂れていく町、その中で希望を失わない人々。その中で主人公は記事を書いていく。彼の文章には、優しくユーモアに溢れ暖かみがある。それは以前にニューヨークで書いた文章とは全く違っていた。

▼2月3日節分の日は、僕の父が数十年前に亡くなった日だった。僕が3才の頃に亡くなった父は、夢でも僕に何も語りかけてはくれない。でも時折母には何かを語りかけているそうだ。実を言えば僕の所にも来て欲しいと願い続けている。だからランディさんのこの話は僕にとっては羨ましい。

2005/02/06

わたしのなかではつながってるんだよな

「ドリームタイム」とはぜんぜん違うな〜。
でも、わたしのなかではつながってるんだよな。」
(田口ランディ「昨晩お会いしましょう」から引用)

▼「昨晩お会いしましょう」の内容は、ランディさんの言葉を借りると、「もう全編、セックス、セックス、セックスだ」と言うことらしい。そして「ドリームタイム」は「現実とも非現実とも言えない奇妙な物語」となる。ランディさんはこの2作が繋がっているという。

▼書き手が同じであれば、2つの小説が同根であるのは間違いない。でもランディさんは、そんなことを言っているわけではない様に思える。ただこの2作とも読んだことがない僕としては、何とも言いようがない。

▼これはやはりランディさんの小説を何か読まなくてはいけない。それで一昨日に近くの図書館で「ドリームタイム」を予約してきた。図書館員の方に、「発売前の本の予約は出来ますか?」と尋ねたところ 、「作者によりますねぇ」と語尾を間延びした調子で答えられた。無茶な質問だったのではと、少し緊張して質問した僕としては、この間延びした語尾に救われた。

▼「田口ランディさんの新刊です。」そう答えると、その図書館員の方は即座に、「ああ、だったら間違いなく購入するでしょう。」と答えてくれた。さすがに人気作家だ。そんな訳で、僕にとっての初ランディ小説は「ドリームタイム」に決まりそうだ。

▼実は「昨晩お会いしましょう」にも興味がある。それは勿論このランディさんのブログ記事を読んだからだが、「女が愛のないセックスでどれくらい傷つくかも書いてみたかった」部分を知りたいと思った。

▼人が人間関係の中で現実を構築するのであれば、セックスという男女の深いコミュニケーションではどんな現実を構築するのだろうか。しかも「女が愛のないセックス」で構築する現実は一体どんな姿をしているのだろう。そんなことをこの本で読んでみたいと思った。

▼丁度「ドリームタイム」も読めそうなので、続けてこの本も読み、ランディさんの言う繋がりを感じてみたい。

携帯周波数800メガヘルツ帯 ソフトバンクに認めず?

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「総務省は三日、携帯電話への新規参入を目指すソフトバンクが求めていた八百メガヘルツ帯の周波数について、同社に配分しない方針を固めた。」(産経新聞から引用
「携帯電話用周波数の利用拡大に関する検討会」とは一体何だったのだろう。2月3日に8回を数えた総務省主催の検討会が終了した時点での感想はその一言に尽きる。

最終的な報告書は、それぞれの意見の羅列にしか過ぎなかった。そこには意見の重みも何もない。後日に報告書だけを読めば、検討会は何を検討したのかさえわからないのではないのだろうか。

各種ネットの情報を参照すれば、検討会での有識者達の無能さだけが目につく。この結果、八百メガヘルツ帯の周波数がソフトバンクに割り当てられないとすれば、孫正義氏も納得する事が出来ない事は間違いない。

そもそも、検討会の構成メンバーの選択方法も謎だ。通信事業をビジネスにおいていない人達だけで、この問題が解決できるとは全く思えない。それに、各社の意見陳述に対して一定の検討会からのコメントもなかった。

僕はソフトバンクの参入を密かに期待していた1人だった。現在の通信事業者の姿は結局旧「電電公社」が姿を変えているに過ぎないし、各社の官僚的な体質は何も変わっていない。その通信事業者達に、日本の通信事業ビジネスを委ね続けて良いのだろうか、そんな疑問を持っているからだ。ソフトバンクという、旧電電公社以外のビジネス文化を持つ企業に、日本の通信ビジネスを根本的に変える力を感じていた。

今回の新聞各社の報道(ソフトバンク割り当て見送り)に対し、総務省は結論は出ていないことを説明し、各新聞報道を否定している。でも、どこからメディア各社が「割り当て見送り報道」のニュースソースを得たかに疑問が残る。

孫正義氏が言うように、検討会も、各事業者の意見陳述も、今回の各社新聞報道も、全て含めての出来レースだ、との意見を持ったとしても、誰も彼のことを被害妄想だとは思わないだろう。

総務省からの割り当て結論は2005年度前半に提示されるが、概ね新聞報道と同様の結果になりそうな気がする。安い携帯電話を言っていたソフトバンクにとっては、800メガヘルツ帯の割り当ては最低条件だった。息の根が止められたとはまだ言えないが、今後のソフトバンクの出方が気になる。

世論はソフトバンク支持に流れていると思うが、ただ残念なことは、この話題が多くの人に認知されていないことだろう。

本記事関連サイト
総務省検討会、ソフトバンクBBへの800MHz帯割り当ては見送りへ(CNET)
そして、総務省に委ねられた?携帯周波数会合最終回(ITMedia)
携帯周波数:800メガ帯は既存2社 ソフトバンク却下へ(毎日新聞)

2005/02/05

セキュリティ業界に入った元ウィルス開発者

「チェコの学生Marek Strihavkaは地下組織「29A」のメンバーとして、5年間にわたり、コンピュータウイルスの作成に携わっていた。しかし運命のいたずらか、Strihavkaはかつて自分も作成していたウイルスの感染拡大を食い止める仕事に就いた。」
(CNETJAPAN「私はいかにしてウイルス作者となったか」より引用)

反社会的な行為を行ってきた彼の言動は、例えて言えば、偽札作りの技術に興味を持ち、社会に出回らないからと言って精巧な偽札を作るのと変わらないように思える。「表現の自由」にも自ずから制限がある。その事を理解しない発言と受け取られても致し方ないのかもしれない。

彼を危険と思うのは技術以前の話だ。でもだからこそ彼の発言に別の意味で頷く箇所もあるのは事実だ。

「私は小学生の頃からコンピュータウイルスに関心を持っていました。現在の興味分野はコンピュータセキュリティです。そう考えると、私はウイルス対策プログラムの開発に適した人間だと思います。」
(CNETJAPAN「私はいかにしてウイルス作者となったか」より引用)

別の意味とは、コンピュータウィルスに対応するには、技術だけでなく、その制作者のマインドも理解する必要があると思う点。そして、危険だからこそ早めに社会に取り込み、その考えこそが危険であることを知らしめるべきだと思う点、の2つである。

制作者のマインドを理解することで、早めに対応することも可能になると思うし、場合によってはあらかじめ対応機能を組み込むことも出来るかもしれない。早めに社会に取り込むことで、他のウィルス作者に対して行為を止めさせる説得ある意見を提示できるかもしれない。

ウィルスにおける弊害はきわめて大きい。勿論、そのための新たなビジネスチャンスが産まれる事のメリットもあるが、デメリットの方が圧倒的に大きいと思う。例えば、ウィルスによる直接の被害の他、生産の停滞、ストレスの増加等々、そしてそれ以上に僕にとって怖いのは、ネット社会そのものが監視社会に移行する一因になっている様に思えるからだ。

いわば、彼の様なマインドと技術を持った人をセキュリティ業界に使うことは、「毒をもって毒を制す」例えに近いかもしれない。潜在的なリスクは当然にあるが、それは社会の中に取り込むことによって、徐々に低めることが出来るのではないかと思う。

しかし、僕にとってこの記事自体が意図的に造られた可能性も否定できない気持ちがあるのも事実。それはCNETの記事に掲載している彼の写真からも見て取れる。
普通CNETのコラムに掲載する作者の写真は、正面を向き笑顔のパターンが多い。でもこの記事の場合、上から見下ろし斜めから映している。それによって、この写真を見たときの印象は悪くなる。CNETの意図をそこから感じる。
また質問内容も印象を悪くする方向に持って行っているかの様にも思える。

仮に意図があるとすれば、それは一体何故だろう。記事を読む人の中で、彼と同じようにウィルスに興味を持つ子供達に対する配慮かもしれない。でもそれなら別の手段もあるはずだと思う。

実を言えば、このCNETの記事を読んで、僕が一番興味を持ったのは、この点だった。
何故、今この記事を載せるのか?また彼のイメージを全体的に悪くさせる理由は?

勿論、僕のこの疑問は憶測にしか過ぎないし、満足する回答も得られることはないだろう。ただ、彼を社会的に排除することに意図があるとすれば、それは僕にとっては誤りであると思う。

選択することの難しさ

「私がハマっている日常というのも、実は実在するものというよりは、私の中のバーチャルな感覚に過ぎないのかもしれない。つまり、どういう時空に住みたいかは、私が選択可能であり、ここしかない……などと思う必要はないのだ。」
(田口ランディ「爆発する時間」から引用)

▼小学生の時、周囲の大人達に言われた事が、無限の可能性があり何にでもなれると言うことだった。でも子供の僕は、彼らの言っている意味が全くわからなかった。小学生には彼らなりの社会がある。教室での友人との人間関係、先生との関係、聞いても全くわからない勉強、遊び友達との喧嘩、見たい番組を見させてくれない母親への不満、欲しい物を如何に買うかの算段、嫌いなおかずをどうやって始末するかの思案・・・等々。

▼無限の可能性があると言うことは、無限の選択肢もあると言うことなのだろう。でも誰も具体的に無限の選択肢を教えてくれなかったし、万が一教えてもらったにせよ、小学生の僕にとっては実感できる内容ではなかった様に思える。小学生は小学生なりに自分の社会を一所懸命に生きていた。つまりは大人になった今とそんなに変わらない。

▼彫刻家の故平櫛田中が百才になった時に言った言葉、「70、80は、はな垂れ小僧」。
平櫛さんにとってみれば、70才とか80才でも子供と同じように無限の可能性があると言うことなのかもしれない。

▼人は、子供とか大人に関係なく、常に可能性は無限なのかもしれない。でもその可能性を大人になるに従い、選択不能として考えなくなっていく様な気がする。子供の時は、選択肢が沢山あることにわからず、大人になったら選択肢に自ら蓋をする。結果的に、この点でも子供の時分と僕は何も変わっていない。

▼今の僕が宇宙飛行士になりたいと思っても無理なことはわかっている。でも、宇宙飛行士が宇宙に行きたいことであれば、もしかすると行けるかもしれない。また、宇宙飛行士になりたい夢を、別の形で叶える事が出来るかもしれない。嫌々、77才で再び宇宙に行ったジョン・H・グレンさんの事を考えれば、本当に宇宙飛行士にもなれるかもしれない。

▼勿論、宇宙飛行士は例えでしかない。問題は、何故今の僕が様々なことに、自ら選択肢を塞いでしまうかと言うことだ。ランディさんは「時空」も選択可能だと言っている。それは頭では僕も理解可能だ。でも「いいなぁ」と思うことを、「なりたい」に変換し、さらに「なるんだ」という信念へと換えることに、とてつもないエネルギーが必要な事も見えてしまう。

▼要するに僕はそのエネルギーを使う事が面倒で、それなりに過ごしてきた様に思う。それに、そのエネルギーを使って換えたときに、待っているのは、やはり普段の「暮らし」があるのだという諦観がそこにあるのも事実だ。これでは結局悪循環になってしまう。

▼今の自分に特段の不満があるわけでもない。自然な成り行きで過ごしてきたと言えば、聞こえは良いが、それしか言いようがない。でもその中で、子供の時から諦めてきたものが少なからずあるのも事実だ。そして今後の事を思うと、出来れば選択の結果として決めていければと思う。つまりは、いっぺんに換えようとするから莫大なエネルギーを必要とし、気後れしてしまうのだと思う。

▼現在ある僕の姿が、自分が選択をしてきた結果である事を認識することから始まるのだと思う。そして、今の姿は明日に向かう過程であることも自覚しなくてはならないのだろう。何かまとまりがない話になってしまったが、これが今の現状だから致し方ない。

2005/02/04

パナソニック SV MP510Vという選択肢

20050204b5b29e19.gifiPodシャッフルが売れているようだ。これで日本でもメモリータイプの携帯音楽プレイヤーが根付いていくのかもしれない。売れる理由としては、大容量と小型軽量のポイントが高いと思うが、やはりiPod人気からの流れが大きかったように思える。

メモリータイプでiPodシャッフルの競合相手は多いと思う。そしてそれら製品の多くはシャッフルより多機能だ。

しかし重量の点から言えば、現製品の中ではシャッフルが一番軽いと思う。メモリータイプが、セカンドマシンとして購入される場合、この軽さというのは重要なポイントになると思えてくる。

軽さの点でメモリータイプを調べていたら、パナソニック SV MP510Vという製品が見つかった。ただしこの製品は日本未発売、販売してる国は、中国、台湾、シンガポールなどのアジア各国が中心との事。ちなみに2004年のグッドデザイン賞を受賞している。以下にスペックを載せる。

USB2.0インターフェース
WMA、MP3対応、256MB
FMチューナー内蔵、ダイレクトFM録音可能
ボイスレコーダー機能内蔵
モノクロ液晶画面(4ライン)
ID3タグサポート
高さ×幅×厚み:70mm×22mm×14mm
重量 23.7g
価格は中国で850元から1000元の間くらい。

DRMに対応しているかはわからなかった。勿論、USBメモリーディスクとしても使える。電源はUSBからのほか、AC電源からの充電も可能との事。

本製品のほか、「SV?MP500V」という下位商品もあるが、メモリー容量(128M)の差だけのようだ。色は各シリーズ2色ずつ。大きさはシャッフルとほぼ同じ。

僕が注目したのは重量。シャッフルが22gなので、それに次ぐ重量だと思う。ただ残念なことに、容量が256MBと少ない。

本製品が日本で販売しない理由は、パナソニックがそれだけメモリータイプについて慎重になっているということだと思う。しかし、いずれ日本市場に参入してくる可能性はきわめて高いと思う。

その際、日本向けとしてはこの製品のままでなく、メモリー容量が1GBは欲しいところだ。いずれにせよ、デザインと機能および重量で、本製品が登場したとき話題を呼ぶことは間違いないように思える。

地球上を巡る「思い」

「電話の濃い思いを受け取った人は、中和させるためにさらに電話する。こうして、どんどん伝言ゲームのように、思いは拡散していく。人に伝播するほど、恨みも憎しみも悲しみも薄くなるのだろうか」(田口ランディ「電話日」から引用)
▼本当に電話は集中する。昨夜の家がそうだった。それこそ矢継ぎ早に電話がなった。父の法要のこと、友人の近況報告、旅行の話、甥からの「今度遊びに行くよ」報告、等々。それを受け取るのは僕だけではないが、あの電話の呼び鈴だけでも気持ちがそわそわする時がある。

▼無論いつも電話の音に「そわそわ」するわけではなく、僕の心が妙に落ち着かないときに、電話の音に少し過敏に反応してしまうようだ。全く気にしない人もいるのかもしれないが、僕の場合そう言うときが月に1-2回はある様な気がする。そして、そう言う状態にいる日に限って、電話日になる様な気がする。実際はその逆だとは思うけど、そう思ってしまう。

▼電話に出てしまうと、どうってことがない。問題は「電話の音」なのかもしれない。そう思って、何度か音を換えてみた。今の音はビバルディの「春」、好きな音楽だ。でも「春」でさえ、やはり「そわそわ」は変わらない。

▼つまりは、音の問題ではなく「電話」そのものなのだ。電話は、かけてくる人の思いを相手に(つまりは僕に)伝えようとする。「そわそわ」するときの僕は、今日は家で落ち着いていたいと思う。ビバルディの「春」は、そんな僕のささやかな願いを、揺さぶる音として意識してしまう。

▼相手からの「思い」を受け取った僕は、自分の「憂さを晴らす」為に、誰かに受け取った「思い」を伝えることになる。

▼ランディさんの言うとおりだ。「思い」は確かに伝播すると想う。でも、その思いは薄まることはない様にも思える。「思い」は人を経由する毎に変換され、別な「思い」として増幅される場合もある。薄まらずに変質していく「思い」、それが電話線に乗って世界中を巡るような気がする。

▼以前に米国の学者が、見知らぬ国の見知らぬ人から何人で自分に繋がるかを試した。確か7人か8人くらいで、自分に繋がったそうだ。それを聞いたTVが実際に番組で実験をしたところ、果たしてその学者と同様の結果を得た。

▼つまりは、アフリカの行ったことのない国の、全く見知らぬ夫婦のいさかいで発した「思い」が、巡り巡って僕の所に変質した「思い」となって伝わったのかもしれない。ランディさんのブログ記事を読んで、そんな荒唐無稽な思いに馳せてしまった。

▼そう考えると「電話日」は、1つの良い結果として、世界中の個人の「憂さを晴らしている」事になる。伝播する「思い」の終端が何処にあるのか、僕には計り知れない。でももしかすると終端なんて何処にもないのかもしれない。一カ所に「思い」が蓄積されていくよりは、永遠に地球上をめぐっていて欲しいとも思う。

データ改ざん十数年間 「大した問題でない」

「鉄鋼大手のJFEスチールの東日本製鉄所千葉地区(千葉市中央区)で、自社データを改ざんし、国の基準を超える有害物質を含んだ汚水を海に排出していた問題で、改ざんは担当者により、少なくとも十数年間続けられていたことが分かった。担当者の男性(38)は社内調査に「データの改ざんは大した問題ではないと思った」と話しているという。」(毎日新聞から引用
「大した問題」が「大した問題でない」に変換された理由と時期を考えなくてはならないように思う。JEFでは今回の問題を担当者個人の問題と考えている様だ。でも問題の根はそんなに単純ではないように思えて致し方ない。

十数年間改ざんが行われたと言うことは、担当者がその期間中に数人変わったと言うことだろう。その数人が、同じ考えで同じ改ざんを行っていたとしたら、本当に組織に責任が無かったのかと、問われても仕方がないと思う。

続けると言うことは、単純に考えれば、担当者が前任者の仕方を真似て来たと言うことになる。職場では仕事の「質」を人が変わることで低下させたくはない。だから引き継ぎ者は、後任者にノウハウを伝授する。その際に、OJTとしてしばらく共に仕事をすることで、明文化された知識の他に暗黙の知識も伝播されることになる。

それを考えると、改ざんは伝播された結果、十数年間も行われ続けたのではないだろうか。改ざんが日常になると、当初の後ろめたさが希薄になり、ついには担当者の言葉の通り大した問題ではなくなっていく。

それに後ろめたさがあったのは、十数年前の最初に初めて改ざんを行った担当者にしかなかったようにも思える。最初の改ざんは、もしかすると、通常は出なかった値が一時的に出たとき、行われたかもしれない。

その時の担当者は、恐らく状況を上司に報告したことだろう。その際に考えると、次回の様子を見る、となった可能性が高い。その時、では一時的に出た値をどうするかという話になる。それが改ざんの最初の様な気がする。そして最初の改ざんには上司の承認があったのではないだろうか。

勿論、上記は僕の想像でしかない。一般的な話をすれば、どこかで上司の承認がなければ、人が変わっても改ざんが続けられるとは思えないからだ。
また仮にJEFの言うとおりに、担当者の問題であれば、会社としての教育、人事面などの対応に問題があったのではないだろうか。

そのくらい十数年間という期間には重みがあると僕は思う。

さらに、正確な値を入力することが、新たな業務を引き起こす事になり、しかもその業務が煩雑で面倒な流れを伴うのであれば、改ざんを行いやすい土壌がそこあることになる。その点もどうなのだろう。

もしかすると、会社組織と個人の関係のあり方にも問題があるかもしれない。いずれにせよ多面的に問題を分析しないと、同じ事は再び起きるような気がする。

勿論僕は改ざんを行った担当者を弁護しているわけでは決してない。ただ、担当者だけに責任を持たせ終結する事は、何も解決しないのではと思っているだけなのだ。

僕個人としては、会社の業務は組織の一員としての意識だけでなく、その上位に社会の一員としての意識を持ち接しなければとの教訓をさらに強く思った。まぁ当たり前と言えば当たり前の話であることは間違いないが・・・

2005/02/03

書くことと、その書いた本を書籍で見ること

「本屋に並んでいるのを見たとき。発狂しそうになる。」(田口ランディ「ドリームタイム」から引用)

▼以前の彼女のブログで、怖い話を書いていたら、自分の話で怖くなり書けなくなったという話があった。「書く」という事はそういうものかもしれない。そして書き上げた話には、その時の書き手の心情が、創作した物語の中に色濃く残る事になると思う。別な見方をすれば、書籍には書き手の姿がある程度晒されていることにもなる。

▼それが書店に並ばれる。コピーされ増殖した自分の姿が、これでもかこれでもかと、新刊コーナーに積まれる。書店に来る人は軽い気持ちで、「あ、ランディさんの新刊だ」と手に取るけど、書き手との気持ちのギャップはとてつもなく深く広い。
僕はランディさんの記事でそんなことを想像した。

▼今度でるランディさんの本「ドリームタイム」は、彼女が好きで楽しく書き上げた小説だと言うから、とても面白いに違いない。一瞬、僕にとっての初ランディ小説にしようかなと思ってみたが、実際はどうなるか自分でもわからない。

▼でもランディさんにとって、書店でのサイン会は地獄の釜の中にいるような感じなんだろうなぁ。しかも表面的にはそんな顔は出来なくて、どこかの名湯に浸かっている感じを出さなくてはいけないから、益々ストレスは重なるんだろうなぁ。などとも思ってしまう。

▼その逆に、仮に近くの書店でランディさんのサイン会があったときは、覗いてみたくなる子鬼の気持ちにもなった。

2005/02/02

Shuriken Pro 4.0

PCのメールソフトにShurikenを使っている。でも最近のスパムメールにShurikenは対応できなくて、Thunderbirdに変えようかなと思っていたら、新バージョン製品が3月11日に出るようだ。

今度のバージョンアップは勿論スパム対応となっているので、発売が待ち遠しい。

メールのように頻繁に使うソフトは、やはり機能とか以前に自分にあった使い心地が、僕には優先される。こだわらない人も多いとは思うが、僕はマウスとかキーボードと同様に、頻繁に使うソフトもこだわってしまう。こだわると言っても、2-3くらいだから、宣言するほどのことでもないが・・・

最近のニュースで驚いたのが、「一太郎・花子の製造販売中止命令 松下電器勝訴」だった。しかもこの訴訟の内容がよくわからない。よくわからないけど、一太郎がなくなるのは困る。

正確には「一太郎」でなく、「一太郎」がなくなることで、開発会社である「ジャストシステム」の経営が厳しくなり、その結果「ATOK」開発に影響が出ることが怖かった。

僕がこだわるソフトで、日本語変換ソフト「ATOK」は最たる物だ。ATOKとMSIMEを較べると、ATOKの歴史の重みを感じてしまう。ATOKがなくなる可能性が出てくるのは困る。その気持ちで、あの訴訟が気になった。

しらべたら、日経のサイト「IT?PRO」で訴訟内容の具体的な説明があった。

「なんだぁこれはぁ!!」
これが読んだときの正直な気持ち。
簡単に言うと、ヘルプの時に「?」だけなら良いけど、「?」+「←」がつくと松下の特許に引っかかるらしい。

でもこれって、MS-WORDでも同じだ。しかも松下からは、金銭で和解しようとしているらしい。ひと言で言えば、これって訴訟で金儲けしたいだけなのでは?

でもジャストシステムは、これを受け入れると、Windows系ソフトの殆どに影響が出るので、あくまで戦うとの事。その考えに同感。

吉野屋、一日だけの限定復活

20050202253ad031.gif
「吉野家ディー・アンド・シーは1日、米国産牛肉を使った1日限りの牛丼復活について、販売休止丸1年にあたる11日の午前11時から、全国約1000店の吉野家のほぼ全店で、計約150万食分を提供すると発表した。」(産経新聞から
吉野家の牛丼には本当にお世話になった。友人と明け方近くまで話し込み、腹が減ったと言っては、明け方に食べに言った。学生の頃の遊びの後は大抵は吉野家の牛丼だった。中島みゆきの唄「狼になりたい」では、そんな深夜の吉野家の情景が良く唄に出ている。

盛りは並、生卵付き。卵を少しの醤油をいれてかき回し、牛丼に赤ショウガを添えて、卵を上から落とす。大抵はそんな食べ方だった。

会社員になってからも、お昼にはお世話になった。だから食べられなくなった時は、残念な思いを持った物だ。牛丼は松屋もあるし、すき屋もあるけど、やっぱし僕にとっては吉野家が好みだった。

何故2月11日なのかは、1年前の丁度その日に吉野家では牛丼をメニューから外したからだ。なんか吉野家の牛丼にかける心意気を感じてしまった。

産経新聞の記事によれば、今回のイベントの為に150トン分の牛肉を用意したそうだ。その150トンの牛肉が1日で消費してしまうのかぁ、この数値を読んで少し驚いた。150万食分とのことだけど、確かに日本全国を考えれば、牛丼が好きな人が多そうだから、1日で消費してしまうのだろう。

でもあらためて、数字を聞くと、別の方に頭が行ってしまう。牛一頭が約800Kgとしたときに、150トンは、約188頭分となる。バーチャルウオーターは牛一頭に約20トンなので、約3760トンの水も消費していることにもなる。

つまり、牛188頭、水3760トンを1日で消費してしまうことになる。勿論これらの数値は全体から考えると少ない数値であるのは間違いないが、こう具体的な数字が出てくると、あらためて凄いなぁと思ってしまった。

誤解して欲しくないのは、吉野家のイベントに対してけちを付けているわけではない。むしろその逆で、牛丼好きの僕としては大いに喜んでいるのだ。

それに牛丼の場合、欧米ではあまり食さないショートブレードという部分を使うわけで、逆に有効利用しているわけになる。だから僕の単純計算をもって、牛の頭数を計算すること自体無意味なのもわかってはいる。

それでも、やはり考えてしまう。
だから食事は残さずに食べましょう、なんて事を言うつもりもない。ただ、他の方は知らないのだけど、僕自身は知っておいた方が良いと思っているだけだ。自己満足と言えばそれまでだけど、自己満足も時には大事だとも思う。

しかし2月11日が待ち遠しい。

2005/02/01

韓国の番号ポータビリティ販促状況からみた日本側の予測

20050201a6e8c384.gif「日本に先駆けること2年、番号ポータビリティの実施に踏み切った韓国では、3キャリアの競争が激化。商標を巡る訴訟や違法販売による営業停止命令にまで発展した。」(ITmediaから)

番号ポータビリティが既に始まっている韓国ではすごいことになっているようだ。競争が激化という以前に、キャリアの販促合戦は無法状態に陥っていると言ってもいいかもしれない。でも現在のシェアは番号ポータビリティ以前とさほど変わらないらしい。

多分日本においてはさらに烈しい販促合戦になる様に思う。現状の3社であれば、以前のマイラインほどの騒ぎにもならないと思う。でも番号ポータビリティの場合は、新たな携帯事業者が参入すると言うこと、マイラインより多くの人が関心を持っていること、等から熾烈さが増すのではないかと予想出来る。

従来のキャリア3社(ドコモ、KDDI、ボーダフォン)からしてみれば、番号ポータビリティをサービス中心による販促合戦にしたいと考えている様な気がする。それは、裏を返せば、これ以上の料金値引き合戦に対応したくない気持ちが強いと思うからだ。

でも新規参入業者からしてみれば、値引き合戦に持って行く事が主にならざるを得ない。そしてその流れに、従来のキャリア3社は巻き込まれていく様に思える。さらに新規事業者の1つである、孫正義氏のソフトバンクの販促手法に3社がついていけない事も予想出来る。

それはあたかもADSL販売合戦でヤフーBBの販促合戦に、他の事業者が負けた状況の予感に繋がる。

でも日本における携帯事情を考えてみれば、結局の所やはり新たなサービスと、それを実装した魅力ある携帯端末をだす事業者にシェアは流れるのではないだろうか。勿論、利用料金が安い事は嬉しいことだが、携帯市場を支えているのが20代から40代であれば、彼らを中心にしてキャリアが決まり、その人達を中心にした料金割引(家族割りとか)を利用することで、シェアが決まると思う。

つまり、携帯というパーソナルな物から、関係を重視した戦略がさらに必要な気がする。

ここで僕の勝手なポータビリティ以後から1年目の携帯キャリア各社のシェアを予想をだすと、やはり首位はドコモだと思うし、二位はKDDIの様な気がする。問題は3位以降の順位だ。ボーダフォンは危ない気がしている。ソフトバンクは善戦すると思う、もしかすると3位くらいのシェアを占めるかもしれない。

さて、僕のこの予想は当たるか?お楽しみは先の先までとっておこう。