2012/08/31

写真覚書1

西脇順三郎は彼の詩論「超現実主義詩論」の冒頭で以下のように語る。
「詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である」
何故危険なのかはともかくとして「詩」を「写真」と置き換えても支障はないように私には思える。
西脇はこの詩論で詩を論ずることの不可能性を示唆している。写真とは何かという問いも同様なのではなかろうか。何故写真へのそのような問いが不可能なのか。無論ここでいう問いの対象としての写真はあまねく全ての写真を指している。特定の誰それの写真とかドキュメンタリー写真等の特定のカテゴリ写真を言っているわけではない。

かつて清水譲は写真の本質について以下のように語ったことがある。
「写真は常に既に「何かの」写真である、ということにすぎない」
「写真」という言葉が二つ並んでいることに注意しよう。言わずもがな最初の「写真」と後者の「写真」とは意味が違う。
続けて彼は語る。「つまり、写真は、「撮るもの」からも「撮られるもの」からも独立しているということ」。
この文章にあえて「それを鑑賞するもの」 も付け加えても良いだろう。つまり写真自体は彼の言うとおりに「リアリズム」も「ドキュメント」も「心理」とも「記憶」とも関係がない。

「写真である」とは化学物理の作用により、そこに「何か」が写し込まれる現象でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそそれを論じること自体不毛な行為と見なされて然るべきかもしれない。
清水譲は写真が写真として成り立つために「写真性」という考えを導入した。これは不毛な行為に意味を持たせる一つの戦略とも受け取れる。ただそれは成功したとは私には思えない。ただ写真を論ずる出発点は「現象」から出発する他はないとは思う。

2012/08/28

グループ展「写真。」に行って

大阪で開催したグループ展「写真。」に行ってきた。グループ展「写真。」はFaceBookで繋がった有志30名がそれぞれ2点の合計60枚の写真で構成されている。「B0サイズ、一人二点」のルールを設け、あとは各々の裁量に任せる。ただ「写真とは」という問いかけに対する30人30様の答えとサブタイトルにあることもあり、今まで撮ったどの写真を選択するかを出展者達は悩んだことだろう。でも、おそらくそれ以上に悩ませたのは「B0サイズ」というルールかも知れない。作品のサイズは現代写真において重要な位置を示す。その作品の大きさはある意味必然でなければならない。逆に言えば「B0サイズ」のルールは「B0サイズ」の写真を選択せよとの命令でもあるのだ。

東京を出発し大阪に着いたのは午後の1時過ぎだった。朝から何も食べていない。折角に大阪に行くのだから着いたら美味しいものでも食べようと思っていたのだ。そして着いたら着いたらで先に目的を済ませてしまおうと、初めての大阪での地下鉄を経験しながら最寄りの駅「大阪港」に着いた。着いた時間は午後の2時頃。「大阪港駅」は大阪のベイエリアとしてなかなかに人気のある場所らしい。人の流れに沿って歩いていたら、反対側の出口に向かって歩いていた。慌てて引き返す。そして展示場である「海岸通ギャラリー・CASO」に着いたのは午後の2時半頃だった。きっと僕はワクワクしていたのだろう、空腹であることなどすっかりと忘れて展示場の中に入っていった。

グループ展はCASOの入り口の大きな一室にて開催していた。四面の壁にぐるりと上下二枚の30組が飾られている。さすがにB0サイズの写真は大きい。しかし大きいサイズの写真に見慣れているせいかサイズから来る圧迫感は殆ど感じられない。天気は雲が少なく青空が広がる。展示場の部屋のガラス窓から明るい日差しが差し込む。この明るさもこの写真展の開放感を助長しているようだ。ぐるりとゆっくりと写真を眺める。それぞれの出展者達の思いを感じる。写真展に行くのが好きな理由はまずはここにある。写真は人の世界からやってくるものだから、写真にそれらが写っていなくとも、人はフォトグラファーの思いを推察することが出来る。

実を言うと気に入った写真が何枚かあった。これからその事について書こうと思う。

中澤有基さんの作品。「写真とは」のテーマで昔から有る手法。剥がされた写真、残された写真。そして写真の写真。残された写真が良い。その写真が残されることで、逆に剥がされた写真の輪郭が想像できる。それ以上に好きになった写真は同じく中澤さんの集団写真の写真だ。これも写真の写真の形式を取っているが、この集団写真はフィルム写真をデジタル化し、その上でB0サイズに引き延ばしている。ゆえに少し近くに寄ればピクセルの四角い枡で集団写真が構成されているのが明確にわかる。写真の写真という写真の不同定性だけではなく、フィルム写真とデジタル写真からくる写真とはの問題設定が見えてくる。さらにB0サイズへの必然性がこの写真にはある。それに問題設定が重なる点で僕は中澤さんの写真に気を止めたのかも知れない。

タウラボさんの作品は赤いスカートをはいた人物がバーベルを持っているという修辞性が高い作品。おそらくタウラボさんは写真をその様に考えているのだろうと想像できる。無論のことスカートをはいているからと言って、顔が見えない限り、性別は不明。ダンベルの象徴性は使い古されてはいるが。単純な構図でB0サイズの真ん中に赤いスカートの構成はなかなかに目を惹く。

そして友人の野坂実生さん。今回のグループ展は彼女に誘われて観に行った。元々彼女の写真には叙情といったものを僕は感じている。ロマンティックという言葉は適切ではなく、あえて言うのなら日本的なもの。それに内容はウエット。勝手な思い込みだが題材に「水」が多い様に思う。コラージュもしくはフォトモンタージュして造られる作品は、それらの手法を駆使することが彼女の作品の特異性を示しているわけではない。僕からみると彼女の作品で彼女らしさを出しているのは色だと思う。そしてその色こそが、おそらく日本的なものを僕に感じさせるようにも思えるのだ。きっと色分析をすれば和の色の使用頻度が高いように思えるのだがどうだろう。もうひとつ言えば、写真にて何を現そうと彼女の作品の根底には楽天的な印象を受ける。「和」「水」そして「楽天性」。きっと野坂さんは僕の感想を否定するかも知れない。でもそれでも構わない。これまでの中澤さんの写真、タウラボさんの写真も含めて僕の単なる印象に過ぎないのだ。

写真展には一時間くらいいたかもしれない。さすがに空腹であることを思い出してきた。久しぶりとは言いながら前回は出張で来ただけなので初めてに近い。中心街に向かって行ってみよう。そこで何か美味しいものを食べるのだ。CASOを一歩出ると夕方とは思えない日差しの強さに一瞬たじろいだが僕は駅に向かって歩いた。

2012/08/20

メモ ルーシー・リッパード

「命名すること」(naming)
「語ること」(telling)
「手に入れること」(landing)
「混交すること」(mixing)
「転倒すること」(turning around) 
「夢見ること」(dreaming)

他者によって規定されたことを自らが表象し「命名」すること、
再度振り返り検証し語り直すこと、
 そして手に入れ、
それを元に他者と混交し、
価値の転倒をはかり、
まだ見ぬ未来を夢見ること。

(参考:笠原美智子著作、Lippard,Lucy:Mixed Blessings)

 

2012/08/17

撮る欲望

人間の見ている風景・モノをそのまま残したい(「記録」したいという意味でもなく、「したい」という欲望の意味で)欲望の発動は人類発祥からかもしれないが、写真の登場によりその欲望は変質したと思う。つまりは絵を描いたり文章で記録したりする欲望と写真を撮る欲望は何か根本的なところで違う様な気がしている。そして写真を撮るという欲望を人類が初めて得た時に、撮られたモノと実際に自分の眼で見たモノとの違和感も同時に得ることになったように思えるのだ。

「写真とは」とは 2

僕が最初に購入したデジタルカメラはAppleのQuickTakeだった。35万画素のカメラは双眼鏡のような形をしており大きかった。さらに内蔵メモリに画像を蓄える方式だったのでメモリの拡張も出来ずカメラ本体とパソコンをつなげての伝送は使い勝手が悪かった。それでも画像がそのままパソコンに出力できるのは画期的なことだった。次に購入したのは富士フイルム製のデジカメだった。小型で外部メモリカードに画像を蓄えることが出来る仕様だった。画素数は同じく35万画素。先だって掃除をしていたらこの外部メモリが出てきた。と言っても既に規格として無くなってしまった仕様だったので中身を見ることはできなかったが。いずれも1994年から5年までの間のことだ。

その当時のデジタルカメラの画像はフィルムからの写真を目指していた様に思える。製品の紹介もフィルム写真と較べていた。無論フィルム写真とは質の面で較べようもなかった。フィルム写真を超えるようなデジタルカメラができることなんて想像も出来なかった。

その時に使いながら感じたのは、デジタルカメラの画像の品質がフィルム写真を目指すことへの違和感だった。無論先行し基準でもあったフィルムを技術的に目指すことはある面正しいのかも知れない。ではとその時に思ったのはフィルムは一体何を目指していたのだろうかということだった。フィルムが目指しているのが人間が見ているままであれば、デジタルも当然にそれを目指すべきだとその時の僕は思った。逆に言えばデジタルはフィルムを意識する必要は全くないということだった。しかしデジタルカメラはしばらくはフィルムを意識し続けた。デジタルがフィルムを意識しなくなったのは最近のことのように思える。そしてその気分が一般の写真家達まで浸透していき、「写真とは」と写真についてあらためて考える様になっていったのだと僕は思っている。

2012/08/16

ブロッコリーとアスパラ

夕食は野菜中心の食事が続く。帰りにブロッコリーとアスパラが無性に食べたくなった。で、帰りのスーパーで買って帰る。実を言うとブロッコリーを調理するのは初めて。ネットで色々と検索し知識を得るが、実際には戸惑うことばかり。結果、かなり柔らかめのブロッコリーを食べることに。アスパラは短時間煮てからオリーブオイルでニンニクと一緒に炒めた。こっちの方は成功だと思う。また近々チャレンジする予定。

映画「麒麟の翼」

この映画が持つ閉塞感はどこから来るのだろう。映画とはつい先日レンタルで鑑賞した「麒麟の翼」のことだ。東野圭吾原作の加賀恭一郎もの作品で人気ドラマを別ストーリー版だから見られた方も多いことだろう。「東野圭吾史上最も泣ける感動作」とネット上では宣伝されていた。でもこの作品をどんな方々が見るのだろう。東野圭吾作品愛好者?TVドラマ「新参者」視聴者?それとも邦画ミステリーファン?いずれにせよそれなりの年配者が多いように思える、一言で言えば映画の中で被害者となった中井貴一さんと同世代とか、もしくはそれに近い世代の方々、つまりは家庭を持ち父親もしくは母親の立場を担っている方々が多いのではないだろうか。

この映画を単純化すれば大人と若者の対立構造の視点での感想もありえる。つまりはどこまでも正しい大人(親)と子供との対立構造。親の子供への愛情の深さを現実の世界で表現できない人はこの映画を見て自らを慰めることが出来るだろう。

さらに若者に対応する大人は父親の他に教師もいる。劇団ひとりさんが演じる教師は丁度中井貴一さん演じる父親の対角線上にいる。若者に迎合する大人と対峙する大人。無論映画での教師の存在は父親の毅然とした態度を美しさとして強調する為だけにある。いずれにせよ映画の中で間違いを犯すのは若者なのだ。

丁度この記事を書いている日に大津市の教育委員会教育長が19歳の自称大学生にハンマーで襲われたとのニュースを聞いた。義憤に駆られた若者は生きる目的を暴力へと向かわせた。さて映画の中で息子達は一体何をしたいと願って生活していただろうか。無論映画の若者達は何もしていない。彼らが自らの歩みを止めたのは彼ら自身に起因する過去の過ちからでしかない。でもハンマーの大学生と映画の大学生とどちらが現実なのかと問えば、自ずから答えが出てくる。

ハンマーの大学生の罪を一般化するつもりなど毛頭無い。罰は個人に向かっていく。ただハンマー事件の背景を僕らは知っている。そしてその複雑さの中で解決への目処を持たずにいる。単にいじめと学校の隠蔽体質だけでこの問題解決が出来ると思えるほど単純でもないのだ。

さらに経済不振と年金問題そして政治不信。大人達が享受してきた利益をこれからの若者は同じように享受できることはない。若者の大人への不信感は、自らが大人になる毎に経済的な負担と共に増していくことだろう。誰が一体間違っていたのだろう。

「あなたは人の死をみていない。あなたが見ているのは死体だけだ」
加賀とその父親との関係をもう少し深めることが出来れば事件を横糸にした縦糸となり一枚の人間模様が描き出されることができただろうに、いかんせん横糸だけでは深みがでない。それでもなんとか物語として成り立っているのはこの映画の世界観が映画の世界から一歩も出ることなく完全であるからだ。そして完全であるが故に何と現実から乖離した物語になっていることだろう。

主人公の加賀は看護師が彼に語った言葉だけではない。使い古された言葉を使えば、彼は、もしくは東野作品は、木をみて森を見ていない、さらに森からの視点で一本の木を見てもいない。

唯一この映画で胸に迫る点があるとすれば、中井貴一演じる父親の言葉だろう。
「私はどうしようもない父親です」そして彼は命を賭して息子にメッセージを伝えた。僕ら大人が今の若者に送ることが出来るメッセージもおそらく同様の覚悟が必要なのだろう。そしてそれは少なくとも僕自身はまだ果たしてもいない。 

2012/08/15

「写真とは」とは?

最近僕の周りで、もしくは写真を扱う場所もしくは人々の間で「写真とは」を前面に出しているのが多くなった様に思える。例えば東京写真美術館で現在展覧している「写真の表現と技法」はまさしくこの問いを全面にだしているし、今月の美術手帖の特集は「写真2.0」で写真の次のバージョンについての考察でもあるし。無論いままでだって美術館もしくは写真家達はこの問いを発し続けてもいた、でもこれほど一つのうねりのような状況になっていることは無かったように思えるのだ。しかもこの日本で。大学で写真を教えることも無く、写真の理論研究もすくなく、それでいて実践では世界から評価される人が多い国で、このような状況になったのは僕的には少々信じられぬ感があるのだ。しかもそこには、どうせ一過性だよと冷めた思い以上に、一度は死んだと思われた写真史の中に確かに僕も居るような感覚があるのも確かなのだ。

石けん

友が造った石けんを愛用している。とても僕に合う。それまでは液体石けん派だった僕が今では完全に石けん派になっているくらいだ。それでも使い始めた頃、一個の石けんがあっという間になくなってしまう。そしてそんなものだと思っていた。友から早い!と驚かれてもその早さを早いと実感することもできずに、でもしょうがないじゃんなどと考えていた。でもあらためた。僕は石けんを大事に使っていないのに気がついた。まずは石けんをおく環境を変えてみた。ずっと湿気のある場所に石けんを放置するとぬめりが消えずに消費が早くなることに気がついたのだ。人によっては当然のことかも知れないがそれに気がつくまでに数ヶ月かかった。まぁ僕としては案外に早い方かも知れないけど。石けんは大事に優しく丁寧にあつかうこと。これ鉄則。

2012/07/12

人に受け入られる言葉

人に受け入られる言葉がある。そしてその逆も。
一体何故だろう。
そして今は人に受け入られる言葉がなんて多いんだろう。 
僕らは何かに縛られている。そう思わないか。 

2012/06/18

茶箱

青山の茶道具の店に寄った。僕は今売られている茶箱とか茶巾袋がどのようなものか知りたかった。

その店の女主人はとても話し好きな方で色々なことを僕に語ってくれた。カタログとか店で売っている道具を色々と見せてくれた。
今は茶箱も中に収める道具付きのセット売りが殆どだという。野点をしたい場合も同様で、野点向きの茶筅とか茶さじなどもその一点での販売は行っておらず、セットものしかないとのこと。例えば茶筅の場合、持ち運びが便利な小ぶりのものが望ましいし、消耗品なのでいずれは摩耗するわけだから、単品売りがないのは少々厳しい。それに自分の気に入った道具類を集めてテーマに合わせての組み合わせが出来ないのも残念だ。そんな話を主人と語り合った。「今では外に多くの遊びがあるのだけど、それらは工夫なしでセット売りのような遊びばかりですよね」と語る主人の言葉は僕にとっても厳しい一言だ。

もとより僕に茶の作法の心得などはしらない。でも茶の目指すものは知っているし共感は持てる。僕にとってはそれだけで十分だ。あとは茶道具の一つ一つの機能とか使い方さえ知っていれば良い。僕はただ外で抹茶を飲みたいだけなのだ。川辺とか海辺とか、もしくは寺の境内とか気持ちの良い公園とかでお茶を点て飲めたら美味しいだろう。そんなことしか僕は考えていない。結局の所お茶は、ある人にとっては生涯をかけても良いほどの、遊びなのだと僕は思う。だからこそ自分の好みを優先したいと思うのだ。今回は下見程度のつもりで店を覗いただけだが主人との語らいで思わぬほど気持ちが入ってしまった。まずは家にある道具で試してみようかなと思い始めている。



おじさん図鑑

姉に聞いて初めて知った「おじさん図鑑」。巷ではかなりの人気図書らしい。人気が出ようが出まいがそんなことで本に対する興味を持つことはないが、タイトルがこうであれば少しは気になる。僕は一体どこにカテゴライズされているのだろう。

そういえば、おばさん研究の本はかつてあった、女子高校生も女子大生もはたまたOLとか主婦についても。でもおじさんを主にしたこの手の本は未だなかったようにおもう。それは何故かというと、結局の所出版されても売れないと思われていたということだろう。この手の書籍の購買層は若者とくに女性に興味が持たれなかったら売れるはずもない。逆に言えばおじさんの生態が若い女性にとって不思議で面白く見られるようになったということなのだろうか。

ネットでこの本を解説していた。そのなかで中高年男性女性に「自分を中高年と思うか」と聞いてみたのだそうだ。その結果は二十数パーセントの男性女性が「イエス」とのことだった。つまり残りの七十数パーセントは「ノー」ということになる。この数値を高いとみるか低いとみるかはどっちでもいい。それ以前にこの設問自体がおかしい。「おじさん」も「おばさん」も他称であって自称ではない。自称だとする場合、どこかに意識の線引きをする必要があるが、流れている意識の中でそんなものを持つ理由もない。つまり他称から始まり、結果的に人にいわれる前に自称するようになるということだろう。無論制度的には中高年・高齢者などの定義は決められているとは思う。ただそれはあくまでも年齢的なことであって、「おじさん」「おばさん」のように外見が主と思われる区別とは全く違う。勿論「おじさん」も「おばさん」も当然に年齢と無関係であるはずはない。ただ単純に年齢だけでもないのが実際で、僕的にいえば社会との関わり方の違いが表面化しているだけのように思っている。

一言で言えば、「おばさん」はローカル化し、「おじさん」はフロート化する。おばさんのローカル化はこれはよく知られている。全国誌のファッション雑誌を読んでいたOLまでは全国何処に行っても同じような姿をしている女性達は結婚し子供が産まれ専業主婦化すると地域の知人達の中で同化していくという道筋となる。ではおじさんのフロート化とはどういうことかといえば、企業の中で働き、その中で文化とか価値観が養われ、それが定年後に企業から離れても捨て去ることは出来ずに、かといって企業というある意味共同体にも属しておらず、ただただ浮いていくということだ。

フロート化し地域にも同化せずにただ浮いていくことになれば、逆に言えばそりゃ生態的に興味深い(面白いという意味で)人たちが揃っているに決まっている。それらの人たちをどのように書籍にしているのかが興味がある。

さてと、こんど書店で立ち読みでもしてきますか(笑

2012/06/13

現場

限られた時間の中で作業をこなす。来てもらった人たちは殆どが専門家。細かな調整不足、思わぬ事態、利害の対立等々を時間内にこなして流していく。少しでも対応を誤れば多くの費用が無駄になる。ヒロヒリとする緊張感が心地よい。ただこの心地よさには前提がある。ミスで何百万を失ったとしても人の命が失われることはないということ。それを考えればなんでもない。だからか僕は混乱の現場を楽しめる。

JINS PC

液晶画面専用の眼鏡を買った。綺麗な緑色のフレームの眼鏡だ。心持ちかけていると眼が楽になったような気がした。視界の端に見える緑色の境界が僕の世界を縁取っているのも気持ちがよい。

告知

あごひげを剃った。髪の毛はまだ黒いがひげだけは不思議なことに真っ白だった。そのひげを切った。僕の事を「サンタ」と呼ぶ女の子はきっと残念がるかも知れない。でも冬まではまだまだ長いから大丈夫。残した口ひげは今度緑色にでも染めようか等と考えてる。

12日

12日はハードだった。世界中の人々がこの日に何かを成し遂げようかと目論んでいるかのように、様々な要求が僕を振り回した。不思議だが人と人が何らかの形で繋がっている限りこういう日は在るように思う。きっと12日の様々な思いによって動かされた人々は時差を持って別の人々を動かすことだろう。そしてその思いは地球を一回りしながら、また12日のような日が僕に訪れるのだろう。

2012/05/30

新しい表象

例えば誰かが全く新しい表象をしたとする。しかしそれを観た人が共感し感想として言葉に現すとき、全く新しい表象が何処にでもある表象となってしまうのだ。逆に何でもない表象が誰も聞いたことがない言葉のイメージで綴られるとき、その表象は全く新しいものとなる。新しさとは言葉によって産み出される様に思う。たとえばアルトーの言葉「器官なき身体」の様に。全く新しい言葉を聞きたいと思う。強くそう思う。誰もが共感するような言葉は何か社会のシステムをただ強化しているだけのように感じてしまう。正直に言えばそんな言葉は聞きたくはない。感性の枠を広げてくれるような、つまりは枠というものを感じさせてくれるような言葉を僕はいつも求めている。

・・・・

誰もがそうかも知れないが、僕は言葉を綴り、振り返って自分が書いた文章を読むときに、総じて「僕はこんな文章が書きたい訳じゃない」と読めてしまう。なにか言葉の牢獄の中でうごめいている感じ。結局の所この言葉は僕が造った訳じゃなく、だから一つの単語の意味もある程度(幅を持って)規定されている中で、僕が僕の心の中をどうやって書こうかと思うと、それらの言葉が殆ど全て僕の気持ちを表していないという現実に驚いてしまうのだ。

2012/05/20

個別に語る

例えば「日本人の男性は」と人が語るとき、その中の一員に僕は組まれていることにとても違和感を感じる。暗黙にその方は「日本人」とか「男性」を規定している。そしてその規定は属している社会によって造られる。僕が日本を離れ数十年他国に暮らした場合、おそらく僕は「日本人の男性」とは違った者に見えることだろう。そして「日本人離れしている」と言われたとしても、やはり僕はその語りにも違和感を感じるのだ。結局の所、その方の語りは「日本人」中心であるのだというその一点において。一般論もしくは統計、さらに普遍的と呼ばれる語りは個別に対しては正しくはない。僕はそれらの中にはいない。決して。

リフレクション 桑原甲子雄さんの写真 マネキン

マネキンの撮影を続けている。何故マネキンなのかを語れば色々とあるが、それは今だから答えられる話でもある。始めた当初は都会のショウウィンドウに飾られた姿がとても哀しく感じられたからだ。それに都会の喧噪のただ中にありながらマネキンの在る場所は一種独特の空気感がそこに漂っている様に思えた。僕はその雰囲気に魅力を感じたし、哀しく感じられたその空気感を撮りたいと思ったのだ。

都会のショウウィンドウに在るマネキンを撮る場合、どうしてもリフレクション効果を考えずにはいられない。多くはガラス越しに撮ることになるのだから、そのガラスに映り込む明かりとか情景とかの配置をどうしても考えてしまうことになる。場合によってはそこに自分も写り込むことになる。それらを排除するかそれとも積極的に写し込むかは何を撮りたいかによって変わってくる。

リフレクションを手法として単純に考えた場合、重要となる要素はガラス面に対するカメラの位置だろう。さらに陽の光。撮す時間帯によっても大きく変わる。時間によっては撮したい角度での撮影は難しくもなる。さらに露出も難しい。それらが上手く出来たとしても写り込ませたい情景がその時点で揃っていなければならない。でも僕にとって一番大事なのはマネキンそのものの表情である。撮りたいと思わせるマネキンは都会には、こんなにもショウウィンドウに溢れているにも関わらず、案外に少ない。

マネキンとは何だろう。マーケティング視点(ビジネス面)を外して考え直してみた時、こんな風に考えられないだろうか。マネキンは人間の姿を模して造られた。それはあたかも神が自分の姿に似せて人間を創ったように。マネキンの視点から見ると神とは人間のことである。そして彼ら・彼女らは一定の法則に則った場所に置かれる。マネキンとは人間の世界の内に在りながら外部に在る人間に似たものなのだ。マネキンを撮るということはあたかも神の視点で撮ると言うことだ。そして外部に在るマネキンを通じて都会の孤独感・閉塞感・疎外感・寂しさ・哀しさが写し出される。

それらの孤独感・閉塞感・疎外感などの感覚は、マネキン自体で現す物質文明もしくは消費文化だけが起因するわけでもない。おそらくそれらは情報の非対称性からやってくる様に思う。声を出す者が、その出した声の通りになるとすれば、その者は閉塞感を感じることは少なかろう。声を出しても届かない状態、そしてそのことに自己責任と安易に単純に押しつける傾向。メディアは繰り返し非対称の意見を繰り返している現状。インターネットはそれらを打破するツールになり得たかと言えば、結局の所、やはり声の大きな者と専門知識をひけらかす者たちの場になってなっている。でもまだこうやってネットを使える者は良いかも知れない。

リフレクションをもう一度考えてみる。マネキンと一緒に写り込まれた映像はなにかというと、主に、カメラの角度にもよるが、マネキンが見ている世界である。そしてマネキンとその世界の間には透明な壁がある。そしてマネキンは狭い空間に閉じ込められている。またガラスに映り込まれている情景はカメラの背後にあり、撮影者は直にそれを見ることはできない。ガラスに写っているのはいわば虚像でもある。マネキンからの視点では世界はただ見るだけであり、撮影者の視点から言えばマネキンが見ている世界を一枚の写真に収めることが出来るがそれが本当の世界かどうかはわからない。リフレクションという手法はある面では情報の対称性を目指していると思うが、しかしそれは完全ではなく新たな疑問を呈する手法でもあるようだ。それでもマネキンを対象物としリフレクションでの撮影が目指す表現とは都会に住む人間の姿であるとは思う。

東京写真美術館で現在開催している写真展「光の造形 操作された写真」で桑原甲子雄さんのマネキンの写真「京橋区銀座」を観た。昭和十一年の東京を撮した写真集(1974年)に載っている写真のようだ。正直に言ってこの写真には驚いた。その写真にはマネキンとガラスに映った銀座の情景が見事に写っていた。マネキンの表情も良かった。僕が撮したいと思っていた写真がそこにはあった。だからこそか僕は桑原さんがこの写真をどの様な気持ちで撮したのかがとてもよく分かるような気がした。

桑原甲子雄さんのこの写真は隅々まで計算されている写真である。偶然が産み出した写真ではこのようには撮せない。トリミング、覆い焼き、焼き込みなどの現像時の手法を駆使しイメージ通りに仕上げたとしか僕には思えない。実際に僕はこの写真を観た翌日にカメラを持って街に行きマネキンをリフレクションを使って試してみた。一日では得ることは無論難しい。僕の写真は散々だった。しかしその試行で考えたのがこのブログ記事となる。

桑原さんの写真からのメッセージは明確である。それはおそらく多くの人がこの写真を観て感じることだろう。それぞれの思いは違っていたとしても言葉として語るとすればこの写真の一つの方向性を指し示すはずだ。

2012/05/16

素足に履く

ある記事で女性にとって男性の行動で理解できない事項の一つに「素足で靴を履く」と言うのがあるそうだ。曰く、足がくさそう、蒸れるんじゃない、靴に匂いがしみこむ等々と散々な言葉が続く。その記事を読み逆に女性は素足で靴を履かないのかと不思議に思った。勿論素足に履く靴は「素足で履くための靴」であるのが前提で、石田某の様に革靴を素足で履くのはやはり蒸れそうだとは思うが。夏になるとやはりその様な靴を履きたいと思う。例えばインディアンモカシン。今でも少なからず売っているようだ。で、調べてみると案外に高い。ミネトンカはこれこそモカシンという感じの靴を造っていて食指が動くが価格をみて一歩身を引いてしまう。モカシンだよ、たかがモカシン、と毒づくがそれでも売れているらしい。でもかつてはあんなに高くはなかったと思う。そう言えば先だってインカ展に行った際にかつてチャスキ(インカの飛脚のようなもの)が履いていたようなサンダルが売られていた。とても興味がわいたがそれでもサンダルの値段ではなくやはり買わずに眺めただけだった。それにそのサンダルの色の組み合わせも好みではなかった。なんだかんだ言ってやはり今年の夏もコンバースで過ごしそうな気がしている。

2012/05/15

映画「愛を読むひと」

人にとって一番楽しく素晴らしい記憶が思い出したくもない苦しみに繋がるとしたときに、その人はきっと希望を持つことが難しくなるように思う。これは角田光代さんの小説「八日目の蝉」の話だ。「八日目の蝉」では主人公である恵里菜は自分が誘拐された幼い頃の記憶を忘れようとしている。しかしその記憶は彼女にとって今までに最も幸福な時代でもあった。幸福な記憶が同時に忌まわしい記憶である状態。それはこの映画「愛を読むひと」の主人公マイケルの状態に近いと思う。彼はその結果、人を信頼し素直に交わることが出来なくなっている。彼がその状態から脱するのは15歳の頃に心の底から愛した女性ハンナの自殺によってだった。マイケルにとって幸福な記憶はハンナとの逢瀬の記憶であり、逆に忌まわしく恥ずかしい記憶もハンナとの関係の中にあった。ハンナの死で幸福な記憶だけが残ったという単純なわけでは決してない。そうではなくハンナの苦しみをマイケルが理解し受け入れたことが、そしてハンナとの関係を人に伝えることで二人の出来事を認めることが、その状態から脱していくきっかけになったということだと思う。この映画に関して言うとハンナ演じるケイト・ウィンスレットの演技が印象的だし、脚本でもハンナの描き方が丁寧だと思う。確かにハンナはこの映画の要で在るのは間違いない。でも同様に肝心な成人したマイケルの心境がハンナに較べて多少丁寧さに欠けるように思う。この映画は至る所に感想を想起させる要素がある。例えば文盲とかナチス戦犯裁判(まるでアイヒマン裁判のようだ)とか年上との一夏の恋(まるで映画「思い出の夏」だ)だとか・・・、さらに本を読めるようになったハンナが本を足場にして自殺するシーンもそこから何かを語ることは可能だろう。でも僕がこの映画で受けたのはそんなことではなく人が存在する寂しさというものにつきるかも知れない。

2012/05/14

2年ほど前に初めて入院した時、僕にとって良い看護師とは声の良さだった。それこそ波長が合うというのはあるものだ。特に体が弱っているときにその好悪は生理的なレベルで現れると思う。いくら技術を持っていても身体に障る声の看護師は近くによって欲しくはなかった。無茶な話をしているがそれがその時の実感だった。視覚は権力作用がそこに現れる。容姿の良し悪しはまさに時代が造ったものだろう。でも聴覚は視覚ほどそれが現れないと思う。音は、もしくは声は直接的に人間の深い部分と繋がっていると思える。ここでいう声とは言語のことを言っている訳じゃない。言語以前に発する声を言っている。何故人間は様々な声を発することが出来るのだろう。

ラフカディオ・ハーンは目が悪かったのだという。だからか彼の文章には音の表現が多いようだ。彼に物語を語ったのは女性だったそうだ。何故か男の耳には女性の声は心地よく聞こえ気持ちが落ち着く様に思う。その逆もまた真なりかは僕が男だから実感としてわからないが、そうあって欲しいと願う。きっとラフカディオ・ハーンは女達の語りに目を閉じて聞いていたと思う。そして穏やかな気持ちで想像の世界に身を委ねていたに違いない。それは一つの、まさに大いなる快楽だったに違いない。

2012/05/13

今日歩いた道のり

渋谷から原宿、原宿辺りでウロウロする。そこから信濃町にいき中央線沿いに市ヶ谷・四谷を過ぎて飯田橋から水道橋に。ここまで散歩ついでに歩けると言うことは渋谷から上野も歩けると言うことだ。水道橋からメトロの南北線・半蔵門線を使い家に戻る。でも結局NHKの平清盛を見すごしてしまった。

2012/05/12

ボルサリーノ

会社の同僚に帽子をかぶって出社する男が一人いる。帽子は上質な中折れハットで丁寧に造られたことが一目でわかる。あまりにも格好が良いので彼が帰宅する際にどこの帽子かと聞いてみたら、彼はすこし微笑んで小声でボルサリーノと答えた。実際に僕がボルサリーノを見たのはこれが最初だった。ボルサリーノと言えば、映画の影響かギャングを思い出す。それも下っ端などではなくボス級が被る帽子というイメージだ。そして映画に出てくる彼らは一様に格好が良い。今ではお目にかかれない絶滅品種的な格好良さだ。日本で言えば明治終わりから昭和の初め頃の男子の格好良さに近いかも。何というか色気みたいなものがある。きっと僕はボルサリーノをみてその色気に憧れを持っているんだろう。でもただ帽子を被ったって色気が出てくるわけじゃない。それが残念。

マッチ

マッチは完全なエコ商品だと思う。まずマッチにしかならない廃材を使う。そのまま棄てても全て自然に分解する。極めて安全性に優れている。箱の絵柄が楽しい。100円ショップで6箱買える。使い終わった後に始末に困るガスライターとは違う。でも何故だか殆ど使われない。だからか使っているとこだわりを持っていると誤解される。たしかに多少のこだわりは持っているのは事実だけど。マッチのことを30分くらい語ることが出来そうだし、でもそんな話、誰も興味なんか持っていない。そんな知識だらけだ僕は。

アロハシャツ

夏が近づくとアロハシャツが欲しくなる。そしてアロハシャツが欲しくなる時期が僕にとっての初夏となる。今年はとことん派手な柄のアロハが欲しいな。できればそれを会社に着ていきたい。一瞬「なんだこいつは!?」という目線を受けるのが結構快感だったりする。

2012/05/04

年齢は、年齢じゃない、ただの数字

伊達公子さんの言葉。彼女は活躍すればするほど彼女の年齢がついて回る。そのことに嫌気もさしていたことだろう。しかしそれにしてもこの言葉には強い自負を感じる。確かに年齢はただの数字かも知れない。例えば50歳と言うことは、その方が誕生してから地球が太陽の周りを50周したことでしかない。しかしその50周の間で、泣き笑い怒り憎しみ誇り妬み恋をし子供をもうけ親しい人の死を何度か遭遇し早ければ亡くなっていく、様々な人の営みがあるのも事実なのだ。無論、そんなことは伊達公子さんもわかっている。その上でこの言葉が言えるところに自負を感じるのだ。

以前に僕は一を聞いて十を知るような、例えば旅行をしたり映画を見るだけでも、他の人とは違う観察力と分析する思考力とそれ以上に感じる心の強さにより、他の人が得られないようなことを得る人がいると考えていた。そしてネット上に書かれるブログなどで、人の旅行記を読んだりして、その内容の凡庸さと陳腐さに内心がっかりもしていた。そんなことしか感じられないとしたら旅行など意味がない、家で写真集でも眺めていてもこと足りる、そんな風に思っていたりもした。

でもある程度の年齢になり、その様な考え方自体とても傲慢であることに気がついた。その様なことに気がつくのにある程度の年齢が必要だったのが、僕の言葉で言えば観察録と思考力と感性が鈍い証拠だろう。当たり前のことだが、「一を聞いて十を知る」の一とか十の項目の断定の仕方には、項目を設ける基準、つまりは価値観が必要になる。また凡庸とか陳腐とかは、確かにあるのだが(例えば人の言葉を自分の考えのように述べるときがそうだ)、それを断定する基準も必要となる。要するに以前の僕は自分の基準に合わない意見を無視していただけのことでしかなかった。

伊達さんにとって、おそらく嫌気がさしたとすれば、自分の活躍に年齢を気にするような社会の価値観そのものだったと思う。さらにいえば、年齢が社会システムにおいて一つの重要な要素であり、そのために社会全体が年齢を意識させるような教育を行っていることへの批判、例えばアンチエイジングと言う言葉が持つ不思議さ、もしくはその言葉に違和感を感じることへの表明、そんな風に思えるとすれば、それは考えすぎだろうか。

話は戻るが、50周の間に得た経験と20周で得た経験との重みの違いはあるのだろうか。亀の甲よりも年の功、というように経験は太陽の周りを何周したかで違ってくるのだろうか。原理的には経験が較べられない以上、違いはわからない、較べること自体意味がない、となるのだろう。ただ会社などの一つの価値観の中だけは経験の違いを明らかにする方向にあるようだ。

 

2012/05/01

故郷について

日本広告機構の支援キャンペーンの中に学校給食支援がある。その広告は昨年から今年の6月までの一年間行われている。僕はそのキャンペーンがあること自体知らなかった。知ったのはつい最近のことだ。電車そのキャンペーン広告を見たのだ。その広告写真にはラオスの小学生達が写っていた。その写真は後ろに女の子二人と男の子二人がそれぞれ組になって並び、前には女の子が一人立っている。カメラは彼らの前方斜め前から見下ろすような位置にあって、子供たちは丁度見上げるようにしてカメラに向かって微笑んでいる。それは大人の視線から子供たちを見下ろすのと同じような印象を与えていた。子供たちが大人達を見上げて微笑んでいる。彼らは学校給食と思われるカップに入った飲み物を手にしている。僕はキャンペーンの内容というよりも、その写真自体に釘付けになった。広告だから写真に何らかの意図的な編集が施されているのは間違いない。しかし彼らの瞳の美しさは写真の編集だけでは得られない実際の輝きと深さがあった。

その時、僕は畠山美由紀さんの「我が美しき故郷」を聞き故郷について考えていた。彼女の出身は東日本大震災で被災した気仙沼で、彼女は崩壊した故郷を思いを詩と曲にしていた。彼女は詩の中で故郷の情景に祖母の足音を書いていた。僕も父が入院中に母の青森の実家に預けられたとき祖母に面倒を見てもらったことがある。とても厳しい人で僕はしょっちゅう怒られていた。僕は怒られるのが嫌で祖母から逃げ回っていた。背後から祖母の怒声を聞いた。僕にとって祖母とはそんなイメージの中になる。その祖母は僕が小学生の時に胃がんでなくなった。母と一緒に急いで実家に行ったとき、しーんと静まりかえった実家が祖母の不在を現していた。

僕はその母の実家を故郷と実感している。それはそこで幼い頃に暮らしたと言うこと以上に祖母との思い出がそこにあるからだと思う。故郷とは祖父母が住み、そこで父母が育ち、そして僕が幼い頃に過ごした場所を言うのだろう。だとすれば故郷の崩壊は自分自身の根っこの部分の崩壊をも意味することになるのかもしれない。畠山美由紀さんの詩はそんな思いとそれでも再生する意志を感じさせてくれた。

祖父母が自分の実際の故郷を示すのであれば、僕がラオスの小学生の写真で感じたのは、子供たちの瞳にある原点としての故郷のイメージだった。果たして僕が僕となったのはいつのことだろう。少なくとも小学生の頃は僕はまだ僕ではなかった。その頃の僕はまだ他の誰かだったようにさえ思える。ラオスの小学生の瞳には「私」となる以前の何かがあった。きっと僕も小学生の頃はあの様な瞳を持っていた。僕はあの瞳からやってきたのだ。そんな思いが写真を観て沸き上がっていたのだった。

人は「どこから来たのか」そして「どこにいくのか」という本質的な問題を考え続けるのだという。でも僕がラオスの小学生の瞳を見て思ったのは、彼らは、つまりは「私」となる以前の「私」はそのことを知っているということだった。年齢を重ねる毎に人は「私」となっていく。しかし逆に年齢を重ねるたびに忘れていくものもきっと多い。子供たちの瞳は、それは人種性別を超えて、もしくは生命そのものの垣根を越えて、同じように美しく見えるのは、きっと僕らがそこから来たという原点そのもののように思う。それはある意味具体的というよりも普遍的な故郷のイメージのように思える。

故郷は祖父母の足音、そして子供たちの笑い声。この二つが揃っていなければならないのだろう。

2012/04/30

2012/4/30の覚書

本でも映画でも美術でも何でも僕にとっての刺激を与える事物に接しよう。感性というのは外からの刺激によって培われるものなのだ。でも最近仕事ばかりで家に帰っても刺激を受けることが少ない。仕事で感じることはたかが知れている。結局仕事の世界は狭いのだ。そんなこと分かっているが、家に帰るとぐったりで何かを得ようとする気力が保てない。いやいや言い訳は言うまい。仕事に関わる時間を意識的に少しだけ減らそう。少し自分のために力を残しておこう。僕にとって今まで考えもしなかったことに目を向けるのだ。

2012/04/26

インカ展にて

「遠くへ、もっと遠くへ」の気持ちは僕にとっては根源的なものだ。確かにこの気持ちを分析し様々な要因に分解は可能だろう。しかしそれら要因を確認したところで何故この気持ちなのかが分かるわけでもない。「遠くへ」の気持ちは距離だけではなく時間だけでもない。もっと重要なのは何処から来たのかと言うことだ。「遠くへ」を感じるためには自分が何処にいたのかを知っていなければならない。そして「何処」とは面でも点でも時間だけでもないのだ。それは私のことだし、だから記憶とか社交とかも密接に絡んでいるように思う。

マチュピチュに感じるものは、「遠くに」が具現化したイメージとしてそこに在ると言うことだ。正直に言えば僕は南米とかインカの歴史とかに強い興味を持っているわけでもない。おそらくマチュピチュを撮した写真、大抵は決まった位置から撮されたあの写真、が僕にマチュピチュのイメージを植え付けさせたのは間違いない。その写真にはマチュピチュを眼下に望みながらその先に烏帽子の様な山が写っている。無論マチュピチュの石造りの遺跡には人は誰も写っていない。それは高い山の頂に人知れず残された廃墟であり、未だ多くの人が足を踏み入れていない、つまりは観光化されていない清々とした空気が立ちこめる聖地のような場所で、辿り着くには徒歩で数日かかるようなそんな場所のイメージだった。

無論、今時世界にその様な場所があるとは思えない。あるとすれば辿り着くのに何らかの技術を必要とする様な場所、例えばヒマラヤの山々とか厳冬の南極・北極とかそんな限られた場所なのかもしれない。ただ僕がマチュピチュへの思いを正直に(恥ずかしくもなく)語るとすればそんなイメージが根底にあると思うのだ。

でも一つだけ言えるとすれば、マチュピチュは確かに日本から距離的に相当離れていると言うことで、そこに行くには技術以前に行きたいという意思を持っていなければならないと言うことだろう。そしてその意思は、少なくとも僕にとっては、写真から受けて勝手に造り上げたイメージだけでは持続しないと言うことだ。それに「遠くへ、もっと遠くへ」という気持ちは、マチュピチュによって具現化されているのかも知れないが、現実のマチュピチュに辿り着いたとしても満たされることはない。それはわかっている。ただマチュピチュに辿り着いた時点から、そこを起点とした新たな「遠くへ」という気持ちが沸き上がればそれで良いと思う。

旅とは単に事前に仕入れた知識を確認するための活動ではない。事前に仕入れた知識が全く役にたたないことを知るための活動なのだと思う。そして感覚から受ける新たなる何かを感じることが出来ればそれに越したことはない。だから、そのためには行きたい場所に、それが自分勝手なイメージからの出発であったとしても、ワクワクしながら辿り着くべき場所を目指すべきなのだと僕は思う。

※マチュピチュのことを例に出しながらも、日本にもまだまだ行きたい場所が多く残っている。日本の多様性は底が知れない。きっと日本の多様性を知ることが、逆に他国での多様性の理解に繋がる様にも思う。

2012/04/23

服のサイズ

体が大きかったので昔から着る服を選ぶのに苦労してきた。そういう苦労をしてきた人というのは根っこの部分で疎外感というか、人とは違う肉体を持っているという気持ちが強い様に思える。ただそれもある程度の年齢になり他の国の人々のことが見えてくると、例えばイギリスだったら僕の着れる服も沢山あるのにとか、そんなふうに考えるようになる。大げさに聞こえるかも知れないが、その結果、疎外感を土台にして他の国に目を向けるような、ある種のグローバルな視点も身についてくる。さらに洋服を造り売っているメーカの姿勢というのが美しい言葉を吐きながらも結局の所ビジネスでしかないこともわかってくる。

第一日本で売られている既製服は若く痩せている人(ある意味、虚弱児向け)を中心に考えられているのは間違いない。若者に媚を売るようなデザインにも辟易する。服装だけを捉えるとこの国は痩せている若者だけの国だ。ある程度の年齢になれば、あなたたちはこの色のこのスタイルで統一しなさいと言われているようにも思える。人に洋服を合わせるのではなく、既製品に人を合わせるとは本末転倒も良いところだ。でもその結果僕らは安く洋服を手に入れているのだからあまり文句も言えまいが。

インカ展

インカ展に行ってきた。と言ってもそれが目的ではなく、別目的で上野に行ったときについでに観たという程度。凄い人出で驚いた。中に入ると人の頭しか見えず何が何だかさっぱり。やはりインカは人気があるということか。あのインカ展に行った殆どの人は、きっとマチュピチュに行ってみたいと思ってるんだろうな。

クールビズ

今年も5月からクールビズとなるらしい、って5月はもうすぐ。毎年思うのだけど、クールビズの規範は男性の服装中心に書かれている。男性の服装とは結局のところ制服だということがそれだけでもわかる。

2012/04/22

クスノキ

午前中に近くの公園を散歩する。4月半ばを過ぎると若葉の青さが美しい。様々な緑が一本の樹木にも、そして木々の連なりの中にもある。これをどうやって表現すればよいのだろう。4月初めの大風により花が吹き飛ばされ裸になっていたコブシの大樹も新緑に覆われていた。近くによって眺めると脱皮し蝶になって羽を乾かしている様に開いたばかりの葉が連なっている。ケヤキはまるで自分たちの季節が来たと主張するかのように天に向かって葉を広げている。常緑の樹木にとってもこの季節は若葉の季節のようだ。特にクスノキは冬を越した濃い緑の葉のうえに重なるように若い葉が鮮やかな黄緑色で広げている。若葉が顔を出すと言うことは古い葉が落ちるということでもある。次の冬を乗り切る為の春の落葉。毎年変わることのない営みの中で、しかしそれぞれの葉にとっては今回だけの落葉が静かに行われている。今日は夕方から雨になるとのことだ。だからか朝から雲が厚い。青空であればもっとこの緑が日差しの中輝き空の青と相まってその美しさが際だっただろう。いやいやこの空模様だからこそ違った緑を見ることもできるのだとジョギングランナー達が大勢往来する公園でベンチに腰掛けて思う。

2012/04/21

二日続けて

翌日帰宅。無論仕事。仕事内容が変わるとこうも違うものなのか・・・
月曜日の会議のイメージがまだ造られていない。
でも家に帰ると仕事のことを忘れ、別の現実が姿を現す。

2012/04/19

今日帰宅時に

今日帰宅時の電車の中で思いついた言葉の数々がどうしても思い出せない。あれこれと思い返してみたが無駄だった。それはいつものことなのだが、今回は思いついた言葉がとても重要だったので悔しい。でも一度思いついた言葉だ、いずれ僕の中から浮かび上がるだろうとあきらめた。しかし言葉は何処から生まれてくるのだろう。もしくは何の再現なんだろう。言葉となる以前の何かを見つめることが出来れば、きっとそれは言葉にならないだろうけど、きっとそれがわかるのかもしれない。でもその時僕はどうやってそれを表すのだろう。

2012/04/18

ドアノー写真展 2回目

土曜日は出勤だった。夜になって帰るときにとても体調が悪くなった。お腹が重たく力が出ない。かといって下痢というわけでもなく、ただ鈍い痛みと重みをお腹に感じたのだった。やっとの思いで帰宅し、そのまま布団に倒れ込むように横になった。家人から「夕食は?」と聞かれ、「後で」と言ったきりそのまま眠ってしまった。

目が覚めたのは明け方4時頃だった。喉の渇きが強かったので起きて水を飲んだ。水を飲みながら起きる寸前に見た夢を思い出していた。とても嫌な夢だった。体中に疲れが残っていた。仕事には出たが僕にとっては何もない空白の一日のような気がした。そしてまた一日が始まる、僕はしばらく呆然として薄明かりの台所に立っていた。また水を飲んだ。そして頭についた何かを振り払うかのように首を振り再び布団に戻った。二度目の眠りから目が覚めたのは8時半頃だった。昨夜の調子の悪さはなくなっていたが、時限装置のように一定の時間が経つと爆発するような感覚が自分の中にあった。それで行動をとれずにパソコンを触り午前中を過ごした。

ただ一週間に一度はカメラを持って表に出ることを課していたこともあり、早めに家に戻れば大したことはあるまいと家を出た。それが午後の3時頃のこと。渋谷で下りて青山まで歩こうと思った。しかし自分でも気がついていたのは、漠然と街のスナップを撮ってはいたがそれが僕の撮りたい写真でもないということだった。僕にはドキュメンタリーは合わないと感じていたし、ドキュメンタリー写真の面白さがわからなかった。でもとりあえずはそれしかなかった。

渋谷で下りて青山方面に歩き始めたときに、唐突にドアノーの写真展に行ってみようと思い至った。前回はイライラ感がありろくに見てもいなかったし、少なくとも3回は見るつもりでもいたので、これから行ってみるのも良いだろうと思ったのだ。不思議と、肉体の不安定な状態を意識しながらも、心は穏やかであった。ドアノーの写真を一枚一枚丹念に見ることができそうだったし、もしかすればドアノーの精神までたどり着けそうな気もしていた。大げさではなく本当にそう思ったのだった。

恵比寿の東京写真美術館に着いたのは、途中でコーヒーを飲んだりしていたこともあり大体4時頃だった。僕は真っ直ぐにドアノー展が開催しているフロアに向かった。少し暗い階段を下りていくと昨晩見た夢のことを思い出した。丁度その夢の中でも僕は階段を下りていた。そしてその先で嫌な出来事に遭遇したのだった。現実には階段の先には写真展があるだけだったし嫌な思いもすることはなかった。ただ一瞬だがその夢がフラッシュバックして一種のデジャブのように思えたのも事実だった。

ドアノー写真展は今回も人で混んでいた。僕は気を取り直し当初の目論見通りに一枚一枚の写真と文章を丹念に読み始めた。しばらくはそれも続いた、でもそれも展示の中程までが限度だった。やはりドアノーの写真には見るものはなかった。観者として、僕はドアノーの写真を通り過ぎてしまったのか、それとも到達できなかったのか、それはわからない。でも飾られている写真に焦点が合わなかったのは事実だ。写真からは僕に何も語りかけてはくれなかった。何処にでもあるような写真。ありふれた退屈な写真。僕にとってはドアノーの写真とはそういう存在だった。それでも後半に展示されていたパリの風景を写したカラー写真群は面白かった。写真の発色がとても美しかった。それにモノクロとは違いパリという街がカラーに合っていた。同系色でまとめられた落ち着いた色の世界。東京に住む僕にとってそのことがとても新鮮に感じられたのだった。もしかすればドアノーにはカラー作品は少ないがかれはモノクロよりもカラー写真の方が合っていたのかも知れない。そんなことを思った。

何故ドアノーの写真に何も感じないのか。それは僕にとって一つの問題でもある。数多くの現代写真家の手になる写真を見てきた結果でその様に感じるようになったのか。でもそれだとドアノーだけに留まらず他の多くの写真家達に対しても同様のことが言えなければならない。僕は何人かの日本を含めてのドアノーと同世代の写真家達を思った。確かに、僕にとっては、昔の写真は現代から見ると表現の面白さという視点から少し欠けるように思える。そして、特にドキュメンタリー写真と言われるものはその傾向が強い様に思える。写真が写しているのは、カメラのシャッターを切ったその瞬間、つまり一言で言えば「今」なのだから、その写真を観る「今」との間の距離が大きければ面白みも共有できなくなる。その写真に、その写真の「今」と観ている「今」とを貫く何かがなければならない。その何かはおそらく人によって違うことだろう。そして僕はドアノーの写真の「今」と僕自身の「今」とを繋ぐ何もないというなのだろう。

昨夜の台所で感じたのはある種の寂しさだと思う。自分がこの世界にただ一人いることの寂しさ。体調の悪さから感じた一種の迷いのようなものだったかもしれないし、疲れから来るものだったかもしれない。でもその寂しさが日曜のうららかな春の日差しの中で僕に留まり続けたのもある。ドアノーの写真にはその僕の状態とシンクロすることはできなかった。

2012/04/16

カメラとは

カメラとは部屋のこと、部屋という空間のこと。そこには見えるものは何もない。ただ物理の作用が働くのみの場所。

2012/04/15

最近の大工道具

最近の大工道具ってIT化が進んでいるんだな。線引きはレーザーだし。作業している傍でしゃがみこんで使っている様子を眺めた。まるで子供だ。

2012/04/14

お雑煮

いまさらだけど、今日になって今年の正月にお雑煮を食べていなかったことに気がついた。あんなに好きなのに。お雑煮って正月に食べるのと他の時期に食べるのでは味が違うんだよな。早く来いお正月。

2012/04/13

戒め

人の関心は有限であると肝に銘ずること。会社での仕事でその有限な関心を使い切らないように注意すること。感性は大事だ。どんなことにも、特に詰まらぬこと、もしくは日常の中に驚くような出来事があり、それを感じられるような感性を磨くこと。会社での仕事は逆にその感性が鈍る危険性を持っていると認識し十分に注意すること。それでいて人へのいたわりの優しさを失わないこと。十分に注意すること。

新しい仕事

部署は変わらないのに全く新しい仕事をすることになった。部長が替わったことから端を発するこの変化はついこの間までの平穏を無くしてしまった。歳をとってからの変化はきついと以前によく聞いたが、そんなことはない。変化は最初は誰でもきついものだ。そう思うようにしているわけではなく、実際にそれが実感なのだ。わからいものはわからないという。変な言い訳はしない。それでいて新しいからということをいつまでも理由にしない。つまりはよく言われるような自然体という感覚でいること。歳を取ると言うことはそういう技術が身につくと言うことなのかも知れない。

2012/04/12

帰りに、満員電車の中で。

ミニストップのソフトでも帰りに買って帰ろ。電車の中で、信じられないほどの混み具合の中で、男女が隣でいちゃつく。そんな事帰ってからやれよ、もしくは俺から離れろよ、と内心毒づく。やっぱしソフトでも食べて頭冷やそ。

2012/04/11

サクラが散り始めた

会社近くの桜が散り始めた。慌ただしさの中、今年のサクラを少しも楽しんだという気がしない。散り急ぐなとの思いとは別に今夜は雨模様となった。明日になればサクラは散ってしまった後だろう。淡い桜色に染められた東京の街は思い返せば一瞬のことだった。それでもこの一瞬の風景を得たいためにサクラは植えられる。それにしてもサクラに永遠を感じるのは何故だろう。いわずもがなここでいうサクラとはソメイヨシノのことだ。特に散り始めにそれを感じる。散るには理由がある。そしておそらくサクラは理由など必要なく花びらを散らすのだ。受精した花は緑色の実を付ける。それはやがて熟し赤褐色の実となり鴉などに食べられてしまう。鴉などの胃に消化されても種だけは残り続けるだろう。いずれは種は地面に鳥たちの糞尿と共にまかれることになる。でもソメイヨシノの種は発芽することはない。それが人工の故なのだが、そのことをソメイヨシノは知っているのだろうか。いや擬人化するのはやめよう。自身の種子から繁栄することはないが、人間達はせっせとソメイヨシノを繁殖させているのではないか。人間の力を利用することによる繁栄。それも確かなソメイヨシノの戦略とも言える。そしてその戦略の戦術として散り急ぐ花びらがあるように思える。そこに永遠性を感じる僕のような者のために。

2012/04/10

ピンクのシャツ

初めてネクタイをしたのはいつだったのか、今となっては記憶がまったくない。でも何故かピンク色のシャツを初めて着たときのことは覚えている。VAN系列のGANTというブランドのシャツだった。オックスフォード地のボタンダウン。色は少し濃いめのピンクだった。そのシャツをネイビーブレザーに合わせようと買ったのだった。大学時代の頃だ。現在よりも価格は安いといえ学生だから何枚も一度に買えるはずはない。その一枚にピンク色を選んだこと自体僕にとっては大変なことだった。そしてそれが僕が生まれて初めてのピンクでもあった。

たかが洋服の話だ。どんな洋服を着ても中身が変わるわけでもない。そんなことは知っている。でもその時の僕は、生まれて初めてのピンクのシャツを着てどんなことでも出来るような気持ちになったのも事実なのだ。僕の世界の中にピンクのシャツを着るということが加わったそれだけなのに、何か大きく世界が変わったように僕には思えたのだった。そういう事ってあると思わないか。

NHK コズミックフロント「私たちは火星人!?」

米カリフォルニア工科大学のカーシュビンク教授は私たち地球生命は火星から来たとする仮説を展開している。おおよそ40億年前、火星には海と大陸があり生命が誕生する条件が揃っていた。逆に地球は海に覆われ大陸はなく生命が生まれる条件は殆どなかったという。それでは地球生命は何処で生まれたというのだろう。それをカーシュビンク教授は火星だと言うのだ。仮に火星だとして、地球にまで到来するには三つのハードルがある。一つ目は地球にかかる時間。二つ目は宇宙に飛び交う放射線の問題。そして三つ目が地球に突入する際に発生する熱である。番組ではそれら三つの壁が致命的ではないと告げる。カーシュビンク教授は番組最後でこう語る。「私たちは一体どこから来たのか。その謎を知りたい」と。確かにカーシュビンク教授は正しいのかも知れない。私たち地球生命はもしかすれば火星から隕石に乗って飛来したのかも知れない。それは突飛なことでも何でもない。生命は常に生きる道を模索する。植物の種子のようなものだ。南太平洋の孤島であっても生命はそこに辿り着きそして彼らの楽園を形成する。この説は確かに聞けばわくわくするし、第一面白い。でも、と思うのだ。

生命の増殖のしかたを逆にたどってみる。雌雄別々の生殖、雌雄同体での生殖、細胞分裂、化学反応。僕らの繋がりをたどっていけば大雑把にこのような段階を踏むのだと思う。そして大本にたどれば生命が何処からきたのかがわかるという考え。私は父と母の生殖行為の結果であり、その父と母も彼らの親たちの生殖行為の結果で、それらが面々と繋がっていくという考え。ある意味セックス至上主義的な考えのようなものだ。それが結果として不思議のように扱われるが、不思議なのはそんなことではない。多くの方々が言うところの、親がいて、そのまた親がいてという繋がりの果てに自分がいることの不思議さは、私という意識を持つ自分がここにいることの不思議さなのだと思う。問題なのは、どこかで二つの別々の問題が、言葉として一つになってしまっていることなのだ。

私たちはどこから来たのかと、私はどこから来たのかは問題として何もかもが違う。私たちはどこから来たのかの問題設定における回答はカーシュビンク教授の仮説で成り立つが、私の場合はそうではない。僕は、彼の仮説はとても面白いが生命誕生の場所が火星であっても地球であっても別に何処でも良いとさえ思う。


ドアノー写真展1回目

東京写真美術館にて開催しているドアノー回顧展に行ってきた。おそらく何回か行くことになりそうな回顧展であるが、ドアノーに自分が何を得たいのかがよくわからない。今となっては普通の写真にしか見えない。それでも一回見ただけでは何もわからないのかもしれない。では何回鑑賞すればドアノーの写真がわかるのだろうか。結局のところ何らかの意味を無理矢理に見つけて一人合点をするだけではなかろうか。そんなことを思いながら混雑した館内を歩き回る。結局の所、じっくりと写真を観るどころではない。僕の心は落ち着きを失い、この場を早く立ち去りたい気持ちに駆られたのだ。さらに言えば写真を美術館に飾られている絵画のように鑑賞することに違和感を持っている自分に気がついた。以前からその様な気持ちを多少持っているのはわかっていたがドアノーの写真には特に強くそれを感じた。これらの写真は美術館には似合わない。僕はそう思ったのだ。美術館という一つの権威から与えられたものを見に行くという感覚もその思いに影響を与えているのかも知れない。確かにドアノーのキスの写真は好きだ。それが演出であることを知ってからは余計に好きになった。そうなのだこの感覚は、この落ち着きのなさは、美術館に写真を観る際に感じるいつものことなのだ。今回だけが問題ではないのだ。おそらく二回三回と見に行く毎にその感覚は薄れて行くに違いない。そうそれもいつものこと。

2012/04/09

Vサイン

何故多くの人は写真に写る際にVサインをするのだろう?あれは何かのおまじないか。それとも写るさいの決まりなのか。未だに全然わからない。

2012/04/08

逃走

逃げ切れるものなど気にすることもない。でも何が逃げ切れるものかを僕は知らない。現実からは逃げられないと言うが、現実はイデオロギーなのだから、逃げ切れないという観念を人に持たせているだけだ。逃げ切れないものはそれではない。自分自身?それは自分が誰なのかを知っている者の言葉だろう。それを知らないが故の人間ではないのだろうか。

2012/04/07

友と話す

藤沢に住んでいる友人と久しぶりに話した。彼は最近iPhoneを購入しその扱い方に苦慮していた。それでわからぬことがあると僕を頼り何回か質問してきた。今回は電話だけではどうしようもなく実際にあって対応したというわけだ。だからといってiPhoneだけのことを話しているわけではない。それ以上にバイクの話が多かった。聞くところによると最近BMWバイクの価格が下落しているらしい。一時は高嶺の花だったKシリーズは特にその傾向が著しいらしく、彼はiPhoneでネットオークションのサイトを開き現在の価格を教えてくれた。確かに信じられないほど下落している。十数年前のバイクであるがBMWのエンジンであれば問題はない。これは狙い目じゃないかとお互いが頷くが、かといって二人とも買う気持ちを持ったというわけでもない。バイクというのは趣味の世界だからそれだけではダメなのだ。そのバイクに乗りたいと熱烈な強い気持ちがないと難しい。だからライダーは今まで乗ってきたバイクを事細かく覚えているものだ。あのバイク、このバイク。そして今のバイクと僕も思い出す。それは停まっている姿では勿論ない。どこか旅先の風景と結びついて走っている姿なのだ。バイクに乗りたいという気持ちと、何処か遠くに行きたいという気持ちは僕にとって同じなのである。もっと遠くへという気持ち。彼と話をすると以前にあれほど強く持っていたその気持ちが疼くのがわかる。ふと外を見ると何と気持ちの良いバイク日和のことだろう。午前中は僕は近くの公園の桜の写真を無我夢中で撮っていた。その気持ちがまだ収まり欠けてもいない春の午後のことである。空を見て風を感じながら桜の下を走るのを想像した。

桜を撮る

桜というのは写真にとるのが難しい、と僕は思う。おそらく桜に対するイメージが実際よりも先行しているのだ。だからどんなに美しい写真が撮れたとしても、それは最高ではない。脇目も触れずに無我夢中で桜を撮り続け一万回ほどシャッターを切ったら幸運な偶然が重なり一枚ぐらいはイメージ通りの桜が撮れるかも知れない。かといってそれを期待してカメラのファインダーから桜を見続けるのでもない。シャッターを切るその瞬間、僕の心に浮かぶのはイメージの桜なのだ。だから写真として桜を撮れなくても常に僕は自分のイメージの桜を撮り続けている。逆に言えば、シャッターを切るという動作は写真に常に先行している限り僕は一時的にせよ理想の桜の写真を撮り続けているということでもある。

くそおやじ

仕事の打ち合わせである男性の発言にむかむかした。「それはお前の仕事だろ!」と喉まで出かかった。でも相手はそんな風に考えている様子はなく問題をそらす。そんな相手に関わり合う必要もない。早々に打ち合わせを切り上げたが、席についてもムカムカした気持ちは収まらない。気がつくと友へのインスタントメッセージで「このくそおやじ!!」と書いて送信ボタンを押していた。

くそおやじと書いた横には何々部署の某と書いたから友は誰のことを言っているのかわかったようだ。同意の言葉が書かれたメッセージが戻ってきた。それで胸のムカムカ感が多少和らぐ。でも考えてみれば、メッセージを送った友よりも、くそおやじと称した男性の方が年齢的に僕は近い。よく人が(特に若い人が)ある程度の年齢の男性に向かって「くそおやじ」と呼ぶ感覚がこんな感じなのかと逆に知った。

くそおやじは当たり前だが男性に向けられた言葉だ。では「くそおやじ」に対応する女性に向けられた言葉はなんだろうかと思った。でも対応する言葉が思い浮かばない。「くそばばあ」がすぐに思いついたが、それに対応する男性への言葉はやはり「くそじじい」だろう。あと「くそ」がつく言葉として。「くそがき」、「くそやろう」くらいだろうか。でもこれらもどちらかというと男性を想像してしまう。

「くそばばあ」しかないのだろうか。でも「ばばあ」では年齢的にいきすぎている。やはり女性に向けてだから少ないのかも知れない。そんな詰まらぬことをあれこれと考えていたら、もうすっかりとムカムカ感は消えていた。

2012/04/05

EOS 5D Mark3

極力というか絶対にカタログとか評価記事とかMark3に関わる記事は見ないし聞かない。無関心を装っている。見ると、もしくは触ると欲しくなる、それは間違いない。

2012/04/04

おそらく僕は

おそらく僕は何に対しても意味を求めているのだ。意味の枠組みの固定という牢獄に入りたがっているのだ。その牢獄には「信念」とネームプレートがぶら下がっている。おそらくその牢獄はとても心地いいことだろう。

2012/04/03

全てのことには

「全てのことには意味があると信じている」そう語る友に僕は思わず問いかける。本当にそうなの?それともそれは願い?

でもそんな問いは本当はどうでもいいことなのかもしれない。なぜなら誰もが納得できる明確な回答をもっていないから。全ての事には意味がある、それは直観であり、そして願いでもあるのだ。

僕らは意味を求める稀有な動物なのだ。おそらくそんな動物は人間だけだろう。だから意味を求める事は人間の条件でもあると言えるかもしれない。 僕も全ての事には意味があるとどこかで思っている。でもその「意味」は人間の言葉では説明する事ができないとも思っている。きっと言葉にはそれを語るには何かが足りない。だから人はその為に物語る事しかできない。

2012/04/01

東京スカイツリーがGoogleに買収された

Googleが東京スカイツリーを買収したと発表した。
東京スカイツリーは5月22日の開業に向けて現在予約を受け付けているが、
その直前の発表に押上商店街の動揺が拡がっている。

Googleによれば、2年ほど前からGoogleから東京スカイツリーの配色を
Googleのロゴカラーに塗り分けて欲しいと交渉していたが、
東京スカイツリー側は日本の法律から困難であることを理由に拒否していた為、
買収に踏み切ったとのことである。

裏では両国政府間の激しい応酬もあったと噂されているが詳細は不明である。

「これで東京の空にGoogleのロゴカラーを浮かび上がらせることが出来る」
とGoogle側からコメントが発表された。

東京スカイツリーからのコメントは発表されていない。

なお、買収金額は発表されていないが「USOドル」で支払われるとのことである。

服装の話

女性の服装が男性から多くのものを取り入れているように、男性の服装も女性から多くを取り入れるようになっている。例えばレギンズは普通に男性にも見られるようになった。彼らの服装は概ねショートパンツにレギンズの組み合わせで、レギンズの色は黒が殆ど。でも男性のレギンズはすぐに売り切れになるので、おそらく彼らの多くは女性ものを着ているように思う。以前に店で男性用のレギンズがないかを確認したら女性ものを勧められた。僕の体格を見て男性の店員なら女性ものを勧めはしない。女性は男性の体格、例えば骨格筋肉の付き方などは知らないのでないかとその時に思った。他に話として出たのが七分袖もしくは七分丈のシャツやパンツ。七分丈のものは女性でも着ることが出来るほど柄が可愛い。僕はおそらく着ないと思うが今年は七分丈のものを着ている人を多く見そうだ。女性の男性観はある程度社会の価値観によって固定化されている。だから男性同士で服装の話をしているとは思ってもいないだろう。でも僕に限って言えば、高校時代から友人間で服装の話をすることは多かった。中には原理主義的な奴もいて、そういう奴らはボタンダウンシャツとかブレザーの細かな仕様はかくあるべしと語っていた。その時に得た知識は今でも忘れることはない。

柴田淳さんの「ハーブティー」歌詞

「それはあなたの作り話

嘘で固めた大きなプライド

素直に信じてあげてたら

あなた どこか虚しそうなの

 

その次はあなたのヒストリー

今までの過ち語ってゆく

全てを認めてあげてたら

あなた 私がいらなくなった

 

愛されたいのに

どうすればあなたを振り向かせられる?

愛してるだけなのに

あなたがイイ人になるみたい

 

危険な瞳を逸らさずに

あなたの香りで眠らせて」

 

この歌詞を読むだけで柴田さんは相当にダメンズ好みだと言うことがわかる。
もっと正確に言えば イイ人はいらないのだ。そしてイイ男は危険な瞳を持っている。

でも柴田さんに告げたいのは以下の二つだ。
1.男の8割以上はダメンズである。
2.ダメンズの特別な存在になった女はダメンズを普通のダメ男に変えてしまう。

男にとって女が謎であるように、女にとっても男は謎のようだ。

 

 

 

2012/03/31

「労働」と「仕事」

休日出勤をした。工事立会いだったので一旦問題があり連絡がくれば早々に現場に行ける距離に居続ける必要があったが、たまたま会社の近くだったのでいつもの机に座り仕事をする。待機のような状態でも机に座れば仕事はきりがないほどある。でも、と思う。この山ほどの仕事は成果から見ると僕でなくても良い。会社での仕事は概していうと成果物からの視点で見れば一様である。成果に至る過程は個人の持っているものに委ねられるが結果として
の成果は変わり映えはしない。それに僕がいなくても誰でもできる。それが重要であればあるほどバックアップは用意されているし用意されるべきでもある。

その人しかできない仕事、その人がいなければ成り立たない仕事を考えてみる。無医村に赴任したたった一人の医者の医療、技能が卓越した職人が造りだすもの、芸術家の造りだすアート、そのように考えていくと「労働」と「仕事」の違いが明確になっていく。あくまでも僕にとってだが。「労働」を軽んじているわけでは決してない。成果が一様な会社の仕事=労働は暮らしてゆくために必要なことだし、実際に僕も含めて極めて多くの人たちは生
きるために労働する。

問題なのは「労働」と「仕事」のヒエラルキーを明示することではなく(そんなものはない)、そうではなくて現代において「仕事」の領分が「労働」に取って代わられていることにあると僕は思う。大量生産そして消費されるミュージシャン・俳優・芸人もしくはアイドルたち、彼ら彼女らの一部は自分たちのことをアーティストと自称している。クリエイティブもしくはデザイナーは広い意味でつかわれることはなく、単に職業の一つの名称になっている。(考えてみれば全てカタカナで呼ばれる人たちだ)彼らの共通点を一つあげるとすれば、彼らが生産する成果物は会社での成果物と同様に寿命が短いという事だ。

これは一体何を意味するのだろう。

2012/03/29

冬になると黒とかグレー系が多くなる。最近特に冬は黒を着ている人が多い。昨年コートを買いに行ったときに、店員から最初になくなる色が黒だと言われ勧められた。初めから黒を買うつもりがなかったので「黒はいいです」と言ったら、「黒は若い人が着ているから抵抗がありますよね」等ととんちんかんな答えが返ってきて思わず苦笑いをした。いつから黒が若い人の色になったのだろう。でもそういう眼で見てみると確かに若い人の多くは黒を着ている。僕の時代はネイビーだった。ネイビーが男性の洋装の基本色だった。まずはそこからズボンだとかの他の洋服を合わせていった。黒だと他の色を合わせる楽しみはおそらく半減するのではなかろうかと余計な心配をする。また黒は色ではないと僕は教わった。モノトーンでの色あわせはシックになる。でも色を楽しむという感覚は薄いように思える。それに僕自身モノトーンの群衆に見飽きてしまったのある。4月になればもっと多くの色が溢れてることだろう。そう期待しながら春を待ちわびている、と思っていたら来週は既に4月。多くの色の世界がまずは人間界ではなく自然界から溢れ出す。

空気感

会社の同僚が長い休暇から戻ってきた。タイに行ってきたのだという。タイに行ったことがない僕は思わず聞く「タイの空気感はどんなのですか」。実を言えばこの質問に期待通りの回答を得られたことは殆どない。大概の回答は、一瞬僕の問いに戸惑いながらも乾燥しているとか湿気が多いとか温度が高い低いとかそんな感じとなる。聞き方が悪いのだと思うが、聞きたいことに適切な日本語が見つからない。その中でも「空気感」という造語に近いこの言葉が一番適当なのである。案の定同僚も「乾燥している」との答えが返ってきた。

なんだろう現代において異国に行く意味とは。その土地に住む人々との交流、確かにそうだ。視覚情報はネットを検索すればいくらでも手に入る。だから視覚からのみ得られる情報でないことは確かだろう。その場所に行かなければわからないこと、全身に感じる空気の流れ、匂い、光(視覚から得られる光ではなく触感で感じる光のことだ)、街のざわめき、などなど。それらの全ての情報を通して感じる何か。僕にとって空気感とはそういう事を言うのである。

誰でも異国に行けば全身の感覚は通常よりも鋭くなる。だから同僚もその空気感を得ているはずである。問題なのはその空気感を得ることは長くは続かないと言うことだ。人間はすぐに異国の空気感になじむ。異国と行っても同じ人間の術の世界でもある。なじまないわけがない。そしてなじんだ後、視覚が再び越権的な強さを取り戻すのである。後はもう惰性なのかも知れない。どこかのパンフレットに載っている景色を確認するだけの。

旅の目的

大事なのは触覚を研ぎ澄ますことだ。嗅覚と聴覚を磨き、結果的に8割以上と言われる視覚からの情報を出来るだけ少なくすること。

2012/03/28

久しぶりに

久しぶりに友達と会うことになりそうだ。その友達とは数年あっていない。昨年から再開したメールのやりとりで久しぶりに会いたいと書いたら春になったら会っても良いと返事が来た。でも最近は体調がよくないらしい。彼女は乳癌で腫瘍があった乳房を全摘出手術をしている。手術後は放射線治療だとか投薬だとかで、その治療の都度具合が悪くなる日々が続いているらしい。ただ幸いなことに半年ごとの検査では再発はないとのことだった。

彼女と最後にあったのは全摘出手術をすることが決まった時だった。実を言えば、その時に僕は彼女の全摘出する乳房を触った。おそらく彼女自身以外では最後にその乳房を触った最後の人かも知れない。柔らかくとても素敵な感触の乳房だった。この乳房に腫瘍があるとは僕にはとても思えなかった。誤解をする方もいるかもしれないので言えば、僕らは最初から最後まで友人関係だった。会えばお互いの出来事を話し合った。だから僕は彼女の生活のこととか、特にご主人のこととか、子供たちのこととか、彼女が好きだった人のこととか、その人との別れのこととか、多くの彼女の身に起きたことを自分のことのように知っている。また出会えば同じようにお茶でも飲みながら話をすることになるのだろう。

何故か理由は知らないが、ある意味僕は彼女に選ばれたのだと思う。彼女自身の存在の証として。誰かが言っていたが、人の出会いは一期一会なのだそうだ。その本当の意味をその人が知っているかはわからない。でもある程度の年齢を重ねれば、また彼女と僕のような状況になれば、その言葉は単なる言葉だけではなく実感が伴って感じると言うよりはまさしくそのままの情況として在るように思うのだ。

2012/03/27

くじけそうな日常の中で

くじけそうな日々の営みの中で、誰も会社の評価を拠り所にしようなどとは思わない。でもなんて多くの人が実際にはそれを拠り所にしているのだろう。

2012/03/24

「着信あり」

映画「着信あり」をすぐに見ることができる。でも見たくはない。でも見てみたい。いや間違いなく見ない。

「写真」と「光画」

江戸末期に旅行ブームが起きた。今でいう旅行代理店とか旅先の情報を提供する業者も現れた。ただ旅行と言っても現在とは違いある意味命がけでもある。だから再び家に戻れない状況も想定でき、それゆえか旅行に出かける人々は自分の似顔絵を描いて家に残した。その似顔絵を描く専門の絵師もいて、彼らは自分たちを写真師と言っていた。「写真」は中国から伝わった絵の作法の事で「写生」と同じような意味だった。でも僕は似顔絵師自ら写真師と称したように、「写生」とはやはり違う使われ方をしていたと思う。「写生」が自然もしくは静物などを対象にし、「写真」は主に人物を対象にしているように思うのだ。だから後にカメラという機械を使って撮る「フォトグラフ」が西洋から伝わったとき、「写真師」が現代の言うところの「写真家」になっていったのは自然の事だった。

「写真」とう言葉には、「真」という言葉が入っている。でもここでいう「真」とは「画龍点晴」のように絵に魂を込めるようなそんな意味に近いように思う。だから「真」という何か絶対的なもしくは普遍的な何かの存在を「写真」の「真」に求めるべきではないと考える。それにそのような「真」は明治になり西洋哲学が入ってきてからの思想のように思えるのだ。

おそらく初めて「写真」を観た人はとてつもなく驚いたのではないだろうか。そこにはまるで生きているように人がそのまま写っているのだから。似ているとかそういう次元ではなく魂そのものが写真に封印されているような感覚。その点から見ても「写真」と名付けられたとも言えると思うのだ。

「光画」と写真を名付けたのは野島康三さん等が発行した写真雑誌からだと思う。時代は昭和初期、写真史ではピクトリアリズムからストレート写真への転換期でもある。「光画」という呼び名は「写真」よりも適切かという問いはさして問題ではない。それに「光画」は単に「フォトグラフ」を直訳しただけとも言えるので、その呼び名が何か写真論的な主張があったとは思いづらい。僕にとってその呼び名に関心を持つのは、「光画」という呼び名には「写真」への驚きが欠けているように思えることだ。100年も経たずに当初の写真への驚きは薄れ、かつ西洋的思想を基に写真の意味が再構築されている点である。言うなれば「光画」という名称で現代の「写真」と同じ意味内容を持つにいたったと思う。その結果得たものは写真への様々な技法であり、無くしたものは「写真」への驚きに相違ない。

写真とは観る者にとっての驚きである

写真とは観る者にとっての驚きである。写真には撮る人(撮影者)、撮られる対象(対象物)そしてその写真を観る者(観者)の三者が登場する。場合によって三者のうち真っ先に排除されるのは観者となる。例えば撮った写真を現像することなくフィルムのまま放置する場合とか。でも観者なくして写真の意味は半減するだろう。少なくとも現像されていないものは写真以前の何かでしかない。写真とは観るものであり、観てもらうものなのだ。観者の存在が写真にとって大きな存在にも関わらず観者の言葉は意外に少ない。写真は撮影者である「写真家」の言葉が最も重き扱いを受けているようだ。でもそれでは片手落ちというものだろう。だからあえて言うのだ。写真とは観る者にとっての驚きであると。でもこの「驚き」という感覚がどういうものなのか伝えるのはとても難しいと僕は思う。

ウォークマン・iPod

ウォークマン・iPodなどのポータブルプレイヤーは様々な技術の進化の結果とも言えるが、それがもたらされた影響は、屋外に自分の好きな音楽を持ち出すという表層的なことではなく、音楽が聴覚主体から視覚主体に移り変わったと言うことのように思える。今では音楽は眼を閉じて聴くものではなく、目を開いて見るものになった。それは景色の至る所に結びついて現れる。

眼鏡

度の少し強い眼鏡をかけた。眼が疲れ世界が歪んで見えた。眼鏡を外しても世界は歪んだままだった。

2012/03/23

「象の背中」という映画

「象の背中」という映画がある。役所広司さん主演のある男性の死に臨む姿を描いたいたって真面目な作品だ。でもこれはいかんと思う。僕の特技の一つに見る映画全てが面白く感じることができる、がある。時折映画評を見て酷評される映画があるが、なぜ映画に対し批評的な眼差しを向けることが出来るのか実を言うとわからない。きっと僕は「死霊の盆踊り」を見ても「尻怪獣アスラ」を見てもきっと面白いと言うに違いない。ある意味、誰も言ってはくれないが、僕は映画に悟りの境地を得ているのかもしれない。誰もそんなもの望んじゃいないだろうけど。

その僕をして「像の背中」はいかんと思う。どこがいかんのか。それは肝心な主人公の人間としての深みが感じられないところだ。いや、得てして現実の場合はそんなものだろう、人なんて他人のことはわからない。と、弁護をする方もいらっしゃるに違いない。でも是は映画である。映画だからこそそこらへんはきちんと描いて欲しかった。でも悟った僕はいかん部分ではなく良いと感じた部分を書きたいと思うのだ。

あるサラリーマンが不治の病を宣告される。六ヶ月の命である。でも彼はいつも通りの生活をすることに決める。そして過去に出会った人たちを訪ねていく。まぁそれは良い。でもそうなった背景には主人公の叔母さん(お姉さん?)の死に様がそこにある。彼が息子に自分の病名と死期を語るときに、息子は治療するようにと願いそれを告げる。その時にその叔母さんのことが語られる。「お前は叔母さんの死に様を見ただろう。俺はああいう風に死にたくはない」これが全ての発端でもある。

つまりはこの叔母さんの死に様への拒否が彼の死に様への選択となっている。この叔母さんのことはこの時の一回だけで、勿論叔母さんの姿は登場しない。でもこの叔母さんはずっとこの映画の底流に横たわり続けている。叔母さんの死に様は病院で治療に専念しそして亡くなったということなのだろう。それは彼の選択と逆の選択であったと言うことだ。あとから主人公は別の場所でこう語る。「死ぬことを考えていたら、どう生きるかを考えていた」。どう生きるか。それが主人公の目線で叔母さんの死に様を拒否した結果に得たことなのだろう。でもそれほどに叔母さんの死に様は拒否されるべきものなのだろうか。でも映画はこの答えに対し最後まで答えることはない。僕はこの影の主人公とも言える叔母さんのことが気になった。最後まで生きようとした、生きると言うことの意味を主人公とは違う意味で捉えていたとは決して思えない、ただ最後まで快復を信じ願っただろうこの叔母さんのことを。言うなれば主人公は最後の最後まで身勝手なのである。行動が身勝手なのではなく、他者に対する眼差しが身勝手なのだ。

しまった!良い部分を書くのであった。実を言うとこの映画は脇役達が素晴らしかった。高校時代の野球部の仲間であった高橋克美さんもよかったが、やはり素晴らしかったのは主人公の会社の援助が受けられずに倒産した会社の元社長役の笹野高史さんだろう。主人公が、元社長の会社が倒産することを知っていたが、そのことを隠して接していたと告白し謝るシーン。高野さん扮する元社長は謝る主人公に近寄り、鬼気迫る表情で主人公を蹴る。蹴って蹴って最後に主人公に告げる「藤山さん、あなたが知っていることを知ってましたよ」

主人公は妻に治療をしてもらいながら語る。「(暴力をふるうことで俺を)許してくれたんだよ」と。でもあの時の高野さんの演技にはそんなこと微塵も感じられなかった。彼は怒りそして主人公を呪っていたとしか見えなかった。それだけの迫力と異様さが高野さんの演技にはあった。あの主人公と元社長の感情のすれ違い(と見えた)は、逆に主人公の生き様(死に様ではなく)を薄いと言う意味で的確に表していたのではなかろうか。

結局のところ、この映画は男にとっての一つの憧れを描いているように思える。原作(秋元康さん)が中高年層に大きな共感と感動をもたらせたとあるが、きっとその多くは男性であったに違いない。

 

2012/03/22

職場での食堂にて

職場での食堂での話。僕の隣の席で若い男女が恋話をしていた。

「ちょっとネガティブな方向が強いというのかな。こんな私で良いの、もし他に好きな人が出来たらそっちにいってもいいからね、とか言うんだよね。」と男が自分の彼女のことを話す。
「そんな女性って一定の割合でいるんだよね。自分に自信がないというのか、そんな事ないよって言って欲しいのを待っているというか。」と女。
「でも僕は相手に何かを望んだことってないんだよね。あっ、一つあったか。もう少し身だしなみに気を遣ってって言ったことがある。それから少し気を遣うようになったけどね。」

僕はそんな事も言ったことがない。相手の趣味に口を挟むなんて全然思わない。好きって、その趣味とか感性もひっくるめてなんじゃないのかい!と思わず突っ込みたくなった。

怖かった話

昔バイクで日本海まで海見たさに走ったことがある。これはその時の話だ。日本海から帰路についたとき丁度夕暮れで山道に入ったときにはすっかりと夜になっていた。僕は山道の連続するカーブを慎重に下ったり上ったりしていた。

その時に突然にバイクのライトの明かりが切れた。僕は慌ててバイクを止めた。下向きのライトの電球が切れたらしいが山道の途中でもあり他に車も人家もないことから僕はライトを上向きにして走行することに決めた。しばらく走っていると先に何か青色の光の点が見えた。人家も何もない山道だから僕はその光る点がなんだろうかと思ったが、近くによるとそれは信号だった。そして僕が近寄ると急に信号は赤に変わった。

繰り返し言うが人家もなにもない山道である。しかも当たり前のように車も通らないし、ここまでの道のりで車とすれ違ったこともなかった。信号は何もない場所にただそこにあったのだ。僕は信号が赤だったからバイクを停止線の手前で止めた。馬鹿らしい話だ、周囲に何もなければそのまま走り抜けても何の問題もない。でも習性というのか、教育の賜というのか、赤信号だから僕はバイクを止めてしまった。なぜこんなところに信号機があるのかという疑問さえ持たずに。

信号機はなかなか青に変わらなかった。周囲は夜の闇の中である。それで僕は気晴らしに周りを見渡した。すると左側に空き地があるのがわかった。そこには一台の古びたバスが止まっていた。そしてバスの横には何故だかわからないが電話ボックスがあった。その電話ボックスは薄明るい照明で中が照らされていた。人気のない山道に信号と電話ボックス。もしかすればここは山道と勝手に思っていたがそれは誤りで何処かの村の近くなのかも知れない、と僕は思った。そこでさらに人家がないか確認するために周囲を見渡した。でもそれは無駄だった。人家を見つけることは出来なかった。しかし僕が止まった場所、つまりは信号機の側には少し広めの沼地があることがわかった。

何故わかったかというと水の音が聞こえたからだ。それは小さな音で何かが飛び込む音だった。丁度魚が水面を飛び跳ねてまた水に入るときの音のような。何となく不安がよぎったのはその時だった。なんというか背筋から首筋にいたり急に凍るような感じが走った。なぜだか僕は広場の古びたバスの隣にある電話ボックスが気になった。そして視線をそこにうつすとそこにはうっすらと人影が見えた。そして突然に今度はまさしく大きな音を立てて水の中に何かが飛び込む音が聞こえた。もう僕には何が何だかわからなかったが恐怖心で一杯になった。この場に居たくはなかった。

でもまだ信号は赤である。でもそんなこと言っていられなかった。で、バイクのアクセルを開いた。でも急にアクセルを開いたものだからエンジンが止まってしまった。何かが僕に近づいてくる気配がした。僕は何度もエンジンをかけたが動かない。その何かは僕の背後まで来たように思えた。僕は叫び声を喉まで出かかったが、その時エンジンがかかった。あとは後ろを振り返らずにそのまま全速力で走り去った。

今から思うと全ては僕の妄想だったのかも知れない。でも不思議なことは世の中にいくらでもおこるし、特に山の中ではそれは多いとも思うのだ。

2012/03/21

映画「今度は愛妻家」

2010年1月に公開した映画「今度は愛妻家」で主人公である豊川悦司さん扮する写真家が愛用していたカメラはハッセルブラッドだった。と言っても一回しか観ていないし、その一回もずいぶんと前のことだから誤っているかも知れない。この映画を見終わったときに疑問に思えたのは、無論それは映画に対する批判ではなく単なる写真好きの病気とも言える疑問なのだが、なぜ主人公は写真家の設定なのかと、何故使っているカメラはハッセルブラッドなのか、と言うことだった。

ハッセルブラッドであるのは、おそらく現在でもスタジオカメラマンの多くが使っているから、が適切な回答なのかも知れない。でもこの映画でハッセルブラッドが使われたのは別の理由もあるようにも思えるのだ。思っていることを結論から言うと、それはハッセルブラッドで写真を撮る場合、写真家は被写体である妻を撮る際に視線を下に向けるということだ。それは豊川悦司さん扮する写真家と彼の妻との関係を表していた。彼は妻を正面に見つめ対応することはなかった。

彼は自分の妻が亡くなってから写真を撮れなくなっていた。しかし妻の幻影は彼に自分の写真を撮ることを望んでいた。写真は目の前にないものを撮ることはできない。だからといって写真が真実を写しているとは全く思わないが、少なくとも写真に写るものはこの世界に在るものだけなのだ。だから写真家が幻影の妻の写真を撮るのをためらったのは理解できる。彼には見える妻の姿が写真には写っていないことを認めるのが嫌だったのだ。

最後に幻影の妻を写真に撮るときは、やはりハッセルブラッドだった。そしえ写真家は視線をハッセルブラッドのファインダー、つまり視線を下に向け、妻の写真を撮る。是は記憶違いかも知れないが、最後に彼は自分の助手にこのハッセルブラッドを譲る。間違っていなければこの行為はとても象徴的なことだと思う。かれが助手に渡したのはカメラというものではない。それ以前に彼の人と人との今までの関わり方を変えようと思ったのだ。

しかし豊川悦司さんはこの映画の写真家のようにどうしようもない男を演じるのが上手い。そして多くの人が知っているように殆どの男はこの写真家のようにどうしようもないのだ。

 

先だっての日曜日

先だっての日曜日、僕は渋谷から新宿まで歩いた。途中のフレッシュネスバーガーでオレンジティーを飲む。テラスに座り柑橘系の甘酸っぱい香りを大きく吸い込みながら煙草を吹かす。そして何を考えるまでもなくただ通りを眺める。夜と昼の狭間。境界線など何もなく、しかし確実に夜の予感を感じさせる時間。空は灰色で時折雨が降り落ちる、かといって本降りになる様子もない。風は穏やかで、そのせいかこの景色で感じられるほどは寒くはない。

僕が今この時間にここにいることを家人は知ることはない、とその時に思った。ましてや僕が今何を思っているかも。でもそれは家にいても同じことかもしれない。それに僕自身も家人の心を知るよしもないのだ。それは哀しいことなのだろうかと少し思う。その時、「その時」という言葉を使うこと自体僕にとっては正確ではない。時間は流れていなかったし、仮に流れていたとしても陽のうつろいとは全く別の次元でバラバラのものとしてそれは存在していた。僕は目をつぶる。僕が感じたことは言葉に出来ず、行動したいことに手足は動かず、僕が見たいものはなにも見ることはない、と僕は感じた。虚ろな機械としての身体の牢獄の中で僕はただそこに在るだけだった。

2012/03/19

ぶれない

その場に留まり続けることが「ぶれない」ということであれば、僕はきっとぶれることはない。ただその場に留まり続けても僕は随分と遠くにきてしまったと思うのだ。その意味で僕はきっとぶれ続けている。

2012/03/18

吉本隆明さん

吉本さんが16日に亡くなられていたのか。日曜の今頃になり何気に見た新聞の見出しでそのことがわかった。わかったとたんに何か不意打ちをくらったような感覚を受けたし、そのことが僕にとっては意外だった。そういえば彼の著作で購入し未読の書籍が数冊在あるのを思い出す。

ロック

「音楽は一つ」も「音楽には様々なジャンルがある」も「音楽のジャンルを超えて」等々も一つの音楽から形成されている(と思われている)システムの中に組み込まれている考え方だと思う。昔、僕にとってロックはロックでしかなかった。音楽は一つなどと思いもしなかった。第一そこでいう音楽って何だ?僕はロックでしかないロックを愛し友とただそのロックを聞いていただけのことだ。

 

2012/03/17

ユニクロ

そういえば昨日の金曜日からユニクロ銀座店が開店していて記念セールが行われている。行こうかなと思っていたことを思い出した。昔、在る女性からブランドとかって好きですかと聞かれ、ええ好きです特にユニクロがと答えたら笑われた。ユニクロが安価なフリースで人気が出た頃の話だ。今でもユニクロで服は買う。僕の仕事中に着ている下着から上着の半分はユニクロでもある。つい最近出身地を聞かれ東京だと答えたらだからおしゃれなんですねと、こっちがびっくりする返事が返ってきた。その人に僕はユニクロで出来てるんです、とは答えづらかった。

TOKYO Girls Collection

「TOKYO Girls Collection」をテレビで観た。特に今年は「TOKYO KAWAII TV」にて選出された視聴者も出ると聞いていたのでちょこっと気になってみた。モデル・観客のはじけるような笑顔が気持ちいい。女の子のはじける笑顔が多い国ってきっと良い国なんだろうと思う。

働くことに

その仕事が楽しいから働くことが出来る、とよく聞くしそう思っている人も多いかもしれないけど、その考え自体がいびつだと僕はずーっと思っている。

今日は

休みの日は普段より何故か早起きになる。早起きと言っても布団から出るわけではない。出ることなく本は読めるしMACだって触れるし音楽だって聴ける。でもそろそろ布団から出よう。お風呂に入るのだ。体を洗うためじゃなくて本を読むために。

2012/03/16

卒業式

今日は先輩の卒業式だった。卒業式と行っても学校ではなく会社から離任するという話だ。役員までいった先輩は会社から留任のオファーを受けていたらしい。それを受けなかったのは過去に前例はないそうだが、先輩は新たな道を強い決意で選ぶことにしたのだそうだ。今度の会社は200人程度の小さなIT企業だとのこと。きっとどこにいっても彼であれば成功するに違いない。

卒業式は会社に隣接するホテルで開催した。元々企画を立てたのは先輩が入社当時に所属していた部署の面々だったので有志一同の形ではあったが、それでも100名ほどの人が先輩との別れを惜しみ集まった。僕にとっても昔から知っている顔がそろう。何か同窓会のような雰囲気で会は進んだ。こんな会を開くことが出来、懐かしい人たちと会うことが出来たこと自体先輩のおかげでもある。

僕は写真担当でカメラを持って参加した。ファインダー越しにみるそれぞれの顔は昔の面影を多少は残しながらも確かに年月が顔に刻んでいる。それでも笑う顔は昔ながらの顔に戻るから不思議だ。最後に集合写真を撮った。みんな笑顔だ。久しぶりにこんなに笑顔に溢れた場にいると思った。最後に先輩は挨拶で語った。「生きていて良かった」と。感動し時折声を詰まらせながらも見事な凜とした、それでいてユーモラスなスピーチだった。

少しだけ先輩と話した。話は協力会社の一人の営業の話だった。その営業の男性は随分前に若くして亡くなっていた。僕もとてもお世話になった人だった。今までにありがとうと言いたい人を10人絞るとしても彼はその中に入っている、と先輩は僕に告げた。僕も同じ意見だった。それでもありがとうと言えることが適わずに彼は既にこちらにはいない。先輩の最後の挨拶は集まってくれた人に向けての「ありがとう」だった。ありがとうと生きているうちに言えること。これこそが幸せなことだと先輩は言っているかのようだった。

2012/03/12

アジアの汗

寺尾紗穂さんの曲で「アジアの汗」という曲がある。歌詞がコントロールされているものとされていないものの二つのヴァージョンがあり、されていないものは当然に放送禁止歌となっている。その歌詞が面白い。内容は日本のビル建築現場では様々なアジアの人たちが働きに来ている。その工事現場監督は技術と経験をたよりに今まで頑張ってきたおじさんで、彼も他のアジアの人たちと同様日雇いだ。おじさんはいくつも言葉を話せる。現場で様々なアジアの国の人たちを監督する必要があるからだ。でもおじさんは英語は話せない。話す必要もないし、働きに来ているアジアの人たちも英語は話せないからだ。この曲はおじさんが怪我をして働けなくなったところまで続く。そしてこの国のビルはアジアの汗で出来ていると伝える。グローバルという一見美しい経済用語は既にこの国の様々な現場の実態でもある。一年前の大震災でも多くの外国人労働者が被災されたのを思い出す。

 

2012/03/11

ロックの黄昏

久しぶりにライブを聞きに行った。僕からしてみれば若い人たちが演奏している。でもその音楽に僕は違和感を感じることはなかった。でもそこが問題だと思わないだろうか。いまでは若者と大人の対立など存在しないのだろうか。そんな詰まらぬことを思い喫煙室によったらパンク姿の若者が礼儀正しく席を譲ってくれた。

思いのまま感じるまま

思いのまま、感じるまま行動するというのは案外に難しい。何が難しいかというと、単に思いのまま感じるまま行動すると言うことは、その行動の基準は今まで自分自身が教育され造り上がられたシステムであることが多いからだ。そしてそのことを意識することなく美的判断を行ってしまう。だから自分にとって、自分だけのおもいのまま感じるままの行動は、逆に自意識を持たざるを得ない様に思える。でも意識を持っての思いのまま感じるままの行動は果たして可能かという疑問もわく。

大震災と写真

1年前の大震災において地震で助かった人たちが津波が来る前に自宅に戻り被災しているのが多かったと聞く。彼らは一体何のために自宅に戻ったのか。そのことが気になっていた。きっと大事なものを取りに戻ったのだと思う。お金・着るものだけではなく、その中には例えば位牌とかアルバムもあったかも知れない。当たり前のことかも知れないが、その際に手に取ったのが写真であれば、それは家族もしくは愛する人が写った写真であったに違いない。

瓦礫の中には多数の写真があった。後片付けをされる方はその写真を棄てるに棄てることが出来なかった。ボランティア達はその写真の汚れを落とし時には修復して一カ所に集めた。そこには多くの人が自分の家族が写った写真を探しに現れた。ある女性がその場所で行方不明の祖父の写真を見つけたとき、その女性は「おじいちゃんが見つかった」と叫んだ。僕はその場面をテレビで偶然に観た。その方の祖父があれから見つかることを願わずには居られないが、それでもあの時確かに彼女は祖父の写真から祖父を見つけたのだと僕には思える。

写真とはあくまでも個人的なものだと思う。ただ写真は政治とかジャーナリズムに利用されやすいのも事実だろう。多くの写真が大震災でも撮られた。そして多くの写真の持ち主に戻ることなく残された。その両者の写真をつなぐものがあるとすれば、それは一体何だったのか。人の祈りだろうか、それとも再び立ち上がる願いだろうか。ただそこに写真の本当、人が写真を造り今でも使い続けている理由があるように思えるのだ。

フェミニスト

昔、フェミニストと言う言葉は女性に優しい男性を称して使われていたように思う。今から思うと笑ってしまう。
この男性社会では逆に男性は女性に従属している。フェミニズムはゆえに男性を解放する考えでもあるのかなと思う。 女性が独立すればするほど男性も独立せざるを得ないというわけだ。でもこの独立するとは、具体的な有り様は一体どういうものだろう。

2012/03/10

秒速5センチメートル

新海さんの2007年公開アニメ。「きみとぼく」系といわれるアニメ。「きみとぼく」系とは「セカイ系」の一種、とカテゴライズすることは簡単だが、このカテゴライズは一つの思想に組することでもある。そしてその思想は多くの文芸評論と同様に製造された作品とその消費の面でしか捉えてはいないのも常のことだ。不思議なことに中間層が欠如していると揶揄される「セカイ系」の作品を製造するに辺り、それらの中間層との関わり抜きでは造る事ができないのも事実なのだと思う。「秒速5センチメートル」を構想・製作・製造・消費される行程の中で、多くの人と交流しながらも新海さんのこの作品にたいする思いとか熱意は少しもぶれてはいないように思える。そのぶれない思いは一体どこから来るのだろう。この作品を造りながら新海さんは消費のことも考えていたのだろうか、たとえばこんな風にすればお客さんは喜ぶとかそんなつまらぬことだ。新海さんのぶれない思いが、僕がこのアニメを観てそう感じさせたのであれば、このアニメは結果的に成功したと言うことなのだろう。その新海さんの思いはアニメのストーリーの中にあるわけではない。それはストーリーの中にあるのではなく場面毎の細部に宿っている。その細部に宿っている何かの連なりが新海さんの思いを僕に伝える。しかしその思い、その細部を、僕が人に伝えることは難しい。結局のところアニメに登場する現実に存在する商品の細やかな描かれ方や空気感を感じさせる風景の描き方などの形式を語るしかない。

2012/03/08

写真家が登場する映画

主人公もしくは登場人物が写真家の映画が多い様に思う。それぞれの映画の設定で写真家であることが求められるのだとは思うが、その写真家である必要性の中にイメージとして視ることそして記憶することもしくは過去への思いなどが含まれているように思う。写真が写すのは常に過去なのだから。写真家のイメージが現代において悪くはないのもあるのかも知れない。現実から少し逸脱しながら現実に受け入れられているようなそんなイメージ。

2012/03/07

仕事の意味範囲

遊ぶのが仕事とか勉強が仕事の様なものだとか、人が言うのを聞くと違和感を感じる時がある。僕の違和感はたいして重要ではない。面白いと思うのはそれらの言い方が自然に話せて、かつ人に伝わると言うこと。仕事に対する世の中の価値観ってそう言うものなのだろうな。

「意味」についてあれこれと

高校の時の僕は「意味」は世界から与えられものだと思っていた。ここでいう「意味」とは人が生きる源のようなものを言っている。学園紛争などもなく比較的穏やかな時を過ごしていた僕にとって、逆にその穏やかさこそが世界からの疎外感を感じたのだった。例えばその空気感は幕末の志士達にあこがれ「時代が時代ならば」という吐息にも似たつぶやきに満ちて成り立っているかのようだった。でもそのうちに「意味」は世界から与えられるものではなく、自分自身で自分のために与えるものだと考えるようになった。でもそれも今から思うと一つの時代の空気なのだろう。時は新自由主義の始まりで人々はバブルに浮かれていた頃の話だ。今でも「意味」は自分が自分に与えるという価値観は生きているかも知れない。でもそれは「与える」「与えられる」の、よく言われるように一枚のコインの裏表に過ぎない。「意味」を誰が誰に与えるのかという構図には何の違いもない。そして僕は三番目の「意味」について考える。それは「意味」は至る所にあり、それを自分が見つけるということだ。意味のイデア論とも思えるこの考えにはすぐに疑問を持った。「全てのことには意味がある」も「意味などありはしない」も簡単に語ることが出来る。ただそれだけだと単に言葉遊びにしかならない。おそらく「意味がある」の「意味」と「意味がない」の「意味」は似た言葉でありながら違うものを指しているのだろう。だから両者が対立することはそれこそ何の意味もない。ただ僕でも思うのは、「意味」を求めることは人間の条件の一つだということだ。「意味」は個々がそれぞれに抱え持っているが、それぞれが見せ合うことも、もしかすればそれぞれに持っているものも違うのかも知れない。でも何らかのものとして探すまでもなくそれぞれの人間が(人間だけが)既に持っているものなのだろう。そしてなんであれ人は自分のことがわからないものなのだ。

やっと

東京に住み帰宅難民になりかけた3月11日。それだけのことなのに3月11日のことを語るのに一年かかった。津波に襲われた人は語ることが出来るのにどのくらいかかるのだろう。それでも多くのメディアは語ることを促す。彼らの言葉は多くはない。しかし言葉の少なさは思いの少なさでは決してない。今年の3月11日は日曜日だ。

思いが

思いが表に出すことが出来ないとき、それが言葉にならない時に、思いは溢れ涙となる。涙も出ないときもある。涙は表に出ることなく心の深い穴に流れ込む。その穴は涙で決して充ことはない。その時、顔は表情がなくなる。心の中と裏腹に。

2012/03/06

会社の仕事

なぜ会社での仕事を仕事と言うんだろう。仕事とはもっと別の何かを言うように思うけど、それしか知らない僕は会社の仕事を仕事と言うほかはない。

ホットジンジャー

帰りに近くのフレッシュネスバーガーでホットジンジャーを飲んだ。ジンジャーよりも蜂蜜の甘さの方が強かったが体はあったまった。飲み終えてからコップの底にあったレモンの皮を食べた。

おそらく

誰も語ったことのない言葉をつぶやき
誰も口ずさんだことのない歌をうたう
おそらくこれが生きると言うことだろう
つぶやくもうたうも表現とは違う次元で
僕の存在を指し示す

2012/03/05

新宿三丁目のフレッシュネスバーガー

新宿三丁目のフレッシュネスバーガーは土日祝日は店内全席禁煙となったらしい。店長と思われる人に話を聞いたが、驚いたことに彼は僕がこの店を時々に利用している事を覚えていてくれていた、試しに行っているとのこと。売上げが落ちたらまた以前のように戻すと言っていた。外のテラスだと吸えるとのことだったので注文したココアを持って移動した。店の前を多くの人が通る。男性よりも若い女性の方が多い。座りながら通り過ぎる人を眺める。案外にこれも楽しい。

2012/03/04

活動と行動

活動と行動は違う。そしてその違いを僕らは知っている。例えば「就職活動」といい「就職行動」とは言わないように。

MacFan

約十年ぶりにMACの情報誌「MacFan」を買う。お目当ては付録。「iBooks Author」のスタートガイド。このアプリの使い方は覚えたい。

2012/03/02

東京に雪が降る

宮沢賢治の永訣の朝ではみぞれは「蒼鉛いろの暗い雲」から落ちてくる。東京は街の明かりに反射し暗い赤紫色の空だ。賢治の妹のとし子は現代の東京の雪を望んだろうか。放射能混じりかも知れぬ雪を。そんな愚にもつかぬ事を考え夜の駒沢公園を歩く。それでもやはり彼女は賢治のために陶椀一杯の雪を求めるのだろう。

2012/02/29

設定というか妄想というか

アソーレス諸島の最西端の島、フローレス島にある「世界の果て」というバーで「世界の終わり」というカクテルを飲み、ぐでんぐでんに酔っ払って朝を迎える。そして断崖から世界の始まりのような朝焼けを全身に浴びそこで泥のように眠る。目が覚めてもきっと世界は変わっていないだろうけど、少なくとも一瞬はなにかを感じることが出来るだろう。特別な何かを。その一瞬で忘れ去られてしまうような特別な何かを。

大海の孤島

ある人と旅行の話になり、行くとすればどこに行きたいかとお定まりのやりとりになった。実を言えばその簡単なやりとりにはいつも困る。「どこ」という強い思いは少しもないのだ。「どこ」ではなくただ「どこか」を彷徨いたいという思いであれば語ることが出来るが、それでは話にもならない。そしてその彷徨う場所は日本のどこかなのだ。「旅」には帰るべき家がある、そして帰るべき家を一時的に失念すること、それが本領のような気がする。しかし「彷徨う」には帰るべき家とか場所を何処かに求め探している様にも思える。だから人は「彷徨う」時、帰るべき「家」を失念することはないような気がする。

で、どこに行きたいかを聞かれた時、さすがに「どこか」とは言いづらく、あえて思ってみると出てくる場所は殆ど太平洋もしくは大西洋の島々だった。それも大陸に近い島ではなく大洋に浮かぶ孤島群。誰かが言っていたが島には二種類あるのだそうだ。大陸の近くにあり大陸を求める島と大洋の中にあり大陸から離れようとする島である。僕の言う島は勿論後者。日本は前者の島になるだろう。大海に浮かぶ島を「孤島」と呼ぶのは、それはあくまでも大陸からの視線に過ぎない。逆に大陸と大陸を求める島々にこそ「孤島」と呼ばれる状態があるようにも思う。人は何らかの集団に属さなければ生きていくことは出来ない。しかし集団に入るからこそ、その集団の中で、人との交わりの中で、人は孤絶を感じることになる。その点においては島も似たようなものかもしれない。大陸近くにあって大陸を求めるが故に日本は大陸と自分の違いに神経質になっていく。孤独にはなりたくないから。

おそらく僕が大洋の中の島々に行きたい理由はそこにある。要するに大陸が定めたルールによる孤独から離れたいのだ。果たして交通が発達し隅々まで大陸の力と社交が求められる現代で絵に描いたような大海の孤島があるとはとても思えないが。それでもおそらく行きたい理由はそこにあるのだと思う。

写真を観るとは

写真を観るとは、最初に写っているものを観ているが、そのうちに写真の向こうにある何かを観ると言うことだろう。写真はその点において言葉に似ている。

誰が撮ったのかが大切な時がある

時として写真はその写真を誰が撮ったのかが大切なときがある。昔の写真を観たときそう思った。その写真は幼い姉が母の右側に立ち、僕はまだ赤ん坊で母の胸に抱かれている。姉の手はしっかりと母の手を握っている。顔は何故か少し困ったような表情をしている。母も写真に撮られ馴れていないせいか緊張気味でカメラを凝視している。全体的に和やかな雰囲気が出ていないのは撮影した場所が街角だからだろう。親子三人の傍らには電柱があり、背景には商店街が小さく見える。この写真を誰が撮ったのかはこの時の記憶がない僕でもわかる。おそらく父だ。母が三脚を立てセルフタイマーでこの写真を撮ったとは考えられない。それだけのことをして撮るべき場所ではないし、その前にそれが出来る母でもない。無論だからと言って撮影者が父だとは限らない。でもこの二人(母と幼い姉)の表情を観れば父だとわかる。そういうものだ。逆に言えばこの写真に写っていないからこそ、父の存在がこの写真から浮き彫りになる。その意味でこの写真は家族四人の写真だ。確かにこの場所に父がいて母と子供たちにカメラを向けたのだ。その父の存在証明は写真に写っていないからこそ、そして家族だからこそわかることだ。例えば恋人が撮った自分の写真を観るときに、その時の情景と共に恋人のことを思うように、その人の視線は写っているものにはない。

2012/02/28

信じられるのは紙とペンだけになってしまった

「信じられるのは紙とペンだけになってしまった」とは森山直太朗の詩の一節。でもきっとその紙にそのペンで何かを書けばその紙は信じることができなくなるかもしれない。何も書いていないからこそ、紙は、ペンは信じられるのではなかろうか。このペシミズムとも言える発想はきっと紙とペンを持ち書く人間を単独で見ている結果かも知れない。複数の人間が紙とペンを持ち様々な視点で何かを書けば信じられるものになるのかも知れない。と、この考えはオプティミズム過ぎるかも知れないが。

南太平洋の砂漠

南太平洋のど真ん中に海の砂漠があると聞いた。そこは海のただ中になりながら静かで波も立たず果てしなく透明である。海が透明であると言うことは食物連鎖を支えるプランクトンが居ないと言うことだ。だからそこには魚はいない。魚がいなければそれを捕食するより大きな魚も当然にいない。そこにかつて難破した捕鯨船の船員が救命ボートで流されてやってきたという。海流はその海の砂漠に向かって流れているのだ。船員たちは飢えと疲労のために瀕死の状態だった。そこで彼らはクジをつくる。誰が皆のための食料になるかのクジだ。そして彼らの何人かは生き残る。

食物連鎖の頂点に人間は居るという。でも当たり前のことだが頂点にいる以上、人間は結果的にプランクトンなどの生物に依存しているということなのだろう。

伊丹十三さん

伊丹さんの特集がNHKにて放映していたらしい。僕はそれをNHKオンデマンドで知った。亡くなられてから十五年経ったのだそうだ。特集を見ながら自分が伊丹さんにそれほど興味がないことがわかった。それでも彼の言葉に強く共感をもった。それは「俺は空っぽの容器なのだ」という一言だった。「空っぽの容器」という感覚。その感覚を僕は人間の構造の中でしたり顔で語ることが出来る年齢になった。しかしいくら語ろうとも空っぽの容器に何かで満たされることは決してない。でも伊丹さんは満たされる何かが何であれば満たされたと感じることが出来たのだろうかと、そんなことも考えた。もしかすれば「空っぽの容器」には底がないのではなかろうか。だから常に空っぽなのだ。でも僕は底がないことを知ることはない。で、常に満たされぬまま満ちた状態を想像しながら、そうあることを渇望し続けるのだ。

2012/02/27

竹内佐蝶子さんの写真

恵比寿の和の雑貨屋「Ekoca」にて開催している竹内さんの写真展に行ってきた。彼女の写真はフォルム現像を備中和紙に焼き付けている。店の方に竹内さんの作品の意図を聞いてみたところ要は備中和紙にあるとのことだった。そして写真に撮っているモノは全て倉敷の伝統工芸品である。備中和紙の素材感がモノクロプリントされた伝統工芸品を引き立たせる。しかしそれでも僕にとってはこれらの組み合わせで竹内さんが何を表現したかったのかがわからなかった。竹内さんの写真はすんなりと僕の中に取り込まれた。それは僕にとって異物ではなかった。いやもしかしたらそれは異物だったのかも知れない。それを僕は鈍きがゆえに後々のことを考えずに一気に飲み干してしまったのかも知れない。実を言うと徐々にそんな思いが沸き上がっていたのだ。その様に思い至ったのは竹内さんの写真展を観てから一日経った今日のことだ。

僕は竹内さんの写真を思い返し表現ということを考え始めていた。彼女が何かを表現しようとしたときに備中和紙も倉敷の伝統工芸品もそして写真も単なるモノとしての道具でしかない。そうであれば「Ekoca」の店の方が言われていたことは誤りだということになる。しかし竹内さんの伝統工芸品の写真の向こうにある何かは備中和紙と伝統工芸品とそして写真でしか現すことが出来ないだろうことも作品がそうである以上間違いないことだとも思う。

モノとしての交点、そしてそのモノを造り出す人の営みとしての交点、モノの一つ一つが現すモノ以上の何かの交点、それらの方向としてのベクトルが混じり合うところに確かに竹内さんの写真、つまりは表現があるのだ。何故手間をかけ備中和紙に伝統工芸品をプリントしたのか。その理由は伝統工芸品をモノではあるが、それらを造る人たちへの思いを現すためにそうせざるを得なかったのではないか。モノはどんなモノでも単なるモノではないのだという事実を、そこに人の営みが在るという事実を現すために彼女はこの手間を行ったのではないだろうか。

そんなことを僕は街を彷徨いながら考え始めたのだった。

2012/02/26

上野周辺

ここんとこ三週間連続で上野周辺を歩いている。概ね地理感覚を掴んだ感じ。どこでもそうかもしれないが行けば行くほど奥深さを感じさせてくれる。歩きながらさだまさしさんの「檸檬」という曲を思い出した。口ずさむほどではないが。僕の思考は足と結びついているようで歩くと言うことは考えるということでもある。様々なことを考えるが内容は全く役にたたない事柄。しかも堂々巡りで考えては打ち消すことの繰り返し。しかしそれが面白い。途中立ち止まっては写真を撮り、茶店を見つけてはコーヒーを飲み、また歩く。

今日歩いたコース

九段下→神保町→小川町→ニコライ堂→聖橋→湯島聖堂→神田明神→妻恋坂→湯島→上野広小路→秋葉原→須田町→小川町→神保町→九段下

鈍さ

僕は自分の鈍さが嫌になるときもあるし、結局のところそれが僕を助けてくれていると思うときもある。「鈍さ」とは後の「気づき」を前提にしているのだから。

ネクタイ

正直に言えば僕はあの首からだらりと垂れ下がる今のネクタイには少々飽きている。ネクタイは元々兵士が戦場から無事に帰れる願いを込めたモノだった。その頃にはそれを送ることも首に巻くこともお互いに意味があることだった。それは祈りでもあった。祈りから礼儀となりそしてその礼儀も多くは形骸化し今ではファッションの一要素でしかない。

蝶ネクタイ

蝶ネクタイ姿に驚かなかったのは母だ。母は亡き父が生前にネクタイと言えば蝶ネクタイをしていたことを僕に告げた。僕はそれを知っていた。写真で見る彼は蝶ネクタイをしている姿が多かったからだ。それは結んだときに蝶の形になるのではなく小ぶりの棒状になるもので棒タイと一般に言われるものだった。父の時代はまだボウタイもしくはバタフライがネクタイとして一般的に使われていた。残念なことに今では入手自体が難しいモノとなっている。ネットで買えないことはないがやはり実物を見て素材とか結んだ時の大きさなどを確認して買いたい。そういうわけで僕はまだ二本しか持っていない。

2012/02/21

写真は

写真は単に自分の表現の為の一つの素材に過ぎない、と思っていた時期もあるが、今ではそれは間違いだと思う。数あるメディアの中で何故写真なのかはそれが自分にとっての一つの思想なのだ。

東京の中の廃墟

僕は人が居る風景よりも人が居たことを感じさせる風景の方が好きなような。人が居たことを感じさせる風景とは端的に言えば「廃墟」となるのかも知れない。でもわざわざ遠くに足を伸ばして実際の「廃墟」に行こうなどとは思わぬ。土日の東京のオフィス街はどことなく「廃墟」の雰囲気を持っている。現代巨大建築はピラミッドのように数千年の時代に耐えられるのだろうか。仮に耐えられたとして、今僕らがピラミッドに向ける眼差しと同様の思いで眺められるのであろうか。

「忙しい」と語るのは

「忙しい」と語るのは好きではないし今までも語ったことはない。その僕が今は「忙しい」といっている。全く似合わない話だ。忙しいのは会社の仕事だ。そしてその理由もわかっている。「忙しい」のはそのミッションをクリアするだけのスキルがないからだ。タスクはすぐに思い浮かぶ。つまり何を自分がやったらよいのかはわかる。ただ一つ一つのタスクを処理するための最短距離が見つからない。それになぜだかモチベーションも上がらない。

2012/02/18

もう一つの永遠

「永遠に続く」で使われる「永遠」は「時間的」に何らかの「動き」が在り続ける様を現している。何も言葉遊びをしている訳じゃない。その言葉の意味は言葉の使われ方で僕らは理解しているし、逆に言葉の使われ方で言葉の意味を僕らは固定されてもいる。「永遠」は時間的な流れのなかにある。それは果てなく拡がる水平のようだ。でも考えてみると「永遠」であれば、そこに「時間」は意味をなさなくなる。「永遠」そのものが在るようなイデアとしての「永遠」。「晴れた日に永遠が見える」確かにその通りだ。果てなく続く(かのように見える)青空にそこに大気の透明感と共に風となって一瞬の中に在ると感じる。「永遠」のイデアは感覚によって感じるほかはない。でもイデアとしての「永遠」以外の「永遠」も感じてみる。その永遠は広がりではなく深さとも言える。その永遠はそこに留まり続ける。時間もなくただ深く一点に集まるような永遠。と、そこまでイメージしたときにその永遠とは「死」の概念に近いようにも思えた。

朝風呂

朝風呂が好き。朝寝・朝酒・朝湯で身上を潰したのは小原庄助さんだが、朝湯だけでは潰れまい。

2012/02/17

チョコレート味の葉巻

チョコレート味の葉巻を火を付けずに匂いだけかいだ。確かにチョコレートの香りがした。しかし火を付けて吸ってみるとそれは煙草の味だった。きっと煙草を吸わない人がその場にいたらチョコレートの甘い匂いを嗅ぎ分けたことだろう。でも吸っている僕にはわからなかった。紫煙が僕を取り囲む。目を閉じてチョコレートのことを思った。

1秒のなかの永遠

物質を細かくしていくとこれ以上は細かくならないところまで行き着く。時間を半分にしていくときこれ以上短くならないところはあるのだろうか。物質が存在しないところに時間は意味があるのだろうか。意味がないとすれば時間にもこれ以上短くはならない時が存在するのかもしれない。でもその時間は僕らにとっては永遠に匹敵する。つまり1秒のなかに永遠は存在すると言えないだろうか。

永遠ってあるの?

映画「ベンジャミンバトン」で「永遠ってあるの?」の問いに「あるわ」と答える。確か前半では恋人のディジーがバトンに向かって聞きバトンが「ある」と答え、後半ではその逆にバトンが聞いてディジーが「あるわ」と答える。お互いの愛の確認のシーンとしてとても印象に残る。

2012/02/16

うさぎとかめ

会社の喫煙室で煙草を吸いながらウサギとカメのことを考えた。あるウサギとあるカメの競争は特定の者たちだけではなくウサギの種族全体とカメの種族全体のその後に影響を与えた。単に個別な話でしかないのに。負けたウサギ側にとっては他のウサギたちには迷惑な話だ。あるウサギはカメに確かに負けた。でも誰だってウサギの方がカメよりも早いことを知っている。とそこまで考えた後にちょこっと気がついた。この競争した距離はどのくらいだったのだろうと。もし距離が札幌から鹿児島だったら、きっとスタミナのあるカメが勝ったに違いない。その前にウサギが津軽海峡を越えられるはずもない。過去に海を渡ったウサギはワニを騙したあのウサギしか知らない。しかもしれは出雲での話なのだ。ゴール寸前でウサギが寝てしまったのは疲れが原因だとすれば、距離を決めたのはきっとカメの方に違いなく、したたかな計算がそこにはあったのだろう。と、ここまでで一本を吸い終わる。

眼鏡をかけ始めた

今まで月は4つで、しかもそれはずれて重なっていた。間近で見る人の顔は4つはなかったが肌はぼんやりして荒が見えずに美しかった。眼鏡をかけたら世界は輪郭が明瞭になったが美しくもなくなった。でも色っぽくはなった。

会社のエレベータで

ほぼ満員のエレベータのなかで、女性が二人比較的大きな声で会話をしていた。
周囲は全員男性。年齢的にはおじさんと呼ばれる人たちだ。
「上司がさ、私のこと試しているような眼差しで見つめるのよ」
「えぇ何それ」
「そいでさ、あれやったかこれやったかとかうるさくて」
「うざいねー」
「仕事の話だけじゃなくてね、そのうちに人生論を語り始めるの」
「あはは」
「遠い先にこんなことをしていて会社は大丈夫だろうか、とかね」
「そんなのしるかー」
「そそ、あはは」
おそらく周囲の男性たちは彼女の話にダンボの耳だっただろう。
勿論僕も含めて(笑
でも人生論語り始めたら人生そろそろ終わりって思うよな。

最近の僕はビジネスモードへのスイッチが壊れているようだ

標記の通り。会社に行くときはモードの切り替えを通勤時間内に行う。
会社での価値観だとか常識だとかは会社内だけに通用すると思っているから
そのモードへの切り替えは僕にとっては重要なんだ。
でも時折モードの切り替えがうまくいかなくなる時もある
そんな時は会社内での受け答えにうまく反応ができない。
質問になんて答えたらよいかわからなくなるのだ。
しどろもどろ、もしくは妙に冷静に冷たい回答になってしまう。
そしてその後で自己嫌悪に陥る。

2012/02/15

猫との関係を見事に描いたのは

佐野洋子さんの「猫ばっか」かなぁー
どうせ擬人化して猫を書くのだったら宮沢賢治さんくらいに書かないと。 
賢治さんの猫は人間の言葉を話す。そして人間の言葉をうまく話せないことにコンプレックスを持たせる。

語らなかったことを語りたい

語らなかったことを語ることって出来るのだろうか。
思いもしなかったことを思うことが出来るのだろうか。
世界が拡がるとか、もしくは成長するとかの言葉を安易に語りたくはない。 
世界が拡がるとかの言葉はまず自分の世界の大きさを知っていなければ語ることが出来ないからだ。
自分の世界の大きさを知るとは自分の境界線を知ることでもあり、境界線の向こうの世界も知ることでもある。
その向こうの世界を知っている人が世界が拡がると語るのは矛盾でしかない。
まず語らなかったことを語るためには自分の限界近くまで辿り着かなければならない。
それが難しい。無知であることは可能性もあると言うことなのかも知れない。

実は僕は擬人法が好きではなかったりする

家で猫と一緒に暮らしている、という書き方も擬人法かもしれない。それは僕の感情であって猫側の話ではない。そもそも暮らしという概念さえないかも知れない。でもどうしようもなく言葉は人間中心なので、僕が猫のことを書こうとすれば擬人的にならざるを得ない。僕は、だからこそ猫のことを書くときは細心の注意を持って書かねばならない、と思っている。猫を通じて僕の考えを述べることは避けたいのだ。

2012/02/14

八丁堀

なぜだかわからないが飯田橋から八丁堀までの行き方を覚えられない。でもやっと今日一人で八丁堀まで行ける気がした。

思考実験

仮に今の体制のまま突然に男が女に対して欲望が無くなったとしたら、もしくはその逆に女が男に対して欲望が無くなったら、人類が滅びるのはどちらのケースかと想像した。昼食の後のちょっとした妄想という名の思考実験。

千円のPeace

千円の煙草「The Peace」を吸った。普段1mmのKentを吸っているのでとても強いと思ったが、とにかく香りが良いことと味に雑味がないことでとても上品な煙草だと思った。残り数本になったところでケースから取り出しKentの箱に入れたらいつのまに無くなっていた。Kentと間違って意識無く吸ったようだ。あの感想は何だったのだろうと思ったが、そんなものだとも思った。

2012/02/12

Tシャツの男性たち

途中で電車に乗り込んできた欧米人風の四人の男性。驚いたのは彼ら全員が半袖のTシャツ姿だったことだ。彼らの白い肌がおそらく寒さのせいだろう赤くなって余計に彼らの存在が目立った。僕はiPodの音量を上げ目をつぶったが、その赤くなった肌が脳裏に浮かんでしょうがなかった。きっと彼らの姿はジョークか何かに違いない。誰が先にこの寒さにねを上げるとかそういうこと。きっとそうだと僕は音楽に集中した。

青い運動靴

地下鉄にて。親子三人連れ。真ん中に座る子供の青い運動靴がピカピカ光り眩しかった。あんなにキレイな光沢の青い運動靴を僕は観たことがない。電車の振動と共に彼の青い運動靴がゆらりゆらりと揺れた。僕はその運動靴に目が離せなかった。

ネタバレ

映画の感想に時折「これはネタバレです」とことわりの表示を見ることがあるが、僕にはこの「ネタバレ」の感覚がよくわからない。つまり特定の映画の粗筋を誰かに聞いたとしても、僕にとってはその映画を観て面白いかどうかは別の話のようだ。顕著な例が「シックス・センス」かもしれない。既に粗筋も結末も友人に聞いていたが、自分が初めて観てやはり最後の結末には驚かされた。単に記憶力が乏しいと言えばそれまでの話だが、自分ではそれだけでもないように思っている。誰かが語る粗筋はその人の印象だという思いがあるからだ。だから僕自身がその映画を観てどう思うかはまったく別の話になってしまう。逆に言えば、僕の映画の感想には俗に言う「ネタバレ」が結果的に多いことにもなる。粗筋を書いても気にしないからだ。